全日本女子プロレスでは一部の試合でセメントが行われていたことについて,経営者の趣味の悪さに言及しました。これは有名なことだと思いますが,全日本女子プロレスの経営を取り仕切っていたのは松永兄弟です。
そもそも全日本女子プロレスというのは1968年11月に,この兄弟が親戚の女の子たちを集めて旗揚げした会社だったそうです。たぶん彼らにとっては,食うに困らないだけの金が稼げればよいという考えの下に設立された団体だったのでしょう。だからそれはたとえば大衆演劇のようなほかのものでもよく,プロレスである必然性はなかったのだと思います。というか,彼らの経営ぶりは,そのように解さなければ合理的に説明をつけることができないように思えます。
ところが1974年にマッハ文朱がデビューすると人気を博し,当初に思い描いていたのよりずっと多くの金を儲けることができました。早い段階で彼らが味を占めることができたから,全日本女子プロレスが長く続くことができたのは事実でしょうが,一方でそのために,プロレスの経営という意味では無能力に等しかった人たちが,その経営を長らく続けることになってしまったというのもまた事実だと思います。
女子プロレスはその後,ビューティ・ペアの時代,クラッシュギャルズの時代,そして対抗戦の時代と,3度ものブームを迎えることになります。ですがそれらのブームというのは偶然の産物であって,経営陣の努力によって齎されたものとは違っていたようです。実際に柳澤はこの兄弟はプロレスそのものにはほとんど興味がなかったのだといっています。また『1993年の女子プロレス』のインタビューを受けた選手の中には,経営が苦しい時代にも松永兄弟は黙っていればまた自然とブームがやってきて儲かるようになると信じていたという主旨の発言がありますし,全日本女子プロレスで引退後にコーチ役となったジャガー・横田は,そこそこの10人の選手よりもひとりのスターを作るように求められ,それは自分たちの仕事だろうと思ったという意味のことを言っています。確かにその通りで,プロレスのコーチ役は選手の基礎体力を作るのが仕事であって,スターを産出するのは経営陣の仕事でしょう。
全日本女子プロレスの倒産の原因は,不動産投機の失敗でした。このあたりにも,プロレス団体の経営者としてのセンスのなさが露呈しているといえるのではないでしょうか。
処方箋が出ていましたから帰路に薬局に寄りました。ここは薬が出るまで時間が掛かります。チェーン店だけあって,利用する客が多いからです。すべてを受け取って帰宅したのは午後4時20分でした。
12月8日,土曜日。午後3時過ぎに導師が来訪しました。事前に伝えられていた通り,母の位牌を届けるためでした。それだけでなく20分ほど読経をして帰りました。妹も在宅中でしたから,一緒に読経しました。
12月9日,日曜日。妹のピアノのレッスンでした。午後2時の開始でした。レッスンは月に1度ですから,これが2018年の最後のレッスンでした。
12月10日,月曜日。妹を通所施設に送りました。
帰宅すると,留守番電話が入っていました。これは本牧脳神経外科からでした。僕は妹の診察が終わり,精算,といっても何度かいっているように妹の医療費は無料ですから,実質的には診察券の返却なのですが,そのときに次回の予約を入れてきます。先に決めておいてしまった方が,後に通所施設やグループホームに迎えや送りなどの予定を連絡するときの利便性が高いからです。薬は概ね90日分が処方されますので,大体は3ヶ月後になります。5日の通院のときも同様で,3月の最初の金曜日,つまり今年の3月1日の午後3時に予約を入れてありました。ところがこの日は医師の都合で休診ということになったので,別の日に予約を入れ直してほしいというのがこの電話の主旨でした。なので僕の方から電話を入れて,その前の週の金曜日,これは今年の2月22日ということになりますが,その日の午後3時に予約を入れ直しました。
12月12日,水曜日。事前に区役所から伝えられていた通り,午後1時から通所移設で聞き取り調査が行われました。開始時間のことを考えると,いつもの時間に家で昼食を摂っていたのでは間に合いません。しかし間に合うように昼食にすると時間が早すぎます。糖尿病の食餌療法というのは,単に食事制限をするというだけでなく,なるべく規則正しい時間に食事を摂取するということも含まれているのです。ですからやや早めに家を出て,バスを乗り継ぐ上大岡で外食をして向いました。
そもそも全日本女子プロレスというのは1968年11月に,この兄弟が親戚の女の子たちを集めて旗揚げした会社だったそうです。たぶん彼らにとっては,食うに困らないだけの金が稼げればよいという考えの下に設立された団体だったのでしょう。だからそれはたとえば大衆演劇のようなほかのものでもよく,プロレスである必然性はなかったのだと思います。というか,彼らの経営ぶりは,そのように解さなければ合理的に説明をつけることができないように思えます。
ところが1974年にマッハ文朱がデビューすると人気を博し,当初に思い描いていたのよりずっと多くの金を儲けることができました。早い段階で彼らが味を占めることができたから,全日本女子プロレスが長く続くことができたのは事実でしょうが,一方でそのために,プロレスの経営という意味では無能力に等しかった人たちが,その経営を長らく続けることになってしまったというのもまた事実だと思います。
女子プロレスはその後,ビューティ・ペアの時代,クラッシュギャルズの時代,そして対抗戦の時代と,3度ものブームを迎えることになります。ですがそれらのブームというのは偶然の産物であって,経営陣の努力によって齎されたものとは違っていたようです。実際に柳澤はこの兄弟はプロレスそのものにはほとんど興味がなかったのだといっています。また『1993年の女子プロレス』のインタビューを受けた選手の中には,経営が苦しい時代にも松永兄弟は黙っていればまた自然とブームがやってきて儲かるようになると信じていたという主旨の発言がありますし,全日本女子プロレスで引退後にコーチ役となったジャガー・横田は,そこそこの10人の選手よりもひとりのスターを作るように求められ,それは自分たちの仕事だろうと思ったという意味のことを言っています。確かにその通りで,プロレスのコーチ役は選手の基礎体力を作るのが仕事であって,スターを産出するのは経営陣の仕事でしょう。
全日本女子プロレスの倒産の原因は,不動産投機の失敗でした。このあたりにも,プロレス団体の経営者としてのセンスのなさが露呈しているといえるのではないでしょうか。
処方箋が出ていましたから帰路に薬局に寄りました。ここは薬が出るまで時間が掛かります。チェーン店だけあって,利用する客が多いからです。すべてを受け取って帰宅したのは午後4時20分でした。
12月8日,土曜日。午後3時過ぎに導師が来訪しました。事前に伝えられていた通り,母の位牌を届けるためでした。それだけでなく20分ほど読経をして帰りました。妹も在宅中でしたから,一緒に読経しました。
12月9日,日曜日。妹のピアノのレッスンでした。午後2時の開始でした。レッスンは月に1度ですから,これが2018年の最後のレッスンでした。
12月10日,月曜日。妹を通所施設に送りました。
帰宅すると,留守番電話が入っていました。これは本牧脳神経外科からでした。僕は妹の診察が終わり,精算,といっても何度かいっているように妹の医療費は無料ですから,実質的には診察券の返却なのですが,そのときに次回の予約を入れてきます。先に決めておいてしまった方が,後に通所施設やグループホームに迎えや送りなどの予定を連絡するときの利便性が高いからです。薬は概ね90日分が処方されますので,大体は3ヶ月後になります。5日の通院のときも同様で,3月の最初の金曜日,つまり今年の3月1日の午後3時に予約を入れてありました。ところがこの日は医師の都合で休診ということになったので,別の日に予約を入れ直してほしいというのがこの電話の主旨でした。なので僕の方から電話を入れて,その前の週の金曜日,これは今年の2月22日ということになりますが,その日の午後3時に予約を入れ直しました。
12月12日,水曜日。事前に区役所から伝えられていた通り,午後1時から通所移設で聞き取り調査が行われました。開始時間のことを考えると,いつもの時間に家で昼食を摂っていたのでは間に合いません。しかし間に合うように昼食にすると時間が早すぎます。糖尿病の食餌療法というのは,単に食事制限をするというだけでなく,なるべく規則正しい時間に食事を摂取するということも含まれているのです。ですからやや早めに家を出て,バスを乗り継ぐ上大岡で外食をして向いました。