スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

印象的な将棋⑯-3&自然科学と人文科学

2019-03-28 19:11:41 | ポカと妙手etc
 詳しく紹介する将棋は第44回NHK杯テレビ将棋トーナメントの準決勝の将棋です。これは1995年2月に収録されたものです。
                                      
 第1図はの第1図と同一の局面です。の将棋と同じ対戦カードで,2も後手は同じ棋士ですから,先手は自身から誘導すればこの局面までは進むだろうし,ここまで進めば☖6五銀とぶつけてくるだろうと予想していたものと思います。
 後手も先手の誘導に乗る形で進めてきたわけですが,先手に何らかの対策があることは理解していたでしょう。2の将棋は必ずしも後手がうまくいったわけではないかもしれませんが,勝ったのは後手であり,手を変える必要があるのは先手だからです。ですからその研究を避ける手段もあったわけですが,注文通りに☖6五銀と指しました。
 先手はここですぐに手を変えました。☗4五歩と突いたのです。2の将棋は☗同銀☖同歩に☗4五歩だったので,それと比べれば銀の交換をせずに歩を突いたということになります。交換の有無はともかく,☗4五歩が有力な対策であるという認識が先手にはあったということだと思います。
                                      
 後手も先手が対策を用意していることは分かっていたでしょうが,ここですぐに変化してくるのは意外だったのではないでしょうか。

 スピノザの哲学による精神分析学の正当化はフロイトSigmund Freudにとって邪魔であったというのは僕の推測です。ですからフロイトが本当にそう認識していたかは不明です。ただ,そういう正当化は不要であったということはフロイト自身がいっているのですから,これは事実であると判断しなければなりません。
 僕は医学とか生理学,生物学といった学問は自然科学に属するとみなします。一方,社会学とか心理学,文化人類学といった学問は人文科学であり,自然科学であるとはみなしません。フロイトは心理学の文脈で語られることもある学者で,その限りにおいては人文科学者であると僕は解します。しかし精神分析学は心理学よりは医学に類似する学問なので,僕は自然科学とみなします。よって精神分析学者としてのフロイトは自然科学者です。これはたぶんフロイト自身もそう認識していたであろうと僕は思います。『主体の論理・概念の倫理』にも,たとえばラカンJacques-Marie-Émile Lacanのような精神分析学者が論考の対象となっていますが,これは自然科学者が研究対象になっていると僕は解します。つまりこの点においては,数学者が研究対象となっている場合と同じように解するということです。
 フロイトは自身の精神分析学に哲学的正当化は不要であったといっています。これは裏を返せば,精神分析学を哲学的に正当化することができるということをフロイトは知っていたということです。要するにフロイトは,精神分析学は自然科学であるけれど,そこには形而上学も含まれているし方法論も含まれているということには気付いていたのです。そしてフロイトの場合はただそれに気が付いていたというだけではありません。フロイト自身の学説がスピノザに負っているということを認めるとフロイトはいっているのですから,スピノザの哲学はフロイトの精神分析学を哲学的に正当化することができるとフロイトは認識していたと考えなければならないからです。つまり,フロイトは単に精神分析学に形而上学と方法論が含まれているということに気付いていただけではないのです。どのような哲学が精神分析学を正当化できるのかということも知っていた,そういう意識もあったのです。
コメント
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