スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

桜花賞・海老澤清杯&第二部定理二九系

2016-04-12 18:59:43 | 競輪
 川崎記念の決勝。並びは郡司に松浦,浅井に大塚,脇本‐稲川‐藤木の近畿で新田と古屋は単騎。
 浅井がスタートを取って前受け。3番手に新田,4番手に郡司,6番手に古屋,7番手に脇本で周回。残り3周の最終コーナーで脇本が上昇の構えをみせると前の郡司が先に出ていき,残り2周のホームを回って浅井を叩いて前に。その外を脇本が上がっていきホームで郡司を抑えて打鐘。浅井が引いたので後ろになるのを嫌った新田が上がって藤木の後ろに入ろうとしましたがこれを郡司が阻止。4番手に郡司,その後ろに新田が嵌って入られた松浦がその後ろ。浅井は7番手で古屋が最後尾の一列棒状でホームを通過。郡司は藤木との車間を開けてバックから発進。その直後から新田も出ていきました。しかしわりと楽な抑え先行になった脇本のスピードは衰えず,ゴール直前で脇本を捕えた稲川の優勝。脇本が8分の1車輪差で2着。藤木が半車身差の3着に続いて近畿の上位独占に。
 優勝した大阪の稲川翔選手は一昨年6月の高松宮記念杯以来のグレードレース制覇で記念競輪初優勝。このレースは有力とみられた選手が後ろで牽制し合うことにになったため,近畿勢には願ってもない展開になりました。脇本も一時ほどの先行力は影を潜めていたとはいえ,力がない選手ではなく,これくらいのペースで逃げられればそうそうは粘りを欠くこともありません。結果論ではありますが,しっかりとした3人のラインができたのがとても有利に働くこととなりました。稲川はもう少し活躍してもよい選手と思っていたのですが,現状では展開に恵まれないとこのクラスでは厳しいのかもしれません。

 第二部定理二九系は次のように記述されています。
                                     
 「この帰結として,人間精神は物を自然の共通の秩序(communis naturae ordo)に従って知覚する場合は,常に自分自身についても自分の身体についても外部の物体についても妥当な認識を有せず単に混乱し・毀損した認識のみを有する,ということになる」。
 この系Corollariumは,現実的に存在する人間が身体corpusを刺激されるという様式よって認識するすべての観念ideaは混乱した観念idea inadaequataであるということと,したがってもし現実的に存在する人間にとってこの様式でしか認識することができない観念があるとすれば,人間はそれを十全に認識することが不可能であるということを確定させるものです。『エチカ』の文脈においてはそれが非常に重要なのですが,今はその点に関しては考慮しません。僕が注目するのは,この系では,人間の精神mens humanaのことが自分自身といわれていて,人間の身体に関しては自分の身体といわれている点です。ここから明瞭に分かるように,スピノザにとっての自分自身とは自分の精神のことなのであって,自分の身体は自分自身には含まれないのです。するとここから,一般に人間自身とはその人間の精神のことだけを意味し,その人間の身体というのはその人間自身には含まれないということが容易に推察できるでしょう。
 スピノザがどういう意図から精神だけを自分自身というのかは僕には不明です。ただその理由として,スピノザが人間の精神を人間の本性natura humanaと考えているからだという可能性は否定できないでしょう。そうなると人間の本性と人間の精神は等置可能であることになります。したがって僕のように人間の本性に特権が与えられているのだという見解を有していても,それは事実上は人間の精神に特権が付与されていると主張するのと同じだということになります。僕がそう主張している可能性があることは僕も認めるのです。
 ただしこれは特権ではあっても,優越性ではない筈です。なぜなら人間の本性が人間の精神と等置できるのは,人間の精神が人間の身体の観念であるからです。他面からいえばそれは人間の身体の本性と等置されているのであり,人間の精神の本性と等置されているのではないからです。
コメント
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