スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

東京優駿&他人の喜びと悲しみ

2016-05-29 19:20:14 | 中央競馬
 第83回日本ダービー
 マウントロブソンはダッシュが鈍く後方。16番からの発馬だったブレイブスマッシュは発走後の直線を真直ぐに走って馬群に寄せていかなかったため,結果的に取り残されることになりました。先手を奪ったのはマイネルハニーで向正面に入るあたりで3馬身ほどのリード。単独の2番手にプロフェット。2馬身ほどで3番手はアグネスフォルテ。ここから5馬身くらいの差が開きプロディガルサン。2馬身差でエアスピネル。3馬身差でアジュールローズとここまではかなり縦長。この後ろ,2馬身くらいでサトノダイヤモンド,マカヒキ,ディーマジェスティ,ヴァンキッシュランの4頭はほぼ一団という隊列に。最初の1000mは60秒0のスローペース。
 縦長の隊列も徐々に解消されていき,2番手と3番手は入れ替わって直線に。まずプロディガルサンが前の3頭を捕えて先頭に出るとその外からエアスピネル。サトノダイヤモンドがエアスピネルの外から追ってきて,2頭の間にさほどの間隔はなかったように思えたのですが,サトノダイヤモンドは右にもたれたようで,この間を突いたマカヒキがエアスピネルを交わして先頭に立つと,進路を譲ったような格好となったサトノダイヤモンドがまた巻き返し,この2頭が馬体を並べてフィニッシュ。写真判定に持ち込まれましたが,制していたのは先んじていたマカヒキ。ハナ差の2着にサトノダイヤモンド。直線入口で勝ち馬より先に動き,外に出されて伸びたディーマジェスティが半馬身差で3着。
 優勝したマカヒキは弥生賞以来の勝利で大レース初制覇。弥生賞まで3連勝,そして皐月賞が2着でしたから優勝候補の1頭。持ち味は強靭な末脚で,結果的に皐月賞は勝負を度外視したようなレースに。今日はこれまでより前目に位置しました。こういうレースで結果を出したのは大きな収穫だったと思います。ただ今年の上位勢は全体的にレベルが高いですから,勝ったり負けたりを繰り返しながらよいライバル関係を長く継続していくことになるのではないでしょうか。僕は事前のレースを見て迎えるダービーは今回が30回目ですが,ダービー馬に相応しいと思える馬がこんなに多く揃って出走していたのは初めてです。父は第72回を制したディープインパクト。全姉に一昨年の京都牝馬ステークスと昨年のCBC賞を勝っている現役のウリウリ。Makahikiはハワイの祝祭。
                                     
 騎乗した川田将雅騎手は昨年の宝塚記念以来の大レース制覇。日本ダービーは初勝利。管理している友道康夫調教師は昨年のNHKマイルカップ以来の大レース制覇。日本ダービーは初勝利。

 僕たちは自分の喜びや自分の悲しみを認識することはできます。しかし他人の悲しみや他人の喜びを認識することはできません。これは第二部定理一三から明らかです。というのはある人間の精神の現実的有を構成する観念の対象がその人間の身体であるということは,Aという人間の精神を構成する観念の現実的有の対象はAの身体以外の何ものでもない,たとえばBの身体ではあり得ないことを意味するからです。ですからAはAの身体の刺激状態を通してAの喜びと悲しみを認識し得ますが,Bの身体の刺激状態を通しては何も認識することができません。したがってBがBの身体の刺激状態を通して認識するBの喜びと悲しみを,Aは認識することができないのです。
 もちろんこのことは,AはBが喜んでいるあるいは悲しんでいると認識しないという意味ではありません。Aの身体がBの身体によって刺激を受けるとき,第二部定理一七によってAはBを表象します。このときに,Bを悲しんでいるものとしてあるいは喜んでいるものとして表象するということがあり得るからです。しかしこの表象は第二部定理一六系二から明らかなように,Bの身体の現実的本性よりもAの身体の状態をより多く含んでいる観念です。したがってBの喜びないしは悲しみの認識であるというより,喜んでいると推測されるBあるいは悲しんでいるようにみえるBの認識といった方が正確でしょう。一般的にいえば,僕たちは他人の悲しみおよび喜びを想像することはできても,正確に認識することはできないのです。
 ですから医師が僕の耳鳴りについてそれは老化現象であると言う場合,それは僕の身体の現実的本性がこのような仕方で変化する場合を老化というのであるという以上の意味をもつことはできません。現実的本性の変化と完全性の移行は同じ事柄の別の側面ではありますが,この完全性の移行が僕に対して喜びを齎すのかそれとも悲しみを齎すのかということについては,医師は想像の範囲でしか認識し得ないからです。そしてこのような変化を一般に老化というなら,ある人間の老化がどのような完全性の移行かは,当人以外には想像の範囲でしかないことになります。
コメント
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