スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

プリークネスステークス&現実的本性の変化

2016-05-22 19:12:48 | 海外競馬
 アメリカのピムリコ競馬場で行われたプリークネスステークスGⅠダート1・3/16マイル。
 ラニはダッシュが鈍いという感じで,発走後は1頭だけ離れた最後尾になりました。向正面では画面に映りませんでしたので,どのような追走であったのかは分かりません。1/4マイルが22秒38,1/2マイルが46秒56,3/4マイルが1分11秒97というラップ。4コーナーを回るところで1頭だけ取り残された馬がいて,それ以外の9頭の直後の内にラニはいました。そこから少し外に出して追われると,右にいったり左にいったりという感じはありましたが最後まで脚は使い,5着でした。
 このレースはケンタッキーダービーに比べると頭数こそ減るものの,それ以外の条件はむしろラニにとっては悪くなるように僕は思っていました。加えて馬場も悪化して,さらに悪条件が重なってしまいました。個人的にはここはパスしてベルモントステークスに直行した方がいいのではないかと思っていたくらいです。このレースは勝ち馬が3馬身半離し,2着以降はハナ差,半馬身差,1馬身差で続いて,ラニ以下は7馬身差がつきましたので,条件を考えるとすごく健闘できたように思います。前走時に感じた,まるで通用しないというレベルの馬ではないということははっきりしたのではないでしょうか。また,追い上げるときには常に外を回っていた馬が,直線で馬群を割って伸びてきたというのも収穫だったと思います。連戦の疲れは心配ですが,その点をクリアできればベルモントステークスは条件が好転すると僕は考えていますので,さらに上位の結果が出てもおかしくないのではないでしょうか。

 同一の人間であるのに本性が一定ではないというのは奇異に思われるかもしれません。もしも人間の本性が神の属性に包容されて存在する場合についていえばその通りで,その人間の本性は永遠から永遠にわたって同一であり,一定であると考えられなければなりません。しかし人間の本性が現実的に存在するといわれる場合,要するにある人間が現実的に存在するという場合には,その人間の本性は同一であったり一定であったりはしない,もっといえばそれは日々刻々変化する,変化しつつ現実的に存在するということが必然的であるというのが,スピノザの哲学における考え方であると僕は解しています。
                                     
 このことは,現実的に存在する人間が受動を免れ得ないということ,すなわち第四部定理四に留意するなら,僕たちは経験的によく知っていることだと僕は思います。第四部定理四を否定することはだれにもできないでしょう。いい換えれば現実的に存在する人間には必然的に受動状態が生じるでしょう。この受動状態における人間の現実的本性が,第三部諸感情の定義一にあるように,欲望といわれるわけです。したがってもしも僕たちの現実的本性が常に同一なら,僕たちの欲望も常に同一であるといわなければなりません。しかし自分自身を反省的に顧みれば,自分の欲望が常に一定であるということはないということを,だれもが容易に知るでしょう。欲望は変化しています。それはすなわち現実的本性が変化しているということなのです。
 たとえばカレーライスの匂いに誘われて食堂に入ったとします。ところが隣の客が食べていたラーメンが美味そうだったので,ラーメンを食べたくなったとします。これは欲望の変化です。第三部定理五六から分かるように,カレーライスへの食欲とラーメンへの食欲は異なった食欲といわれなければならないからです。つまりこれはそれら各々の食欲に刺激された当の人間の現実的本性が変化したということなのです。他面からいえば,こうしたことを現実的本性といい,また現実的本性の変化というのがスピノザの哲学における考え方なのです。だから人間は本性を変化させつつ現実的に存在すると僕は解するのです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする