スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

印象的な将棋⑪-4&本性の変化の認識

2016-05-24 18:56:12 | ポカと妙手etc
 ⑪-3の続きです。
 後手がわざわざ2手の損をしたのは,桂馬を跳ねさせてそれを目標にするためでした。ただすぐに▲4五桂とされては大変でしょうからまずは△3三桂。
                                     
 先手は手得はしたのですがその関係で玉のこびんが開いてしまいました。角で王手される筋も残っているので▲6八玉と逃げたのは仕方ないところでしょう。
 後手は△3六銀成から攻撃再開。▲4五桂△同桂▲同歩までは必然的進行。そこで△3七成銀と飛車取りに入りました。
 1八へ逃げるのもないことはないと思いますが▲4六飛と上に逃げました。これには△5五銀。1六に逃げると△2七角と打たれて厳しいとみて▲2六飛でしたが△3五角▲2九飛△4七成銀と進みました。
                                     
 第2図は後手が快調といえるでしょうが,▲8六歩と突いて先手玉の左の方はそれなりに広く,後手も居玉ですから大量リードというほどではないかもしれません。それでも最初に少し後手が無理をした感があるのを踏まえれば,後手にとって十分に満足できる局面に進展したといえそうです。

 なぜ僕が老化現象を認識する場合に,実在性realitasの観点から認識するより本性の観点から認識する方が優れていると考えているのかを説明します。
 現実的に存在する人間の本性に変化が生じるとき,それがどういう変化であるかということは別として,何らかの変化が生じたということ自体はその人間の精神によって知覚されます。これは第二部定理一二から明らかです。ここでは詳しく説明しませんが,この定理でいわれている「中に起こること」というのを,僕はその本性に変化が生じることという意味に解しているからです。
 第二部定理一二は,現実的に存在する人間の身体の中に起こることが,その人間の精神によって知覚されるということだけを述べています。しかし,もしも人間の精神の中に何か,すなわち人間の精神の現実的本性を変化させる何らかの思惟作用が起こるのであっても,それはその人間の精神によって知覚されるのでなければなりません。なぜなら,人間の精神が自分の身体の中に起こることを知覚し得るのは,第二部定理一二から明らかなように,人間の身体というのがその人間の精神の現実的有を構成する観念の対象であるからです。第二部定理七から明らかなように,観念と観念されたもののことをスピノザの哲学では同一個体というのでした。いい換えれば,人間の身体と精神が同一個体であるから,精神は身体の中に起こることを知覚し得るのです。
 しかるに人間の精神と人間の精神の観念も同一個体です。ふたつの平行論のうち,思惟属性の中での平行論に着目すればこれはそれ自体で明らかです。しかし論理的にいうなら,第二部定理二〇から明白だといえるでしょう。そこでいわれているように,人間の身体の観念の観念すなわちその人間の精神の観念は,人間の身体の観念すなわち人間の精神と同様の仕方で神に帰せられるのです。したがって第二部定理一二から,人間の精神の中に起こることもその人間の精神によって知覚されるということが帰結しなければなりません。とくに第二部定理一二が,第二部定理九系に依拠していることに注意すれば,第二部定理二〇からこのことが帰結することが容易に理解できると思います。
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