スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

ケンタッキーダービー&特質の言及

2016-05-08 19:20:39 | 海外競馬
 アメリカのチャーチルダウンズ競馬場で行われたケンタッキーダービーGⅠダート11/4マイル。
 ラニは今日も発馬が悪く,遅れました。発走後の正面で少しだけ追い上げ後方4番手くらいに。それでも前の集団からは取り残される形。向正面までそのまま進め,鞭を入れて集団の直後まで追いつきました。ただこのときに外にいたので,コーナーも外を回り,直線にかけては大外を回らされることに。そこから最後までじわじわと伸びてはいましたが,レースの勝ち負けに参加するには至らず,9着でした。
 アメリカのダートのトップクラスのレースはペースが速くなる傾向があります。このレースも1/2マイルが45秒72,3/4マイルで1分10秒40というラップ。このペースにある程度はついていけ,なおかつ余力を残せるようでないと好勝負は難しいです。ラニのように日本のダートの競馬でも前半の速力が鈍いタイプでは,このようなレースでは厳しいといえるでしょう。ただ,最後まで伸びていたのは事実なので,ペースがそこまで速くならない場合とか,頭数がもっと少ないレースであれば,まったく通用しないというレベルの馬ではないようにも思えました。

 國分は事物の観念の自動性がいかなることかについて語っているのであり,事物の本性の観念について直接的に言及しているわけではありません。したがって事物の観念が実在的有であるなら,その事物も実在的有でなければならないことは確かだとしても,事物の本性の観念が客観的有であって事物の本性は形相的有であるということは,言及そのものからは分からないと思われるかもしません。しかし僕の考えはそうではなく,ここでは事物の本性の観念についても,事物の観念を通して間接的に言及されているのです。
                                 
 國分は第二部定理四三備考の意味のうち,ある観念が別の観念によって自動的に発生させられるということについては,観念が観念されたものの発生を語るといういい方で示しています。それに対して観念が自動的に別の観念を発生させるということに関しては,観念は観念されたものの特質proprietasを告げるといういい方で示しています。この後者の記述のうちには,國分が事物の観念と事物の本性の観念とを区別していないということが含まれていると僕は解します。第二部定義二から,事物とその本性は,一方がなければ他方が,他方がなければ一方があることも考えることもできないといわれているのですから,僕は事物の観念とその事物の本性の観念を区別しないことは妥当であると考えます。
 なぜここで國分が事物の観念と事物の本性の観念を区別していないと僕が解するのかといえば,國分が事物の観念は事物の特質を告げるといっているからです。スピノザの哲学では事物の特質というのは,事物の本性から必然的に,あるいは不可避的に流出する事柄です。したがって事物の観念が観念された事物の特質を告げる,いい換えれば観念された事物から生じる結果を告げるのは,事物の観念が事物の本性の観念と同じ,区別しないという意味で同じだからです。つまり事物の本性の観念を原因として必然的に事物の特質の観念が発生すると國分はいっているのであり,これらの観念はいずれも客観的有なのですから,事物の本性も事物の特質も形相的有として存在していなければなりません。そうしないと國分の主張は成立しないと僕は考えるのです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする