スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

マイナビ女子オープン&方針の変更

2016-05-10 19:01:55 | 将棋
 You Tube space Tokyoで指された昨日の第9期マイナビ女子オープン五番勝負第三局。
 室谷由紀女流二段の先手で角道オープン向飛車。後手の加藤桃子女流王座から仕掛けましたが,適切に対応した先手が優位に。先手は優位さを維持したままの中盤戦を長引かせ,すぐに終盤には入らないような指し方。三局を通してみると,室谷二段はこういう方針で指すタイプなのだと思われます。後手は粘るほかありませんが,たぶん最善の粘り方ではなく,一時的には差が広がっていたのではないかと思いました。
                                     
 後手が6一の金を自玉に近づけた局面。ここで▲8二歩と打ちました。この手は悪い手ではないと思いますが,こういう手で勝ちにいくのなら,もっと早い段階,たとえば先手が飛車を成り込んだ後くらいの局面で指してしまえばよかったようには思います。
 後手は△8八龍と引きましたが▲8一歩成に△6八龍とは取れませんでした。おそらく▲9五角の両取りを警戒したため。それを避けて△4二金と上がりました。ただこの後手の手順は変に思えます。先手は当然▲5八金寄と逃げ,後手は△8一龍とと金を払いました。これは相当に勝てない指し方だと思えるのですが,結果的にはここで龍を引き上げたのが後で大きな効果を産出しました。
 ▲8二歩は僕には意図が把握できませんでした。対して△7二龍と逃げなければならなかったのかも不明です。そこで▲5一角と打ちました。守りの金に働きかけるのでこれも悪い手ではないように思います。
 次に▲5四桂と足されると厳しいので△5三歩と突いたのですが,これは単に桂馬を打たれるのを防いだだけでなく,龍の横効きも通す手。先手はそういう手が指せていないので,この一石二鳥の手で差は確実に詰まった筈だと思います。
 ▲4六桂と控えて打って▲5四歩と▲3四桂を狙いましたが△4三金を誘発。▲7四歩と取り込んだのはそう大きな手ではないと思えます。△4五銀▲6五龍はおそらく後手が得をしていると思います。△6四歩▲8五龍は後手の狙いが僕には分かりませんでしたが,次の△3二龍で分かりました。こう回りたいために,先手の飛車がダイレクトで後手陣に侵入するのを防いだものでしょう。してみると前に△7二龍と逃げておいた手の意味もこれと関連していたのでしょう。
                                     
 この手も受けだけでなく後の攻めを見据えた手で,ここは少なくとも混戦,もしかしたら後手の方がよくなっているかもしれません。先手は攻めが難しくなっていて,△3五歩~△3三香で攻撃態勢を築いた後手の勝ちになりました。
 加藤王座が勝って2勝1敗。第四局は18日です。

 マルタンがそういう仮説を立てていたとはいえ,僕は「天文学者」のモデルがスピノザであるとは考えていませんでしたから,およそ1年前に,当日の急な予定の変更の影響で,六本木で展覧されていたその実物の絵画を鑑賞する機会を失ったのは,残念ではありましたがそれほど大きなショックがあったわけではありませんでした。
 これまでも,糖尿病共生記の中で哲学的な考察をするということがなかったわけではありません。ですがそのときは,あくまでも糖尿病共生記の範疇であるという意識があり,それほど長く探求し続けるということは避けていました。ですが今回はその共生記の中で,マルタンの仮説を検証するために,とても長い時間を掛けました。そうなった理由というのはふたつあって,ひとつはそれまでは一度として考察したことがなかったスピノザの人生について,ある程度の考察を必要としたからです。そしてもうひとつは,考察の途中である問題が発生したときに,その問題についても丹念に探求していったからです。
 これまでの哲学的考察は,ある決まったテーマをひとつ立てて,それに関して深く探求するという方法でした。そのためにそれとは直接的には関係しない哲学的問題が出たときには,無視するというわけにはいきませんから考えはしましたが,それはそのときのテーマにとっての問題が消去されれば十分という程度のものでした。それを今回は,別の問題もいわばひとつのテーマとして,僕自身が納得のいくまで探求していったのです。
 そしてこれからも,この方式で進めていくことにします。つまり今までは哲学的探究と糖尿病共生記が,別個の二本立てとしてこのブログの中心を構成していたのですが,これからはそれはやめて,糖尿病共生記を綴っていく中で,哲学的に考察するべき何らかの事柄が出てきたときに,それを徹底的に考察しています。そしてその考察の中でまたそれとは別の考察が必要となったときにも,それを先送りにしたり簡単に済ませたりはせず,それ自体をひとつのテーマとして考察していくことにします。日記の途中で,突如として長い哲学的考察が挿入されるという形になるということです。
コメント
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