スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

漱石の世界&別の補足

2013-09-09 18:44:05 | 歌・小説
 作家論と作品論のうち,僕が作品論に含めるものについてはいくつか紹介しました。そこで僕が典型的な作家論とみなす評論の方も例示しておきましょう。ここでは宮井一郎の『漱石の世界』を取り上げます。
                         
 宮井がこの一冊を通して主張していることは,ひとつは漱石の思想の中には利益社会と人格社会の対立という概念があるということで,もうひとつはこの対立において漱石は人格社会を重視するというものです。著書では漱石のほとんどの小説が評論の対象になっていますが,どの小説についても,宮井はこの立場から評論を行うということになります。
 平野謙による序文めいたものが付されていて,そこではこの結論がお粗末であるといわれています。しかし僕は宮井の主張の妥当性に関しては何かいうつもりはありません。ただ,このような方法を僕は好まないので,その理由だけ説明しておきます。
 小説を読むことを自分の人生に役立てるという観点からは,たぶん宮井のような方法を採用するのが有益なのです。でも僕はそういう構えで本を読むことはしません。宮井が理解する漱石の思想がどこから出てきたかは別として,このような観点から漱石に向き合えば,当然ながらすべてのテクストについて,その思想がどのように表出しているかに着目することになります。これが僕には読書の幅を狭めてしまっているように感じられるのです。
 作家の思想には無頓着に,ただテクストだけを丹念に追っていくと,あれもこれもといった具合に,小説の世界が広がっていくように僕は感じます。そしてこのことが,僕にとっては読書の最大の楽しみなのだといえます。これは漱石に限ったことではなく,ドストエフスキーでも,あるいはスピノザでも同じことなのです。
 僕のような読書をする方にはおそらくこの本は退屈でしょう。しかし漱石のうちに,宮井が理解するのと似たような思想を見出している方にとっては,非常に内容が濃い評論だと感じられるのではないでしょうか。

 もうひとつ補足しておきたいのは,この種の考察は,唯名論と不可分の関係にあるということです。
 観念ideaの内的特徴denominatio intrinseca,あるいは内的特徴からみられた観念を,知性intellectusが十全に認識したならば,そこから十全な観念idea adaequataと混乱した観念idea inadaequataの十全な認識cognitioも必然的にnecessario生じます。正確にいうなら,これらは前者が原因で後者が結果であるというよりは,同一の十全な認識を他面から説明しているにすぎないといえるでしょう。いうまでもなく十全な観念とは,観念をその内的特徴からみた限りで,第二部定義四で示されている事柄を満たすような観念であり,同じ観点から観念をみた場合に,もしもそれを満たしていないなら,それは混乱した観念であるということになります。しかしこれが意味しているのは,そのように名指されている観念を知性が観念対象ideatumとして十全に認識しているということです。そしてこの知性の立場からみれば,それら各々の観念が,十全な観念とか混乱した観念といわれなければならないような理由は何もありません。別にことばの上だけであれば,それが何ということばないしは記号によって示されても構わないのです。
 スピノザが唯名論の立場を選択するのにはおそらくふたつの理由があります。ひとつはイデア論に対抗するためです。スピノザの一般性と特殊性の考え方から明らかなように,事物は一般的に認識されるならそれだけ混乱していて,個別に認識されるならその分だけ明瞭判然としています。イデア論で重視されるイデアというのは,より一般的なものです。したがってそれはむしろ混乱の度合いが高い観念であるといわなければなりません。このためにスピノザは一般名詞がどのように表現あるいは記述されるべきであるのかということに,重きをおきませんでした。
 この典型例が第一部定義六であり,また第一部定理一一だと僕は考えています。スピノザは確かに神Deusを定義し,またその実在を主張しました。それでもスピノザの哲学は無神論のレッテルを貼られたのです。しかしこれはある意味では当然なのです。なぜなら第一部定義六は,明らかに唯名論の立場から神を定義していて,その実在が主張されているのも,そのような神でしかないからです。
コメント
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