スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

ブロディの扱い&前提条件

2013-09-11 18:48:36 | NOAH
 プロモーターとしての馬場の優秀性あるいは有能性を最もよく示すのは,超獣の扱い方であったと思います。馬場自身,『ジャイアント馬場 オレの人生・プロレス・旅』の中で,ブロディは暴れ馬のようなレスラーであったけれども,プロモーターとしては使いこなしたと自負しているといっているくらいで,これは馬場にとって誇れることであったのでしょう。ブロディというのはそれくらい扱いにくい選手であったということの裏返しともいえます。
                         
 長州とブロディの対戦からも理解できるように,ブロディが極度のエゴイズムをもったレスラーであるということは,僕にも分かっていました。ただ,これはリング上のことだけなのであり,リングを降りてもそうしたエゴイズムを発揮するということは,まったく知られていなかったといっていいでしょう。実際ブロディは,この時代まで,契約に関して問題を起こすということは,少なくとも日本ではまったくなかったからです。
 ところが,その試合の直後に新日本に移籍したブロディは,途端に問題児となりました。新日本とブロディの間で,どんな問題が発生していたのかは僕には分かりません。ただブロディにとっては我慢ならないほど不満なことがあったのでしょう,しばしば試合をボイコットするようになり,最後もタッグリーグの優勝戦をボイコットして,新日本を去ることになりました。
 ブロディはその後,また全日本に復帰することになります。するとブロディはまた以前のように何も問題を起こさなくなりました。結局のところ,これは偏にプロモーターとして馬場の手腕が優れていたからだといえます。試合のボイコットなど,プロとしてはあり得ないような行為を平気でするようなレスラーですから,馬場もブロディは扱いにくいレスラーであったと思っていたに違いないと思うのです。もしもブロディが移籍せず,ずっと全日本で仕事をしていたら,この面での馬場の優秀さは表面化しなかったでしょうし,ブロディがこれほど難しいレスラーであるということも,知られることはなかったのではないでしょうか。

 この部分に,スピノザの哲学が唯名論へと傾斜していくもうひとつの理由があると僕は考えています。ことばに頼るのではなく,観念対象ideatumに依拠して事物を認識するということが重要であるとしたなら,そのideatumがどのようなことばで指示されるのかということは,さほど重要ではない,もっといえばそんなことは問題とするにも値しないといえるからです。前に僕は,観念はその内的特徴からみられるならば,十全な観念であるか混乱した観念であるかのどちらかだという命題に関して,これがideatumとなって知性のうちにあるというケースを視野に入れたなら,それが十全であるといわれるか混乱しているといわれるのかということは,観念の内的特徴の認識,あるいは内的特徴からみられる場合の観念の認識にとっては重視されないという主旨のことをいいましたが,それは具体的にはこのような意味であったのです。
 さて,ではこの命題がideatumとなっているという前提で,この命題が積極的であるとみなせるのかどうかということに移ります。これについても結論からいえば,少なくともこの命題は,このことを前提とする限りでは,積極的であるとみなし得るというように僕は考えます。いい換えればこの前提において,この命題を積極的な命題であると記述することは,許容されるというように僕は判断するということです。
 この判断についての根拠に関しては,もうそう多くのことを語る必要はないと思います。少なくともこの命題がideatumとなって十全に認識される場合には,観念の内的特徴ないしは内的特徴からみられる観念の本性,あるいは少なくともその本性に属する事柄も十全に把握されているということが前提となっているということがすでに明らかになっています。要するにそれは観念の内的特徴の内的特徴たる所以が知性によって十全に認識されているということです。そしてそのことが,ある命題に関してそれを積極的というときの,ひとつの要件を満たすのだからです。そして,積極的であるとみなし得る命題から必然的に流出する命題にも,それは妥当すると僕は判断します。
コメント
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