スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

印象的な将棋⑥-6&定理と系の意味

2013-09-13 18:49:22 | ポカと妙手etc
 ⑥-5の第2図からは駒組。手順だけ示すと△5二金▲6六歩△4四歩▲5八金△9四歩▲9六歩△4三金右▲6九玉△3一角▲6七銀△7四歩▲7九玉△6四歩で第1図に。
                         
 先手の自戦記では,この局面は後手の5筋の位が大きく,先手の角が働かないので,先手の得は失われているとあります。後手の方は⑥-3の段階では作戦負けを自覚していたわけですが,先手としてもそれをうまく咎めることができなかったということなのでしょう。この先手の感想からは,⑥-1で示した中央志向の一手としての2手目△6二銀が,この局面では成功したといえるのかもしれません。ただ後手の玉型はひどいように思えます。
 第1図で有力な指し手のひとつが▲2九飛。詳しい手順は示しませんが,この場合は後手から△2五桂と取ってきて,攻め合いになるというのが一例として示されています。ただ実戦はここで先手の方から▲3三桂成と取っていく展開になりました。
 このシリーズの主旨からはここで終りなのですが,この将棋は勝負の分かれ目の互いの感想も面白いので,それも紹介します。

 そこで,僕がいう第二部定理九系の消極的意味に注目してください。ここで僕が主張していることの主眼は,ある観念対象ideatumの中に起こることの観念は,神がそのideatumの観念を有していないとみられる,あるいは説明される限りにおいては,神のうちにはあることにはならないという点にあるのです。これは単に命題文として理解した場合に,XはYではないという種類の命題に分類されるのですから,積極的であるとみなすことは不可能です。つまりこのことがideatumとして知性のうちにある場合,それは確かにあるideatumの中に起こることの観念について,十全に認識しているのだとはいえるでしょうが,その認識自体が否定的な認識であるといわなければなりません。単純にいえば,白は黒ではないという認識は,認識内容としては真理であるといえるけれども,白について積極的であるとはいえないというのと同じです。
 次に,命題文として考えた場合,この命題からは論理的に次の命題が帰結します。それは,あるideatumの中に起こることの観念は,神がそのideatumの観念を有する限りでは神のうちにあるという命題です。この命題は,XはYであるという種類の命題ですから,積極的であり得ます。そしてこのことがideatumとなっている認識について考えた場合にも,確かにこれはあるideatumの中に起こることの観念に関して,その本性を含んでいると理解されるべきですから,同様に積極的であるとみなし得るでしょう。ただこれらふたつの命題は,一方から他方が流出する関係にあるのではなく,いい換えれば一方が他方の変種であるというわけではなく,論理的に帰結する別々の命題であることが明らかですから,一方が積極的であり,他方は積極的ではないという結論が導かれ得るのです。
 論理的に帰結する異なった命題なのですから,僕は第二部定理九系の意味として,後者を,後者だけを採用するということも可能であったわけです。というか,定理とか系の意味というのは,本来的に積極的に解されるべきものであるということを僕は否定しません。そしてそうであるならば,むしろ後者を採用するのが本筋であるといっていいでしょう。
コメント
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