浅草文庫亭

"大哉心乎"
-大いなる哉、心や

大きな変化のために小さな手を打つこと

2012-09-04 23:10:29 | ニュースから
今日の話は長いし素人考えなので楽しみたい人はどうぞ「桐島、部活やめるってよ」でも見に行ってください。今週で終わっちゃうだろうけどやっぱいい映画よ。

大阪市が小学校と中学校の校長を50名募集しています。普通の転職サイトに載っていて結構びっくりした。

これも橋下市長のいろいろな改革の一環だろう。

僕が一市民として知りうる限りの情報からの判断なので「真相はもっと深いよ」という場合もあるかも知れない。だけど僕の印象としては火事を消そうとして家を土台からぶっ壊してる、ようなもんなんじゃないかと感じる。

教育の専門家でもないし子供もいない、ましてや大阪市民でもない30代独身男性の野次馬的意見として書いておきますのであんまり信用しないでください。

橋下市長は本当に公務員や教員を信用していないんだろう。この人が誰かを信用しているのか、という素朴な疑問はおいておいて。

「教育が悪い。学校が悪い。特に学校のトップである校長が悪い。それは競争にさらされてない公務員が校長をやっているからだ。じゃあ競争社会である民間から人を引っ張ってこよう」と思っているんだろう。

僕は何も「民間から校長を引っ張ってくることがダメだ」と言いたいんじゃない。民間出身で立派に校長をやっている人だっている。(一方で割合としては少なくない数の民間出身校長が自ら命を絶っている事実があるけども)

僕が言いたいのは「そんな乱暴なやり方じゃダメじゃないの?」ということ。

確かに今のほとんどの公立学校の校長には、組織運営に必要なマネジメント力やリーダーシップが無いかも知れない。だけどさ、それを「お前らが力が無い」というのはかわいそうだよ。だってほとんどの校長が「校長になりたくて教員になったわけじゃない」んだもの。

校長のなり方の一番大きなパターンは、教員が年数を経てなる場合が多い。でも、教員になるときに「将来僕は校長になるんだ」と思って教員になる人はほとんどいない。子供が好きで、教えることが好きで教員になる。そのうちに年数が経ち組織においてなんとなく部長や主任になっていき、そのうちに校長になる。本当は子供と触れていたいのにどんどんその時間が減っていく。そういうものです。

なりたくてなったんじゃなくてもなってしまったからには努力しろ、という意見もあるでしょう。その通り。多くの校長は一生懸命頑張っている。でも頑張るためにの知識・スキルを得る方法があまりにも世の中には無い。例えば企業の社長になったらそのために必要な知識・スキルを身に着ける方法は世の中にあふれている。企業経営の本はたくさんある。でも学校経営の本、校長としてどうすべきかの本はあまりにも少ない。

僕は今回の政策の深い所を知らないのだけど、もし今回募集した校長陣のバックアップ体制を市が全力を上げて整えているならまだいいと思う。

おそらく外部から来た校長に対して校内の教員の風当たりは冷たいだろう。それは教員が意地悪というわけではなくて、努力している人たちに対して「お前らじゃダメだからお上が他からお前らの上司連れてきてやるよ」って言っているようなものなんだもの。僕なら(ほら、僕、性格悪いから)「あー、そうですか。じゃあいいわ。お点前見せてもらおうじゃないの」と反発するだろう。いくら教員が僕ほど性格が悪くないとしてもうち何人かは僕と同じような気持ちを持つんじゃないかな。

そんな中で新任の校長はいろんな悩みや問題を抱えるだろう。それに対するケアを市は受け止め対応する体制を整えているんだろうか?
教員、生徒、保護者との関係においていろいろな誤解や確執が生まれるだろう。それが表面化したときにそれを受け止める体制を市は整えているんだろうか?「市が選んだ人なのでその人の問題の責任はすべて市にあります」と心から言ってくれるんだろうか?もしそうならば僕は言うことはない。

もしそうじゃないなら、あまりにも無責任な話じゃないですか?

「公務員の校長じゃダメだ、民間から引っ張ってこよう。その人が巧くやれるかどうかはその人の自己責任です、頑張ってください。もしダメならまた別な人を引っ張ってきます」

僕ならヤダよ、そんなの。

じゃあどうすればいいのか?と思うかも知れない。僕の話なんて単なる野次馬の印象論なので言いっぱなしでもいいんだけど「代案無しに批判するな」(嫌な言葉だ)とか言われても癪なので書いておきます。

一番の問題は、子供たちの人生を左右する重要な、学校と言う組織において、それを実際に運営していく先生たちを率いる「校長」という立場になるためのしっかりした教育方法が無いことだと思う。

どうも回りくどい文章だと思うので例えます。

船があるとします。乗客がいます。それを動かす船員もいます。でもその船の船長にどうやったらなれるのか、なった後、どうやったら船を行きたい場所に進められるのか、そのためにどうしたら船員に指示できるのか、それを学ぶ方法が無い、ということです。

だから、本当に教育を変えたかったら、校長、そしてそれを含む「学校経営者」を育成する方法を確立することが絶対大事だと思う。もちろんそれだけでは変わらない。でも学校経営者育成は確実に大事なことの一つ。

例えば大学の学科を作ってもいいでしょう。教育学部の中に作ってもいいし、経営学部の中に作ってもいい。経営学部企業経営学科があるんだから学校経営学科があってもいいでしょう。(筑波大にはあるみたいだけど)

そういう学部が採算が取れるか、という話は置いておく。僕はいまビジネスの話をしているんじゃない。

「教育に携わって生きる」という道は教員になること、文科省に入ること、いろいろあるけど、その一つに「校長になる」ということがある、ということを若い人に知ってもらうだけでも意味がある。今、子供が「校長になりたい」と思っても何をしてもいいか分からない。

「教員にはなりたくないけど校長にはなりたい」と言う言葉ってすごく奇異に聞こえるだろうけど、それが奇異に響くこと自体が問題なんです。だって「サラリーマンになりたくない、社長にはなりたい」って言葉ってそんなに変には聞こえないでしょう?そりゃ「そんなに甘くないよ」とは思うかも知れないけど。

教育を変えるためにはいろいろなことが必要だけど、校長を変えなくてはいけない、と思うなら民間から門外漢を引っ張ってくることだけじゃなくてしっかりとした校長を育てなくてはいけない。育てるために、校長になることとはどういうことなのか、どういう知識・スキルが必要なのか、それをどういうスケジュールで人に伝えていくのか。それを組み立ててやっていくしかない。細かいし地味だし面倒なことだよ。でも組織が巨大だからと言って乱暴な方法で変えられるとは限らない。大きな動物だって手術するときには小さなメスを使うでしょう。
大木を切り倒すには確かにチェーンソウが必要だと思う。でも今はそんな話じゃない。いわば、細いけど丈夫なワイヤが絡み合っている状態なんだと思う。それを解きほぐすのに必要なのはデリケートな手法と根気だ。

え?そんな悠長なことでは教育が変わるのは何十年後になるか分からない?

あれ?教育って1年や2年のそこらで簡単に変えられるもんなんでしたっけ?
コメント (2)
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