浅草文庫亭

"大哉心乎"
-大いなる哉、心や

残るのはメールだけじゃない。

2010-01-25 22:41:53 | 日記
こういうことをこういうところに書くことが正しいのか分からないけど…。

親しくしていただいていた方が先日亡くなりました。

札幌の友人のお母さん。

たぶん、10年前くらいからことあるごとにお家に伺い、よくしていただいた。友人がそちらの家にいなくても伺ってご飯をご馳走になってたりしてた。

確かに僕は「どこに行っても『ただいま』という」人間ではあるけど、そちらのお宅には何度も泊めて貰って札幌の自宅だった、と言っても過言ではないかも知れない。(そう思われてるのはそちらのお宅にとってはご迷惑かも知れないけどね)

僕は恵まれたことに近親者の死に接した経験が少ない。父方の父母は僕が生まれる前に亡くなってるし、母方の祖母はまだまだ元気だし、もちろん両親は元気。近親者の葬式、と言えば大学の頃に祖父の、数年前に叔母のものがあったくらいかな。

だから近親者を亡くす気持ちが分からないかも知れない。

もちろん一番悲しいのはご家族だろうし、そのご家族が今抱えている「喪失感」というものは家族ではない僕には永遠に分かりきれないかもしれない。

それでもそのお母さんが作ってくれた水餃子やおにぎり(米の美味しいところで育ったせいかあまり人のお宅のおにぎりを褒めないんだけど、なぜかそこのお宅のおにぎりは異常に美味しかった)や、それ以外にもそのお母さんとした楽しい会話(本当に楽しい方だった)を思い出すとやっぱり悲しくなる。

こんなことなら、と思う。

こんなことなら、もっとお会いしておけばよかった、と。もっと色んなものを送ってあげて食べてもらえばよかった。

でも多分、そんなことを僕が思うことを、その方は望んでいないと思うんだよね。「じゅうぶん、面白かったわよ、そんなことよりあなたは早くいい人を見つけてご両親を安心させたげな、そして仕事を頑張って健康に」とか天国で言ってそうな気がする。

昨年、お会いしてそのお礼をしたメールのやり取りが残ってる。そこでも僕はおにぎりの話してたんだけど。

少なくとも今の時代、こうやってメール、という形でその人との関係が残ってるのは悪いことじゃないよね。

でも、本当に心に残ってるのはメールじゃなくて形のない思い出なんだ。

茹でた筍むくの手伝ってるのに僕が剥きながら食べちゃうの笑ってた、とか、「やっぱり洗濯機は二層式よ!」と自信満々で言ってたこととかね。

メールも嬉しかったけど、そういう思い出が一番嬉しいんだ。

誰かが言ってた。

「亡くなった人に対して我々が出来ることは、『その人を忘れない』ということだけだ」