柴田典子の終活ブログ「エンディングノート知恵袋」

エンディングデザインコンサルタント柴田典子のブログ。
葬儀に関わらず「賢い老い支度」として終活全般のお話もしています。

コロナ禍での死

2022年12月28日 | 
コロナ禍において世の中が大きく変わりました。
家族の死を迎える環境の変化もその一つです。

コロナ禍で家族を亡くし納得した別れができなかった人たちは大勢います。
この3年間で新型コロナウィルスの実態が徐々に解明されてきました。
初めは感染力が強く死に至る可能性が高いと恐れられていましたが、今では感染予防をしっかり行うことで行動規制も緩和されています。
しかしながら
高齢者施設や病院では今だに面会ができません。
オンラインで面会ができたとしても慣れない高齢者にとって画面越しの会話は今一つ実感がわきません。
目線を合わせることも難しく、うつむき加減で会話も少ない形ばかりの面会になることもあります。

例えビニールの衝立越しであっても目の前にいる家族に逢えることができれば、、、
ビニール手袋をした手でも触って体温を感じることができれば、、、
手紙や写真を会話を交えて手渡すことができれば、、、
面会を心待ちにしている高齢者にとって楽しみや生きる張り合いが違ってくるでしょうね。

ご主人を介護施設に預けていた友人はオンライン面会で回を重ねるごとに弱っていく様子を案じていたそうです。
コロナが落ち着いた頃に30分にも満たない時間ですが帰宅を許されました。
飲食は禁止されていましたが、自宅で家族に囲まれたご主人の嬉しそうな表情が忘れられない、と聞かせてくれました。

入院中に危篤になりそれでも会えない家族の嘆きも聞こえています。
病院によって危篤時の対応は多少の違いがあると思いますが、病院は感染防止対策を死守するあまり一般の面会時と同じ対応を強いていたように思えます。コロナ感染していない患者の死さえも家族を遠のけてしまいました。

容態が悪くなっていても面会ができない家族にとって不安は募ります。
「こんなご時世では仕方ない」とはだれもがわかっていることですが、死は二度と触れ合えなくなる永遠の別れの瞬間です。
たとえ淡白な家族関係であっても、死をつきつけられると心は平穏ではありません。

病院に駆けつけても病室に入ることもできない。
代表者のみの面会が許されても、ほかの家族の気持ちを察すれば「自分だけ申し訳ない」という思いも残ります。
一人きりで寂しい死を迎えさせてしまった。
最期に何を言いたかったのだろう。
意識はなくても家族の声は最後まで聞こえると言われているのに「有難う。さようなら」も伝えられなかった。
そんな後悔は死後まで傷として残るでしょう。

病院のパンフレットには
「患者の意思、権利、尊厳」などの文字が並んでいますがコロナ禍ではそれも置き去りにされるのでしょうか。
最期に家族にも会えず一人で逝くことは不本意ではなかったのでしょうか。

コロナ病棟は隔離されてはいるものの、病院スタッフは自宅から通勤し、一般病棟にも出入りしています。
危篤に陥った患者への面会は、有料でも構わないのでPCR検査を義務付ける、防御服を着用させる、などの創意工夫ができないのでしょうか。
面会を望む家族に「こんな状況なんだから面会禁止に従うのが当たり前」とばかりに看護師から規則一辺倒の対応を受けた深く傷ついた家族の記事を読んだ記憶があります。
病院側は正当な対応をしたつもりでしょうが看取りの場さえ与えられない医療とは?  疑問が残ります。
別れの場を作れないのであれば、家族へのいたわりの対応や患者の容態を報告する優しい言葉が欲しいものです。
せめて「危篤の〇〇さんのご家族がいるから」の情報はスタッフ間で共有してほしいものです。
心配顔で待機する家族を横目に「私はその患者の担当ではない」とばかりに声がけもない無視状態はさらに家族を孤独にさせます。

病院は治療だけでなく看取る過程も医療と捉えるようになってきました。
感染症の新しい情報を得ながら、規則に縛られるのではなく規則をバージョンアップできる体制を期待しています。












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