できることを、できる人が、できるかたちで

京都精華大学教員・住友剛のブログ。
関西圏中心に、教育や子ども・若者に関する情報発信を主に行います。

私たちの良識、良心も問われている

2011-09-30 19:55:06 | いま・むかし

今週に入って、大阪維新の会が出した「教育基本条例案」の審議が大阪府議会、大阪市議会などで本格的に始まったようです。そのことについて、ツイッターなどで状況を把握していると、こんな記事が出てきました。

http://mytown.asahi.com/osaka/news.php?k_id=28000001109290003 (府部長、職員基本条例案に「違法」、府議会:朝日新聞(大阪)ネット配信記事、2011年9月29日)

府庁の幹部、それも法制を担当していると思われる総務部長が、この条例案を「違法」と議会答弁しているわけですよね。それを府議会が可決・成立させたとしたら、これ、大問題。また、その府議会多数派を占める大阪維新の会提案の条例案が可決・成立したときに、その維新の会代表でもある府知事が「再議」を求めるというのも、これ、大問題。いずれにせよ、維新の会及び府知事の見識が問われます。ましてや、橋下大阪府知事は弁護士でもあるわけですからね。

ところが、です。こんなことを府知事は言ってます。これも、新聞のネット配信記事から。

http://www.nikkansports.com/general/news/f-gn-tp3-20110930-842835.html (橋下知事「法律がおかしいのでは」 日刊スポーツのネット配信記事、2011年9月30日)

自分たちが出した条例案に対してその問題点、特に「違法性」が指摘されたときに、「法律がおかしい」というのであれば、まずはそこをクリアするための法改正を政府、あるいは国会に対して、府知事として、あるいは地域政党として求めるべきではないのでしょうか。

こういう話が出てくるということは、「悪いのはすべてまわりであって、自分たちが正しいのだ」「自分たちこそ民意だ」というのが府知事や維新の会の前提にあるのでしょうか。だとしたら、その前提にある考え方のほうこそ、疑った方がいいようにも思います。

あるいは、次の記事。今度もネット配信の新聞記事から。

http://mainichi.jp/area/osaka/news/20110930ddlk27010352000c.html (大阪維新の会:2条例案議論を 大阪市議団、市に申し入れへ:毎日新聞のネット配信記事、2011年9月30日)

条例案が大阪市議会で否決されたとするならば、それはやはり、条例案の中身や提出の在り方に何か問題があったわけですよね。そこでまだ食い下がって大阪市役所や市教委に協議を申し入れるのであれば、それは条例案を根本的に見直すような話を相手方にするのでなければおかしいはずです。でなければ、話の筋が通らないはずですし、たとえ協議をしても大阪維新の会大阪市議団の言うことに、市役所や市教委がうなずくわけがありません。そういうことがどうしてわからないのかな?

こういうことを見ていると、やはり大阪維新の会や府知事の動きに対して、私などはとても理解ができるものではありませんね。だから、このような維新の会や府知事の動きを、とても面白がって見ているような気分にはなれません。正直言って「この議会・役所への対応は、ひどいな」と思ってしまいます。

だから、このような議会や役所への対応をしてくるような地域政党及び首長に対して、私たちはどう判断して、どう行動するべきか。私たち自身の良識、良心も問われているように思います。

そして、そういう私たち自身の良識や良心、これに力を与えてくれるような人権教育・啓発であるべきだと思うのは、私だけでしょうか・・・・。


「学びサポート実態調査」のこと

2011-09-28 22:58:54 | いま・むかし

今日は大阪府の「教育基本条例案」の話ではなくて、別件です。

http://end-childpoverty.jp/archives/1377

「なくそう!子どもの貧困」全国ネットワークという団体が、「学びサポート実態調査」への協力の呼びかけを行っています。詳しいことは上記のページを見ていただければ、と思います。

ちなみに、ここでいう「学びサポート」とはなんなのか、上記のページから紹介しますと、次のとおりです(色を変えて紹介します)。

<学びサポートとは>
経済的に困難な家庭の子どもたちに、無料または低額で、学校教育外で取り組まれる非営利の学習支援のことです。

たとえば、個人やグループによる任意の学習会や「無料塾」、福祉事務所や福祉行政と連携した生活保護世帯の子どもたちへの学習支援、高等学校卒業程度認定試験のための学習会など、多様な活動を含みます。

この「学びサポート」の定義でいくならば、大阪市内や大阪府内の各地区で取り組んでいる小中学生・高校生を対象とした学習会は、全部、ここにあてはまります。ですから、各地区での取り組みについて、どんどん積極的に実態調査に協力して、「うちとこでは~」という話をしたほうがいいように思います。

というのも、私は前々から気になっていたのですが、このネットワークによる取り組みを含めて、「子どもの貧困」関連の今の主だった取り組みや、主な議論からは、大阪を含む関西圏での被差別の子どもたちに関する取り組み・議論が、すっぽりと抜け落ちているように思います。

と同時に、解放教育・人権教育系での「子どもの貧困」に関する主な議論や取り組みからは、こうした「子どもの貧困」関連の全国的な取り組み、主な議論との接続が弱いような印象もあります。

おそらくこのような傾向が生じている背景には、差別をなくす運動の在り方をめぐる長年の路線対立と、これに関連づけられる形での教育運動や教育・子どもに関する研究の動向等々、さまざまな要因がからんでいるのだろうと思います。

ですが、実際に貧困の状態に置かれている子どもたちの「最善の利益」を前にしたときには、そのような「おとなの事情」は一度脇において、もう少し、別の観点からの協力関係を組むことも必要な場面があるようにも思うのです。

一番いま、大事に考えなければならないことは、目の前の経済的に苦しい生活を余儀なくされている子どもたちの「最善の利益」の実現、これに向けておとなたちがどう協力体制を組むのか、ということではないのでしょうか。とりわけこの調査、差別の解消を問題にしているのではなくて、貧困世帯の子どもの支援を問題にしているわけですから、議論の枠組みが違います。だとしたら、多少なりとも、協力の余地があるのではないでしょうか。

ということで、まずは小さなところからでもいいので、歩み寄って協力できるところはそうしたほうがいいのではないかと私などは思うので、この調査、紹介しておきます。ご協力、よろしくお願いします。


教育基本条例のこと(9) ~学校の「メルトダウン」が起きる?~

2011-09-25 08:17:53 | ニュース

昨日は休みがうまくとれたので、<「君が代」強制大阪府条例はいらん!「教育基本条例」「職員基本条例」を許すな!全国集会>に行ってきました。この集会の詳しいことは、下記のページにまだ案内が残っていると思うので、そこで見ることができるかと思います。

http://www7a.biglobe.ne.jp/~hotline-osk/

高橋哲哉さん、野田正彰さんの話、各地で学校での日の丸・君が代問題に取り組んでいる人たち、大阪府内でこの問題に取り組んでいる人たちの話(プラス歌)がありました。このときの様子は、ユーストリームで中継されています。詳しくは下記で見てください(大丈夫かな、リンクうまくいってるかな? もしも見れなかったらごめんなさい)。

http://www.ustream.tv/recorded/17467495 (前半)

http://www.ustream.tv/recorded/17469227 (後半)

また、かつて私が大阪府内の公立高校定時制の非常勤講師時代にお世話になった現場教員のみなさんや、自分の学部生・大学院生時代にお世話になった研究者(教育学専攻)にも、その場で会うことができました。おまけに、知り合いの新聞記者の方にも声かけられました。

大阪市内・大阪府内どころか、北海道から九州あたりまで(沖縄の方がいたかどうかはわからないのですが)、全国各地から大阪維新の会の出した「教育基本条例」や、6月の「君が代」条例のことで人が集まってくるというのは、この問題への注目度を示しています。「これは単に大阪だけの問題ではなくて、ここでこの条例を許してしまったら、日本全国へよくない波及効果が起きる」という危機感が、参加者のみなさんに共有されているように思います。

前にもこのブログで書いたかと思いますが、「教育基本条例」の案のなかには、この間、文科省や中教審などから教育改革の提案として出された文書のなかで使われている言葉が、いろんな部分にちりばめられているように思います。ということは、この「教育基本条例」を貫く教育観、教育理念や思想的なものは、今の国レベルでの教育政策の何かと通じ合っている面があるのではないか、と考えられるわけです。だからこそ、集会参加者のみなさんが抱いた危機感は、私にもよくわかります。

と同時に、この「教育基本条例」案成立に本腰入れて抵抗するためには、ただ単に大阪維新の会や橋下大阪府知事の動きだけを問題視するのではなくて、その奥に貫かれている教育観、教育理念や思想的なものとの対峙、これが必要ではないか、ということです。このことは昨日、久しぶりに出会った人たちも、言い方はそれぞれに違うものの、共通してそういってました。私もこのことに同感です。

また、そういう今の政策を貫く教育観、教育理念や思想との対峙ができないような教育関連の運動(ここには教職員組合の取り組みも含む)、子どもの人権関連の運動では、今後、状況の中でつぶれていくだろう、とすら思います。

とりわけ、「条例ができたとしても、教育委員会と交渉してうまくやる」とか、「条例成立後になにか、自分たちのやってきたことをうまくもぐりこませて」みたいな、そういう発想で運動の幹部が動くとしたら、「それって論外だろ」というしかありません。

なにしろこの「教育基本条例案」、成立してしまえば、学校、特に大阪府立高校の底が抜けてしまう。いわば「学校のメルトダウン」が起きる条例ではないかと思うのです。

たとえば、府立高校の有名進学校であれそうでない学校であれ、あるいは、重点的にさまざまなコースを整備した学校であれ、毎年、20人にひとりの教員が機械的に勤務評定を「D」と判定されていく。また、2年つづけて「D」であれば研修センターに送られ、そこで「改善の余地なし」と判断されれば分限免職・・・・。この調子でいけば、学校現場から確実に教員が減っていきます。

あるいは、府知事が設定した教育目標や府教委の教育指針、あるいは定量化した目標などが達成できない校長・副校長も、任期付採用ですから、当然、切られていくことになります。その姿は、成績不振で解任されるプロ野球の監督のようです。

そして府立高校。ここは入学定員が3年連続で下回ったら、統廃合ですよね。

「この条例案、府立高校をつぶし、教職員をリストラしたいのがホンネじゃないのか? これを『学校の底が抜ける』とか、『学校のメルトダウンを起こしたいのか?』といわずして、何をいうのか?」

私としては、そのように言いたくなってしまいます。

ちなみに、このブログでの条例案の説明で、まだ残っている部分が2つあります。第8章「学校の運営」と、第9章「最高規範性」です。

第9章「最高規範性」ですが、48条では、この条例を「府の教育に関する最高規範」といいます。こんな規定があること自体で、もうすでに、この条例が違憲・違法といわざるを得ないわけですよね。おそらくほかに批判的意見を書いておられる方のブログやホームページを見ていただいても、このことは指摘されているかと思うのですが。そもそも条例というのは、日本国憲法やその他の国の法令の範囲内で、その自治体のみに適用されるルールをつくるもの。その大阪府の条例が「府の教育の最高規範」となれば、これ、大阪府では教育に関して、憲法も教育基本法も通用しないことになります。内容以前に、そんな話が法的にみたら通る話でないことは、明白です。

それから第8章の45条「校長による学校運営」、校長に学校運営に関する最終的な意思決定と責任を負わせるそうです。校長に無理難題を「教育目標」としてふっかけておきながら、ふっかけておいた府知事や府教委の責任は問われない。そんな環境で校長になりたい人は出るのでしょうか? 校長になりたい人がでなければ、この条例案がたとえ成立しても、学校は成り立ちませんよね。

46条のクラブ活動の環境整備にしても同様。保護者の参加・協力だとか、校長に責任を負わせるまえに、そもそも府教委として子どもたちの学校のクラブ活動(部活動)に対して、どのような条件整備を行うのか。その議論があってしかるべきはずです。しかし、そこが全くない。「あれもやれ、これもやれ」と校長にすべてを押し付けておいて、責任も負わせて、府知事や府教委は校長へのバックアップを何もしない。これがこの条例案の特徴です。

そして第47条。「児童生徒に対する懲戒」」ですが、「教育上必要あるとき」に校長以下の教職員に「必要最小限の有形力」の行使による懲戒を認める条文になっています。これは子どもの人権論の観点から言えば、大きな問題です。「必要最小限の有形力」という言い方にはしていますが、要は「学校で言うことを聴かなければ、これから力づくで言うこと聴かせるぞ」というものです。ここに、この条例案が子どもに対してもつ暴力性が象徴的に表れていると思うのは、私だけでしょうか。

ちなみに、このような条例案47条が登場してくる背景には、この間の文科省の「規範意識の確立重視」の生徒指導施策や、これに沿った形での「体罰」問題の判例の蓄積があります。おそらくこうしたものを参照しながら、条例案47条2項でいう府教委の「運用上の基準が定められるのでしょう。

しかし、国連子どもの権利委員会の2010年の総括所見(勧告)でも、「学校における体罰が明示的に禁じられていることには留意しつつ、委員会は、その禁止規定が効果的に実施されていないという報告があることに圏点を表明する。委員会は、すべての体罰を禁ずることを差し控えた東京高等裁判所の曖昧な判決(1981年)に、懸念とともに留意する」と指摘されています。つまり、こんな条例47条のような条文、子どもの人権論の観点から言えば、「そもそも、つくってはならない」わけです。

と同時に、この条例案をつくった人のアタマのなかでは、本気で第3条でいう子どもの「教育を受ける権利」の保障など、大事だと思われてはいない。たとえば学校で教員に「体罰」にはあたらない程度の「有形力の行使」をされて、それが屈辱的で翌日から不登校になってしまうというような、そんな子どものことはまるで想定されていないわけですから。そもそも、教員による過剰な叱責、指導の結果、自ら命をたつ「指導死」と呼ばれるケースのあること自体、この条例案の作成者には理解できていないのでしょう。

http://www.pref.osaka.jp/kosodateshien/kodomojorei/index.html

それこそ、大阪府には「子ども条例」があります。その第3条、4条、6条の条文、以下のとり紹介します。この条例に即していうならば、「教育基本条例案」47条など、論外です。

(基本理念)
第三条 子どもの尊厳を守り、健やかな成長を支えるに当たっては、すべての子どもが人としての尊厳を有し、かけがえのない存在として尊重されなければならないことを十分認識し、行動しなければならない。
2 子どもの尊厳を守り、健やかな成長を支えるに当たっては、子どもが社会における様々な活動に参加する中で、健やかに成長することを認識し、子どもに対する参加の機会の提供に努めなければならない。
(府の責務)
第四条 府は、前条に定める基本理念(以下「基本理念」という。)にのっとり、子ども施策を策定し、国、市町村、保護者、学校等、事業者及び府民と協力して、これを実施する責務を有する。
2 府は、子ども施策の実施に当たっては、市町村との連絡調整を緊密に行うものとする。
(学校等の責務)
第六条 学校等の設置者及び管理者は、基本理念にのっとり、子どもの安全を確保するよう努めるとともに、一人ひとりの子どもが人間性を豊かにし、多様な能力を磨いていくことができるよう努めなければならない。
これに照らして、「教育基本条例案」がほんとうにこれでいいのかどうか、ぜひ、大阪府議会のみなさんは検討していただきたい。すでにこのような子ども条例があるのに、なぜこんな基本条例案をつくるのか、といたいです。


教育基本条例のこと(8) ~これは教職員首切りのための条例では?~

2011-09-24 09:42:56 | ニュース

いよいよ大阪府議会・大阪市議会に、大阪維新の会は教育基本条例案を出してきました。まぁ前回も書いたように、出す前にいろいろと批判を受けて多少の修正はしたようですが、基本的な性格は何もかわっていません。ちなみに、大阪市議会及び大阪府議会に出した条例案は、以下のページで見ることができます。また、先日も書いたとおり、今後、このブログでは、新しい条例案に即してコメントをしたいと思います。

http://www7a.biglobe.ne.jp/~hotline-osk/

それから、もともとは6月の「君が代」条例への反対という趣旨での集会だったのですが、上記のページにあるとおり、今日は午後から大東市で大きな集会が開かれます。ここでも維新の会の教育基本条例案に反対する意思表明などが行われるかと思います。私も行ってみようと思っています。

さて、この教育基本条例案の第5章「教員の人事」、第6章「懲戒・分限処分に関する運用」、第7章「学校制度の運用」を読みました。この3つの章に書いてあることが、この条例案を作った人のもっともやりたかったこと。私はそのように理解しました。

なにしろ、この教育基本条例案、あれだけ第2条や第3条で基本理念を高々とうたっていながら(もちろん、そのすべてに私が賛同しているわけではない、むしろ逆です)。いちばん詳しく中身を書いているのは、この部分ですからね。

ということは、この条例案の本質は何か、それは「教職員の首切り、リストラのための条例」である、ということです。

たとえば、第5章第2節「人事評価」で、校長が学校協議会の側の評価も聞きながら、所属校の教職員の勤務状況について5段階(S、A~D)の評価を行うと決めています。しかも、毎年Dを5パーセント出すということ、府教委はその評価を給与やボーナスに反映させるということ。そして、2年連続でD評価の教員については、29条の分限処分前の校長の指導、31条の指導力不足教員の研修などを行うこと。そして、それでも改善が見られない場合は、人事観察委員会の審査に付して分限処分(つまり免職等)を行うということになっています。

なるほど、一応は教職員側の立場を考慮して、校長の指導や指導力不足と認めた後の研修の機会の設定などは行っていますが、要は「2年連続でDになるような教員は、最終的にはリストラにします」ということ。しかも、毎年5パーセントずつD判定をするわけですから、確実に何人かはこの校長の指導から指導力不足教員の研修、そして分限処分(免職等)という流れに乗りますよね。

あるいは、28条の「別表第6に掲げる教員」のなかに、「協調性に欠け、上司や他の教員等ともめごとを繰り返す教員等」という項目があります。これ、上司や他の教員のほうが理不尽なこと(いわゆる「パワハラ」)を繰り返すので、それに抵抗している場合はどうなるんでしょうか? いまの条例案でいくと、やっぱりこの場合も、上記のように校長の指導、指導力不足教員の研修などを行って、そのうえで改善が見られなければ分限処分(免職等)ということになります。要するに、「上司の言うこと聴かない教員は、研修センター送りにして、そのうえで処分だ!」と言っているのに等しい条例、ということですね。

さらに、第6章第3節「職務命令違反に対する処分の手続」を読むと、この条例の性格はよりはっきりします。一応ここの36条で職員側からの不服申し立ての手続きは定めているものの、37条で職務命令違反の教員への処分は1度目が戒告・減給、「過去に職務命令違反をした教員等」には停職及び氏名・所属等の公表、指導研修の実施が定められています。そして、指導研修をしてもなお繰り返し同様の職務命令違反が行われている場合、38条で免職とすることが定められています。これは、要するに、生徒指導などでいう「スリー・ストライク・アウト」の方法を教職員にも使うということ。つまり、今後は職務命令違反に対しては寛容度ゼロ(ゼロトレランス)でいく、ということですね。しかも、校長と府教委には第42条で、第6章1節~3節の処分を行うために適切、迅速な対応を求めています。

しかし、どういう中身で、職務命令を出しているのか、上司の側の問題は、ここでは問われないのでしょうか? 法令違反の疑いがあったり、あるいは仕事をすすめる上での適切さに欠けていたり、さらにはマナー、品位に欠ける上司の側の指示・命令に対しては、部下たる教職員の側から抗議・反対の意思表明があってしかるべき。上司の命令に従わない教職員の側にも、それなりの一理があるとは、どうして考えられないのでしょうかね? これだと、上司による「パワハラ」を「職務命令」と安直に認めてしまう危険性すらあります。

そして、第6章第4節「組織改廃に基づく分限処分の手続」ですが、一応学校統廃合などで教員定数の削減、過員などが生じた場合は、「配置転換」などの努力をすると39条には書いています。また、第40条では府立学校を学校法人化する(=私立学校にする)場合、その新設の学校に移ることになった教員は一応「分限免職」という扱いにすると書いています。

ですが、この39条では、「整理退職」「定年前希望退職」のことが出ています。また、第7章「学校制度の運用」では、第43条で府立高校の学区制の廃止、第44条では3年連続で入学定員を下回って改善の見込みのない府立高校の「統廃合」にも触れています。そして、40条では「学校法人化」つまり「私立学校」にする可能性も示唆していますよね。

これらをあわせて読めばわかりますが、この条例案、学区制の廃止と府内全域での公立高校の学校選択制の実施(さらには、私立学校との競争)によって、志望者のあつまらない府立高校を統廃合して、余った教職員を「整理退職」等の手続きに持ち込む。つまり、「府立高校のリストラのための条例」「府立高校教職員の首切りのための条例」というのが、この条例案の本質だということです。「競争原理による学校改革」の最たるもの、といえばそれまででしょうか。

当然ですが、大阪の府立高校及び府内の私立高校がこのような状態に置かれることは、その下の段階にある中学校、さらには小学校の教育にもさまざまな影響が及びます。特に中学校教育には、大阪府内の公立・私立の高校がこのような競争原理に基づく教育改革にさらされることで、「どの学校にどのような形で入るのか?」をめぐって、学校内にいろんな混乱がもたらされます。

もっと露骨なことを言えば、今まで地元の就学前(保育所・幼稚園)段階から小学校・中学校、そして地元の公立高校へという流れで組み立ててきた、大阪の人権教育のさまざまな取り組み。これが全部、この教育基本条例案が可決・成立してしまえば、高校段階からぶちこわしにされ、ぐちゃぐちゃになりかねない、ということです。「○○校区の実践が~」とか「地元校で~」とか、「学校と家庭・地域とが連携して~」とか言ってきた大阪の「解放教育の伝統」など、この条例がもしも可決・成立したら「風前のともしび」ではないのでしょうか。

ことここに及んでもなお、大阪の人権教育の関係者、「解放教育」にこだわってきた人々は、教育基本条例案に反対の意思表明をしないのでしょうか。現場レベルの教員や、教組の関係者のなかには、かなり憤っている人もいるようですが、研究者や地元の運動関係者はどうなのでしょうか? この条例への反対の意思表明、今ならまだ遅くないと思うのですが・・・・。言うべき時に言うべきことを言っておかないと、あとあと、後悔しても取り返しのつかないことになると思うのですが・・・・。

もしかして、これだけ大阪の教育が大揺れに揺れているし、学校現場の教員は戦々恐々としているのに、この条例案すら読んだことのない人権教育の研究者だとか、地元の運動体関係者とかがいるのでしょうか? だとしたら、「もう、そんな人、どうしょうもないな・・・・」というしかありません。


教育基本条例のこと(7) ~知らない間に条例素案、修正されていた~

2011-09-21 17:38:35 | ニュース

http://osakanet.web.fc2.com/jourei.pdf

http://osakanet.web.fc2.com/kyoikujorei.html

いまさっき、上のふたつのページをネットで見ていて、びっくりしました。私が大阪維新の会がつくった教育基本条例の素案を、このブログでちまちまと検討している間に、条例素案そのものが修正されています。その修正後の新しい条例素案が上のページに出ていますので、確認をしてください。

もう「なんじゃそりゃ!」というしかないような手法なのですが、ただ、条例素案の基本的な骨組みはあまりかわっていないようです。ちなみに、今までこのブログで取り扱ってきた範囲でいうと、地域住民が主体的に学校運営に参加することを求めた旧11条が削除されています。また、第3条にあった誤字らしき部分も「自立支援」に直されています。

あと、ツイッターで知り合った社会教育・生涯学習の研究者の方から、この条例素案を読んで「これは教育基本条例じゃない。学校基本条例だ」というコメントをいただきました。そのとおりです。この条例素案のどこ見ても、社会教育・生涯学習についての記述がありません。これには社会教育・生涯学習関係のみなさん、もっと怒っていいんじゃないでしょうか?

ただ、この数年の大阪市内や大阪府内の動きを見ていればわかるように、教育委員会の所管から博物館や美術館などを首長部局に移したり、青少年会館をつぶしたりと、まるで「社会教育・生涯学習など、これからの大阪の行政施策にはいらないのだ」というかのごとき「行財政改革(私から見たら改悪)」の流れが続いています。その流れの延長線上には、「教育委員会の仕事=学校運営の仕事」という実態が作られてくるでしょう。おそらく、この条例素案をつくった人々も、「今後の教育委員会の仕事は、学校運営だけやっていればいい」という認識に立っているのではないか。そのような意図を感じてしまいます。

もっとも、子ども施策や青少年施策の一元化ということで、教育委員会管轄の社会教育部門と、保育・児童福祉・青少年健全育成などの首長部局の各部門との再編・統合という道もあります。実際、大阪市には子ども青少年局があって、このような方向で部局の再編が行われています。

ですが、たとえ自治体内の部局が上記のように一元的に再編されたからといって、子ども・若者の学校外活動(教育・学習とまでは言わなくとも)や、これをサポートする保護者・地域住民の諸活動がなくなるわけではない。また、そのような学校外での子ども・若者・保護者・地域住民の諸活動を支援してく役割が行政サイドにはあるのではないかと考えられます。とすれば、やはりたとえ自治体内で子ども・若者施策に関する部局の統合があっても、何らかの形で従来、社会教育・生涯学習の領域で果たされてきた子ども・若者の活動支援の側面は、何らかの形で継続されてしかるべきでしょう。そして、同じことは成人の学習についてもいえるのではないかと思います。

ですから、この条例素案が社会教育・生涯学習の領域について何も触れていないというのは、やはり大きな問題ではないでしょうか。今日はまず、このことを指摘しておきます。

また、明日以降、新しい条例素案の9月12日バージョンに沿って、第5章・第6章あたりを見ていきたいと思います。

なお、今週末には大阪府の大東市において、かなり大きな規模で、この条例素案や6月の「君が代」条例などに反対する集会が予定されています。詳しくは下記のページでご確認ください。こちらにも、8月分と9月12日分、両方の条例素案が掲載されています。また、さまざまな条例素案などへの反対の動きも掲載されています。

http://www7a.biglobe.ne.jp/~hotline-osk/

今日のところはひとまず、このあたりでとどめておきます。


「子どもにやさしいまちづくり」に取り組む自治体

2011-09-20 05:31:46 | 受験・学校

今日は少し大阪維新の会の教育基本条例案の話から離れて、昨日、おとといと参加した「地方自治と子ども施策」全国自治体シンポジウム2011in泉南の話を書きます。といっても、そんなに長々とは書けないのですが。

このシンポジウム、今年で10回目だそうですが、日本各地で子どもの権利条例の制定や、さまざまな新しい子ども施策に取り組む自治体が集まって開催されます。ちなみに第1回は、私はかつて仕事をしていた兵庫県川西市。子どもの人権オンブズパーソン条例のある自治体ですよね。

特に今年のシンポジウム、1日目の全体会では「東日本大震災後の社会と子ども支援」がテーマになりました。災害ボランティアコーディネーターの方、日本ユニセフ協会の岩手県の事務所の方、被災地で高校生のボランティア活動をサポートした兵庫県立舞子高校の教員、そして開催地・泉南市長の4人が、東北の被災地域での子ども支援の取り組みについて意見交換をしました。また、全大会に先だって、地元の子どもたちが戦時中の疎開をテーマにした劇を上演しました。この劇、なかなかすごかったです。

2日目の分科会ですが、「子ども条例の制定」「子どもの相談・救済」「子どもの居場所づくり」「子どもの参加とその支援」「次世代育成支援行動計画における乳幼児期支援」「子ども虐待への対応」「子どもの貧困・格差と自治体施策」の7つのテーマに分かれました。このうち「子どもの貧困」は、開催地のほうで検討して選んだテーマだそうです。

ちなみに、この「子どもの貧困」の分科会では、大阪府立西成高校の「反貧困学習」の取り組みや、大阪府教委の高校中退未然防止の取り組みなども紹介されています。また、「子ども虐待への対応」では豊中市・泉南市の取り組みや大阪府のスクールソーシャルワーカーからの報告、「次世代育成支援行動計画」の分科会では泉南市の公立幼稚園の子育て支援、高槻市の就労支援型預かり保育、堺市の待機児童対策などが報告されました。

このほか、「子ども条例」の分科会では箕面市の子ども条例の実施と、現在、泉南市が制定に向けて準備中という報告が行われています。また、「子どもの相談・救済」の分科会では、兵庫県宝塚市の相談・救済事業の報告、「居場所づくり」では堺市の冒険遊び場を運営するNPOの報告がありました。

私は第4分科会のコーディネーターが担当だったのですが、ここでは、たとえば学校の新しい校舎を建設するにあたって子どもの意見を聴くワークショップを開いた愛知県犬山市とか、子ども条例制定に向けて3年間、さまざまな形で子どもの意見を聴く場を設けた三重県子ども局からの報告がありました。また、今、条例制定も含めて子ども施策を検討しよう、その一環として子どもたちの意見を聴く場を設けようと準備中の長野県健康福祉部ですとか、すでに3年近く子ども会議を開き、市長への提言などをまとめた長野県茅野市からの報告もありました。そして午前中は、兵庫県立舞子高校環境防災科の高校生3人と教員による、東日本大震災での被災地ボランティア体験の報告でした。

いかがですか? 関西圏に限定してみても、各自治体ともに、現場レベルではいろんな子ども施策に取り組んでいますよね。「ほんとうの首長や議員の仕事は、コストカットや人員削減の話ばかりでなく、こうやってまじめに住民、特に子どもやその保護者に向けてさまざまな取り組みをしている自治体行政職員を、財源や条例制定などの面からバックアップしていくことではないのか?」とすら、私などは言いたくなってしまいます。

このシンポジウム、今年の全体テーマは<「子どもにやさしいまち」の実現>。このテーマは今、ユニセフなどが中心となって国際的に子どもの人権保障の観点から進められている取り組みですし、このシンポジウムに参加する自治体関係者や研究者、NPO関係者などの共通した課題でもあります。「世の中にはこんな自治体もあるんだ」ということや、「子どもにやさしいまち」の実現に向けて本気で取り組んでいる自治体職員・首長・議員・研究者・NPO・市民もいるんだということ。それを知るだけでずいぶん、自分の暮らす自治体の在り方が少し違って見えてくるのではないか、と思います。

ちなみに、今回は開催地ということで、大阪の人権教育関係の方も、学校現場の教員や保育士、自治体職員(特に教育委員会)関係、教育NPOの方などが参加されました。ですが人権教育関係の研究者は・・・・。「教育」と直接名前はついているわけではないのですが、どれも「子どもの人権」の保障という観点や「子どもが育つ・学ぶ環境の整備」という観点から見たら、重要なテーマばかりだと思うのですが・・・・。今後は積極的に、大阪の人権教育の関係者(特に研究者)に声をかけていく必要がありそうです。


教育基本条例のこと(6) ~「人斬り芝居」はもう見飽きた~

2011-09-18 07:57:18 | ニュース

昨日もまたツイッターを一日見ていたのですが、夜に橋下府政を「ハシズム」と名付けて、それをいろんな観点から「斬る」イベントが行われていた様子。16日の府教委が教育基本条例案に対して反対意見を出したことに続き、こうやって徐々に橋下府政や大阪維新の会の動きに対して、批判的な動きが表にでてくることは、とっても大事なことだとは思います。

ただし、注意すべきことがあります。昨日もツイッターでつぶやいたのですが、橋下知事の政治手法の最大の特徴は「劇場型政治が得意」ということ。すなわち、テレビの時代劇か何かと同じように、誰か「敵」をしたてあげて、自分がその「敵」をバッサリと斬る。そういうストーリー、物語をつくって、人々の感情に訴えかけて支持を拡大していくわけです。要するに「自分が常に主役になれる人斬り芝居の物語」をつくるのが、橋下知事の政治手法、彼の得意技だということです。私としては、まずは、そういう彼の政治手法そのものへの「ノー」をつきつけること。それが今は大事なのではないか、という思いがあります。

なにしろ、彼は「子どもが笑う大阪」をキャッチフレーズにして当選した知事です。彼の「人斬り芝居」を見たいと思って、みんな投票したんですかね? もしも彼がこんな「人斬り芝居」みたいなことばかり続けているとしたら、それは投票した人たちへの裏切りではないのか、と思ったりもします。

ですから、今必要なのは、そういう「彼が常に主役になれる人斬り芝居の物語など、もう見たくない。そんなつまらないテレビの芝居を延々続けるなら、もうスイッチ切ってしまおう」という姿勢、態度を、私たち一人ひとりが示すことではないか、と思います。そして、これから先は「人斬り芝居」ではない、「大阪の人情の芝居」を見せてほしい、そういうメッセージをいろんな場から発することだと思います。

で、今日の本題に入ります。引き続き、大阪維新の会の教育基本条例案の中身の検討です。この中身も、実は彼や大阪維新の会の「人斬り芝居」の物語で彩られたもののように思えてきました。

また、今日は特に、この教育基本条例案の第3章・第4章(13~18条)についてのコメントです。条例案そのものについては、いつものとおり、下記のページを参照しています。

http://osakanet.web.fc2.com/kyoikujorei.html

まず13条は知事の定めた教育目標の達成に向けて努力をしないとか、この条例第6章に基づく懲戒処分等の手続きをとらない府の教育委員の罷免権を知事が持つこと。14条は同様に、知事の定めた教育目標達成の努力や適切な人事・監督権限を行使しない府教委に対して、府議会が「報告権」をもって監視、チェックできるようにすることを定めたもの。要は「府知事と府議会の意向に逆らうような府教委は認めない」という体制を整えるための条文です。

続く第15条~第18条の各条文は、要するに「府立高校の校長は、これからプロ野球の監督のように任期付で採用し、成果があがらなければクビにできるようにする」ということを定めたものです。まさに「人斬り芝居の物語」のための条例ですね。

しかも、プロ野球の監督ならまだ選手時代の実績とか、他球団などでのコーチとしての経験、野球解説者などの仕事をしているときの理論的な勉強への評価とか、いろんな意味で「野球」に関する仕事ぶりが評価されます。

ですが、この条例案によると、府立高校の校長は「外部有識者の面接」で、「マネジメント能力」を中心に評価するとか。これもまたプロ野球に例えていうならば、「経営手腕が優れているから」といって、いままでプロ野球以外の仕事、民間企業の管理職などをやってきた人が、ある日突然「外部有識者」の推薦などでチームの監督になるわけですね。こう考えただけで、「こんなんで学校現場、うまくまわると思ってるの? 学校現場をなめてるのか!」と怒りたくなる人、多いのではないでしょうか。

また、時間かけて現場にとけこんでいけばまだ外部人材が校長になってうまくいくケースも出るのかもしれませんが、この校長、府教委が知事に言われ、議会に監視されながら設定した教育目標の達成、これを主な仕事として外から送り込まれるわけですよね。そういう校長に対して、その現場にいる教員がすんなりと言うことを聴くとは思えません。だから職務命令を連発することになるのでしょうし、あるいは、校長が人事評価をテコにして教員を動かそうとすることになるのでしょう。「府知事と府議会が府教委を脅かして、府教委が校長を脅かして、校長が教職員を脅かして・・・・」という、目標設定や評価、人事権で「脅かす」ことによって学校・教育を動かそうという、そういう意図が見える条例案です。

で、私は思うのですが、外部から校長になろうという人にせよ、そういう校長の下で働く教職員にせよ、「こんな学校に居たいと思うか?」ということです。おそらく、先日の府教育委員の教育基本条例案に対する反対意見は、そういう教育関係者の直観的なものからくる反対なのだろう、という風に思います。

ですが、次の文章を読んでください。色を変えて表記します。

◎学校や教育委員会に組織マネジメントの発想を取り入れる
 学校運営を改善するためには、現行体制のまま校長の権限を強くしても大きな効果は期待できない。学校に組織マネジメントの発想を導入し、校長が独自性とリーダーシップを発揮できるようにする。組織マネジメントの発想が必要なのは、学校だけでなく、教育行政機関も同様である。行政全体として、情報を開示し、組織マネジメントの発想を持つべきである。また、教育行政機関は、多様化した社会が求める学校の実現に向けた適切な支援を提供する体制をとらなくてはならない。

提言

(1)予算使途、人事、学級編成などについての校長の裁量権を拡大し、校長を補佐するための教頭複数制を含む運営スタッフ体制を導入する。校長や教頭などの養成プログラムを創設する。若手校長を積極的に任命し、校長の任期を長期化する。
(2)質の高いスクールカウンセラーの配置を含めて、専門家に相談できる体制をとる。開かれた専門家のネットワークを用意し、必要に応じて色々な専門家に相談できるようにする。
(3)地域の教育に責任を負う教育委員会は刷新が必要である。教育長や教育委員には、高い識見と経営感覚、意欲と気概を持った適任者を登用する。教育委員の構成を定める制度上の措置をとり、親の参加や、年齢・性別などの多様性を担保する。教育委員会の会議は原則公開とし、情報開示を制度化する。

これは2000年12月の「教育改革国民会議」の最終報告書にある文書です。最終報告書自体は、次のところで見ることができます。

http://www.kantei.go.jp/jp/kyouiku/houkoku/1222report.html

また、次の文章を見てください。これも色を変えて表記します。

 学校が主体的に教育活動を行い、保護者や地域住民に直接説明責任を果たしていくためには、学校に権限を与え、自主的な学校運営を行えるようにすることが必要である。
 現状でも、校長の裁量で創意工夫を発揮した特色ある教育活動を実施することが可能であるが、人事面、予算面では不十分な面がある。
 権限がない状態で責任を果たすことは困難であり、特に教育委員会において、人事、学級編制、予算、教育内容等に関し学校・校長の裁量権限を拡大することが不可欠である。

  •  教職員の人事について校長の権限を拡大することが必要である。人事権を有する教育委員会において、例えば、教員の公募制やFA(フリー・エージェント)制などを更に推進することが求められる。
  • これは2005年10月の中教審答申「新しい時代の義務教育を創造する」のなかに出てくる言葉です。上記の引用部分は第Ⅱ部第3章に出てきます。ちなみに、この答申も下記で見ることができます。

    http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chukyo/chukyo0/toushin/05102601.htm

    この2つの文書を見ればわかりますが、若干のニュアンスや取り組む内容のちがいはあるといえ、学校に「組織マネジメント」の発想を導入し、校長権限を拡大したり、教員のFA制を導入するといった発想は、この十年近く、教育行政、特に中央省庁レベルでの教育行政関係者が常に「やろう」とうかがってきたことと重なるわけですね。だから、ツイッターなどを見てると、この教育基本条例案に対して「大阪は東京の実験台にされようとしている」というつぶやきをみかけるのですが、それはある程度「あたっている」ともいえるわけです。

    ですから、今はまず、この教育基本条例案の撤回に向けて、いろんなレベルで反対の声をあげていく必要はあるわけですが、と同時に、この条例案の裏側にある教育論やこれに基づく改革提案というのは、すでに日本の国全体の教育政策のなかに随所にちりばめられている、という認識も必要です。条例案の撤回から、この十数年の教育改革やその裏側にある教育論への批判へと展開していく必要がある。私はいま、このように考えています。

    今後もひきつづき、このような視点に立って、このブログで教育基本条例案への批判的なコメント、続けていきます。


    教育基本条例のこと(5)~教育委員が「反対」したけれど~

    2011-09-17 08:44:45 | ニュース

    http://www.asahi.com/kansai/sumai/news/OSK201109160035.html (維新の教育条例案に異論噴出、陰山委員「間違っている」:朝日新聞(関西)、2011年9月16日)

    http://osaka.yomiuri.co.jp/e-news/20110916-OYO1T00670.htm?from=main2 (陰山氏「教育委員辞めます」 維新条例案に反発:読売新聞(関西)、2011年9月16日)

    各新聞のネット配信記事によりますと、昨日の大阪府教委の会議で、大阪維新の会がつくっている教育基本条例案に対して、陰山英男氏ら教育委員から異論噴出、反対の声があがったそうです。で、これが府議会で通過したら辞めるとまで、陰山氏ら教育委員は言っているのだとか。

    まずは率直に、この時期に、教育委員のみなさんが「反対」という意思を表明したことは、私としては評価したいと思います。

    ただ、ツイッター上での陰山氏のつぶやきを見ていると、「この人はほんと、よくわからんな」と思うところがあります。

    たとえば今朝の陰山氏のつぶやきを見ていると、一方で「内容を知れば、そりゃ辞めるなと思うと思う」というようなことも言いますが、もう一方で、「私は橋下氏に期待しているし、このまま進むとも思ってない。粘り強く取り組む」ともいうんですよね。

    また、もう少し時期をさかのぼって8月末あたりの陰山氏のつぶやきを見ると、「昨日、知事と話をして条例についての思いを聞き、了解はした。選挙前の動き故、やはりコメントはできないが、知事の問題意識は社会全体で共有されていいと思う」とも言うんですよね(8月27日)。

    さらに、もっとさかのぼって、君が代条例問題が大きくマスコミなどで取り上げられていた頃、陰山氏はツイッターでこんなこともつぶやいています。

    「君が代条例問題、明日知事との懇談がある。ここまで自力で問題を解決できてない教育委員会と強硬な知事。時代を理解しない教師。どうこの無力感を克服するか」(6月6日)

    「君が代条例問題って、震災と内閣不信任案に似ている。本質的なあるいは全体的な課題ではない。だから、早く本論には入りたい。だが、目立つ問題なので、そこを避けては進めない。とにかく、早く決着させ、新しい指導要領問題に取り組まないといけない。だがメディアはこうした地道な課題に興味がない」(6月6日)

    これを読んでいけばわかるように、今年6月の時点では、陰山氏はいまの学習指導要領の推進、学力向上という課題さえやれるのであれば、君が代条例の問題なんて脇に置いてかまわない、と考えていたようですね。でも、そのこと自体、教育委員しての見識が問われると思うのですが。なにしろ、今の教育基本条例の話は、その君が代条例の問題の延長線上に出てきているものですから。

    また、君が代条例の前には、橋下知事が就任以来、市町村別の全国一斉学力テストの結果公開などの問題もあったし、「学力向上」をとにかく一番の目標に置いて、公立学校や教育委員会をゆさぶろうとしてきたわけです。そのうえで、その「学力向上」路線を推進する役割を担う教育委員として陰山氏などが引っ張りだされてきたわけですよね。ある意味、橋下府政の推進する「学力向上」路線の旗振り役として、期待されて、陰山氏は教育委員の役についたわけです。また、ほかの教育委員の方にも、橋下知事サイドにしてみれば、そういう期待があったのではないかと思われます。

    だから要は「知事や維新の会が学力向上というのなら、僕らをもっと信用して、任せてよ」という話で、この教育基本条例案に「反対」といってるのかな、ということですね。また、この陰山氏らの「反対」というのは、そもそもの橋下知事や維新の会サイドのすすめようという教育改革路線自体に反対というよりは、「こんなひどい条例案でなくて、もっと教員にソフトなやり口の条例であれば、賛成する」ということでしかないのか・・・・という風に、少なくとも私などは見えてしまいます。彼らの反対の論理をもう少し、ていねいに見極める必要がありそうです。

    なお、この教育基本条例案について、弁護士の大前治さんが反対の意見書を出しています。詳しくは下記でご確認ください。

    http://osakanet.web.fc2.com/kyoikujorei2.html

    また、このブログで引用・参照している教育基本条例案も、大前さんの下記のブログで読むことができます。

    http://osakanet.web.fc2.com/kyoikujorei.html

    ちなみにこの教育基本条例案の第2章(第5~12条、各教育関係者の役割分担)ですが、正直なところ首をかしげたくなるような内容ばかりですね。以下、私が気づいたことをまとめておきます。

    たとえば第5条ですが、第3項は市町村が基礎自治体として小中学校教育で主体的な役割を担うとか、第4項で府や府教委が小中学校教育における市町村・市町村教委の自主性を尊重すると書いていますが、「だったらこんな教育基本条例など出すな」という話です。それこそ、第7条2項は学力テストの結果の市町村別の情報公開です。第5条4項の趣旨に沿って、市町村・市町村教委が「そんなことしてくれるな」と言えば、第7条2項はどうなるんですかね?

    また、主体的に学校運営にかかわるよう第2項で地域住民や子どもの保護者に努力義務を課してますが、今でもいろんな場面で住民や保護者は学校に協力しています。また、どんな教育や学校運営への協力なのかによっては、むしろ「協力しないこと」のほうが意味ある場合もあります。それこそ、学校と地域社会と保護者が一体となって中学校の校則違反を取り締まるようなケースですが、その校則の中身に子どもの人権侵害の疑いがあるようなものが含まれていたら、それでも「協力する」ことがいいことなのでしょうか?

    それから第5条1項、第6条、第7条は、いずれも府知事が府教委を、府教委が市町村・市町村教委を「目標と情報公開による教育の管理」の下におき、そのことを通じて学校(府立学校及び市町村立の学校の両方)・教職員への管理・統制を強化していこうという意図がみえみえの条文です。いわばこの条例案は、「学力テスト」をテコにした学力向上策と、各学校のテストに対する達成目標の設定、その結果の情報公開。これをセットにして学校と教職員をコントロールしようとしているわけですね。

    ついでにいうと、こういう教育管理の手法は、すでに国のここ数年の教育政策のなかに埋め込まれて、部分的には実施されてきたものではないのでしょうか。

    次の第8条も、校長の裁量権が幅広くあるように見えますが、これは、第5条~7条までの規定にもとづいて、府知事・府教委によって設定された範囲内で、各学校の目標を定める。その各学校の目標達成を前提としての裁量権です。また、その各学校の達成すべき目標は「具体的」で「定量的」な目標とあります。となれば、たとえば学力テストの目標だとか、府立高校だと「現役での大学進学者○%」「卒業後の常勤職への就職者○%」というような目標が出てくるのではないでしょうか。これもまた、「目標による教育管理」ですよね。

    そして第9条の各条文と、第8条6項。上で書いたような府知事・府教委の設定する範囲内で定めた各学校の教育目標の達成のために、校長(代理としての副校長)が教員に職務命令をだし、教員はその目標達成のために校長の指示に服従し、努力・研鑽をする。そんな関係を学校のなかにつくろうとしているわけですね、この教育基本条例案。おまけに第47条では、「いかなる会議、場所においても」校長の職務命令に反する意思決定をしてはいけないと書いています。

    要するに「上から降りてくる教育目標の達成にさえ努力してればいいのだ、現場の教員は。いちいち、上に対して文句を言うな」という条例案ですね。そこには、上が設定した教育目標がまちがっているという危険性は全く想定されてないし、上からの命令が子どもに合わない、無理があるなどの問題点を、下からの声をすくいあげて修正しようなどという意図は見られない。 そういう条例案なんですよね、これ。こんなので学校現場、うまくいくんですかね?

    ついでにいうと、第10条の1項・3項、第11条は、先ほど述べた学校の設定した教育目標達成のために「都合のいい家族、都合のいい地域住民」を作り出そう、それを動員しようという意図が見え見えの条文です。そこには、学校の設定した教育目標だとか、府知事・府教委サイドから降りてくる教育施策に誤りがあるから、それを是正してくれという保護者たち・地域住民たちの存在を排除しようという意図があるように思われます。

    それこそ、たとえば学校が「学力向上とそのための基本的生活習慣の確立」を大きな目標にしたら、自ら主体的に「早寝早起き朝ごはん」運動を担ってくれる保護者とか、学校で「学力向上」のための補習教室的な取り組みをするなら積極的に手伝ってくれる地域住民とか、そういう人たちを求めたい条文ですよね、これらは。だとしたら私、陰山氏ら大阪府の教育委員の面々が今まで言ってきたこと、やってきたことと、この教育基本条例案が目指すところ、さほどかわらないような気もしなくはありません。

    特に第10条2項は、学校事故・事件に関する被害者遺族支援の問題にかかわってきた我々としては、見過ごすことのできない条文です。このような条文があることによって、被害者遺族の側から学校への事故・事件の経過に関する調査の要求や、その調査結果の遺族への説明・開示などを求める動きなどが、場合によれば「社会通念上不当な態様で要求」されたことになり、締め出されかねない。

    逆に、こういうことを教育基本条例案で書く前に、保護者や地域住民が教育や学校のあり方について知りたいと思う情報を得る手続きや、苦情や異議を申し立てるため上での手続き的なルールを定めたほうがいいのではないのか、その方が先ではないのか。私としてはそう思います。

    第11条2項についても同様で、これなどは条例案がとおってしまったら、大阪府内の各地区で人権教育や子どもの人権について運動をすすめてきた人々、注意しないといけない。今後、周辺住民の立場から学校に対していろんな改善の意見・要望などを出してきた人々は、気を付けて意見や要望などを出していかないと、場合によれば「社会通念上不当な態様」での要求とみなされかねない。「うちの地区は学校との関係がうまくいってるから大丈夫」なんて言ってると、人事異動で校長以下の教職員を総入れ替えして、「あれは不当な態様での要求だ」なんて言って、締め出されかねませんからね。 (しかしそんな危機感、大阪の人権教育の関係者にあるのだろうか? もっというと、人権教育系の研究者や運動団体の人は、この教育基本条例案、読んでいるのだろうか?)

    そして、この第12条です。これ、一見、保護者や地域住民の学校運営参加を推進しているように見えますが、要は「地域住民や保護者などの力で、学校の校長・教職員が教育目標の達成に向けて努力させるかどうか監視すること」がねらいのしくみです。あるいは、ここに「クラブ活動等」と書いていますが、「地域住民や保護者をクラブ活動等に動員する」ことによって、「教員をさらに学校の定める教育目標達成のための授業に専念させる」のがねらい、のしくみですね。教員のなかにはクラブ活動等の指導の負担を軽減してくれ、地域スポーツクラブなどにゆだねることができるようにしてくれ、という声があるようですが、その声をうまくすくいあげたかっこうにしながら、実は「目標による教育管理」の枠に教員をますます閉じ込めていく。そういう効果を狙っているような気がします。

    以上、長々と書きましたが、この条例案については、こんなことがいえるでしょう。

    要はこの条例案、学力向上や進学率・就職率上昇など、府知事・府教委が定めた教育目標達成のために動く校長をつくり、その校長に常に服従して動く教職員をつくり、その校長や学校を地域社会の側から常に監視する住民・保護者、その学校に常に協力的に動く住民・保護者をつくるためのもの。

    大阪で人権教育や子どもの人権関連の活動に取り組んできた人たち、研究者たちは、こんな条例案を望んできたんでしょうかね? また、人権教育の関係者のなかにも「学力向上」を中心に活動してきた人がいますが、その人たちに「こういう方法での学力向上を望んでいるの?」と問うてみたい気もします。


    もっとみんな怒っていいはず

    2011-09-16 00:01:00 | ニュース

    今回はためしに、ブログの日時指定公開機能を使って書いてみます。いまは9月15日(木)の夜11時過ぎですが、16日(金)になってから公開するように設定しておきます。

    さて、今回も大阪維新の会の教育基本条例素案のことですが、少し話を脇道にそらせます。まずは、下記の読売新聞のネット配信記事を見てください。

    http://osaka.yomiuri.co.jp/e-news/20110915-OYO1T00703.htm?from=main3 (大阪維新の会2条例 16日に公開バトル:読売新聞(関西)ネット配信記事、2011年9月15日)

    この記事によると、どうやら16日に大阪維新の会と大阪府教委、大阪府庁の職員側との意見交換が行われるようです。また、府教委・府庁側は維新の会の条例素案に対して、いろんな反論や法的な問題点(違法性を含む)を指摘する準備をしているようです。

    私としては、「徹底的に府教委・府庁サイドは、言えるだけの意見を言えばいい」と思います。と同時に、関西のマスメディアは、その討論の様子を正確に、客観的に伝えてほしい。私の予想では、関西のマスメディアは、たとえば「こんな風に反論する連中がいるから、行政改革が進まないのだ」みたいなそんな橋下府知事のコメントをつけて、維新の会側に寄り添った記事を書きそうな、あるいはニュース番組をつくりそうな気がするので。

    と同時に、大阪府内・市内の人権教育の関係者は、もっともっと、この条例素案を作っている人々に対して、怒っていいはず。批判や注文のひとつやふたつ、どんどん言っていいはず。なぜ今のところ沈黙を守っているのか、私には不思議です。なにしろこの条例素案、ひとつまちがったら、今まで大阪府内や市内の公立学校で蓄積してきた人権教育の実践、これがぐちゃぐちゃにされてしまいかねない代物なんですからね。なぜ反論しないのか? なぜ批判しないのか? 私には理解に苦しみます。

    そして、この記事を読んで、「やりかたが姑息だ」と思いませんか? そもそもの教育基本条例素案自体、ある弁護士の方がどこかで入手してネット上で公開されなければ、私たち、原文にあたることすらできなかった。その上、この記事を見ると、どうやら維新の会内部で、でまわっている条例素案のあと、いろいろと修正を行っているようです(この次々に修正を重ねているという情報は、ツイッターでも入手しました)。

    大阪維新の会は、なぜその修正のプロセスを公開しないのでしょうか? なぜマスコミにこんな形で小出しするような形で様子をうかがっているのでしょうか? 自分たちの条例素案をオープンにする自信がないのなら、そもそもそんな案、来週に府議会などに出すこと自体、まちがっているんじゃないでしょうか? 

    こんな手法、こんな内容で教育基本条例素案を出してくることに対して、もっといろんな人たちが怒っていいと思いますし、批判・非難をしてよいと私は思います。

    なお、毎日新聞(関西)では次のとおり、この教育基本条例と職員基本条例の二つの素案に対して、識者のコメントがでています。参考にしてください。

    http://mainichi.jp/kansai/hashimoto/archive/news/2011/09/20110914ddf041010015000c.html

    http://mainichi.jp/kansai/hashimoto/archive/news/2011/09/20110915ddf041010009000c.html

    ひとまず、16日の記事として、15日のうちからですが、日時指定機能を使って投稿をしておきます。条例素案そのものへのコメントは、また後程あらためて行います。また、子どもの自殺防止のこと等、子どもの人権関連のことについても、適宜、更新を続けていきます。


    教育基本条例のこと(4) ~だったら撤回すればいいのに~

    2011-09-15 12:22:55 | ニュース

    http://osaka.yomiuri.co.jp/e-news/20110914-OYO1T00303.htm?from=newslist (維新内 2条例に異論…大阪府議団意見交換会:読売新聞(関西)ネット配信記事、2011年9月14日)

    昨日、ツイッターで、読売新聞が上記の記事を配信していることを知りました。正直なところ、大阪維新の会の一部議員が極秘でつくった案で、内部でも異論が多々あるような条例案など、「そもそも、今度の府議会に出さずに、まずは撤回してほしい」というしかありません。このままでは、議会関係者や行政関係者だけでなく、大阪府民を混乱させるだけです。

    「いったい、地域政党としてどういう運営をしているのか?」「事前の内部調整すらできない政党なのか?」と首をかしげてしまいますし、「大阪維新の会から出てくるほかの政策提案についても、もしかしたらこの程度のものなのではないか?」と言いたくなってしまいます。

    さて、今日は大阪維新の会の出した「教育基本条例素案」の第1~4条の部分(目的及び基本理念)のところについて、私の思うところを書きます。これ以降の部分については、また別途、機会をあらためて書くつもりです。なお、「条例素案」については、前にも書きましたが、次のページを参照しています。

    http://osakanet.web.fc2.com/kyoikujorei.html

    まず、細かいところですが、誤植と思われるところがいくつかあります。これは条例素案がそうだったのか、それともこのホームページへの転載の際に生じたのかわかりませんが。たとえば第1条の3行目の「保管」は「補完」でしょうし、第3条2項の「自律支援」は「自立支援」ではないかと思われます。

    次に、4つの条文について、全体を通して思ったことを書いておきます。

    私が率直にこれを読んで思ったのは、第1条の目的のところに「国の法令が定める教育目標を大阪府(以下「府」という。)において十分に達成するべく」とあるように、地方分権の時代と言われるわりには、<大阪維新の会の求める教育改革は、大阪という地域の人々の実情を反映させた独自の施策を打ち出すのではなくて、「国の教育政策をそのまま、大阪府内に反映させること」が狙いなのだ>ということです。先ほどの指摘した誤植の「保管」がほんとうに「補完」ならば、まさに大阪維新の会は、国の教育政策を「補完」するためにこの条例をつくることになります。

    また、第2条にある「基本理念」ですが、これ、そっくりそのまま、中央教育審議会(中教審)や文科省の各種文書か、現行の学習指導要領などに出てくるような文言ばかりです。

    たとえば「自由とともに規範意識を重んじる」という第2条(1)や、「個人の権利とともに義務を重んじる」という(2)の文言ですが、これ、中教審がかつて出した答申「幼児期からの心の教育の在り方について」(1998年)の内容と重なるんですよね。また、(5)なんて、改正後の教育基本法第2条5項の言い直しのような印象です。

    そして、(6)の部分、グローバルな社会での国際競争、これに迅速的確に対応する人材育成をしたいというのが条例の趣旨のようです。でも、それって、中教審答申「新しい時代の義務教育を創造する」(2005年)で、すでにこんな風に言われているんですよね。(以下、色を変えて表示します。)

    我が国が、変動の激しいこれからの時代において、今後とも国際的な競争力を持つ活力ある国家として、また、世界に貢献する品格ある文化国家として発展するためには、国民一人一人が、そのような国家・社会の形成者として、それぞれの分野で存分に活躍することのできる基盤を、義務教育を通じて培う必要がある。(中略)

    変革の時代であり、混迷の時代であり、また、国際競争の時代でもある今日、人材育成の基盤である義務教育の根幹は、これまでのどの時代よりも強靭なものであることが求められる。
     教育を巡る様々な課題を克服し、国家戦略として世界最高水準の義務教育の実現に取り組むことは、我々の社会全体に課せられた次世代への責任である。

    ※参照ホームページ

    http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chukyo/chukyo0/toushin/05102601/002.htm

    このような形で、第2条にある「基本理念」の文言のひとつひとつを、文科省や中教審の出してる文書、現行の学習指導要領の中身などと照らし合わせれば、「やっぱり、この条例素案、国の教育政策を補完するためのものなのだ」ということが見えてくるように思います。

    第3条については、あらためて言うまでもありません。1項の「等しく教育を受ける権利」については、日本国憲法にも改正後の教育基本法にも出てきます。ついでにいうなら、1項・2項ともに、どうせ条例で何か大阪府独自の施策を決めるなら、「大阪府の公立学校での教育は、インクルーシブ教育をすすめることを原則とする」とか、「障害のある子どもの地元学校への就学に関して、大阪府・府教委・各公立学校は最大限の支援を行う」ということくらい書いたらどうなのか、とすら言いたくなります。

    さらに、この条例素案のあとのほうに出てくる51条・52条の内容は、かなり子どもの人権論のこれまでの議論からするとあぶない。場合によれば、51条・52条の中身やそれにもとづく現場での対応が、3条の理念を裏切る危険性がある。そういうことを全く考慮していません。おそらく、ほかの条文に書いてあることを実際に現場実践や施策に移したときに生じることのなかには、3条の子どもの「教育を受ける権利」の保障をかえって損なうこともでてくるのではないか、という気すらします。

    そして第4条です。ここからすると、この条例が基本的に対象としているのは、大阪府内の公立学校のようです。でも、私立学校はどうするんですかね? 条例の対象外ですか? ということは、「こんな条例にもとづく教育は嫌いだ」という層は、「どうぞ私学へ行ってください」ということなのでしょうか?

    このような形で、前文と第1~4条までの間でも、いろいろと検討してみれば、ほんとうに問題の多い条例素案です。「この人たち、大阪府の教育の特色を出すのではなくて、国の教育政策の下請けみたいなことがやりたいのか?」と言いたくなるような、そんな条例素案です。

    大阪維新の会のなかで、この条例素案の中身に異論や疑問を持っている府会議員の方と、その支持者の方。どうぞ、この条例案を議会に出す前に撤回するよう、維新の会のなかでひとつ、大きく問題提起をしてください。また、その問題提起が受け入れられないなら、反対派の府会議員さんで新会派をつくって、できるだけ多くの仲間を連れて、維新の会を割って出てください。ぜひとも、よろしくお願いします。

    ※今日はここまでの文章にとどめます。今後も引き続きこの条例素案へのコメントを続けますが、明日以降は不定期更新になると思います。どうぞお許しください。


    今日のところはお知らせだけ。

    2011-09-14 23:56:16 | ニュース

    「地方自治と子ども施策」全国自治体シンポジウム2011

    http://www.city.sennan.osaka.jp/jinkenkyouiku/zenkokujititaisinnpoziumu2011.htm

    ひとまず、この件だけ、今日はお知らせしておきます。

    このシンポジウムは、子ども施策に熱心に取り組んでいる自治体、子どもの権利条例の制定などに取り組んでいる自治体の関係者、研究者などが集まって行われるシンポジウムです。

    今年は「子どもの貧困」や「東日本大震災」などをテーマにした分科会、学校現場などからの報告などもあるので、興味関心のある方はぜひ、ご参加ください。まだまだ申し込みを受け付けているようです。

    ちなみに、私は第4分科会「子どもの参加とその支援」のコーディネーターを担当することになっていますが、ここで東日本大震災関連の報告も1本、行われる予定です。

    それにしても・・・・。橋下知事や大阪府や大阪市の例の「維新の会」関連の人たちには、「世の中、こんな感じで子どもの権利条例の制定や子ども施策に熱心な自治体もあるんだぜ!」と言いたくなりますよね、このシンポジウムにかかわっていると。

    なお、大阪維新の会の教育基本条例素案の批判的な検討、文科省の子どもの自殺防止関連の話など、このブログで今まで書いてきた話は、また明日以降に続きを書きます。


    あれから半年、あれから5年、あれから10年。

    2011-09-11 08:09:37 | いま・むかし

    今日は9月11日です。今年3月11日の東日本大震災、東京電力福島第一原発(あえてこう書きます)の事故発生から、もう半年がたちました。それから、2001年9月11日のニューヨークでの飛行機を使ったテロ事件から、もう10年です。私がいまの大学に着任して間もないころ、超高層ビルに飛行機が突っ込む映像を、夫婦で夜のニュースなどで見た記憶があります。この2つの大きな出来事については、きっと今日、さまざまなテレビ番組などで取り上げられることでしょう。ですから、今ここではあえて、この2つのことには触れません。

    でも「あれから5年」と書いたことは、きっとこのブログを続けて見てくださっている方しか気づかないと思います。このブログをつくってもうすぐ5年、つまり、大阪市の青少年会館条例の廃止、市職員の引き上げ方針を当時の大阪市長が発表して以来、もう5年が過ぎようとしている、ということです。この方針の発表はたしか、2006年の8月末のことですからね。ちょうど、その年のゼミ合宿に行く日のことでした。

    それで、あれから5年たちましたが、このブログを見ているみなさんの間で、青少年会館を廃止してからのこの間、大阪市内の子どもや若者たちの様子、何かよくなったという実感はありますか? もう5年もたちますと、青少年会館がない状態のほうが「あたりまえ」みたいな子どもや若者がどんどん増えつつあるので、あまり「あったほうがよかった」という感覚が薄れてきているのかもしれません。だからこそ、今の市政改革のなかでできるだけハコものや職員を抱え込みたくないと思う人々は、「そのときはいろいろ反対があっても、つぶせるときにつぶしておけばいいのだ。そのうち、施設がない状態になじむから」と思って、5年前の方針決定を行ったのかもしれません。

    しかし、あれから5年が過ぎてみて、やっぱり各地区の子どもや若者たちの様子、その保護者たちの様子に何か「しんどさ」「しわよせ」が立ち現われているのであるならば、しつこく「あの方針決定はまちがっていたのではないか?」「すぐに代替案は出せないにせよ、このまま放置はできないと思うので、何らかの手立てを講じる必要があるのではないか?」と、誰かが地元から言い続ける必要があるのではないかとも思います。あるいは、廃止後ただ放置しているだけの施設の姿を「見るに忍びない」と思う人がいるのであれば、やはり地元の側から、「もったいないから、何かの形であそこを活用するべきではないか?」という必要もあると思います。

    あれから5年たった今、不十分な形であるとはいえ、青少年会館廃止後の各地区の様子、そこに暮らす子どもや若者、保護者や地元の人たちを見ていて思うのは、「あの青館条例廃止・市職員引き揚げという出来事を風化させてはいけない」ということと、「そういう政策決定を行った行政に対して、簡単に物わかりよくなってはいけない」ということ。この2点です。

    また、この2点をおさえたら次に出てくるのは、「粘り強く、しつこく、地道に地元で子どもや若者の活動を続けていくこと自体が、この5年前の決定に対する抗議の意思表示である」ということと、「そういう粘り強い、しつこい、地道な活動を続けていく中で、今までとは異なる子どもの人権や解放などの運動にかかわる人々の動き、底力が形成されてくるのではないか」ということです。そして、「運動のスタイル」も、こうした「粘り強い、しつこい、地道な活動」を継続する中で、おのずから変わってくるのではないか、と思います。

    これからも私としては、どこまでできるかはわかりませんが、何人かの仲間とともに、大阪市内の「かつて、青少年会館があったところ」で活動中の人たち、そこに暮らす子どもや若者、保護者や地元のみなさんの様子を、くりかえしくりかえし、確認していきたいと思います。それが私にとっての「粘り強い、しつこい、地道な活動」だと思いますので。

    ついでにいいますと、東京電力福島第一原発の事故以後の脱原発の動きやエネルギー政策の転換の動きにしても、東日本大震災の被災地域の復興にしても、学校事故・事件での事実究明と再発防止を求める動きにしても、そして子どもの権利条約の趣旨に沿った学校や児童福祉、地域社会の諸活動をつくっていく動きにしても、識字・日本語教室の充実を目指す動きにしても、そして、さまざまな差別をなくしたり人権のまちづくりをすすめていく動きにしても、今後はこの「粘り強い、しつこい、地道な活動」が求められるのではないのかな、と思います。

    そういう「粘り強い、しつこい、地道な活動」をやりぬく人々のアタマとこころとからだを育て、世代を越えてその活動を受け継ぐような関係を育てること。そのことこそ、人権教育や反差別・平和の教育の取り組みではないのかな、という風に私はこのごろ、思っています。

    いわゆる「学力」なんてものについても、起きてしまった事故や重大な過失を「なかったこと」にするための技として使うための力ではなくて、こうしたものを育てていく力につながっていくのでなければいけないのではないでしょうか。

    そして耳触りのいい心地よい言葉だとか、「元気のでるような言葉」「癒される言葉」だとか、そんなことを紡ぎだすための言葉の力ではなくて、たとえその中身が重くとも実態や現状を直視して、そこから自分たちが何をすべきかを考えていけるような言葉の力。今後はそんな言葉の力を大事にしていくようなアタマとこころとからだを育てていかなければ、原発事故や震災復興、学校事故・事件の防止、差別や人権の問題等々、あらゆる場面で私たちが行き詰っていくような気がしています。


    子どもの自殺防止策をめぐって(2)

    2011-09-10 11:06:50 | 受験・学校

    今日は大阪維新の会の教育基本条例(素案)の話ではなくて、子どもの自殺防止に関する話を久しぶりに書きます。この話も長くなりそうなので、時間の許す範囲でコメントを書いて、続きはまた別の機会にします。たぶん、不定期更新になりますが。

    さて、文部科学省の初等中等教育局長名で、各都道府県・指定都市教育長、各都道府県知事などに宛てて、今年6月、「児童生徒の自殺が起きたときの背景調査の在り方について(通知)」が出されました。この通知は、「平成22年度児童生徒の自殺予防に関する調査研究協力者会議」の「まとめ」などを受けて、今後、子どもの自殺や自殺が疑われる死亡事案が起きた時に、各学校や教育委員会が実施する「背景調査」の在り方について周知するものです。また、文科省としては、上記の調査研究協力者会議の報告やこの通知の内容を踏まえて、各都道府県・指定都市教育長などが域内の学校・教育委員会等に対して、「適切な背景調査がなされるよう」指導することも求めています。

    では、文科省としては、具体的に子どもの自殺やそれが疑われる死亡事案が発生した時に、学校や教育行政はどのような対応をするべきだと考えているのでしょうか。以下、この通知のうち「1 基本的な考え方」の部分を、色を変えて引用し、黒字でコメントしてておきます。

    (1)背景調査は、その後の自殺防止に資する観点から、万が一児童生徒の自殺又は自殺が疑われる死亡事案(以下「自殺等事案」という。)が起きたときに、学校又は教育委員会が主体的に行う必要があること。その際、当該死亡した児童生徒(以下「当該児童生徒」という。)が自殺に至るまでに起きた事実について調査するのみならず、できる限り、それらの事実の影響についての分析評価を行い、自殺防止のための課題について検討することが重要であること。

    これでわかるとおり、少なくとも文科省としては、2011年6月以降に起きた子どもの自殺等事案については学校・教育委員会が主体となって、その事実経過を調査し、自殺防止の課題について検討することが必要だと考えているわけです。ですから、各学校や教育委員会が今後、文科省の出したこの通知に沿ってどう動くのか。それぞれの子どもの自殺事案に即して、注意深く見守っていく必要があります。

    (2)自殺の要因は一つではなく、その多くは複数の要因からなる複雑な現象であることから、学校及び教育委員会は、背景調査において、当該児童生徒が置かれていた状況として、学校における出来事などの学校に関わる背景が主たる調査となるほか、病気などの個人的な背景や家庭にかかわる背景についても対象となり得ることを認識する必要があること。

    この文章、読みようによっては、学校や教育委員会が個人や家庭の背景を重視した調査を行って、そちらに子どもの自殺の要因を導き出すことを可能にしているとも読めます。また、少なくともこのように文科省が書いた以上は、学校や教育委員会の側が、家庭や個人の背景と同じくらい、自殺前に子どもが置かれていた学校の状況についてきちんと調査することが求められている、とも読むことができます。そこで今後、学校や教育委員会の行う調査が、学校の抱える諸課題に対する調査より個人や家庭の背景に関する調査を重視するものにならないよう、その動きを見守る必要があります。

    (3)学校、教育委員会又は学校若しくは教育委員会が設置する2(4)の調査委員会(以下「調査の実施主体」という。)は、背景調査に当たり、遺族が、当該児童生徒を最も身近に知り、また、背景調査について切実な心情を持つことを認識し、その要望・意見を十分に聴取するとともに、できる限りの配慮と説明を行う必要があること。また、在校生及びその保護者に対しても、調査の実施主体ができる限りの配慮と説明を行うことが重要であること。

    この(3)の文章は、遺族側にとってはきわめて重要です。もしも今後、子どもの自殺事案が起きたときに、その子どもの遺族に対して学校・教育委員会、あるいは調査委員会などが適切な説明・配慮を行うことや、あるいは要望・意見聴取の機会を設けることを怠っているとしたら、それは大きな問題になります。今回の文科省通知の内容で、遺族側にとって一番重要な点は、ここではないでしょうか?

    ちなみに、文科省側は子どもの自殺事案が起きたときに、外部の専門家などによる調査委員会の設置について、今回の通知で踏み込んだ案を出しています。この点については、次回以降のブログ更新の際にコメントしたいと思います(とはいえ、不定期更新になりそうですが)。

    (4)学校及び教育委員会は、調査委員会を設置して背景調査が行われる場合、調査委員会に積極的に協力することが重要であること。

    これは当然と言えばそうですが・・・・。

    (5)学校及び教育委員会は、児童生徒の自殺の防止に努めるのみならず、万が一自殺等事案が起きたときに備えて、平素から、事後の緊急の対応や背景調査を行うことができるよう取り組む必要があること。

    これも、当然と言えばそのとりです。ですが、文科省が言うことを本気で各地の学校・教育委員会がやろうとしたら、私などは最低でも①過去にさかのぼっての子どもの自殺事案の検証作業を、学校の教職員と外部の専門家、教育行政のスタッフで行うこと。②①の事案の検証については、子どもが死に至るまでの経過の検証とともに、これまでの事後対応(特に遺族への対応と事実関係の調査の在り方)についての検証も行うこと。③①②の作業のために必要な人的・物的・金銭的な裏付けを教育行政の条件整備として行うこと。この3つのことがないと、実際にはこの通知の趣旨のとおり動かないのではないかと思います。ですから、文科省が本気で各地の学校や教育行政について、子どもの自殺事案発生時に適切に対応できるような体制を持たせるような方向で動くのであれば、単に通知を出すだけでなく、上記③の部分にも力を入れてほしいと思います。

    今日のところはひとまず、この文科省通知に対するコメントは、いったんここで終えておきます。続きはまた別の機会に書きます。


    教育基本条例のこと(3)

    2011-09-09 06:50:42 | ニュース

    http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20110908-00000571-yom-pol

    昨日の新聞各紙の記事やネット配信の記事などを見ていると、大阪維新の会は経済産業省の現役官僚・古賀茂明氏に大阪府知事選挙への出馬を打診して、断られたようです。そのことは、上記の記事でもわかるところです。

    ちなみに、この記事がでたので、大急ぎで古賀氏の書いた『官僚の責任』(PHP新書)を読みました。これを読んだ率直な印象は、彼は大阪維新の会のブレーンにはなってもいいと思うかもしれないが(しかし、これも今の大阪維新の会では危うい)、彼自身は自分が府知事になって、大阪維新の会の支持のもと、改革をするような気はさらさらないだろう、ということ。

    彼としては「改革派官僚」として、強い基盤をもった政権の、そのなかでも特に強いリーダーシップを発揮する政治家のバックアップのもと、いろんなアイデアを出して「既得権」を持った諸勢力と対峙したい、そういう意欲はあるのでしょう。要するに「失敗したときに責任とってくれる上司と、それを支える強い政治的な勢力のもとで、仕事のできる賢い部下・できる部下でいたい」というのが彼の基本的な基本的なメンタリティのような気もするのです。

    その分、彼自身は首長など「上に立つ器ではない」と、自分自身のことを思っているようにも見えます。そして、私が受けた印象では、この本を読む限り、彼は自分が「つかえる上司」は選びたいという思いもあるようで、どうも「改革派」気取りのパフォーマンスが好きな政治家は嫌いなようです。そういうところまで彼のことを見極めて府知事選出馬を打診したのですかね、大阪維新の会は?

    それはさておき、本題の大阪維新の会が出した教育基本条例(素案)の話に戻ります。今日もまた前文の話にこだわりますが、一応、いったんここで前文の話は終わろうと思います。次回からはそれぞれの条文についての意見を書きます。

    まずは、この教育基本条例(素案)前文の第2段落について。色を変えて引用します。

    教育の政治的中立性や教育委員会の独立性という概念は、従来、教育行政に政治は一切関与できないかのように認識され、その結果、教員組織と教育行政は聖域扱いされがちであった。しかし、教育の政治的中立性とは、本来、教育基本法(平成18年法律第120号)第14条に規定されているとおり、「特定の政党を支持し、又はこれに反対するための政治教育」などを行ってはならないとの趣旨であって、教員組織と教育行政に政治が関与できない、すなわち住民が一切の手出しをできないということではない。

    これを読んで「あれ?」というのが私の率直な印象。なぜなら、教育の政治的中立性が問題になる場合、これまでは、2006年(平成18年)改正後の教育基本法の第16条1項のほうが問題になってきたように思うんですよね。具体的には、次のような条文です。

    教育は、不当な支配に服することなく、この法律及び他の法律の定めるところにより行われるべきものであり、教育行政は、国と地方公共団体との適切な役割分担及び相互の協力の下、公正かつ適正に行われなければならない。

    この「不当な支配」という言葉は改正前の教育基本法第10条のなかにもあって、ここをめぐって、文部省などの教育行政が学校現場に対して行うさまざまな取り組みが「不当な支配」にあたるのかどうか、いろんな場面で問われてきたわけです。その問われてきた諸場面のなかに、全国一斉学力テストの実施や学習指導要領、教科書検定、日の丸・君が代の問題などに関する教育裁判のケースがあります。また、最近では地方議員の教育に対する「介入」も、この「不当な支配」をめぐって問題になっています。このことは、改正後教育基本法第16条に関する『解説教育六法(2011年版)』(三省堂)の「判例」の部分を見ればわかります。

    とすれば、条例素案前文のこの部分、議会や首長の教育への「介入」について、改正後教育基本法の「不当な支配」の部分ではなくて、わざと「政治教育」の部分を出すことによって、「法的な論点をすりかえているのではないか?」という疑問がわいてきます。

    また、前回も書いたように、今でも首長が議会の同意を得て教育委員を任命するシステムですし、法令にもとづいて、各自治体の教育委員会関連の予算は議会で審議され、首長の権限のもとで執行されているはずです。とすれば、大阪維新の会の建前は「選挙で選ばれた首長と議会に民意が反映されている」ということですから、現行システムでも教育委員の任命や予算のチェックなどで、首長や議会の意向はいろいろと反映できる、ということになるはずです。(もちろん、「首長や議会の意向がいろいろと現行システムで反映できる」となっても、その「意向」の中身にさまざまな問題がある点も否めないわけですが。)

    そのうえで、次の第3段落に行きます。また色を変えてみます。

    地方教育行政の組織及び運営に関する法律(昭和31年法律第162号)では、第23条及び第24条において、教育委員会と地方公共団体の長の職権権限の分担を規定し、教育委員会に広範な職務権限を与えている一方、第25条においては、教育委員会及び地方公共団体の長は、事務の管理・執行にあたって、「条例」に基づかなければならない旨を定めている。すなわち、議会が条例制定を通じて、教育行政に関与し、民意を反映することは、禁じられているどころか、法律上も明らかに予定されているのである。

    ここについては、「だから、どうしたの?」というしかありません。地方議会が教育行政の事務管理・執行に際して条例制定ができるとしても、それは日本国憲法や教育基本法その他教育関連の法律の範囲内でしょう。とすれば、改正後の教育基本法において「不当な支配」として問題になるような条例の制定は認められない、ということになります。

    ちなみに、もしも議会で条例を作るとしても、地方教育行政の組織及び運営に関する法律(地教行法)の23条、24条、24条の2の範囲内でしか、条例は作れないはずです。なにしろ、ここで条例素案の前文が依拠する地教行法第25条は、次のように述べるからです。

    (事務処理の法令準拠) 教育委員会及び地方公共団体の長は、それぞれ前三条の事務を管理し、及び執行するに当たっては、法令、条例、地方公共団体の規則並びに地方公共団体の定める規則及び規程に基づかなければならない。

    もちろん、この地教行法23条・24条・24条の2の三つの条文の中身自体が、いろいろと解釈に幅のある条文になっています。たとえば教育委員会の職務権限を定めた23条のなかに、「五 学校の組織編制、教育課程、学習指導、生徒指導及び職業指導に関すること」という項目がありますが、これなどは「学校の指導の範囲」をどうとるかでいろいろと幅が出てきます。その点で、条例でどこまでのことを決めるかには、議論の余地は多々あるかと思います。

    そして、次の段落、4段落目の文章です。また色を変えて引用します。

    大阪府における現状は、府内学校の児童・生徒が十分に自己の人格を完成、実現されているとはいい難い状況にある。とりわけ加速する昨今のグローバル社会に十分対応できる人材育成を実現する教育には、時代の変化への敏感な認識が不可欠である。大阪府の教育は、常に世界の動向を注視しつつ、激化する国際競争に対応できるものでなければならない。教育行政の主体が過去の教育を引きずり、時宜にかなった教育内容を実現しないとなれば、国際競争から取りのこされるのは自明である。

    私としては、これを読んだときに、「この条例素案の作成者は、2008年版の学習指導要領など読んだことはないんだろうな」と思いました。今、手元に2008(平成20)年の『小学校学習指導要領解説・総則編』(文部科学省)があるのですが、その第1章「総説」の「1 改訂の経緯」には、次のような文章があります。

    21世紀は、新しい知識・情報・技術が政治・経済・文化をはじめ社会のあらゆる領域での活動の基盤として飛躍的に重要性を増す、いわゆる「知識基盤社会」の時代であると言われている。このような知識基盤社会化やグローバル化は、アイディアなど知識そのものや人材をめぐる国際競争を加速させる一方で、異なる文化や文明との共存や国際協力の必要性を増大させている。このような状況において、確かな学力、豊かな心、健やかな体の調和を重視する「生きる力」をはぐくむことが、ますます重要になっている。(p.1)

    これを読めばわかるとおり、今の学習指導要領はまさに、大阪府の教育基本条例素案の作成者が前文に書いているような危機意識に立ってつくられています。ということは、わざわざ条例をつくらなくても、この基本条例素案がやりたがっているようなことは、今後、各学校で行われていく、ということになります。もっといえば、この基本条例素案のとおりに大阪府の教育が動くということは、文科省のすすめたい教育をさらに加速的に進めていくという効果を発揮する、ということになるでしょうか。これって、大阪維新の会が大阪の教育の独自性を出すというより、「自ら進んで大阪から、文科省の進めたい教育の動きにあわせていく」という、そんな動きのようにも見えますよね。

    そして、前々回にも書きましたが、国連子どもの権利委員会は、日本の競争主義的な学校教育の在り方について、抜本的な見直しをするように総括所見(勧告)を出しています。ということは、大阪維新の会が教育基本条例を出して積極的に追従しようとしている文科省の教育政策自体、「ほんとうにいいのか?」と問われているわけですよね。

    このように考えていくと、私などはこの教育基本条例(素案)の前文のところで、なにかとひっかかって、先に読めなくなってしまいます。もうこの時点で「こんな条例、つくらないほうがいい」と思ってしまうわけですが・・・。

    ですが、この先の各条文についても、あえて「逐条解説」的な形で、私なりにコメントをしていくことにします。もちろん、いつもいうように、不定期更新になるかもしれませんが。


    教育基本条例のこと(2)

    2011-09-08 07:02:44 | 受験・学校

    2日前に「教育基本条例のこと(1)」を書いたところ、その内容を「いんくる~しぶ・は~つ」というブログで紹介していただいたようです(http://blog.goo.ne.jp/kiyoyo_2006)。その分、若干ではありますが、このブログへのアクセス者数が増えたような印象です。たいへんありがたいことです。この場をお借りして、ひとことお礼申し上げます。

    さて、今日も書いておきたいのは、大阪維新の会が出そうとしている教育基本条例(素案)のことです。前回に引き続き、「前文」のところで私がつまづいてしまったことを書きたいと思います。ちなみに前回は、この大阪維新の会が出そうとしている条例素案は、他自治体の「子どもの権利条例」とは理念的にまったくちがって、議会や首長の教育への「介入」を正当化したいという意図が露骨に出た条例素案だ、ということを書きました。今回はその教育への「介入」を正当化したい意図がほんとうにまっとうなものなのかどうか、そこを問題にしたいと思います。

    まず、この条例素案、前文の出だしで次のことを言います。

    <大阪府教育基本条例(素案)・前文>

    大阪府における教育行政は、選挙を通じて民意を代表する議会及び首長と、教育委員会及び同委員会の管理下におかれる学校組織(学校教職員を含む)が、法令に従ってともに役割を担い、協力し、補完し合うことによって初めて理想的に実現されうるものである。教育行政からあまりに政治が遠ざけられ、教育に民意が十分に反映されてこなかったという不均衡な役割分担を改善し、政治が適切に教育行政における役割を果たし、民の力が確実に教育行政に及ばなければならない。

    私などはもう、ここでひっかかってしまいます。というのも、現行の教育委員会制度のうち、教育委員は、「地方教育行政の組織及び運営に関する法律」(略称・地教行法)によって、「当該地方公共団体の長の被選挙権を有する者で、教育、学術及び文化(以下、単に「教育」という。)に関し識見を有するもののうちから、地方公共団体の長が、議会の同意を経て任命する」(地教行法第4条)と書いているからです。

    つまり、住民の選挙で選ばれた首長が、教育委員にしたいと考える人を候補に選んで、住民の選挙で選ばれた議会の同意を得て、教育委員を任命するわけです。したがって、もしも大阪維新の会がいうように、従来の教育委員会制度に民意が適切に反映されていないというのであれば、それは教育委員会制度そのもの、つまり国の法律自体を変えるのか、それとも、首長や議会の教育委員選任のプロセス自体を問題にしなければいけない、ということになるでしょう。

    そして、上記下線部のような理解に立てば、私などは、今の大阪府の教育委員たちが「民意を反映していない」というのであれば、「そもそも今の教育委員を選んだのは首長である知事であるし、その知事が選んだ人に同意を与えた議会のほうが問題なのでは? そこを問題にすることなく、条例で教育委員の罷免権などを定めるのは、いかがなものか?」という気もするわけです。今のこの条例素案に対して、教育委員会側が冷ややかな態度をとるとしたら、「それも当然でしょ」といいたくなってしまいます。

    だいたい、「選挙」という形で本当に「民意」を教育委員会制度に反映させたいのであれば、地教行法以前の教育委員会制度は、教育委員の公選制をとっていたわけですから、それにもどすという手もある。なぜ大阪維新の会は国政に対して、そこは提案しないのでしょうか? 

    あるいは、かつての東京都中野区が条例を定めて行ったように、首長が任命すべき教育委員の候補者を選ぶという「教育委員の準公選」を大阪府でもやってみる、という道もあります。大阪維新の会は、その方向性はどう考えるのでしょうか?

    もしも「民意の反映」ということを議会や首長の教育への「介入」を正当化する理由として掲げるのであれば、当然、大阪維新の会でこの2つのことは検討されてしかるべきだし、それではなぜダメかということを説明しなければいけないでしょう。

    さらに、「民意の反映」は、「議会や首長の意見の反映」とイコールではありません。

    たとえば、教育委員会が積極的に情報公開を行い、その情報をもとにして、各地でタウンミーティングや公聴会的なことを行って住民の要望や苦情、意見などを聴取するとか。あるいは、教育施策に関する各種審議会やプロジェクトなどに住民代表の参加の機会を設け、そこで住民の要望などを取り入れるとか。ほかにも、もうすでに行われているパブリック・コメントをもっと積極的に活用する道もあるだろうし、教育行政や学校に対する苦情対応の窓口をもっと積極的に整備する道もあります。このように、住民からの要望や意見などを受けて教育委員会が施策立案などに役立てるルートは、何も議会や首長が教育にもの申すルートだけとは限らないわけです。そのルートを適切に教育委員会規則などで定めることだってできるかと思うのですが。

    それこそ、この条例素案にも「学校運営評議会」の設置が出ていますが、今の学校教育法施行規則第49条にも「学校評議員の設置・運営参加」という条文があります。これは小学校に関する規定ですが、中学校や高校にも準用されています。この学校評議員制度をもう少し大阪府内の学校で積極的に位置づけるような教育委員会規則などを設ければ、今よりは多少ましな形で、地元住民の要望などを反映する学校運営もできるでしょう。

    今だされている大阪維新の会の条例素案は、こうしたさまざまな取り組みの良し悪しを一応検討・考慮したうえでつくられているのでしょうか? 私の目から見れば、どうもそうではなさそうだというしかありません。むしろ、「選挙で選ばれた首長と議会こそが民意、それこそがすべて」という立場にたって、「我こそが民意、それに従え」という論理で、教育への「介入」を正当化しようとしているのではないか。このように、私の目からはこの条例素案は見えてしまうのです。

    もしもこの私の見方がまちがってないとするならば、この条例素案の作成者には「選挙結果には反映されなかったけれども、住民には多様な意思がある」ということへの細やかな配慮・考慮が不在だというしかないですし、「多数であることが常に正しい、絶対だ」ということへのこだわりを強く感じてしまいます。こういう発想って、大阪で今まで進めてきた人権教育の取り組みや子どもの人権関連の取り組みに、いちばん相容れないものだと思うのですが・・・・。

    まだまだ前文だけでも言いたいことが多々あるので、この話、明日以降も続けます。不定期になるかもしれませんが・・・・。