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できることを、できる人が、できるかたちで

京都精華大学教員・住友剛のブログ。
関西圏中心に、教育や子ども・若者に関する情報発信を主に行います。

「安上がりな施策」に動員される「市民」?

2009-07-21 05:55:25 | 国際・政治

ここ最近、私の勤務校にいる学部生・大学院生や卒業生たちが、大阪府内のある公立小学校へ出入りしています。それは「学力向上」を目的として、放課後や夏休みなどの長期休暇中の小学生たちを対象にした学習サポート事業の「手伝い」のため。ちなみに、その小学校では、放課後の子どもたちを対象にしたいわゆる「学童保育」の事業も行われています。

正直なところ、こうした事業の展開に対して、私は複雑な思いを抱きます。なぜなら、学童保育や小学生の放課後の学習サポート活動というのは、実はこれまで、大阪市内や大阪府内の各自治体で「青少年会館」事業として展開されてきたことではないか、と思ってしまうからです。あるいは、大阪市内・府内の児童館や隣保館(市民館、人権文化センター)などで、類似の活動を展開してきたところもあるでしょう。

しかも、もしも今まで青少年会館や児童館、隣保館などで、こうした学童保育や放課後の学習サポート活動が行われていたとしたら、それは行政施策のひとつとして、相応の専用施設や教室用スペースを持ち、常勤か非常勤か、雇用形態は別として一応そこに張り付くスタッフを置いて、活動費もでる形で行われてきたわけですよね。今、私の大学から学生・大学院生や卒業生が出入りしているように、1回いくらの交通費補助(しかも、遠方の人だと足りないかもしれない)で、たいした活動費もなく、学校の余裕教室で行っているのとは、相当、条件整備面で開きがあります。

「学力向上」に大阪市や大阪府内の各自治体の教育施策が「特化」してしまうことには、私個人としてはいろいろと思うところはあります。ですが、「学力向上」だけに教育施策を「特化」するとしても、この現状を見ていると、「教育行政はあまりにも金をかけなさすぎる」とか、「あまりにも安上がりに施策をやろうとしすぎる」と思うのは、私だけでしょうか。

しかも、これまでも、子どもたちでの学校での「学力」獲得には、「家庭」の文化的・経済的な階層間格差の問題が色濃く反映していると、よく教育社会学系の研究者たちが語っています。その階層間格差を埋めていく社会保障・社会福祉や就学援助等の施策にはたいした取り組みをせずに、ぎりぎりにまで人数を絞り込んだ学校現場の教員たちのふんばりと、学生たちのように「安上がり」に動員可能な「市民」ボランティアの「善意」で、「とにかく、金をかけずに学力向上」をというのは、やっぱり、私としては「虫がよすぎる」ように思うのです。「本気で学力向上策をとりたいのであれば、せめて行政当局は子どもや若者の社会教育・生涯学習部門にお金をかけ、放課後に学びたいこと・体験したいことのある子どもや、子どもに何かをさせたい保護者たちに対して、その機会を整備すべきだろう」と思うわけです。

もちろん、だからといって今、目の前に支援を必要とする子どもがいて、協力要請が私のところに学校現場などから入ってくれば、それを放置しようとは私も思いません。また、学生や大学院生の社会参加体験という観点から見れば、こうした活動にかかわることの意義も認めます。しかし、それが「安上がりな教育行政」の施策に「市民の善意」が「動員」されるようなものであっては、やっぱり何か、私としてはひっかかってしまうわけです。「市民」はそんなに都合よく、役所の財政次第で左へ右へと動かされるものではないだろう・・・・と、思ってしまうわけです。

ついでにいうと、このあたりはNPOを含む民間への行政からの事業委託だとか、指定管理者制度の適用などにも言えること。従来の行政が負担してきたさまざまなコスト削減のためだけに、NPOなど民間への事業や施設運営の委託、それも3~5年と期間を区切っての委託を進めていくだけなら、民間で働く人々の不安定雇用を増やすだけのように思います。

また、そういう不安定な雇用を維持するがために、「何か、うまい話はないか?」とNPOを含む民間側が行政施策の動向に絶えず注意を払い、何かにつけ、それにのっかかるように動いてしまうのであれば、「それは行政当局による新たな形態での民間へのコントロール(露骨に言えば「支配」)ではないのか?」と思えてなりません。

このような次第で、私は今、大阪市や大阪府内の各地で教育行政当局が導入しようとしている施策については、それを「学力」問題を扱ってきた教育社会学系の人たちの視点とは別に、「安上がりな施策」に動員される「市民」という視点から、まさに教育行政学や教育政策論的な立場から検討してみる必要があるように思います。でなければ、学校現場の教員たちはこのままだとますますヘトヘトになり、「善意」で動員されたまともな「市民」たちは最初だけ気分はいいものに、やがてあまりの「安上がりな施策」に苛立ち、ストレスを抱えてしまうことになるだろう、と思うからです。もっとも、「お上にさからわず、喜んで下請けを引き受ける」ような心性を持った「市民」であれば、こうした批判や苛立ちもでないのでしょうが・・・・。

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ひさびさの更新になります。

2009-07-13 00:09:43 | いま・むかし

6月21日のある交流会に参加しての感想を書いて以来ですから、もう3週間近く更新が途切れたことになります。いままでなかなか更新ができず、ほんとうに申し訳ありません。

ですがこの間、なにもしていなかったわけではありません。確かに本業の大学や研究面での仕事や家事などに追われていた面もあるのですが、この間に、例えば大阪市内の旧青少年会館(青館)所在各地区の近隣小学校・中学校の教員に、最近の子どもたちの様子などを聴く機会を持つこともしました。また、かつて青館や解放子ども会の活動などにかかわった方から、昔の話を聴く機会を持ったりもしています。

このような次第で、ひきつづき今までどおり、大阪市内や大阪府内の解放子ども会や青少年拠点施設のこと、大阪市内の旧青館やその他地区内拠点施設で活動する人々のことなどに、私としては関心を持ち続けていることには変わりありません。ただ、あまりにもほかのことに追われすぎていて、ブログの更新にまで時間がまわらなかったという点。この点にはほんと、ただ反省するばかりです。もう少し、自分の時間の使い方がうまくならないかなぁ・・・・と思う今日この頃です。

それはさておき、このところあらためて昔、青館や解放子ども会などで活動してきた人々の話を聴くと、「やっぱり、当初は学校での取組みと、地域社会での保育所や子ども会~青年層~識字へと至る取組みと、二本柱で解放教育運動が構想されていたんだなぁ」と思うことがしばしばあります。そのことは、前にも書いたかもしれませんが、1970年代に出版された『講座解放教育(全5巻)』(明治図書)のシリーズを読むと、ほんとうにそう思えてきます。

また、1970年代当時であれば、まだ被差別の子どもたちに見られた「貧困」による「長欠・不就学」をようやく克服しつつある段階だったことから、憲法・教育基本法(当時)に定める「教育の機会均等」の実現に向けて、例えば教科書無償配布や就学援助、生活保護制度における教育扶助のことなどとあわせて、学校の教育内容の創造と「学力」保障のあり方が論じられていた面があります。

このような当時の議論は、今思えば、「貧困と差別の悪循環」を前にしての子どもの「教育と福祉の連携論」や「学校福祉論」というべきテーマでもあるし、より現代的な課題・テーマにひきつけていえば、「社会的排除」問題に関する「学校ソーシャルワーク(スクールソーシャルワーク)」の課題・テーマといってよいものかもしれません。そこには、被差別の子どもたちの課題を、「生活と教育」の両面からとらえる視点とともに、社会保障・社会福祉と教育の両面から就学の条件整備に関する取り組みを行っていく方向性が見られたのではないかと思われます。

しかしながら、最近の人権教育や解放教育に関する議論を見ると、「貧困と学力」を論じたものはあっても、「貧困と社会保障・社会福祉・教育」という結び付け方をする方向性からの議論は、まだまだ弱いような印象です。これでは、1970年代よりも「狭い」議論をしているのではないか、という風に私には思えてなりませんし、「学力向上策」でもって「貧困」はなんとかなるのだという前提に立ちすぎて、ほかの課題が見えなくなっているのではないか、という風にも思えるわけです。

ほんとうに今、生活困難な子どもの学ぶ権利を保障する学校づくりをすすめようと思えば、学校における「学力」保障のあり方だけでなく、例えば学校行事などを通じたクラスづくりや仲間づくりも必要だし、憲法や子どもの権利条約その他の国際人権条約、日本の社会保障や社会福祉制度における諸権利に関する学習、自らの意見表明や社会参加・参画のスキルを磨く学習も重要。

さらには、その学校に通いやすくするための学用品費や給食費、修学旅行費といった費用負担の軽減策、つまり就学援助や教育扶助のあり方についての議論も重要だし、教科書無償配布や学校給食・学校保健などの施策のあり方、さらには学校で手厚い教育活動と子どものケアを実施していくための人員配置や多様な職種のあり方などについても検討をしていくことが必要でしょう。

また、放課後の子どもの生活を支援するための社会教育・児童福祉両面からのアプローチとしての学童保育・子ども会のあり方や、就学前の子どもの教育と福祉の結合、すなわち保育論などが提起してきた諸課題の検討も必要でしょう。そして、学校外の取組みと学校内のそれとの連携、就学前の取り組みと就学後の取り組みとの接続関係などについても、議論を積み重ねていく必要があるでしょう。

ほんとうはこのくらい、今、被差別に暮らす・育つ子どもたちの教育課題について、1970年代の議論の水準に照らせば、論じるべき課題は多々あるはずなのです。それを単に「学力」保障の観点からのみ位置づけて論じているのだとすると・・・・、そのことに「意味がない」とまでは言わないものの、「あまりにも、ほかの課題の検討が抜け落ちすぎているのではないか?」と、やっぱり私には思えてなりません。

このことについては、今後も引き続き、このブログなどで指摘を続けていきたいと思います。とはいえ、どの程度の頻度で更新ができるのかわかりませんが・・・・。

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