できることを、できる人が、できるかたちで

京都精華大学教員・住友剛のブログ。
関西圏中心に、教育や子ども・若者に関する情報発信を主に行います。

いろいろ言いたいことがあるのですが(7)

2011-08-19 22:37:20 | ニュース

今日はまず、下記の3つの新聞関西版ネット配信記事から。

http://www.asahi.com/kansai/news/OSK201108190023.html (橋下知事、咲洲府庁舎への全面移転断念 耐震性を考慮=朝日新聞関西のネット配信記事)

http://mainichi.jp/kansai/news/20110819ddn001010004000c.html (大阪府庁:咲洲庁舎移転 橋下知事、全面移転断念 災害時拠点にならず=毎日新聞関西のネット配信記事)

http://mainichi.jp/kansai/news/20110819ddn041010013000c.html (大阪府庁:咲洲庁舎移転 全面移転断念 突然表明も橋下流、周囲が困惑=毎日新聞関西のネット配信記事)

この記事を見て思ったのですが、今後、東南海地震が起きた時のことや、先の東日本大震災発生時の津波の被害のことなどを想定したら、この咲洲庁舎への府庁移転の断念なんて「当然のことだろ」というしかないものですよね。また、本来であれば府知事としてもっと早く決断することだってできたことですよね。だから私としては、やはり、3つめの毎日新聞関西ネット配信記事のとおり、橋下知事サイドは「大阪市長・大阪府知事ダブル選挙を前にして、自分の側にマイナスになる材料をつぶしにかかっている」というのが実情ではないかと思います。しかも、防災対策の専門家たちはかなり前から咲洲庁舎移転案の問題点を指摘してきたわけですから、「専門家もそういってることだし・・・・」ということで、橋下知事サイドは自分たちの側の判断の甘さを隠そうとすることもできます。

その一方で、この2日ほどのあいだに、橋下知事、あるいは大阪維新の会に関しては、こんな提案についても新聞関西版ネット配信記事でながれています。

http://www.asahi.com/kansai/news/OSK201108180043.html (維新の会、2条例案を提出方針 橋下氏「お役所変える」=朝日新聞関西のネット配信記事)

http://mainichi.jp/kansai/hashimoto/archive/news/2011/08/20110817ddn001010003000c.html

(大阪維新の会:条例案に「愛国心」を明記 教育基本法より踏み込む=毎日新聞関西のネット配信記事)

http://mainichi.jp/kansai/hashimoto/archive/news/2011/08/20110817ddf041010016000c.html

(橋下・大阪府知事:公務員制度改革、ダブル選争点に=毎日新聞関西のネット配信記事)

これも教育行政や教育法などの専門家からはさまざまな異論・反論、批判や疑問がなげかけられているプランなのですが、橋下知事あるいは大阪維新の会サイドは、こっちについては専門家の意見は無視するつもりですね。専門家の意見というのは、このように、行政サイドや時の地方議会多数派によって都合よく利用されるという側面を持っている、ということでしょうか。

ただ、それにしても、他者に対しても郷土に対しても国家に対しても、人間は「~を愛しなさい」と誰かに命令されて、愛情なんてわくんでしょうか? 本当にこの大阪という地域、日本という国が、誰にとっても暮らしやすいところであれば、おのずから愛着もわいてくるだろうし、そこが大事だという感情や態度も育ってくるのではないでしょうか。

むしろ、そういう愛着や感情、態度がわきおごってくるような環境をことごとく破壊しておいて、条例などで「~を愛しなさい」という目的を定め、それに反する行為を行った人を罰していく。そんなやり方では「面従腹背」的な態度や感情を育てていくだけ。本物の国や郷土を愛する心なんて育ちやしないだろう・・・・と、私などは素直に思うのですが。

私としては、ほんとうに国や郷土を愛する心を育てたいと思うのなら、そういうことを教育の目的を定めた条例(さらには基本法)などには書かずに、「それぞれの人の自由に任せる」ことにする。そのうえで、別のところで、この国・この地域を暮らしやすくするための施策を、ちがった形で訴えていくほうが得策ではないかと思います。

ここでいう「お役所を変える」というのにしてもそうで、分限や懲戒などの規定を明確にすることは、単に公立学校教職員を含む公務員のリストラをしやすくするだけではないかと思ってしまいます。職員の数を減らすことは「コスト・カッター」としての橋下知事には意味あることかもしれませんが、数少ない職員でさまざまな仕事を回すことによって、かえって今までよりも劣悪な行政サービスが展開されるのであれば、そんな改革には「財政上の帳尻合わせ」以上の意味はないでしょう。

あるいは、こうした条例の制定は、一般職や教育職のヒラ公務員に対する府知事を含む管理職層の「パワハラ」まがいの高圧的な対応を、こうした規定によって正当化するだけにしかつながらないのではないでしょうか。だとしたら、余計な反発や警戒、あるいは表面的には指示などに従いつつ、別のところでサボタージュするような、そんな態度をこのような条例の制定によってかえって助長しかねません。そんな風通しの悪い職場をつくって、どうするんですかね?

いずれにせよ、こうした条例案の制定というのは、大阪府知事や府議会、府庁幹部に対する「面従腹背」的な態度を、公立学校職員を含む府の公務員内に生むだけであって、かえって府政改革の妨げにしかならないのではないかと私などは思います。

本当に橋下知事や大阪維新の会サイドが出す提案に「おもしろい」とか、「これで確実に府政はよくなる」という要素が感じられるのであれば、もっと公立学校教職員を含む府の公務員側も乗ってくると思うんですけどね。しかし、どうもそういう方向にはいきそうにないようです。

ついでに、ここ最近ずっと書いてますが、こうした橋下知事や大阪維新の会の動きに対して、今後、大阪の人権教育の関係者は、どんな形でつきあっていくんですかね? 少なくとも私は「おかしいことは、おかしいという」というスタンスですけど。

と同時に、「人権教育」って、こういう地方政界の動きが今ある公立学校やそこでの教育のあり方をかえって窮屈なものにしかねないとき、「それって、おかしいだろう?」と批判や疑問の声をあげられるような、そんな市民を育てていくためのものじゃないんですかね?


いろいろ言いたいことがあるのですが(6)

2011-08-14 10:57:38 | 受験・学校

今日は、昨日読んだ五島敦子・関口知子編著『未来をつくる教育ESD』(明石書店、2010年)第2章「教育改革の国際比較」の内容紹介です。

とはいえ、なぜこの内容を紹介するのかというと、今、大阪府内や大阪市内ですすめられている、あるいはこれからすすめられようとしている教育改革の中身を考えるうえで、とても重要だと考えるからです。特に、大阪維新の会が提案しようとしている「教育基本条例(案)」が本当に実施されてしまったら、いったい、どういうことが起きると予想されるか。そのことが下記の内容からもわかります。

まず、この本の第2章では、最近のアメリカの教育改革の動きが紹介されています。とりわけ、この章では、ブッシュ(子)大統領によって2002年に制定された連邦法「落ちこぼれをつくらないための初等中等教育法」(NCLB:No Children Left Behind ACT)について、次のように述べています。ちなみに、NCLB法は、経済的・社会的に不遇な条件下にある児童生徒の教育を保障するために州や地方を支援する連邦補助金について定めた「初等中等教育法(1965年)」を改正してつくられたのだそうです。少し長くなりますが、文字色を変えて、読んでほしい部分を引用・紹介しておきます。

本法は、州と地方の裁量権を増して選択の自由を拡大する一方で、学力テストの結果を公表し、すべての生徒が教育スタンダードに対して一定の習熟レベルに到達していることを求めました。公立学校は「年間向上目標(AYP:Academic Yearly Progress)を、数年間、連続して達成できないと「改善が必要な学校」に指定され、改善計画の作成と実行が求められます。それでも進歩がみられない場合、教職員の再編やチャータースクールへの転換という矯正的な措置がとられます。

歴史的に移民が多く、多様な人種や民族で構成されるアメリカの学校では、人種、所得、英語の習熟度などによる学力格差が課題とされてきました。NCLB法は、本来、こうした格差を是正し、「どの子も置き去りにしない」ことをねらいとした法律です。しかし、テストの成績次第で学校予算を変更するなど、説明責任を強調するあまり、学校現場に混乱がもたらされました。たとえば、AYPを達成するために、学力の低い生徒に州統一テストを受験させなかったり、虚偽の成績を報告したりした事例が明らかになっています。また、すべての子どもにひとつの基準をあてはめ同じテストを受けさせることは、文化的な多元性や障がいをもつ児童生徒への配慮に欠けるという批判もあります。そのため、NCLB法は、本当に支援が必要な子どもたちを排除し、「多くの子どもたちを置き去りにした」と指摘されています。

はたして、アメリカの子どもたちの学力は、こうしたテスト漬けの生活によって実際に向上したのでしょうか。マサチューセッツ州を例にとると、確かに州統一テストの結果では飛躍的な向上が認められるといいます。しかし、PISA2003とPISA2006の結果を比較すると、アメリカの順位が大きく上がっているとはいえません。また、州統一テストの成績が良い生徒が、必ずしも大学進学適性試験であるSATの成績が良いとは限りません。人種や民族による学力格差にも大きな変化は見られず、むしろ格差が固定する傾向にあるとする研究もあります。

(以上、「第2章 教育改革の国際比較」『未来をつくる教育ESD 持続可能な多文化社会をめざして』明石書店、2010年、p.39)

いかがですか? 先日、マスメディアを通じて伝えられた「教育基本条例(案)」の中身を思いだしながら、この文章を読んでみてください。

ちなみに、前に紹介した新聞記事から、「教育基本条例(案)」の要点をまとめると、こんな感じでしょうか・・・・。

大阪の府立高校の校長・副校長の任期制・公募制による採用と給与の年俸制導入、校長に教員採用権付与、生徒の定員割れが3年連続で続くときの学校統廃合。大阪府知事と教育委員会が協議しての府立高校の目標設定、その目標が達成できなかった場合の教育委員の解任、などなど・・・・。

また、すでに何年か前に、市町村別の全国学力テストの結果公開に大阪府ではふみきりましたよね。それ以来、「学力向上」が大阪府の教育改革で大きな課題になっていることかと。

このようなことをふまえて私の目から見ると、今、大阪府内ですすめられている教育改革の動きは、上記のアメリカの改革にどことなく、似てる面があるように思われます。

ですが、本家本元のアメリカにおいて、その改革の行きつく先がどうなっているか。必ずしもうまくいってるとは限らないし、むしろ、こんな改革を導入したら、今まで作り上げてきた各学校での反差別や多文化共生、インクルーシブといった教育実践はぐちゃぐちゃになるかもしれない。そう考えてしかるべきではないのか・・・・と思ってしまいました。

それにしても、地元・大阪で反差別や多文化共生の教育、インクルーシブ教育等々にこだわってきた人権教育系の研究者は、この「教育基本条例(案)」にどういう態度をとるんでしょうかね? 私などは明確に「これはやめたほうがいいだろう」と今、意見をここで述べているわけですが・・・・。


いろいろ言いたいことがあるのですが(5)

2011-08-11 00:13:57 | ニュース

今日(といっても、これを書いている間に日付が変わったので、8月10日のこと)、ツイッターを見ていたら、平松大阪市長が橋下大阪維新の会代表(府知事)のツイートのあまりのひどさに対して、次のような形でブログ上で反論・批判をしていました。

http://hiramatsu-osaka.com/message/ (感じるままに、平松日記:2011年8月10日(水)「橋下さんのツイッター」)

ここで平松大阪市長は、橋下維新の会代表(府知事)のツイッター上での発言に対して、次の青字部分のように批判・反論をしています。

優しくて心温かい大阪市民の皆さんの気持ちにまで、政治の対決姿勢を持ち込み、一方的な決めつけで語られる。情報発信に強力な影響力をお持ちの橋下さんだからこそ、真実をその眼で見た上で発信されるべきであり、ご自身がいつもそう仰っているのではと疑問を持ちます。

140字のツイッターによってばらまかれる事実ではない認識の拡散を危惧します。

以上のような次第で、橋下氏が平松大阪市長や大阪市政のあり方に対してツイッター上でつぶやいていることについては、「事実ではない認識」や、わざと「対決姿勢」を持ち込んで「一方的に決めつけて語られていること」が多々あると見てまちがいないことがわかります。今後、橋下氏のツイッターを見る人は、先日紹介した「橋下ワクチン開発室」(http://www.geocities.jp/miirakansu/vaccine.htm)とともに、この平松大阪市長のコメントにも注意をしたうえで見るようにしていただければと思います。

それから今日(といっても日付が変わったので、8月10日のことですが)、毎日新聞の夕刊を見ていると、次のような記事が出ていました。

http://mainichi.jp/kansai/news/20110810ddf001010006000c.html (大阪維新の会:条例案 教育に政治関与、明示 全高校長公募、採用権付与)

この記事の内容は、以下の青字部分のとおりです(全文、上の記事からの引用です)。

 大阪府の橋下徹知事が率いる首長政党「大阪維新の会」が、9月定例府議会に提出する「教育基本条例案」の原案が判明した。知事が設定した目標実現の責務を果たさない教育委員の罷免など、教育行政への政治の関与を明確に位置づけている。さらに、府立高校の校長は全員公募して「年俸制」を採用、教員の採用権を持たせる。府議会は維新が過半数を占めており、提出されれば成立する可能性が高い。政治的中立性を保つための教育委員会制度を大幅に見直す内容で、論議を呼びそうだ。

 大阪、堺両市議会にも同様の条例案を提出する。条例案では、知事が教育委員会と協議して高校が実現すべき目標を設定。目標の実現に努力しない教育委員は議会の同意を経て罷免できるとした。君が代起立斉唱に従わない教職員を念頭に、同じ職務命令に3回違反した教職員の免職も規定している。

 また、府立高校の校長は全員公募して「年俸制」を採用。筆記試験合格者を対象に教員採用権を持たせる。教頭は副校長として校長を補佐。府立高校の入学者数が3年連続で定員を下回った場合は統廃合の対象とするほか、正副校長は条例制定後5年以内に任期付き採用に切り替える。【林由紀子、佐藤慶】

これは要するに、教員および学校・教育委員会に企業経営と同じ手法といいますか、「業績主義的管理」を導入するものと考えられますし、ある意味「競争原理」で「府立高校および公立学校教員を淘汰する」ことを目的としたシステムを導入するということですね。

また、おそらく、ここでいう各学校の目標設定には、おそらく「学力テストの平均点の上昇」や「有名大学などへの進学率の上昇」といった数値目標の設定が導入されるのではないでしょうか。あるいは、ほかにも「退学・休学者の減少」「不登校の子どもの数の減少」といった数値目標も考えられます。

さらに、おそらくはここに保護者の公立学校選択制と授業料無償制度(事実上の教育バウチャー制度)をセットして、ますます、企業経営的な手法、「業績主義的な管理」の手法によって、教員および学校の淘汰をはかることを考えているのではないか・・・・と、私などは予想してしまいます。

そして、君が代強制反対などの形で上司からの職務命令に抵抗する教員に対しては、「スリーストライク・アウト方式(3回の違反があれば問答無用で免職等)」という、いわゆる「ゼロ・トレランス」的な対応を行う。もちろん、その職務命令がたとえ憲法違反の疑いが濃厚であっても・・・・というところでしょうか。

こういったことに対して、大阪の人権教育の関係者は、どのような意思表明をするのでしょうか?

少なくとも私は「こんなことをすると、それぞれの地域コミュニティの人々や保護者の人々と地道に作り上げてきた各公立学校の特色ある教育が崩壊する」だろうし、大阪府内のいくつかの地域でコツコツと積み上げられてきた「インクルーシブ教育」の流れも台無しにされてしまうのではないか。そんな危惧を抱きます。

これに加えて、今まで解放教育とか在日外国人教育の流れで積み上げてきたことも、反差別や反貧困の学習に取り組んできたことも、全部、その取り組みを担う教員がすべて「業績主義的な評価」のまなざしによってすべて規制されることから、自由な取り組みの余地を奪われ、土台からぐちゃぐちゃにされてしまうのではないか。そんな風に考えています。

だからこそ今、何らかの形で声をあげて、「こんな大阪維新の会の教育改革構想なんて、いらない!」と、人権教育の関係者は言わなければいけないのではないか。また、ここで声を出してそれを言えないような人権教育の関係者の立場って、いったいなんなのか。いったい、だれのために、なんのためにいま、人権教育の重要性を説くのか。この問題では、大阪維新の会の側だけでなく、私たち人権教育の関係者の側も問われていることが多々あるのではないか。少なくとも、私はそのように考えています。


いろいろ言いたいことがあるのですが(4)

2011-08-09 08:19:03 | いま・むかし

先週土曜日、8月6日が広島の、そして今日8月9日が長崎の原爆投下の日ですね。

ツイッターを見ていると、7月末から広島の原爆の日にあわせて、箕面市から広島へ「ピースサイクリング」にでかけた子どもたちがいるとか。もう戻ってきた頃かと思いますが、それにしても、すごいがんばりですねぇ。自転車でどのくらいの距離、走ったのでしょうかね? また、子どもたちだけでなく、つきそいのおとなたちもいろいろとご苦労があったことかと思います。おつかれさまでした。

そういえば先月、(社)子ども情報研究センターの子育ち連携部会で、かつての大阪市内の解放子ども会の取り組みについて、元青館職員の方から聞く機会を持ちました(というか、このところ、この部会では連続してこの取り組みを続けているわけですが)。そこでも、1990年代の「平和行進」の取り組みについて話を伺うとともに、実際の行進の様子を収録したビデオを見せていただきました。このとき見たのは、8月5日に呉市あたりから広島市内(たしか原爆ドーム前)あたりに向けて、子どもたち(主に中学生)たちが平和の大切さなどを訴えながら行進し、翌日の広島の記念式典に参加して帰る、というプロセスを撮ったビデオですが。

大阪市内や大阪府内の各地区での子ども会活動のなかで、さまざまな体験を通して、子どもとおとながともに戦争と平和について考える学習活動が、こうして何らかの形で継続されていること。そのことは、とても貴重なことではないのかと思います。もちろん、各地区の実情によってはこうした活動が下火になっているところ、あるいは、途絶えてもう長いというところもあるでしょう。ですが、今一度、こうした活動の重要性を認識して、いつもいうように「できることを、できる人が、できるかたちで」継続して(あるいは復活させて)ほしいと思います。

なにしろ今、新しい学習指導要領にもとづく各自治体の教科書採択の動きのなかで、大阪府内でも次のようなことが起きています。

http://sankei.jp.msn.com/life/news/110727/edc11072716000004-n1.htm (東大阪市、育鵬社の教科書採択)

今後、戦争と平和について学校で学ぶことに不十分な点や偏りがあったり、さまざまな面で課題が残るとするならば、学校外での自主的な学習機会を通じて、その足りない面を補ったり、偏りを改善したり、課題を解消するという取り組みがあってもいいのではないか。少なくとも、私はそのように思います。

と同時に、大阪の人権教育の関係者は、このような各地区の子ども会活動で進められてきた戦争や平和について考える営みを、今、どのように評価するのでしょうか。少なくとも私は、「どのような形になるにせよ、まずは今後も継続すべき重要な営みである」と位置付けるのですが、いかがでしょうか? もっとも、そもそも今の大阪の人権教育の関係者の間で、これまでも、今も、各地区での子ども会活動の重要性に気付いている方がどの程度いるのか。そこからして、私には「ほんとうにそれでいいの?」と思うことが多々あるわけですが。

ひとまず、今日のところはこのあたりで終えておきます。


いろいろ言いたいことがあるのですが(3)

2011-08-07 15:55:00 | ニュース

http://www.yomiuri.co.jp/politics/news/20110806-OYT1T00934.htm?from=popin

そうですか。やっぱり橋下知事、任期途中で大阪府知事のポスト投げ出して、大阪市長選挙に出るんですね。

彼はほんとうに府政改革、やりたかったんですかね?

なんか、こういうのを見ていると、彼は大阪府のいろんな行政施策や府議会での議論などを全部、ぐちゃぐちゃにひっかきまわして、混乱させるだけさせておいて、後始末もしないで任期途中でやめていくような印象がありますね。

というよりも、もともと「大阪都構想」なるものへの執着、こだわり方からの私の推測なのですが、どうも彼および彼のブレーン層のこだわりは「大阪市政改革」にあったのではないかとも思えてきます。また、最初から彼の府知事選挙への立候補、当選、そして府政改革は、将来の大阪市政改革に向けての下地づくり、そのための「とっかかり」でしかなかったのかもしれません。もしもそうだとしたら、あまりにも大阪府民および府の行政、府議会の存在などを、彼および彼のブレーン層はバカにしているのではないでしょうか。

ちなみに、橋下府政改革の「目玉」のひとつ、大阪児童国際文学館の移転の問題については、次のようなネット配信の情報もあります。ちなみにこの動画ニュース、よみうりテレビの取材によるもののようです。

http://www.movook.com/w/WOxXbiA (橋下府政のうそとまやかし~証拠が出ても開き直り)

ただ、この動画ニュースを見ていると、確かに、児童文学館の移転によって府立図書館の増築が必要になり、かえって費用負担が増えるということについて、大阪府の行政サイドが必要な情報を出していないという問題もあります。ただ、同時に、大阪府議会側の府知事に対する質問・追及能力の問題もあるとは思うのですが・・・・。

あるいは、橋下知事が大阪府の財政を短期間で再建したという話については、次のような形で、異論・反論を唱える人もいます。

http://d.hatena.ne.jp/opemu/20110731/1312098313 (「府財政を短期間で救った」芝居終幕の件)

さらに、大阪都構想そのものについても、次のとおり、専門家サイドからは疑問の声も出されています。

http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/110221/20110221016.html (阿部昌樹教授に聞く 「大阪都構想」判断のポイント)

以上はすべて、ツイッター上では誰かがつぶやいて紹介してくださっていることですが、あまりマスメディアなどでは大きく取り扱われていませんね。ただ、いずれにせよ、見るべき人が見れば、橋下府政や大阪都構想のあり方については、その構想でほんとうにうまくいくのか、あるいは、今進められている改革がうまくいってるのか、かなりいろんな疑問点があるわけです。

このように、あらためて精査すると疑問の多い施策や改革構想を、華々しくマスメディアを通じていろいろぶちあげてきた橋下知事が、そうしたことに対してていねいな説明をして、撤回するものは撤回する・提案を継続するものは継続するという対応をすることのないまま、今度は大阪市長選挙に立候補してくるわけですよね。それって、現職知事として、果たすべき責任をはたしているのでしょうか? また、彼のブレーンの人、彼の支援者たちは、こんな彼を止めようとはしないんですかね?

いずれにせよ、彼がほんとうに大阪市長選挙への立候補を決めたのであれば、「政治家・橋下徹」が大阪府知事として何をしてきたのか、そのことに関する冷静な評価が必要です。ここは冷静に、この何年かのことをふりかえって、橋下府政の「実像」が見えるようなマスメディアの情報発信と、それにもとづく大阪市民の判断を期待したいです。

ついでに、橋下知事(大阪維新の会代表でもありますが)のツイッター上での発言については、次のサイトも確認してください。先月「とても下品な発言」という形で私もひとつ、批判をしましたが、ほかにもいろいろと彼のツイッター上での発言には問題がありますので。

http://www.geocities.jp/miirakansu/vaccine.htm (橋下ワクチン開発室)


いろいろ言いたいことがあるのですが(2)

2011-08-06 11:11:50 | 受験・学校

昨日更新して書くはずの予定だったのですが、1日ずれてしまいました。昨日書くつもりだったことを書いておこうと思います。

さて、つい先日、新刊書で、次の本が届きました。

人権教育と市民力―「生きる力」をデザインする― 人権教育と市民力―「生きる力」をデザインする―
価格:¥ 2,100(税込)
発売日:2011-08-29

この本の第6章「子どもの権利」を、今回、私が書きました。「書いた」というか、講義内容を文字おこししたものに手を加えた、といえばいいでしょうか。

実は、この本、主だった内容は、去年の秋から大阪市内で全10回開催された「国際人権大学院大学プレ講座」の各回の講義内容をふまえて執筆されています。ですから、各章の執筆者は、この各回の講義担当者です。

それで、私は自分の担当回(今年1月17日)に、あえて子どもの権利条約と3回の国連子どもの権利委員会の総括所見(勧告)の概要紹介を中心に講義をしました。だから、読む人が読めば、目新しい内容は一切でてきません。また、『解説教育六法』(三省堂)や『[逐条解説]子どもの権利条約』(喜多明人ほか編、日本評論社)など、教育法関係の文献をちゃんと読めばわかるような、そんな話ばかりしか、私の講義ではしていません。

にもかかわらず、私はあえて今、このレベルの話から、人権教育の関係者には「子どもの人権(権利)」について理解をしなおしてほしい、と考えています。というのも、国連子どもの権利委員会は3回目の総括所見(2010年6月)で、「子どものためにおよび子どもとともに活動しているすべての者(教職員、裁判官、弁護士、法執行官、メディア従事者、公務員およびありとあらゆるレベルの政府職員を含む)を対象とした、子どもの権利を含む人権に関する体系的かつ継続的な研修プログラムを発展させるよう促す」と、日本政府に対して勧告が行われているからです。また、同様の趣旨のことは、1998年6月の1回目、2004年1月の2回目の両方の総括所見でも言われています。

要するに、「教職員などを対象とした子どもの権利条約や、子どもの人権に関する研修を、今までどれだけ真剣にやってきたんですか?」ということ。そこが日本政府に問われていますし、「政府がやらなければ、自治体レベルでも、教職員の研究団体や教職員組合レベル、あるいは子どもにかかわる各種専門職の団体や市民団体レベルでも、いろいろできたのではないですか?」ということ。それを私としては、この1月の講義のときにも受講生に考えてほしかったですし、今回、講義内容を本にまとめるときにも考えてほしいと思ったのです。

この間、何度もこのブログで書いてきましたが、日本政府の子どもの権利条約の趣旨実現に対する消極的な姿勢は、自公政権から民主党中心の連立政権が発足して少し変わるかと思われましたが、依然として続いているかのように見受けられます。でも、そんな政府のあり方を支えているのは、実は私たち市民の側の子どもの人権に対する意識のありようではないのか。そんなことをこのごろ、私としては強く感じています。市民の側になんらかの働きかけをしない限り、子どもの人権をめぐる状況はなかなかかわらないのではないか・・・・とすら、このところ感じはじめています。

この話、まだまだ言いたいことがありますので、続きは明日以降、書くことにします。


いろいろ言いたいことあるのですが(1)

2011-08-04 09:30:57 | ニュース

夏休みに入って比較的時間の余裕がとれるので、「いろいろ言いたいことあるのですが」という漠然としたタイトルで、できるだけ毎日、このブログの更新を続けていこうと思います。とはいえ私のすることですので、ほかの用事とかとの兼ね合いや、家事・育児などでくたびれたときなどは休みますので、「やっぱり不定期更新じゃないか」ということになるかもしれません。そのときはお許しください。

さて、前回のこのブログでは、7月27日(水)の衆議院厚生労働委員会での児玉龍彦さん(東京大学アイソトープ総合センター長)の参考人質疑の様子を、YouTubeの動画とその様子を文字起こししてくださったブログの両方からお伝えしました。その後1週間ほど経過しましたが、児玉さんの参考人質疑への関心はとても高く、このブログへのアクセスもけっこうあったようで、いつもの5倍くらいの訪問者がありました。

ただ、ツイッターなどを見ているとわかるのですが、ネット上では児玉さんのこの参考人質疑の様子は高い関心を呼んでいるのですが、新聞やテレビなどのマスメディアでの関心はあまり高くありません。それこそ、この一週間のうちに、どのくらい、新聞やテレビなどは児玉さんの参考人質疑のことをとりあげたのでしょうか。それを考えればわかるように、このたびの東日本大震災・原発事故の問題に関して、いまの新聞・テレビなどから「もれている」話はたくさんあるようです。しかも、その「もれている」話のなかに、ほんとうは「こっちのほうこそ重要ではないか?」と思われるものは、たくさんあるような気がしてなりません。

で、ここからが余談というか、教育の問題にかかわるわけですが。よく最近の学校で、「新聞を使った授業」とか、「新聞を活用したメディア・リテラシー教育」とか、そういうことに取り組んでいるところがでてきましたよね。同じテーマをあつかった新聞各紙の記事を読み比べてみるとか、記事の中身を検討してある社会問題の取り上げ方を批判的に見ていくとか・・・・。それはそれで大事な取り組みだと思うし、意味がないとは思わないのですが、「はたして、それだけで十分なのかな?」という気もしなくはありません。

なにしろ、このたびの児玉さんの話のように、そもそも新聞各社が、ツイッターのような他のメディアから発信されているような情報のいくつかを取捨選択して取り上げて記事にしているわけですよね。だとすれば、「新聞が扱っていないこと」をも視野に入れたうえで、「新聞というメディアの情報の取り上げ方の偏り」を問題にしなければいけないのではないか、と思うのです。また、新聞各社の配信記事がもとになってインターネット上のニュースが流れ、それをもとに議論がなされているのであれば、「ネット空間上の情報もまた、ある方向性に偏りがある」と考えたほうがいいのかもしれません。そして、テレビ・ラジオもまたニュースなどで流す情報が新聞各紙の紙面と連動しているのであれば(たとえば、朝の情報バラエティ番組などは、新聞各紙朝刊の見出し紹介から話をはじめますよね)、同様のことがいえるかと思います。

こんな感じで、新聞の記事、テレビ・ラジオの番組や、この3つのメディアからさらにインターネット上に配信されている記事については、<その「作り手」側の取捨選択や編集・配信の意図がなんらかの形で働いているもの>として受け取るということ。具体的なメディア(たとえば新聞など)の伝えている情報の中身の検討以上に、「メディアってしょせん情報の「作り手」の側が、何かを伝えているかわりに何かを意図的に伝えなかったり、隠したりしてるものだよね」と、少し引いたところで見るような態度。そんな態度をいま、メディア・リテラシーの学習のなかで、子どもの頃からどのようにして形成するのかが今、問われているような気がしてきました。

ほかにもまだ、例の子ども手当をめぐる自民・公明・民主3党の動きを見ているとつくづく「いやになる」という話とか、大阪維新の会や橋下府政をめぐる話とか、最近の人権教育系の研究動向などに関する話とか、いろいろ言いたいことは多々あるのですが、今日のところはまずこのへんでいったん、終えておきます。