前にこのタイトルでブログを書いたのは、2年くらい前になります。久々にこのタイトルで文章を書こうと思います。なぜそう思ったのかといいますと、実はおとといの土曜日(26日)、京都でのある研究会で報告した中身にそれが深くかかわるからです。
この数日、私はその研究会に備えて、1971年創刊の雑誌『季刊教育法』を読み直す作業を続けていました。今はちょうど10年分、1971年~1981年までの分40冊にとりあえず目を通し、子どもの人権にかかわりがあると思われる記事や掲載論文のリストアップが終わった段階です。その段階までの作業でわかったことを中心に、おとといは研究会で報告をしました。今後、80年代、90年代と、子どもの権利条約(児童の権利に関する条約)の批准の頃まで、この作業をつづけてみようと思っています。
ではなぜ、こんな作業をはじめてみる気になったのか。ひとつは、我が家にある『季刊教育法』のバックナンバーを無駄にしたくないという思いから。
今は亡き岡村達雄さんが関西大学を退職されるときに、私たち教え子に「必要な本や雑誌があれば、ひとこと断ってくれたら、研究室から持って行っていい」とおっしゃられました。そこで私は、当時、研究室にいた大学院生が障害のある子どもの教育について修士論文を書こうとしていたので、これに関する文献を段ボール箱一箱分くらい、譲りうけました。
その障害のある子どもに関する文献とあわせて、岡村さんから私が譲りうけたのが、一部抜けている号はあるものの、創刊号からほぼそろった状態の雑誌『季刊教育法』。今は167号まで出ていますが、岡村さんから譲られたものと私がその後買い揃えたものとをあわせれば、ほぼ全部、我が家にそろっているわけですね。それを読まないままにおいておくのは、ほんとうに「もったいない」という思いがあったからです。
それともうひとつが、今の子どもの人権論と、大阪あたりで取り組まれている人権教育論との間にあるギャップ、ここを埋めたいという思い。それが私にはあります。そのための基礎作業のとりくみとして、『季刊教育法』を古いものから読み直す作業をはじめてみたわけです。
それこそ、かつて1970年代、日教組の教育制度検討委員会がまとめた『日本の教育改革を求めて』(勁草書房、1974年)には、被差別のこと、障害者のこと、在日朝鮮人のこと、今でいう「ジェンダー」のこと、子どもの貧困(養護施設出身者のことを含む)、沖縄・アイヌの人たちのこと等々、今、人権教育が主要な検討課題として取り扱っているテーマが、ひととおり出揃っています。
でも、日本の子どもの人権論の側は、これらの課題を今、どのくらい検討しているのでしょうか? 特に上記のとおり、1970年代あたりから指摘されてきた日本のマイノリティや差別問題に関する諸課題について、もしも日本の子どもの人権論があまり検討を深めてこなかったとしたら、それはそれで、大きな研究上の空白部分があることになります。その空白部分をどのようにして埋めていくのか、そのことを今後、私たちは引き受けていかなければいけないかな・・・・と思ったわけです。
そんなわけで、今、『季刊教育法』を古いものから順に読み直す作業をすすめています。その作業をすすめるなかで見えてきたことがあれば、またこのブログでお知らせすることになるかと思います。もっとも、その前に論文にして公表する作業が先になると思いますが・・・・。
<追記:「つづりかたきょうしつ」その2>
前回に引き続き、ある方が、文章の書き方の参考にこのブログを読んでくださっているようですので、「つづりかたきょうしつ」の2を書いておきます。
これは学部生の卒論指導でも、大学院生の修論作業でもそうなのですが、基本的に私は「書く」前に「読む」作業を大事にするように働きかけをしています。つまり卒論ゼミの学生でも、修論ゼミの学生でも、その人の今の実力にあわせる形で、「ある程度の質・量の文献を読みこむ作業をすると、その質・量に応じて何か書けるようになるのでは?」ということですね。
たとえば、私のゼミでは、「とりあえず、このテーマについて、論文を10本集めてみよう」とか、「このテーマについて書かれた本を10冊読んでみよう」とか、そういう指示をよく学生・院生に出します。その上で、学生や院生には、「では、集めたものを読んでみて、わかったことを何点かの要点に整理して、文章で書いて説明してごらん?」と言います。そして、「その整理して、まとめた内容に対して、自分はどんなことを考えたのか。納得したのなら、どこをどう納得したのか。これはちがうと思ったら、どこに違和感を抱いたのか。それを説明してごらん?」とも言います。
この作業、気づかれた方もいるかと思いますが、要は、論文を書く上で重要になる「先行研究の批判的検討」という作業です。この作業を手抜きすることなく、できるだけていねいに、まとまった形で行うと、それだけでいくつか新たな発見をすることもできます。また、修士論文のレベル以上の学術論文を書く場合には、この作業をていねいにすることで、従来の研究に対する自分の研究の位置づけをはっきりとさせることもできます。
ちなみに、私はアンケートや統計を扱うような量的調査の専門家ではないですし、インタビューやフィールドワークなどの質的調査にはある程度対応できますが、それを本職としている人に比べてみると、「まだまだ、こんな程度では・・・・」という部分が多々あるでしょう。
ですが、「先行研究の批判的検討」という作業だとか、「古い文献を読み直して、もう一度、研究すべき課題を整理しなおす作業」であれば、かなりしつこく(というか、ねちっこい)作業に取り組むことができます。特に、あるテーマに即して古い教育書、教育雑誌や教育関連の新聞記事を読み直したりして、そのテーマに関する議論の形成過程を追う作業をして、そこでわかってきたことをふまえて今の状況にものをいうこと。これは、修士論文を書いた頃から何度も繰り返し取り組んできたことですね。
研究の方法も、文章の書き方も、ひとつの方法しかないわけではありません。たぶん、検討したい課題や訴えたいメッセージの中身に応じて、研究方法やその成果をまとめる文章の書き方にも、いろんなバリエーションがあると思います。要は、「自分の検討したいことがなんなのか。また、それを検討して何がわかったのか」が、きちんと伝わるような研究方法、文章の書き方になっていれば、それが一番、その人にふさわしい方法なのでは・・・・と思います。
ということで、今回の「つづりかたきょうしつ」の話は終わります(笑)。
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