できることを、できる人が、できるかたちで

京都精華大学教員・住友剛のブログ。
関西圏中心に、教育や子ども・若者に関する情報発信を主に行います。

古い文献を読み直そう(6)

2011-02-28 22:50:11 | いま・むかし

前にこのタイトルでブログを書いたのは、2年くらい前になります。久々にこのタイトルで文章を書こうと思います。なぜそう思ったのかといいますと、実はおとといの土曜日(26日)、京都でのある研究会で報告した中身にそれが深くかかわるからです。

この数日、私はその研究会に備えて、1971年創刊の雑誌『季刊教育法』を読み直す作業を続けていました。今はちょうど10年分、1971年~1981年までの分40冊にとりあえず目を通し、子どもの人権にかかわりがあると思われる記事や掲載論文のリストアップが終わった段階です。その段階までの作業でわかったことを中心に、おとといは研究会で報告をしました。今後、80年代、90年代と、子どもの権利条約(児童の権利に関する条約)の批准の頃まで、この作業をつづけてみようと思っています。

ではなぜ、こんな作業をはじめてみる気になったのか。ひとつは、我が家にある『季刊教育法』のバックナンバーを無駄にしたくないという思いから。

今は亡き岡村達雄さんが関西大学を退職されるときに、私たち教え子に「必要な本や雑誌があれば、ひとこと断ってくれたら、研究室から持って行っていい」とおっしゃられました。そこで私は、当時、研究室にいた大学院生が障害のある子どもの教育について修士論文を書こうとしていたので、これに関する文献を段ボール箱一箱分くらい、譲りうけました。

その障害のある子どもに関する文献とあわせて、岡村さんから私が譲りうけたのが、一部抜けている号はあるものの、創刊号からほぼそろった状態の雑誌『季刊教育法』。今は167号まで出ていますが、岡村さんから譲られたものと私がその後買い揃えたものとをあわせれば、ほぼ全部、我が家にそろっているわけですね。それを読まないままにおいておくのは、ほんとうに「もったいない」という思いがあったからです。

それともうひとつが、今の子どもの人権論と、大阪あたりで取り組まれている人権教育論との間にあるギャップ、ここを埋めたいという思い。それが私にはあります。そのための基礎作業のとりくみとして、『季刊教育法』を古いものから読み直す作業をはじめてみたわけです。

それこそ、かつて1970年代、日教組の教育制度検討委員会がまとめた『日本の教育改革を求めて』(勁草書房、1974年)には、被差別のこと、障害者のこと、在日朝鮮人のこと、今でいう「ジェンダー」のこと、子どもの貧困(養護施設出身者のことを含む)、沖縄・アイヌの人たちのこと等々、今、人権教育が主要な検討課題として取り扱っているテーマが、ひととおり出揃っています。

でも、日本の子どもの人権論の側は、これらの課題を今、どのくらい検討しているのでしょうか? 特に上記のとおり、1970年代あたりから指摘されてきた日本のマイノリティや差別問題に関する諸課題について、もしも日本の子どもの人権論があまり検討を深めてこなかったとしたら、それはそれで、大きな研究上の空白部分があることになります。その空白部分をどのようにして埋めていくのか、そのことを今後、私たちは引き受けていかなければいけないかな・・・・と思ったわけです。

そんなわけで、今、『季刊教育法』を古いものから順に読み直す作業をすすめています。その作業をすすめるなかで見えてきたことがあれば、またこのブログでお知らせすることになるかと思います。もっとも、その前に論文にして公表する作業が先になると思いますが・・・・。

<追記:「つづりかたきょうしつ」その2>

前回に引き続き、ある方が、文章の書き方の参考にこのブログを読んでくださっているようですので、「つづりかたきょうしつ」の2を書いておきます。

これは学部生の卒論指導でも、大学院生の修論作業でもそうなのですが、基本的に私は「書く」前に「読む」作業を大事にするように働きかけをしています。つまり卒論ゼミの学生でも、修論ゼミの学生でも、その人の今の実力にあわせる形で、「ある程度の質・量の文献を読みこむ作業をすると、その質・量に応じて何か書けるようになるのでは?」ということですね。

たとえば、私のゼミでは、「とりあえず、このテーマについて、論文を10本集めてみよう」とか、「このテーマについて書かれた本を10冊読んでみよう」とか、そういう指示をよく学生・院生に出します。その上で、学生や院生には、「では、集めたものを読んでみて、わかったことを何点かの要点に整理して、文章で書いて説明してごらん?」と言います。そして、「その整理して、まとめた内容に対して、自分はどんなことを考えたのか。納得したのなら、どこをどう納得したのか。これはちがうと思ったら、どこに違和感を抱いたのか。それを説明してごらん?」とも言います。

この作業、気づかれた方もいるかと思いますが、要は、論文を書く上で重要になる「先行研究の批判的検討」という作業です。この作業を手抜きすることなく、できるだけていねいに、まとまった形で行うと、それだけでいくつか新たな発見をすることもできます。また、修士論文のレベル以上の学術論文を書く場合には、この作業をていねいにすることで、従来の研究に対する自分の研究の位置づけをはっきりとさせることもできます。

ちなみに、私はアンケートや統計を扱うような量的調査の専門家ではないですし、インタビューやフィールドワークなどの質的調査にはある程度対応できますが、それを本職としている人に比べてみると、「まだまだ、こんな程度では・・・・」という部分が多々あるでしょう。

ですが、「先行研究の批判的検討」という作業だとか、「古い文献を読み直して、もう一度、研究すべき課題を整理しなおす作業」であれば、かなりしつこく(というか、ねちっこい)作業に取り組むことができます。特に、あるテーマに即して古い教育書、教育雑誌や教育関連の新聞記事を読み直したりして、そのテーマに関する議論の形成過程を追う作業をして、そこでわかってきたことをふまえて今の状況にものをいうこと。これは、修士論文を書いた頃から何度も繰り返し取り組んできたことですね。

研究の方法も、文章の書き方も、ひとつの方法しかないわけではありません。たぶん、検討したい課題や訴えたいメッセージの中身に応じて、研究方法やその成果をまとめる文章の書き方にも、いろんなバリエーションがあると思います。要は、「自分の検討したいことがなんなのか。また、それを検討して何がわかったのか」が、きちんと伝わるような研究方法、文章の書き方になっていれば、それが一番、その人にふさわしい方法なのでは・・・・と思います。

ということで、今回の「つづりかたきょうしつ」の話は終わります(笑)。

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学校事故・事件や子どもの自殺ケースにも検証作業を

2011-02-24 19:06:32 | ニュース

もうひとつのブログにも書きましたが、昨日は(社)子ども情報研究センター主催の学習会に朝から出かけていました。

その学習会は、津崎哲郎さん(花園大学)のお話を聴く会で、テーマは大阪市社会福祉審議会児童福祉専門分科会児童虐待事例検証部会(これが正式名称。しかし長すぎる!)が去年の暮れに出した、子どもの虐待死事例の検証結果報告書のこと。

なお、この報告書そのものについては、大阪市こども青少年局の下記のホームページで見ることができます。http://www.city.osaka.lg.jp/kodomo/page/0000084699.html

また、これは私も先ほど知ったのですが、大阪市は去年の暮れに、「児童を虐待から守り子育てを支援する条例」(条例の趣旨はさておき、もうちょっといいネーミングはないものか・・・・?)を制定しています。これも、下記のホームページで見ることができます。http://www.city.osaka.lg.jp/kodomo/page/0000106580.html

どちらも大事な取り組みだと思うし、大阪市が子ども施策の面でかなり「がんばっている」と思われるので、ここで紹介しておきます。

その上で、報告や条例の内容はこちらのホームページを見てもらう形で脇に置くとして、津崎さんの話を昨日伺っていて思ったのは、やっぱり、ここ最近私がこだわっている学校事故・事件や学校関連の子どもの自殺に関すること。

子どもの虐待防止については、「児童虐待の防止等に関する法律」(児童虐待防止法)の趣旨にもとづいて(具体的には第4条第5項)、死亡事例のような深刻なケースが起きたときには、その事例への対応を分析・検証し、今後の防止策の改善へとつなげていこうという方向性がはっきりしています。だからこそ、児童相談所での仕事に長年たずさわってこられた津崎さんのような方を外部から呼んで来て、児童福祉行政が自分たちのケース対応の問題点などを検証する作業が、根拠法令にもとづいて行われるわけですよね。

しかし、これが学校事故・事件や学校関連の子どもの自殺の場合だと、こうはいかない。そもそも学校事故・事件や子どもの自殺について、学校や教育行政当局の対応のどこに問題があったのか、それを検証する作業を義務付けるような根拠法令すら「どこにあるの?」というような状態。そして、学校事故・事件の被害者・遺族や、子どもの自殺に直面した遺族たちが「事実経過を知りたい」と申し出ても、多くのケースでは学校・教育行政当局からは十分な説明もないままに時間が過ぎる・・・・。そういうことが繰り返し、続いています。

児童福祉の分野でも、子どもの虐待防止においてこのような死亡事例の検証作業がはじまるまで、おそらくかなりの時間がかかったかと思います。それでも一応、徐々にではありますが、今回の大阪市での取り組みのように、虐待による子どもの死亡事例の検証作業が進んできているわけです。

学校教育の分野でも、私は、児童福祉の分野に学んで、学校事故・事件あるいは子どもの自殺に関しては、このような検証作業を行う必要があると考えます。文部科学省や各地の教育行政の関係者、そして学校関係者や他の教育学研究者のみなさんは、どのように考えますか?

<追記> 

このブログを読んでおられるある方が、ご自身のブログで、「すみともさんのブログとかの読んでるとほんまにすっきりする」と書いてくださっています。

まずは率直に、「ありがとうございます」と、お礼の気持ちを伝えたいと思います。

ちなみに私、このブログでも、日記帳ブログでも、要は自分が「納得いかない」と思ったら、「どうしてそれが納得いかないか?」を、自分にも、読み手にもわかるように、できるだけていねいに書く。自分が「これはいいな」と思ったら、「どこがいいと思ったのか?」ということを、自分にも、読み手にもわかるように、できるだけていねいに書く。そして、「まずは書いた自分が一番納得して、自分の思いが再確認できるように文章を書こう」ということ。そのことを、2つのブログでは心がけています。

あとは・・・・。「さて~」とか、「ところで~」とか「だから~」とか、「しかし~」「一方~」「ちなみに~」といった「接続詞」の使い方と、段落わけかな、工夫をしているところは?(笑)

ついでにいうと、論文などを書く場合においても、この点をわりと意識して文章を書くようにしています。ご参考までに、書いておきますね。

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いったい、大阪はどんな子ども施策をしたいのだか?

2011-02-22 20:35:13 | いま・むかし

昨日、平松大阪市長から市議会の代表質問で、「2013年度中に、市立中学校128校全校での学校給食を、弁当持参との選択制で実施」という方針が示されたそうです。このことを、私は毎日新聞の今日の朝刊記事で知りました。ちなみに、設備の整備などの「初期投資」に約20億円、その後の運営経費に毎年約十数億円かかると、この記事には出ていました。

正直なところ、「なんだ、この程度の経費で大阪市の市立中学校全校での給食が実施できるのか。だったら今まで、財政事情の豊かだったときに、どうしてやらないのか?」「おまけに、あの施策見直しの頃に、市立中学校で先行的に給食を実施していたのを、いろんな人たちの反対のなかで止めたのは、いったい、なんだったのか?」と思いました。

ついでにいうと「弁当を持たせるのは親の愛」とか言っていた市会議員さんたち、この平松市長の方針にはどういう意見を言うのでしょうか? あるいは、一方で「施策は早急にやめろ」といい、一方で「子どもの権利保障だ」といって市立中学校全校での給食実施を求めてきた市議会会派の方は、この平松市長の方針には、当然、賛成するんですよね?

そもそも今、大阪市役所の側も市議会の側も、市内の子どもたちに関する施策について、将来的なビジョンが何か、あるんでしょうか? ひとまず市立中学校全校での選択制での給食実施は肯定的に受け止めるとしても、しかし、こういう状況を見ていると、「いったい、この街は自治体として、今後どんな子ども施策をしたいのだろう?」と思ってしまいます。

同じことは、大阪府及び府内の各自治体についてもいえます。

今日は大阪府内各自治体の青少年会館などの施設職員の研修におじゃまして、3つの館の実践報告を聞いてコメントする仕事をしてきました。今日は、小学生の子どもたちとともに「人権」をテーマにした15分程度の映像作品づくりに取り組んだ館、指定管理者になったNPOが積極的に障害のある子どもの居場所づくりに取り組んでいる館、平日の午前中に近隣地域の乳幼児とその親たちの子育て支援事業に取り組んでいる館と、とても興味深い取り組みの報告を聴きました。

このような各館の取り組みは社会教育の枠を越えて、人権、まちづくり、福祉、保育・子育て支援など、多様な自治体施策と結びつく可能性を持っています。だから、「地道にこつこつと、各館で職員が交代しても誰かが引き継ぐ形で、それぞれの営みを育てていってほしい。それが地域コミュニティを育てていくと思うし、そのコミュニティに支えられて自立できる人も出てくると思うから」と、私はほんとうにそのことを願います。

ですが・・・・。多くの大阪府内の自治体では、こうした営みが今後、存続できなくなる危険性があります。なぜなら、各自治体で今、既存の青少年会館などに「指定管理者制度」を適用して、3~5年単位でどの団体に館の運営を委託するかを検討するシステムをとることになるケースが増えてきているからです。

この「指定管理者制度」を導入すれば、たとえ運営委託された団体がいい事業・実践を行っていても、3~5年ごとに委託契約を見直すことになります。そのたびごとに、「財政状況がよくないので・・・・」と言って委託費を削減されたり、「近隣の他施設と一体化しての運営委託」という形で施設そのものがリストラされることがでてきたり・・・・という恐れがでてきます。せっかくいい事業・実践を行ってきた団体側にしてみても、その施設を利用してきた子どもや保護者、その他住民にしてみても、「こういうのって、たまらない」と思うのではないでしょうか。

たぶん自治体行政サイドにしてみると「財政状況が苦しい中、背に腹はかえられない」ということで、公務員が事業や館運営を担うことの高コスト体質を改善するというような思惑から、「指定管理者制度」の導入をすすめようとするのでしょう。しかし、「指定管理者制度」の導入を行ったところから、その館の運営や事業を「より安上がりにしよう」という負のスパイラルがはじまるのではないでしょうか。別の見方をすると、「指定管理者制度」の導入は、それを適用して、事業や館運営を担ってもらう諸団体の「買い叩き」につながる危険性すらあるわけです。そんなことが繰り返されていけば、そのうち「こんなお金では誰も事業・館運営は担えない」ということで、誰も指定管理者になる団体が出てこなくなるのではないでしょうか・・・・。

これでほんとうにいいのでしょうか? いったい、大阪市・大阪府や大阪府内の各自治体は、これからどんな子ども施策をしたいのでしょうか? どんな地域コミュニティを育てて、そこでどんな子どもが育つことを願っているのでしょうか?

もうすぐ統一地方選挙だそうですが、私は現場の実践者や子ども・保護者、地元の住民の方とともに、各自治体の首長や議員さんたちに聞いてみたい気持ちになります。

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最近読んだ本から(3)

2011-02-20 18:59:18 | 受験・学校

昨日、大学での仕事のために午後から出勤したら、次の本が著者から届いていました。

森俊一『ファウストの系譜 魂を売った教師たち』(文芸社、2011年)

まだ出たばかりの本なので、これから書店にならぶのだろうと思います。お急ぎの方は、AMAZONでは注文できるようなので、そちらで入手されることをお勧めします。

さて、この本ですが、著者の森さんとは、全国学校事故・事件を語る会が毎年6月ごろに行っている大集会(全国集会)で、何度かお目にかかったことがあります。フリーのジャーナリストの方で、精力的にこの何年か、学校事故・事件の被害者・遺族の方の取材を続けて来られた方です。ようやくその取材の成果を本にすることができたのだなぁ・・・・と、私もうれしく思いました。後日、森さんにはお礼の手紙を書こうと思っています。

このような著者・森さんと私との関係からもわかるように、この本は学校事故・事件の被害者・遺族の方の取材にもとづいて、事故・事件発生時の学校側の対応の問題点を鋭く指摘・告発する本です。特にこの本は、子どもの自殺事案発生時の私立学校の対応を取り上げた2つの章と、柔道部の練習中の事故発生時の公立学校の対応を取り上げた1つの章で構成されています。

どの章の内容からも浮かび上がってくるのは、被害者・遺族側の「経過を知りたい」という願いや申し出に対して、その願いをはぐらかしたり、事実を隠そうとしたり、当初の発言をひるがえして別のことを言ったりするような、そんな学校(教師)側の対応です。なかには、たとえば学校(教師)側が遺族に対して主張していたことが二転三転したり、遺族との面談を拒否したり、うそをつこうとしたり・・・・というような、そんな場面も描かれています。

この本で取り上げられているのはたった3件のケースですが、子どもの自殺のケースを含む学校事故・事件では、私の知る限り、学校(教師)側から、この本の3件のケースとよく似たような対応が繰り返し出てきているように思います。そして、私の身近なところにいる方を見る限り、そのような学校(教師)側の対応に触れることで、被害者・遺族側にさらなる苦痛を負わせ、心身の被害の回復を遅らせたり、こじらせたりしているように思えることすらしばしば見受けられます。

さらに、この本では、私立学校で学校事故・事件が生じたときに、被害者・遺族が直面したときの諸問題にも触れられています。すなわち、その私立学校が「進学実績」を上げることで評判を高めようとしている学校であれば、その実績を上げる裏で、生徒たちのさまざまな問題について、校内で「隠される」ことも多々あること。あるいは、そのような学校では、たとえば「成績をあげること」「進学実績をあげること」に教師たちの関心が集中する分、それ以外の面での生徒たちへの働きかけがおろそかになったり、心身に何か悩みのある生徒への細やかな配慮ができなくなっている面もあること。そして、そのような学校の経営者や管理職が強い権限を行使して、ひとりひとりの教師たちに「ものが言えない」雰囲気を作り出していること。こうしたことが日ごろからその学校の雰囲気を歪んだものにしていて、そのなかで学校事故・事件が起きたときに、被害者・遺族側にさらなる追い討ちをかけるような対応を生み出している・・・・。こんなことを、この本から読み取ることができました。

先日もこのブログで、「子どもを見るときの観点の問題」というタイトルで、私はテストの点数のような「目に見えること」にのみこだわる教育のあり方に違和感を抱いていることを書きました。その違和感の源は、きっと、こうした学校事故・事件の問題に触れるなかで作られているのだろうな、と思います。また、私は「公立学校は私立学校を見習え」式の教育論にも違和感を抱くのですが、その違和感の源にも、きっと、学校事故・事件発生時の対応に現れるものがあるのだろうな、と思っています。

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子どもを見るときの観点の問題

2011-02-18 23:54:56 | 受験・学校

しばらく更新が途切れてしまいました。この間ほんとうにいろいろありまして、心身ともにちょっと疲れました。どんな事情があったかについては、もうひとつの日記帳ブログを見てお察しください。

さて、このブログ及び日記帳ブログとは別に、この約1年くらい、いま流行の「ツイッター」にもかかわって、私もそこでいろんなことをつぶやいています。ですが、今の平松大阪市長ではありませんが、個人的には日常会話の延長みたいなこと、あるいはプロ野球の野村元監督の「ぼやき」みたいなことはツイッターに発信しても、そこで本格的な教育論や子ども論みたいなことを書き込んだり、誰かに論争をふっかけたりすることは、あえてしないでおこうと思っています。「連続ツイート」という方法はあるものの、基本的に、140字で的確に相手につたわるように自分の意見を書いて伝えられるかというと、「それはむずかしいだろう」と思うので。

ただ、ほかの人がツイッターで教育や子どもにつぶやいていることを見ていると、正直「これってどうなのだろう・・・・?」と思うこともあります。特に最近「どうなの?」と思ったのが、ある大学教員の方のつぶやきをツイッターで見たときのことです。

どうやらその方は、子どもの学びとか人間の学習というものを、英語・国語・数学(算数)・理科・社会の5教科中心に、しかも「学力テスト」などで数字で測れるものを重視する形で考えている様子。だから、その数字を挙げるための競争も当然、肯定ですし、美術や音楽などは家庭間の階層格差がはっきりと出るから、学校では重視しなくてよいとすら、その方はおっしゃるわけです。もちろん、これは私の側からのその方の見解の「まとめ」なので、かなりうがったまとめ方をしているかもしれませんが。

ただ、たとえば美術や音楽といった「芸術的・文化的な活動」への参加だって、子どもの権利条約の趣旨からすれば、このブログで何度も書いてきたように、子どもの権利保障の観点から学校外でそれに触れる機会を充実させていく方向性だってとれるわけですよね。

また、子どもの学習の成果を、テストの点数など「目に見える形で、数字で表されるもの」に置き換えて理解するというのは、それはしょせん、子どもの側の都合ではなくて、子どもに接する「おとなの都合」で定めたもの。つまり、おとなの都合で生み出された「バーチャルなものさし」でしかない。そのことを、一方でそういうテストなどを使って子どもの状態を見ながらも、どこかでおとな側がわかっておく必要もあるのではないでしょうか。

それこそ、学校でのテストの点数など「目に見える数字」では高い評価を得ている人たちが、この日本社会において、「時代の状況をたくみに読み解き、時々刻々と変化する社会の舵取りをする力に長けている人」たりうるのかどうか。もしも「そうなのだ」とすれば、今の日本社会の政治や経済の混迷状況など、とっくの昔に脱しているのではないでしょうか。なにしろ、今の日本社会をリードするエリート層の人々には、学校でのテストの点数を上げる競争に勝ち抜き、有名な大学などを出ている人たちが圧倒的多いわけですからね。

だから私にしてみれば、「子どもに競わせて、目先の1点や2点を上げるために教育の在り方をどうこうという議論をするよりも、もっと子どもたちがより深く、人間というもの、社会や文化というものを見つめる目を育てることに向けて、教育の在り方を考えていくほうが、これから先の日本社会を考えたときには大事なのではないか?」という思いがあります。

たぶん、こういうことを書くと、その方は「そんな目に見えない、あいまいなものに頼る教育論ではダメだ」とか言うのかもしれません。しかし、もともと子どもの学習の度合いの深まりだって「目に見えないあいまいなもの」であり、それを「あえて、目に見える形にする」ための方法として「テスト」という手続きをとっているのだ、と考えればいかがでしょうか?

子どもに限らず、人が何かを学んで、変わっていくという姿は、私たちが日常的にいろんな場面で見聞きしていることではあります。ですが、それをテストをつくって点数化するような、計量的な手法でのみとらえて理解し、教育の目的や方法について論じていくというのは、実はその「何かを学んで、変わっていく姿」のなかの、しょせんはごく一部分を、見ている側の都合で切り取って議論しているのにすぎないということ。その自覚だけは、どこかでしておいてほしいな、と私は思います。

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講演や研修の依頼の仕方でわかることも多々ある。

2011-02-08 23:32:35 | 学問

ツイッターのほうでも少し連続してつぶやきましたが、こちらでも「まとめ」的に書いておきます。

先週、今年夏休みの職員研修で子どもの人権関連の話をしてほしいと、ある民間研究団体経由で、とある自治体(ここではA市としておきます)からの依頼を受けました。そして、そのA市に「こんな講座を企画している」ということがわかるような文書を大急ぎで書いてほしいと、その研究団体からあらためて依頼がありました。

で、その民間研究団体からの連絡のメールを見て、私はびっくり。要はこの依頼、「講師に丸投げ」状態の企画で、こちらから提案すればそれが全部通ってしまうような、そんな形でその民間研究団体にA市はお願いしてきていたのです。

「なんて無責任な・・・・」というのが、依頼もとのA市に対する正直な私の実感。これだけで「子どもの人権」に関する自治体行政の課題についてどれだけ問題意識があるのか、A市の研修担当者のレベルがわかってしまいますよね。

これに対して、先月末に大阪市の西成で障害のある子どもたちの職場体験活動をすすめている市民グループからの依頼の場合、自分たちが今、どんな活動をすすめているのかという説明があった上に、その活動と子どもの権利条約との関係を考える学習会を、ボランティアや団体のスタッフなどと開きたい、という趣旨で依頼がありました。これだと、私は何をその学習会で話せばいいか、具体的ですよね。

あるいは、多くの自治体の職員研修や社会教育などでの人権講座の場合、必ずといっていいほど、事前にその研修や講座の担当者の方が、メールや電話で直接連絡をくださったり、あるいは、わざわざ大学や自宅の近辺まで来てくださって、ていねいに打ち合わせをするケースが多いです。

たとえば、大阪府内の青少年会館職員の研修を昨年末に行ったのですが、そのときも研修の企画を担当されるある市(ここではB市、とします)の青少年会館のスタッフが、わざわざ西宮まで打ち合わせに来てくれました。そこで、今の府内青少年会館各館が直面する課題だとか、私がこれまでにまとめた論文や調査報告書の中身とその課題の関係とか、そんなことをひととおりふまえての研修の依頼だ、という趣旨を説明していただきました。

あるいは、その青少年会館職員の研修を聴いたという別の市(ここではC市、とします)の青少年会館の方から、年明けになって、「あのときの話を、ぜひうちの館でもやってほしい」という形で、次の依頼が入ってきました。また、このC市の青少年会館職員研修の打ち合わせも、近々、大阪市内で先方のスタッフとお目にかかって、きっちりやるつもりでいます。

こんな感じで、私としては、たとえばB市やC市の職員のみなさんだとか、あるいは先日の西成の市民グループの方のように、講座の企画や講演・研修の依頼に際しては、前もってきっちりと打ち合わせや何か連絡・調整の作業があってしかるべきだと思っています。また、そうやって依頼してきた方との共同作業で、はじめていい講座の企画や講演・研修の内容が作れるのだと思っています。だから、A市の研修のように「丸投げ」されてしまうとなぁ・・・・と思ってしまったわけです。

もっとも、これから夏休みまでかなり時間があります。ひとまず書類上の手続きだけこんな形ですすめて、あとでじっくり、A市側と講演内容をつめていければそれでいい、という思いもあります。

それと、たとえ「内容や運営方法などは講師に丸投げ」という形で私に依頼されても、それでも「子どもの人権について、自治体職員研修をやろうという意欲が見えるだけ、まだましかも?」という思いもあります。なにしろ、「子どもの人権」に関する職員研修にどれだけ熱心に取り組んでいるのか、きわめてあやしい自治体もあるわけですからね・・・・。

ただ、研修や講演、講座の企画などで依頼を受ける側のひとりとして、「どういう形で依頼をしてくるかによって、そのテーマに対する相手の側の問題意識や意欲・関心の度合いもわかる」という面があること。そのことだけは、研修や講座の企画の担当になった方、どうぞお忘れなく。こちらとしては、講師として私も出かける以上、お互いに実りのある講座や研修、講演にしたい・・・・と、いつも願っていますので。ぜひ、いい講座、研修、講演会を、いっしょにつくりましょう。

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最近読んだ本から(2)

2011-02-05 16:44:38 | いま・むかし

久々のこちらのブログへの投稿になります。今日も最近読んだ本へのコメントです。

いま3回生ゼミにいる学生が次年度、卒論で青少年健全育成条例関連の諸課題に取り組む予定なので、次の本を読んでみました。

藤井誠二『18歳未満『健全育成』計画』(現代人文社、1997年)

出版された時期からもわかるように、この本、90年代前半~中ごろあたりの状況をふまえてつづられたものです。とりわけ、90年代前半の「有害」コミックへの規制、90年代半ばのいわゆる「援助交際」問題に関する処罰規定の整備など、各地の青少年健全育成条例の改正をめぐる状況を、著者・藤井誠二さんが地道にこつこつと取材して書かれたものです。

この本の「まえがき」部分で、著者は次のように述べています。

「非行防止」だとか、「青少年健全育成」運動の代表例である「有害」指定は、おとなの自己満足にすぎないのではないか。「子ども」は心身ともに未熟であり、判断力に乏しく、悪に染められやすいものだから、「有害」情報や環境から保護し、「健全」な情報のみを与え、清浄野菜のように「育成」しなければならないと考えている人たちは、子どものためを装いながら、じつは「子どもたちのためにがんばっている」という自分たちのカタルシスを得るために行動しているにすぎないのではないか。(p.10)

この藤井さんの指摘、「有害」情報規制に限らず、子どもの「保護」を目的とした他のさまざまな活動にも、程度の差こそあれあてはまるような思いがあるのですが・・・・。

でも、どこまでが子どもにとって「必要な」保護・お世話で、どこから「余計な」保護・お世話なのか。その線引きが必要ではあるものの、なかなかえいやっ!とスパッと切れない部分もありますよね。

ただそれでも、子どもの「保護」を目的としたさまざまな活動に携わる人たちが、いったい、どのような子ども理解を前提にしてその活動を続けているのか。もしかしたら、肝心の子どもがそっちのけになって、その活動にかかわっているおとなの自己満足に陥っていないか。そういうことを危惧する指摘として藤井さんの先ほどの文章を読めば、私はやはり「一理あり」と思いました。

それとともに、面白かったのは1980年代の東京都の性教育に関する施策の構想案。藤井さんのこの本のp.110に出てくる「ティーンズ・プラザ」構想って、今でもすぐにやれば役に立ちそうなくらい、先進的な構想です。

この構想は、「青少年の心身の問題の対応には、教育的対応、保健医療面の対応、福祉面の対応、の三本柱が必要である」というところから、この三つが総合的に連携強化した「青少年のための総合サービスセンター(ティーンズ・プラザ)」を設置するというもの。また、そこでは相談室(簡単な検査や診察も行う)や「性の教育」のプログラムやカリキュラム・教材の開発、性の問題に関する情報の収集と提供サービスを行うとか。さらに、若者の感覚にフィットしたショッピングアーケード、室内スポーツ場、音楽ホール、オープンスペース、サロンなどもそこに備えるとか(前掲書、p.110を参照)。

この「ティーンズ・プラザ」構想って、たとえば「ひきこもり」や「ニート」の人たちへの対応に「ワンストップ・サービス」窓口を設置してあたろうという、最近の「子ども若者育成支援推進法」がねらっている方向性とも、かなり似ているのではないでしょうか? また、このように考えると、教育と心理、医療、福祉が一体となって「課題のある」子ども・若者への支援に乗り出そうという構想は、日本では80年代からぽつぽつ芽生えていたのだ、という見方もできますよね。

むしろ、そういう先進的な取り組みを実施することを阻んできたのはなんなのか・・・・。この本を読んで、そこを今、問い直す必要があるように思いました。

ひとまず、今日のところは、このあたりで失礼します。

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