できることを、できる人が、できるかたちで

京都精華大学教員・住友剛のブログ。
関西圏中心に、教育や子ども・若者に関する情報発信を主に行います。

この1か月間に現れた諸課題を『新しい学校事故・事件学』をふまえて整理する(神戸の学校で起きていることをめぐって)

2019-10-30 20:57:35 | 受験・学校

この間、ずっとこのブログで論じてきましたが…。

神戸・須磨の小学校で起きた教員間いじめ問題がマスメディアで大きく取り上げられ、SNS上での反響なども含めて社会問題化しはじめてから、もうすぐ1か月になろうとしています。

そこで、この1か月間、この教員間いじめの問題に関して、私がくり返しこのブログで訴えてきたことを、あらためてここで整理し直しておきたいと思います。また、この教員間いじめの問題に先だって、今年(2019年)の春先には、いじめの重大事態の再調査報告書も出されました。そちらの問題にも関連することがいくつかありますので、ここで課題を整理しておきたいと思います。

ちなみに、ここで以下のとおり、教員間いじめ及び子ども間のいじめの重大事態に関する諸課題の整理を私なりにしますと…。およそ、今の学校事故・事件をめぐって何が問題なのかもわかってくるように思います。その整理の観点は、(1)~(3)のとおりになります。

また、以下のような課題の整理の仕方は、私が『新しい学校事故・事件学』(子どもの風出版会、2017年)を書いたからこそ「できる」ようになったのかもしれないな…と思って書いています。

(1)当該の事故・事件を起こすに至る経過と背景要因

そもそも、学校で子どもが亡くなったり、あるいは教職員間でいじめが起きたりするに至るまでに、いったい、何があったのか。また、そういう悲しい出来事に至る背景要因としては何が考えられるのか。この次元の問題があります。

たとえば垂水区の中学校で起きたいじめの重大事態(自死)のケースで言えば、お子さんが亡くなるに至るまでのいじめの経過や、そのいじめに対する学校側の対応の問題点などがここに該当します。また、神戸市の小中学生の学校生活が息苦しくなるような、そういう教育施策の諸問題(これは文科省レベル、神戸市レベルの両方がありますが)も、ここに含まれます。

あるいは、須磨の小学校の教員間いじめ問題でいえば、被害にあった教員と加害教員との間で何が起きたのか、そのときの教職員集団の雰囲気や管理職の対応がどのようなものであったのか、といった諸問題がここに該当します。また、このような教員間いじめが起きた背景にある神戸市の教育施策、さらには文科省の教育施策の問題も、ここに含まれます。

本来、起きてしまった悲しい出来事を調査・検証して、何らかの是正策を講じなければいけないのは、まずは(1)の次元の問題です。そのために、たとえば関係する教職員や子ども、保護者からのていねいな聴き取り、アンケートの実施などをふまえて事実経過を把握し、何が今回の問題で是正すべきポイントなのかを明らかにして、教育実践面や教育施策面の両方から今後の再発防止策を考えていく必要があります。

(2)当該の事故・事件が起きたあとの対応(事後対応)の経過とこれに関連する諸問題

次に、起きてしまった出来事そのものは悲しいと言わざるをえないのですが、でも、そのあとの学校や教育行政の事後対応のあり方次第では、その出来事をふまえた学校や教育行政の再生をはかっていくこともできます。ですが、この事後対応の時点で、たとえば亡くなった子どもの遺族と学校・教育行政との間などで、さまざまな問題が生じてきます。

先述の垂水区の中学校でおきたいじめの重大事態でいえば、再調査開始前に、事後対応の過程での市教委関係者によるメモ隠蔽の問題が明らかになりました。遺族側が「亡くなった我が子に何が起きたか、事実を知りたい」と思っていたのに、学校や教育行政側からこのような事後対応が行われると、当然、不信感を抱くことになります。

当然のことですが、このような事後対応のあり方そのものは、今後、是正していかなければなりません。ちなみに、学校や教育行政が行ってきた従来の事後対応のあり方を問い直すのが、前出の拙著『新しい学校事故・事件学』のテーマのひとつです。

また、須磨区の小学校で起きた教員間いじめの問題でいえば、たとえば被害にあった教員が苦情を訴えたときに管理職がどのような対応を行ってきたのか。また、市教委としてこのような教員間いじめの発生時にこれまで、どのような対応を行ってきたのか。こういう教員間の問題に関する事後対応のあり方も当然、問われてくると思います。そして、たとえば教職員間トラブル、あるいは教職員が仕事をする上での困難に関する相談・苦情申し立ての仕組みの不在などの課題があれば、この(2)の事後対応の課題に含めてもいいかもしれませんね。

なお、この(2)の事後対応に関する問題についても、私としては法的な観点だけでなく、教育学的・心理学的な観点からの調査・検証を行い、その結果をふまえた事後対応の問題点の是正、再発防止策の実施をはかっていく必要があると思います。また、そのためにも、やはり関係する教職員や保護者、子どもなどからの事情を聴く作業が必要になるでしょう。

そして、教員間いじめの問題でいえば加害教員と被害にあった教員、子どもどうしのいじめでいえばいじめていた子どもと被害にあった子ども、それぞれ双方への教育学的・心理学的な対応が、法的な対応に合わせて必要になるでしょう。また、周囲に居合わせた子どもや教職員へのケア・支援、学校再建に向けての取り組みも大事になると思います。

それこそ、たとえば今回の教員間いじめの問題でいえば、被害にあった教員の職場復帰に関する諸課題もここに含まれます。また、加害教員への懲戒処分及び処分後の「立ち直り」への諸課題についても、当然、ここに含まれます。周囲の教職員や当該の学校の子どもたちの受けた心身のダメージへの対応(=報道被害によるものを含む)も、ここに含まれるものと考えます。

ちなみに、川西市の子どもの人権オンブズパーソン制度は、いま、私が知る限り、あくまでも子どもの課題に限定されますが、この(1)(2)の両方の課題に適切に対応できる有効なシステムのように思います。もちろん、教職員間の紛争だと、その紛争自体は扱えず、あくまでも教職員間の紛争から派生的に生じたり、それにまきこまれたりする子どもの諸課題に限定されるわけですが。

(3)(1)(2)に対する社会的な反響とそれへの対応

(1)(2)は、どちらかといえば、その重大事故・事件が起きた学校に関係する人々(子ども・保護者・教職員)への対応ですが、(3)はたとえばマスメディアやSNSを通じて火が付いたかのようになっている世論への対応、さらには首長や市会議員などへの教育行政としての対応という課題です。なので「社会的な反響とそれへの対応」という風にまとめてみました。

たとえば垂水区の中学校でおきたいじめの重大事態で言えば、やはり再調査前のメモ隠蔽問題に対して、新聞やテレビなどで市教委に対する批判・非難の声が高まり、ツイッターなどのSNSでも市教委への批判等々が相次いだことと思います。当時、神戸市側は市長・市教委ともに、それら批判・非難への対応に追われていたことかと思います。また、このときも文科省から担当官が派遣され、市教委から事情を聴いて、何らかの「指導」を行って帰ったとの報道もあったかと思います。

また、その対応のなかでいじめの重大事態の再調査の実施を決めるとともに、なぜか、教職員不祥事と併せてメモ隠蔽問題を扱う別の会議体が設置され、市教委の「組織風土」改革なるものが提案されました。しかし、本当にあのとき、教職員不祥事とメモ隠蔽問題の両方をあわせて「組織風土」改革なるものを検討することが必要なことだったのかどうか。私は当時から疑問だったのですが、もしかしたら今回の教員間いじめ問題で何か、分限処分に関する条例改正を行う「伏線」をその頃からつくろうとしていたのかもしれません。

あるいはこのたびの須磨区の小学校での教員間いじめの問題でいえば、一部のマスメディアで激辛カレーを無理やり食べさせられている映像・画像が流れたことで、一気にSNSなどでこの問題に「火が付いた」状態になりました。その結果、たとえば市教委や当該の小学校、あるいは近隣の学校にまで苦情電話が殺到したり、映像を見た子どもたちのなかに心理的に動揺してしまう子どももでました。また、SNS上などでもりあがった「加害教員を早く処分しろ」「仕事を休んでいる加害教員に給料を払うな」という人々の声が、市長や一部市議たちを動かして、分限処分に関する条例改正にまで至ったのが、昨日の時点での状況です。

さらに、「市教委けしからん」「加害教員たち許せない」という声をひきうけるようなかたちで、神戸市長が市教委の「改革」と称して、首長部局に教委対応の担当課長を置いたり、教委側にも改革推進担当の課長を置くことを決めるなどの対応が行われました。そして神戸市教委の博物館や図書館、美術館などの担当部署を首長部局に移す提案のように、「いったい、この対応のどこが本件と関係するのか?」と思うような提案も、神戸市長側から行われるに至っています。まさに、このような神戸市長の動き方は、須磨区の小学校で起きた教員間いじめ問題という悲しい出来事にうまく乗りかかったような、そんな「惨事便乗型」の教育改革、あるいは「教育版のショック・ドクトリン」といえばいいでしょうか。

しかし、このように課題を整理していくとすぐに気付かれるかと思いますが・・・。

たとえば須磨区の小学校で起きた教員間いじめの問題でいえば、本来、神戸市長及び市教委の双方が互いに歩み寄って協力し、解決していかなければ課題は、(3)ではなくて、(1)と(2)の課題です。また、その(1)と(2)の課題についても、本来であれば「加害教員の処分」に関するコンプライアンス(法令順守)等々の法的対応だけでなく、教育学的・心理学的な調査・検証作業を実施すべきことです。その上で、子どもや保護者、地域住民、そして当該の学校に引き続き勤務する教職員の声を聴いて、かなり長期間にわたる学校への支援計画をつくり、「学校再生」の取り組みを着実に実施していくことが、なによりも必要不可欠なはずです。

にもかかわらず、この約1か月間、ひたすら(3)の課題への対応や、あるいは(1)(2)についての「法的対応」ばかりを優先的にやってきた…というのが、この間の神戸市側の動きのように思います。

そして、実は(3)の課題への対応や、(1)(2)の課題でも「法的対応」の課題ばかりを優先的に対応して、なんとなく「市長として、市教委として対応できている」という気分にさせられていくと…。

結果的に(1)(2)の課題のうち教育学的・心理学的なものが、当該の学校を含む神戸市内の学校にずっと残り続けることになります。また、それは別の見方をすると、神戸市や文科省のこれまでの教育施策の課題に「触れないことにする」のを可能とするわけです。これでは、ほとぼりが冷めたころに、また同様の重大事態が生じるのではないか…と、私などは危惧するわけですね。

私が昨日書いたブログのように、なぜ「公的良心の喚起者」としてのオンブズパーソンの例にならって、「ほんとうにこのままの対応でいいのか?」と、今月はじめから神戸の学校で起きていることについて言い続けているのかといえば、上記のような課題整理があってのことです。

昨日は残念ながら、あのような分限処分に関する条例改正案が可決してしまいましたが…。でも、引き続き上記の(1)(2)に関する課題への対応は残り続けています。なので、ここで1か月間の私からの情報発信の内容をいったん整理して、あらためて何が課題かを伝えておきたいと思い、今日のブログをまとめました。今後の神戸市内でのさまざまな取り組みの参考にしてください。


 



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「公的良心の喚起者」ということば(神戸での教員間いじめ問題関連)

2019-10-29 23:28:10 | 受験・学校

兵庫県川西市の子どもの人権オンブズパーソン条例の第7条(オンブズパーソンの責務)の第1項では、オンブズパーソンが「子どもの利益の擁護者及び代弁者」及び「公的良心の喚起者」として、子どもの人権に関する相談に応じたり、子どもの人権案件の調査等を行ったりするなど、「公平かつ適切に」職務を遂行することを定めています。

この「公的良心の喚起者」について、『ハンドブック子どもの人権オンブズパーソン』(川西市子どもの人権オンブズパーソン事務局編、明石書店、2000年)では、次のように説明しています。

「今日の大きく変化する社会のなかで、おとなやおとな社会が子どもたちの現実に的確に対応していくには、人格を持つ個人として子どもを尊重するまなざしを、まずおとな自身が持つことが必要だといえます。子どもをおとなに服従させ従属させる存在としてみたり、おとなの目的のための手段のように子どもをみなすことでは、とりわけ今日の社会においては、子どもの現実を受け止めることも、子どもの最善の利益を求めていくことも、きわめて困難であるといえます。

ここでいう「公的良心」は、子どもへの、このようなおとなのまなざしの根幹にあるものとして述べるところのものであり、対等な人間として共感的に子どもにかかわろうとするなかで、おとな社会が本来的に保持し共有しうる良心と呼べるものです。

したがって「公的良心」は、あくまでも子どもの最善の利益を図るために、主としておとなやおとな社会に求めるところのものであって、オンブズパーソンは、これを条例第1条(目的)および第2条(子どもの人権の尊重)の精神に根ざして、広く喚起する情報発信者であるといえます。」

なんだか、なにがいいたいのか、よくわかるような、わからないような…。そんな文章ですね。

実は私も川西オンブズ在職中は、正直なところ、この「公的良心の喚起者」の説明は「よくわからない」と何度思ったかわかりません。

ただ、川西オンブズで就職してから20年、退職してからだともう18年たちますが、最近になってこの「公的良心の喚起者」という言葉の意味が、なんだか自分の身に染みてきたなあっていう実感があります。

それは具体的に言いますと…。たとえば、今回の神戸・須磨の小学校でおきた教員間いじめ事件でいうと、「加害教員を一日も早く処分せよ」みたいな声が盛り上がるなかで、おとな社会の誰もが「その学校に通い続けている子ども」の今後のことを忘れているようなとき。そんなときに、おとな社会が勝手に加害教員の処分の話で盛り上がっていることを戒め、もう一度「いまもなおその学校に通い続ける子ども」のことに思いをはせ、そこから学校の再建策をいっしょに考えようと呼びかけるような営み。それがまさに「公的良心の喚起者」としての営みではないか。そんな風に、私、思うようになったのです。

さて、残念ながら本日、例の神戸市長が提案した市職員の分限処分条例改正案が、市議会本議会で可決されてしまいました。あれだけ「的外れだ」とか、「他の市職員へのおどし、いじめだ」とか、いろんなことを私はこのブログで言い続けてきましたので…。この結果はたいへん、悲しいというか、残念だというしかありません。

ただ、直接、その市議さんからも連絡をいただいたのですが、ある会派の市議さんたちは、私の書いたこのブログの記事を読んだりして情報を集め、市長の提案する条例改正案に対して、堂々と反対意見を述べたのだそうです。それも「加害教員の処分ばかり議論しているが、本来は当該の学校に通う子どもや保護者たちの意見を聴いて、それに即して学校の再生をはかるべきではないのか?」という意見を述べられたとのこと。これを聴いた市長や他の市議さんたちがどういう反応を示したのか、知りたいところです。

あるいは、実際に条例改正案が可決されたものの、付帯条項付きだそうです。付帯条項がつくということは、一応はこの条例改正案を可決するが、でもその内容にいろいろと問題があって、そのままでは使えない、もっと検討すべき事項があるということを、市議会として確認をしたということです。

「だったら、可決成立させるなよ…」と、正直なところは思いますが。

でも、先の反対意見の存在といい、付帯決議がつくことといい、「今回限りのことだから…」「今回の事件は異例のことだから…」みたいなことで、なんとか条例改正案を急いで通そうとした市長に対して、市議会としてかなりクギを刺したということだけは言えます。また、少なくとも「条例改正案は通したけれども、道義的にはもはや、ボロボロ」という状態に神戸市長、陥ったのではないかと思います。

そして、このプロセスのなかでもわかるとおり、実は市議さんたちの間にも子どもたちのことを思う「公的良心」は潜在的にあって、それがいま、何らかの形で花開きつつあるのではないか…と思ったりもします。あとは、市議さんたちの「公的良心」が今後、どこまで、どんな形で花開くのか、それをしっかりと見守り、よりよく花を咲かせることができるようにお手伝いしたいと考えています。また、今回、何かの事情で反対票を入れられなかった会派の市議さんたちも、ここからご自身なりに「公的良心」を花開かせて、あらためて「子どもたちにとって何が最善か?」を考えていただければと思います。

と同時に、実は今日、ある神戸市内の保護者の方からお手紙を頂戴しました。その方は私のブログを読まれていた方で、神戸・須磨の小学校で起きた教員間いじめ事件をめぐる議論に対して「何か、この流れはおかしい、ちがう」と思っていたそうです。でも「何かおかしい、ちがう」と思っていたことに対して、ご自身のことばではうまくいえない。そんなときに、私のブログを読んで「そうそう、これが言いたかったこと」と思われたとのことでした。

こんな感じで、きっとこの保護者の方以外にも、私のブログを読んで「そうだ、こっちが大事なことなんだ」と思われた方が何人かいらっしゃると思います。そういう方々のなかにも、まさに「公的良心」のタネは眠っていて、それが今、花開こうとしているのではないか…と思います。

以上のような次第で、今後もこの教員間いじめ事件のこと、垂水区の中学校でのいじめの重大事態再調査のこと等々、神戸の学校で起きていることを含めて、引き続き、私なりに「公的良心の喚起者」としての道をいろいろと模索していきたいと思います。今後とも、どうぞよろしくおつきあいください。

なお、あす以降も神戸での教員間いじめ事件のこと等々に関連して、できるだけ毎日、ブログの更新をしていきたいと思います。ただ…。今週はあさって10月31日から学園祭の時期に入って、留学生や日本人学生のサポーターとともに模擬店を出す予定になっていまして…。もしかしたら2~3日、更新が途切れるかもしれません。「そういう事情だ」とご理解ください。



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起きた教員不祥事よりも、そのあとの「対策」の方が「危険」なこともある。

2019-10-29 06:29:44 | 本と雑誌

私がうちの大学の教員になって間もないころに、大学院時代の指導教授+先輩たちとの共同研究の成果をまとめて出した本。この本の読書会を続けてきてもう4年になるんですが…。いよいよ今日で終わります。

その本は、『日本近代公教育の支配装置―教員処分体制の形成と展開をめぐって―』(岡村達雄編著、社会評論社、2003年(改訂版))です。今はもう古本屋などでしか入手できないと思います。

タイトルからもわかるとおり、この本は近代日本の教員処分、特に小学校教員の処分に関する歴史的な研究の本です。

この本の「ネタ」集めで、私は主に1920年代以降の敗戦前の教員処分の事例を古い教育雑誌・教育新聞などから拾ってくるという作業をしていたのですが…(それが大学院生時代の研究課題のひとつです)。

そのときに、たとえば今でいう不倫をしてかけおちをする教員とか、校内で教員間の紛争や校長や教員との紛争が起きて、「ケンカ両成敗」で双方とも転勤した事例とか。

あるいは校長をいじめてやろうと思って「御真影」や「教育勅語」を校舎の片隅に隠した教員とか。教え子を殴って保護者から「訴えるぞ」と言われた教員とか。

そういう事例を数多く、古い教育雑誌や教育新聞の記事で見聞きしました。

なので、例の神戸・須磨の一件についても、私はこの本が対象としたくらいの長い教員の歴史的な枠組みで見たら、「そんなことは、起きてほしくはないけど、どこかで起きる」くらいにしか思ってません。

むしろ、こういう教員不祥事のあとに「同じことが二度とあってはならない」といって、行政が教員処分体制を必ず強化する。そっちの方が「タチが悪い」と。なにしろ、その強化された教員処分体制をつかって、「赤化」教員の追放・処分なども行われていったり、教員の思想転向を迫っていったりもするわけですから。

あるいは一方で不祥事を起こして問題視される教員が居れば、他方で教員「美談」がつくられる。それもまた「タチが悪い」と。なにしろ1930年代あたりから、たとえば学校が火事になって焼けたりしたときに、自ら大やけどを負っても「御真影」や「教育勅語」を取りにいった校長や教員は、当時の新聞などでの「美談」の対象になるのですよね(もちろん、それ以前からも何人か居たのですが)。

なので…。私が今、神戸の一件でいろいろと発信していることのウラには、こういう大学院生~(川西オンブズ)~大学教員初期の研究成果がある、とご理解ください。



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神戸市長のいう「異例の対応」は今後「常態化」するのではないか?

2019-10-28 23:25:38 | 受験・学校

神戸教諭いじめ 給与不払い条例案が市議会委通過 29日本会議成立へ (2019年10月28日付け)

ttps://mainichi.jp/articles/20191028/k00/00m/040/355000c?fbclid=IwAR2JYLWVbtnJO0zoxsloa4glw9hn3VD5K1iTnoiEXu7FOQN2izTp9hmTPR4

あれだけこのブログで「的外れ」だとか、「異例の対応」にとどまらず「常態化」するとか言ってきたわけですが…。とうとう市議会の委員会を通過しましたね、この加害教員への給与不払い条例案。

あす以降の神戸市議会の本会議でさらに議論が深められると思いますが、この給与不払い条例案は、今回の件だけにとどまらず、どんどん使用範囲が拡大され、おそらく神戸市当局側が何らかの形で市職員(教職員だけでなく、他の職種を含む)の諸活動に規制をかける際に利用され、「常態化」すると思われます。

いまの神戸市長がいくら「今回限りだから」といっても、条例の条文そのものに「今回限りの特例」とする根拠が入っていないかぎり、「それはしょせん、口約束だ」というしかありません。また、いまの神戸市長の次の市長が、今回のことを「前例」として、「次も」と言って、今回改正された条例を使いかねません。

さらに、今後(いや、もうすでに始まっているかもしれませんが…)、市職員の何らかの不祥事をあら捜し的に見つけ出し、警察に被害届等を出せば「起訴の恐れあり」になりますから、その段階で分限休職が可能になりますよね。

だとすると、このような条例案改正を認めるということは、教職員を含む公務員一般を攻撃したい勢力、つまり「公務員いじめ」をしたい諸勢力に対して、「神戸市及び市議会は、今後、市職員を守りません」と宣言したに等しいものではないかと思われます。それって、本当にいいのでしょうか? 

また、こういう条例改正案を審議していると、市議会や市長に対して、まじめに勤務している市職員(教職員を含む)がどのような気分になるでしょうか? それこそ、このような条例改正案を出すこと自体が、まじめに勤務している市職員に対する「おどし」や「加害行為」なのではありませんか?

そして、加害教員にも家族がいるかもしれません。その家族の日々の衣食住の生活については、どのように神戸市としては考えているのでしょうか? 加害教員の家族に対する「加害」行為かもしれませんよ、こういう条例改正案の可決は。そこについては、どのように考えるのでしょうか、神戸市長は?

このブログで連日書いてきましたが、こういう「的外れ」な条例改正なんかしているよりも、当該の学校の子どもや保護者などからていねいに状況を把握し、それをふまえて必要な支援を行うことや、学校再建計画をつくって着実に実施すること等々、今、混乱している学校の立て直しをすることが先決です。加害教員への処分等々は、現行法の枠内で、じっくりと時間をかけてやればいいのです。

あらためて、私としては強く「こんなことをしている場合ではない」と、このブログで訴えておきます。

<追記>

あす以降の神戸市議会の審議のなかで、たとえば条例改正に修正案を出したり、あるいは「付帯条項をつけて可決しよう」とする勢力が出るかもしれませんが…。「それするくらいなら、いったん、廃案にしてください」と、私からは先に言っておきます。特に「付帯条項をつけて…」という話ですが、「そんなものをつけなければいけないくらい悪い条例案を、なぜ市議会は通すのですか?」と私なら思いますので。簡単に通してしまってはダメだと思います、市議会のみなさん。



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中井久夫「いじめの政治学」を手がかりに

2019-10-27 21:45:34 | 受験・学校

今日も朝、プリキュアを見てから来客対応でした。

神戸・須磨の教員間いじめの問題について、このところ連日、いろんな方から私のブログを見ての問い合わせや「意見を聴かせてほしい」等の動きがあります。たいへん、ありがたいことです。この場をお借りして、ひとことお礼申し上げます。

さて、今日はまた今までと少し切り口を変えて、この間「教育学的・心理学的な調査・検証」といってきたうちの「心理学的な」の部分にこだわった話をします。まあ、精神科医の中井久夫氏の本を紹介するから、心理学的というよりも精神医学的と言えばいいかもしれませんが。

私のかかわったいくつかのいじめの重大事態の調査委員会で、中井久夫氏の「いじめの政治学」(『アリアドネからの糸』所収。みすず書房刊)が参照されている例が見受けられます。また、同じ中井氏がこの「いじめの政治学」という論考を子どもたちにも分かりやすくまとめたものとして、『いじめのある世界に生きる君たちへ』(中央公論新社刊)という本もあります。どちらの本も、いじめの被害にあった子どもの側から見て、「いじめ」がどういう経過をたどるのかについて、中井氏の見解をまとめたものです。

具体的に中井氏は、被害にあっている子どもの側から見て、「孤立化」⇒「無力化」⇒「透明化」の3つの段階をたどると言います。中井氏は「いじめは、他人を支配し、言いなりにすることです。そこには他人を支配していくための独特のしくみがありそうです」と言います(前出『いじめのある世界に生きる君たちへ』)。その最初の段階が「孤立化」です。

この「孤立化」は、誰をターゲットにいじめるかを決めること。また、そのターゲットになった相手に対して、周囲へのPR作戦に出ることで構成されます。すなわち、いじめる側はいじめられる側に対して、さまざまなことで難癖をつける。また、教員を含めたまわりにいる人びとに対しても、自分のしていることを正当化する理由を主張し、巻き込んでいきます。このプロセスのなかで、被害にあった子どもの側も「いじめられてもしかたがない」と思わせていく。また、まわりにいる人びとを被害にあった子どもから遠ざけていきます。そして、被害にあった子どもはいつ、どんなかたちでいじめられるか分からず、常に緊張を強いられる状態になるといいます。

次は「無力化」の段階です。この段階では、いじめている側は被害にあった子どもに「反撃は一切無効だ」という気持ちにさせていきます。そのために、被害にあった子どもが反撃に出れば過剰な暴力で罰し、誰も味方にならない状態にしていきます。ただし、ここで対応に失敗すれば、いじめている側は自分の威力を失います。なので、ここで最もひどい暴力がふるわれることになります。

なお、中井氏によると「加害者は勝手気ままにふるまっているようですが、じつは最初から最後まで世論を気にしています。それも先生などの大人の世界と子どもの世界の両方の世論をです」とのこと(前出『いじめのある世界に生きる君たちへ』参照)。ただ孤立化に一旦成功したら、前ほど世論は気にしなくなると言います。また、この「無力化」の段階で暴力をふるっておけば、その後は脅すだけで相手を動かすことができるようになります。

そして最後の段階が「透明化」です。この「透明化」は、目の前でひどいいじめが行われていても、誰も気に留めなくなるということ。また、ここまでくると被害にあった子どもは、いじめている側にその日その日やられないようにするだけで精一杯になります。いじめている側の機嫌一つで運命が決まるような毎日のなかで、ますます被害にあった側は、いじめている側に隷属していくようになります。また、「今日だけはかんべんしてやる」と言って、おとなの前では仲良くしているように見せかけることもあるでしょう。

ちなみに、いじめの被害にあった子どもへの対応について、中井氏は「まずいじめられている子どもの安全の確保であり、孤立感の解消であり、二度と孤立させないという大人の責任ある保障の言葉であり、その実行であるとだけ述べておきます」(前出『いじめのある世界に生きる君たちへ』参照)と言います。

あらためてここまで中井氏の「いじめの政治学」の概要を紹介して、気付かれた方もいるかと思いますが…。

神戸・須磨の小学校の教員間いじめの経過を、このような心理学的(精神医学的)な観点から調査・検証してみると、加害教員と被害にあった教員、管理職や他の教職員の関係において、被害にあった教員へのケアや加害教員への対応、今後の再発防止策等々に関して、いろんな示唆・気づきが得られると思います。

おそらく「コンプライアンス」「懲戒処分」に関する事項などを中心に、「法的対応」だけを念頭に置いた調査・検証作業を行うと、上記のような孤立化―無力化―透明化の段階がいかにして進行したのかなどは、あまりよくわからないのではないかと思われます。特に、周囲の教職員や管理職が加害教員の論理にどのように巻き込まれたのか(=それが被害にあった教員の「孤立化」を招いたのでは?)。また、加害教員が被害にあった教員を「かわいがっていた」かのようなことを言っていた点についても、それは「透明化」の時期のいじめていた側の気まぐれなことばでないかなど、さまざまなことを考えることができるかと思います。さらに、職員室のなかの世論をもしも加害教員側が気にしていたとするならば、今後、教職員間でどれだけ「こういうことをやめよう」という声を高めることができるかが、再発防止のポイントになるでしょう。そして、被害にあった教員にはまずは静かに、心身の安全が確保できる環境を整えることこそ先決という話になるかと思います。

その一方で、先の「孤立化」段階のPR作戦の話などを見ていると、実は「加害教員憎し」で「一日も早く処分を」や「実名をさらせ」等々の声を挙げている人々もまた、「いじめの政治学」の第一歩を踏み出しているように見えます。あるいは「神戸市教委が許せない」といって感情を駆り立てられ、「市教委から博物館等の社会教育部門を切り離す」ことを提案したり、条例改正で「加害教員に分限休職、さらには給与支給の差し止め」といったことを可能にすることを主張している市長もまた、実は「孤立化」段階のPR作戦を始めているかのようにも見えます。そして、市長を含むこのような人々が、今「世論」を気にしてこのようにふるまっているのであれば、その「世論」自体が別のかたちでの「いじめ」を助長する「政治」プロセスに入っているようにも見受けられます。

だとすれば・・・。私としては、当初の教職員間いじめの問題に関する諸課題の解決に全力を注ぐとともに、「加害教員憎し」や「神戸市教委が許せない」等々の別の「いじめ」の政治は極力抑制すること。そのことが、最も被害教員の回復に必要な「静かに、心身の安全が確保できる環境を整えること」につながるのではないかと思います。

このような次第で、ある「いじめ」の問題に対する解決を求めることが、別のかたちでの「いじめ」を誘発するような道筋をたどることなく、まずは冷静に、事態の推移を見守る必要があるのではないかと思うのですが…。また、神戸市長を含む行政当局は、今の法令で可能なことから着実に、被害にあった教員や当該の学校に通う子ども・保護者への支援に乗り出すと共に、加害教員への対応を「法的に」行うだけでなく、「教育学的・心理学的」にも行っていただきたいと思う次第です。






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今日(10月27日)のプリキュアの話です。

2019-10-27 09:28:20 | プリキュア話

おはようございます。

今日は朝10時にお客さんがやってくるので、その前にさっき見た今朝のプリキュアのこと、書いておきます。

いや~。今日も内容が濃いというのか、深いというのか。

レインボー星人のユニ=キュアコスモの気持ちの変化を通じて、今まで敵対していた人々をゆるし、和解するということ。また、そのためには、敵対していた人々の側にも自分と同じ何かを感じ、相手の思いを受け止めることが必要ということ。そういうことが描かれた回でした。子ども向けアニメなんですけど、これはおとなに向けて発せられたメッセージのようにも感じました。

そして、その敵対していた人々のなかにも自分と同じ何かを感じ、ゆるし、和解することができたときに、いままでにない自分たちの大きな力(=これを今年のプリキュアは「トゥインクル・イマジネーションの力」と呼んでいますが)が発揮される。そういうことも今回、示唆されていますね。まさに「慈悲の心」といえばいいのでしょうか。

では、今回の物語の展開を実際に見ていきます。

まず、ララ=キュアミルキーの宇宙船のAIがいろいろ探索しても、トゥインクル・イマジネーションの力が見つからない。そんな現状のなかで、ユニは自分が以前お世話になった宇宙一の占い師・ハッケニャンに会いに行こうと言い始めます。そのユニのことばに乗って、プリキュアたちはみんなうらないの星・ウラナイン星へ向かいます。

ハッケニャンは目の不自由な占い師ですが、トゥインクル・イマジネーションを探したいというユニに対して、「今回はうらないの必要はない」といってお茶をふるまいます。ここから、ユニとハッケニャンの最初の出会いが描かれます。

最初に出会ったとき、ハッケニャンは星空の見えない自分に代わって、ユニに星を見てほしいと言います。すると、ユニは「なにも見えない」と。そこはハッケニャンは「大切な人を失ったことへの怒り、憎しみが見える」と言います。その頃のユニはちょうどレインボー星の人びとがみんな、石にされた頃。「みんなを石にしたアイツ(=実は、これが後で出てくるアイワーンなのですが)だけは許せない」とユニが行ったとき、ハッケニャンは「みんなをもとにもどす方法はある。星空界よりも遠くにある星に行け。そこが運命の星だ」と伝えます。

ハッケニャンはユニに再会して、「もう、その運命の星を見付けている。その星とともにある」といって、「うらなう必要はない」というのです。

一方、そこにアイワーンがやってきます。アイワーンは天才科学者ですが、ノットレイダーたちの仲間としてずっと活動してきました。ただ孤独で行く場所がなく、似たようななかまたち(テンジョウ、カッパード等々)とともに、ノットレイダーたちの拠点を居場所としていたのです。ここでノットレイたちのスーツを開発したり、ダークペンの開発をしたり…。自分の居場所を奪った者たちへの復讐をするために、「闇のケミストリー」を爆発させているような、そんな存在です。そして、ユニの故郷・レインボー星の人びとをみんな石にしてしまったのも、このアイワーンです。

アイワーン登場で、当然ながらアイワーンを許せないユニは、キュアコスモに変身します。ここからアイワーンとキュアコスモのバトルがはじまるのですが、アイワーンのつくったロボットが強力で、浴びたものすべてを石にする黒い光線を繰り出してきます。そこへ、他のプリキュアたちがかけつけて、キュアコスモを助けます。

そんなバトルの真っ最中のキュアコスモとアイワーンに対して、ハッケニャンは「遠い星を見上げてばかりいると、足元の花の美しさには気づかない」と一言いいます。それを聴いてキュアコスモはハッと気づきます。
アイワーンは自分がノットレイダーに居られなくなった状況をつくったキュアコスモを「許せない」と言います。一方、キュアコスモは、レインボー星人をすべて石にしたアイワーンを「許せない」と言います。「誰かを許せないで、憎しみに満ちた気持ちでいる」という点では、自分も、アイワーンも同じではないのか…。
そう思ったときに、キュアコスモはアイワーンロボの黒い光線を一身に受けとめます。そして「私はいままであなたのことを傷つけていた。ごめんニャン(レインボー星人はネコ語なのです、なぜか)」と謝ります。急に謝られて戸惑うアイワーンに対して、キュアコスモはさらに「今ならわかる。あなたは苦しかったんでしょう。私はあなたを許す」と伝えます。そして「過去だけを見るのではなく、まだ見えない未来に向かって、みんなと一緒に生きたい」とキュアコスモが言ったとき、トゥインクル・イマジネーションの力がキュアコスモに芽生えます。

あとは…。その芽生えた力をつかって、アイワーンロボを5人のプリキュアと妖精フワの力を合わせて倒して…で終わりですね。

ラストの場面では、ユニの姿にもどったキュアコスモが、アイワーンに「地球においで」と声をかけます。でも、アイワーンは「余計なお世話」といって再び去っていきます。そして、他のプリキュアたちといっしょに地球に戻るユニを見て、ハッケニャンは「さがしていた星を見付けたな」と一言残します。

まあ、こんな感じで…。ユニ=キュアコスモは、今まで敵対していたアイワーンのなかに、自分と同じ居場所をなくした悲しみや憎しみの気持ちを見付ける。そして、自分と同じだからということで、相手を許す。その許す気持ちが芽生えたときに、もっと大きな自分の力が発揮される…という流れをたどりました。今日のプリキュアの物語は、ほんとうに深いですね。

なお、来週は別のプリキュアたちの敵・テンジョウ(天狗みたいな感じですが)が英語の教師になって、プリキュアたちの学校に来る。そのテンジョウと、英語スピーチコンテストに出る予定のエレナ=キュアソレイユが、どうもなにかからんでくるようですね。予告編を見る限りですが。


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神戸新聞「緊急報告」を読んで思う「やはり教育学的・心理学的な調査・検証が必要」ということ

2019-10-26 18:58:16 | 受験・学校

今日はお昼に鍼師さんところへ行き、午後からプリキュアの劇場版映画を見てきました。

かなり心身共にリフレッシュした気分のところで、例の神戸・須磨の小学校の事件に関する昨日、今日の神戸新聞の記事をまとめて読みました。「緊急報告」というかたちで出された以下の2つの記事です。

ちなみに、記事タイトルに学校名が入っていますが、不必要な反応をネット上で引き起こして学校を混乱させたくありません。なので、私のブログでは記事のタイトルを省略します。

https://www.kobe-np.co.jp/news/sougou/201910/0012818278.shtml (金曜日)

https://www.kobe-np.co.jp/news/sougou/201910/0012821396.shtml (土曜日)

まず、神戸新聞は地元紙ということもあって、精力的にこの件を取材していますね。その点はたいへんありがたいです。まずは率直に、お礼を申し上げます。

また、この2つの記事+別の記事をあわせて読めば、たとえば子どもや保護者の様子、他校の教職員や管理職等々の動き、市長の発信した提案に対する市教委側の反応等々、神戸新聞ができるだけ多面的に情報を集め、この問題を多様な切り口から考えようとし始めていることは、私にも伝わってきました。ようやく地元紙として冷静さを取り戻しつつあるな…と、正直、ほっとしました。

その一方で、この「緊急報告」を読んであらためて思ったのは、「おそらく神戸市長側の認識って、この記事のような枠組みでものを考えて議論を行い、「神戸方式」つぶせ、「校長の発言権抑制」という流れを考えているんだろうな」ということですね。

ただ、うまいぐあいに神戸新聞が金曜、土曜と2日続きに記事を分けてくれたおかげで、そういう議論の枠組みのおかしさに私、逆に気付いてしまいました。

というのも、たとえば、金曜日の記事の方に現れている諸問題。

たしかに加害教員の傍若無人な振る舞いが長期にわたって継続し、被害教員を苦しめたことは許しがたい。また、校長らの管理職が被害教員へのサポートも、加害教員の行為を止めることも適切にできなかったことも、あらためていうまでもなく、問題視しなければいけないでしょう。

しかしながら、この金曜日の記事の方に現れた諸問題は、私の立場からすると、教職員間の人間関係のがよくないところでは「起きてほしくないけど、起きることが十分にありうる」のではないかと思われることです。

それこそ、土曜日の記事の方では、当該の学校が「人権教育」の研究指定を受けて、その関連教員が「神戸方式」に即して、校長の要望で当該の学校に集められたという経過が綴られているのですが・・・。

でも、たとえば、同じ神戸の学校でも、他の研究指定を受けた学校のなかには、特に人間関係面で問題が起きていないところもあるかと思います。あるいは、校長の要望で教職員が集められた学校でも、かえって円滑に、校内の雰囲気がよくなっている学校もあるかもしれませんね。そういう「神戸方式」であっても「うまくいってる学校」との対比抜きに、当該の学校の抱えていた課題が本当に見えてくるのかどうなのか・・・。

また、校長の要望ではないかたちで教員が集められた学校であっても、その学校のなかで校長の「お気に入り」とそうでない教員とに派閥みたいなものが形成され、そのあいだでもめ事が起こり、特定の教員に何か「いじめ」が起こることも、十分に考えられます。そういう「他の地域の学校」で起きている教員間の紛争(特に「いじめ」)のケースと比較することなしに、はたして「神戸方式」や当該の学校の抱えていた課題が見えてくるのかどうか・・・。

少なくとも、教育学的な視点で教職員人事や、教職員間の校内の人間関係のあり方を問題にするのであれば、以上のような検討課題が記事からは見えてくるんですよね。やはり法的な観点だけでなく、教育学的、さらにその時々の教職員ひとりひとりの心理がどういう状態だったのか…という点でいえば、心理学的な観点からの調査・検証作業も必要不可欠です。

また、少なくとも私には、今はこういう教委職員間の人間関係等々に関する検討課題を地道に詰めていく作業なしに、教職員人事に対する「神戸方式」と呼ばれるスタイル(校長の意向が大きく反映するしくみ)をやり玉にあげるかたちで、先に「ここが問題だ、ここが答えだ」という議論を、マスコミ経由で誰かが作ろうとしているような印象を受けるんですよね。

そしておそらく、いま、神戸市長サイドから提案されている諸改革の内容も、このような「先に答えありき」のようなかたち、つまり「加害教員憎し」と「校長の人事権(=神戸方式)こそ諸悪の元凶」みたいな認識を前提にして、「そこをぶった切るような改革をやるべし」という観点ですすめられているように思われてなりません。

また、そういう改革を「コンプライアンス」とか「ガバナンス」改革とか呼んで、「法的なつじつまさえあえば、それでいい」と言って、無理やりにでもやろうとしている…。市長側がこういう改革方法をとったら、市教委や学校関係者の間から疑問の声があがってくるのも、無理もないかな、と思います。

ましてや、こういう教職員間の人間関係のなかで起きた問題に対して、木曜日の市長発表にあった「博物館や図書館、美術館などの社会教育部門を市教委から首長部局へ移す」という提案は、「まったくもって、無関係」「呆れた話」というしかありません。

ということで、やっぱりこの神戸新聞の2日間の「緊急報告」記事を読んでも、私としては「神戸市長がやろうとしていることは、相当、無理があるんじゃないか?」としか思えないのが実情です。

なお、上記のことを指摘した上で、なのですが。

やはり金曜日の「緊急報告」記事にもあるとおり、相当、当該の学校に通う子どもたちに動揺が起きています。その子どもたちのメンタルなケアは、当該の学校の教育活動の再建、教職員に対する子どもたちの信頼回復とともに行っていく必要があります。また、そのためにも、保護者や地域住民への謝罪やあらためての協力要請などを行っていくとともに、子どもや保護者・地域住民の要望などを十分にくみ取っての学校再建計画づくりが必要になると思います。このことについて、まだ市教委が十分に動けてない印象がやはりぬぐえません。ここにもっと、市教委は力を注がなければいけませんね。

と同時に、「人権教育」の研究指定校でこういう問題が起きたということ。そのことをやはり重く見なければいけません。理論上は理科教育でも国語教育でも、生活指導でも、他の研究指定校でも起きるかもしれないことではあります。ですが、子どもたちに「いじめはよくない」「差別はダメだ」ということを学んでもらう、そのための取り組みを研究しようとしてきた教職員集団で、こういうことを起こしてしまう。それはやはり、私の立場からも「許せない」です。やはり、加害教員は自らの行為に対して真摯に反省し、被害にあった教員や当該の学校の子どもや保護者、地域住民、そして他の教職員に対して、謝罪していかなければいけません。そのことは、私もこの場を借りて、指摘しておきたいと思います。

でも、その一方で、この学校の教職員集団の謝罪と反省、出直し、さらには神戸市教委や神戸市の他の学校の教職員たちの反省と出直し、そして将来の信頼回復のためには、誰かがやはり、市教委職員や各校の教職員(当該の学校を含む)と苦難をともにして、「いっしょに茨の道を数年間歩む」覚悟を決めなければいけません。私にどれだけのことができるかわかりませんが、何か、お手伝いできる機会があれば、私なりに「いっしょに茨の道を数年間歩む」こともしてかなければいけないと、今回の「緊急報告」記事を読んであらためて思いました。

最後にひとこと。「本当はね、現場の教職員や市教委職員とともに『いっしょに茨の道を数年間歩む』覚悟を決めるのは、市教委幹部、教育長と教育委員、そして市長と市議たちなんですけどね」と。「一日も早く、あなたたちが覚悟を決めてください」と、この場をお借りして伝えておきます。


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なぜ神戸を含む各地に「子どもオンブズをつくる」という話が出てこないのか?

2019-10-25 23:21:53 | 受験・学校

ここ数日、神戸の学校に関することで、「ブログ見ました」と、誰かが何か連絡してくるようになりましたね。

また、その連絡のなかで、あらたにいろんなことを知ることもありまして・・・。

この場をお借りして、くり返しになりますが、感謝の気持ちを示したいと思います。

さて、今回は少し、この問題について、議論の切り口を変えてみます。

私はこのところツイッターやフェイスブックでの議論を見聞きするたび、「なぜみんな、各地に子どもオンブズをつくろうという話がでてこないのか?」と、とても不思議に思ってしまいます。

ここで「子どもオンブズ」というのは、私が1999年4月~2001年8月、つまり京都精華大学に勤務する前に調査相談専門員として働いていた兵庫県川西市の「子どもの人権オンブズパーソン」制度のことを念頭に置いています。

※川西市の子どもの人権オンブズパーソン制度については、下記のリンク先を参照。

https://www.city.kawanishi.hyogo.jp/kurashi/shimin/jinken/kdm_onbs/index.html

この子どもオンブズの設置を川西市が検討していたのは、ちょうど1990年代半ばの中学生のいじめ自死の多発期で、なおかつ子どもの権利条約の批准の頃…。「他市で起こっているいじめ自死は、川西でも起こるのではないか?」と川西市教委関係者が考え、市内の小中学生の「子どもの実感調査」を行いました。その結果、「何回もくり返しいじめられている子ども」ほど「生きているのがつらい」と思いつつ、「ひとりでがまんする」「相談できる相手はいない」と回答する結果がでてきました。

その結果をふまえて、川西市教委のなかに検討委員会が設けられ、市教委及び市立学校園全体で子どもの権利条約にもとづく教育の実施を行うとともに、それを家庭や地域社会にバックアップしていただくという方向性が打ち出されました。と同時に、学校や家庭、地域社会の取り組みがあってもなお、ひとりでいじめられて苦しんでいる子どもがいることを念頭に置き、その子どもが電話をかけたり、手紙を書いたり、直接面談を求めたり…というかたちで助けを求めたら、川西市として適切にその子どもの人権救済・擁護に取り組む。そのための仕組みとして「子どもの人権オンブズパーソン」制度をつくることが、この検討委員会から提案されました。

その後、この「子どもの人権オンブズパーソン」(以後「子どもオンブズ」と略)は市の条例によって設置されるとともに、市長の附属機関として市教委からの独立性を保ちつつ、同時に市教委や市立学校園は条例及び教委規則をふまえて「子どもオンブズ」への協力・援助義務を負うかたちがとられました。

そして、1999年度から条例がスタート。このときから教育や福祉、心理、法律などの専門家がオンブズパーソン及び専門員が数人、常時、事務局に待機し、子どもや保護者、教職員らからの相談に応じることができるようになりました。また、相談内容によっては課題解決に向けて、当事者と関係機関等との関係調整を行うこともはじまりました。そして条例をふまえ、申立て手続き等をふまえて、案件によっては調査・検証作業を行い、市教委や市立学校園を含む関係機関に対応の是正のための「勧告」や、施策・制度の見直しを求める「意見表明」などを行うこともできるようになりました。

ちなみに私の在職時に、川西市内の公立中学校のスポーツ部活動で熱中症死亡事故が起きました。このときの調査・検証作業をご遺族からの申立てを受け付ける形で実施し、その調査・検証結果をふまえて再発防止策等の実施を「勧告及び意見表明」というかたちで、市教委や市立学校に求めた…という経緯があります。そのときの担当者としてかかわったことがきっかけとなって、私がその後、学校事故・事件の調査・検証作業や被害者家族・遺族への支援等々にかかわることになった次第です。

なので・・・。神戸でもいじめの重大事態の再調査がありましたし、また、組体操の件で骨折事故が起きているとの報道もありました。あるいは、例の須磨の小学校の教員間いじめ問題でも、子どもたちにもさまざまな心理的な問題が生じているとの報道もあります。このほか、ここ最近では、埼玉県の川口市や千葉県の流山市についても、両方の市教委のいじめの重大事態対応の問題がマスコミで報道されたりしています。

こういう事態を見聞きするたび、現行のいじめ防止対策推進法の枠組みで対応することには数々の「限界」が生じていると認識するとともに、「なぜ神戸も、他の自治体も、子どもオンブズをつくるという方向に議論が進まないのか?」と、私は常に思う次第です。

あらためて整理しますと・・・。

この子どもオンブズは、もう20年近くも前から兵庫県川西市には導入されていて、市教委の独立性を一定保持しつつ、同時に実際に学校で苦しい思いをしている子どもたちの人権救済活動に特化して、相談・調整、そして調査・検証作業から制度改善や対応の是正等々、いろんなかたちで案件に即した動き方ができます。また、具体的に苦しい思いをしている子どもひとりひとりの状況に即して、教育や福祉、心理、医療、法律等々の各領域の専門的な観点からの支援が受けられます。さらに、私の印象では…。川西市内の学校園や市教委の側も、「確かに、一方で子どもオンブズには厳しいことを言われることもある。でも、子どもの人権を守るという観点と各領域の専門的な観点の両方から、その子どもにとって必要な対応が何か、的確なコメントが返ってくる」と、どこかでオンブズに期待している面もあるように思います。

なので…。いま一度、あらためて「子どもオンブズ」モデルのしくみを神戸にも、他の自治体にもつくること。それを私としてはお勧めしたいです。須磨の事件で神戸市長が見当違いの提案をするくらいなら、もうちょっと落ち着いて、時間をかけて他市の先進的な事例を調べた上で、市教委の独立性を保持しつつ、確実にひとりひとりの子どもの人権救済に乗り出せる仕組みをつくる…というような、そんな建設的な提案をしてほしいところです。また、こういう制度ができれば、少なくとも学校における子どもの人権救済に関しては、教委に対する首長権限の強化も、文科省から教委への行政指導も、たいして必要なくなりますね。

※なお、実は大津中2いじめ自死事件の調査委員会報告書(2013年1月)での「提言」内容のなかにも、「子どもオンブズ」の設置のことは提案されていました。ですが、「いじめ防止条例」の制定過程のなかでなぜか「いじめ」だけに特化した相談・救済機関を設置するかたちになってしまい、結局、他の子どもの人権に関する課題には対応できないようなしくみになっています。これが「子どもオンブズ」と「いじめ防止条例」のちがいですね。この点をよく理解してください。

https://www.city.otsu.lg.jp/shisei/koho/kouho/message/1388936256432.html

こちらのリンク先に、大津中2いじめ自死事件の調査委員会報告書があります。この「第3部提言」の「第6章」の文中に「子どもオンブズ」に関する提案が含まれています。


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10月20日(日)放送分のプリキュアを録画でやっと見ることができました。

2019-10-25 22:48:00 | プリキュア話

おかげさまで、ようやく先ほど10月20日(日)放送分のプリキュアを見ることができました。やっぱり、プリキュアを見ることができるくらいの生活の余裕がないとねぇ…。こちらも心身ともにくたびれてしまいそうです。

まあ、そういう話はさておき。

今回の放送分は劇場版映画が公開された時期にあわせているのと、ハロウィンが近いということとで、プリキュアたちの暮らす街・観星町の「仮装コンテスト」の話になっています。と同時に、プリキュアたちの敵・カッパードの背負ってきた苦しみが今回、カッパード自身の口から語られます。その話を聴くと、今年のプリキュアの主題が「異文化理解」だということに、あらためて気づかされます。

まずは、オープニングですが。プリキュアたちが学校のなかま(観星中の2年3組の生徒)をさそって、UMA(未確認生物)の仮装をしてコンテストに出ようという話が盛り上がります。この話の言いだしっぺはララ(キュアミルキー)で、その話に先週放送分で次期生徒会長になることが決まった姫乃城さんが賛成する…という展開ではじまります。

実際の仮装ですが…。ひかる(キュアスター)は飼い犬のイエティ、ララはツチノコ、エレナ(キュアソレイユ)の一家はお花・・・という具合ですね。ただ、エレナとまどか(キュアセレーネ)、ユニ(キュアコスモ)はネコのかっこうをして「スリーキャッツ」の仮装もしています。

そんな仮装コンテストで盛り上がる観星町に、カッパードが手下を連れて集まります。ここでカッパードはなぜか、昔、自分の住んでいた星のことを思いだします。また、観星町に現れる前に、カッパードはプリキュアたちが以前とはちがって、また新たな力を芽生えさせていることに気付きます。

その一方で、カッパードは仮装コンテストの優勝争いをする人びとの歪んだイマジネーションをつかって、街を攻撃しようとします。そこでプリキュアたちは変身し、街の人たちに自分たちの正体がばれないように「戦隊ヒーローショー」だといつわって、カッパードたちを街の外に連れ出します。

ララはキュアミルキーに変身後、カッパードに対して「じゃましないで」と言います。これに対してカッパードは「地球人になったつもりか? 異星人どうしが理解しあえるはずがない」と。キュアミルキーは「そんなことはない! キュアスターたちといっしょにいるとわかる。もっと地球のことを知りたい。みんなといると楽しい」と返します。

どうやらララ=キュアミルキーは仮装コンテストに出るにあたって、「自分でちゃんと勉強したい、調べたい」と思って、UMAに関する本をひかるに借りて読んだ様子。いつもなら自分が惑星サマーンから乗ってきた宇宙船に行き、AIに何でも教えてもらうのですが…。ここで、この数か月のララの成長が描かれるわけですね。

そんなララ=キュアミルキーに対して、カッパードは追い打ちをかけるように「そんな楽しさは今のうちだけだ。いずれちがいがいさかいを生む。オレの星がそのいさかいですべてを奪われた。ちがう星の者どうしが共に暮らすのは不可能だ」と言います。こういう発言をするところから想像すると・・・。もしかしたらカッパードは、異星人に征服された星に住んでいたのかもしれませんね。

ただ、ここで妖精フワの守りをキュアコスモに任せて、残る4人のプリキュアの合体技・サザンクロスショットを出して、カッパードたちを追い払います。カッパードはプリキュアたちの前を立ち去るとき、キュアミルキーに対して「いまに裏切られるぞ」と一言残していきます。このことばが年末にかけて、何かの話の伏線になるかもしれませんね。

ラストの場面ですが。エレナたちの一家がファミリー賞、スリーキャッツも賞をもらい、観星中2年3組も「アイデア賞」で表彰されました。でも優勝はなぜか、カッパードたち。プリキュアたちとやった「戦隊ヒーローショー」を「仮装」だと思われたようですね。そして、キュアミルキーからララの姿にもどって、2年3組のみんなで記念写真を撮ります。「異星人でも地球人のなかに入って、仲良くなれる…」ということの表現でしょうか。

なお、次回放送分は予告編によると、プリキュアたちのもつイマジネーションの力をさぐるために、宇宙一の占い師のところに行く話のようです。

ということで、10月20日(日)放送分のプリキュアの話をおわります。


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ますます「的外れ」になっていく神戸市長の対応に批判的なまなざしを(神戸・須磨の小学校の事件関連)

2019-10-24 23:35:56 | 受験・学校

最近、このブログを神戸の教育にかかわるいろんな方が見ておられるようで・・・。

また、このブログを見ていただいた上で、たとえば「この神戸市長の出している方針は、なにかおかしいのではないか?」とか。あるいは、「神戸・須磨の小学校で起きた教員間いじめの報道のあり方って、かなりおかしな方向に向かっているのではないか?」とか。そういうことに気付かれる方も、徐々に増えてきているような印象を受けます。

そのことは、ブログやツイッター、フェイスブックに連日、この件での思うところを書いて、情報発信をしている私にとっても、たいへんうれしいことです。この場をお借りして、ひとことお礼を申し上げます。

さて、このようなかたちで連日、情報発信を続けておりますと、神戸市長や市議会・市教委の動きなどについて、さまざまなかたちで情報提供をしてくださる方がでておられます。今日も市長の記者会見を行っている時間帯とほんと、大差ないような時間帯に、「こんなことを市長が記者発表しています」と連絡をしてくださった方が居ます。

今夜はその方からお聴きした情報をもとに、神戸・須磨の小学校で起きた教員間いじめ問題について、「ますます、的外れな方向に向かっている」と思われる神戸市長の対応について、私なりの批判的なコメントをしておきます。

まず、今日の記者発表で市長から新たに出された対応方針の要点を、私の方で整理してまとめますと、次のとおりです。

(1)教育行政を支援する部署として、首長部局のなかに「教育行政支援課」を置く。(11月1日付け)

(2)市教委に「改革特命担当」の課長を置く。また、外部人材の登用をする。(11月1日付け)

(3)市教委の負担を軽くするという理由で、博物館や美術館、図書館などの市教委の社会教育部門を首長部局に移管する。(来年度から)

(4)加害教員の分限休職処分を可能にするような条例改正を行う。

率直に言いまして、私としては「論外」と思うくらい「的外れ」な対応なのですが・・・。

以下、なぜそう思うのかについて、コメントをしておきます。

<(1)(2)について>

これまでもずっとくり返し述べてきましたが、そもそもの須磨の事案について、弁護士主体の調査チームが「コンプライアンス」や「懲戒処分」の可否の観点から調査・検証作業を行っていると、当該の小学校の子どもや保護者のつらさ・困惑や、今もなお残って仕事を続けている教職員の抱えている困難等々の課題への対応と、その対応をするための教育学的・心理学的な調査・検証作業がおろそかになります。

なので、当然のことながら、このままでいくと、加害教員への「法的対応」がいくら速やかに行われたとしても、学校や教委の本来、改善すべき教育学的・心理学的な課題が明らかにされません。

また、その本来、改善すべき教育学的・心理学的な課題が明らかにされないまま、首長部局に教育行政を「支援」する課をつくったからといって、「いったい、何をどのように支援するのか?」という課題が論理的な必然として現れます。

同様に、市教委側に「改革特命担当」の課長を置いても、この方もまた「何をする人なの?」という課題が生じます。さらに、外部人材の登用といっても、「いったい、どんな人を登用すればいいの?」という課題が生じます。

つまり、「なにするべきなのか?」が明確になっていないまま、とにかく「部署だけつくる」「市長ポストだけつくる」ということを先行させているのが、この市長提案なのです。

もしも先述のとおり、「コンプライアンス」や「懲戒処分」等々の「法的対応」の実施ですとか、あるいは、要するに「市長の言うことをなんでも聴く市教委をつくりたい」という思惑で、こういう部署や課長ポストの新設を行うのであれば・・・。それはそれで「支援」とは名ばかりで、市長の「権力欲求」や「支配欲」の現れでしかないでしょう。

あらためて、これまでもくり返し述べてきたとおり、神戸市・市教委としては、「本来、この学校の子どもや保護者のつらさ・困惑や、引き続き当該の学校に残って仕事を続けている教職員の苦しさに向き合っていくためには、どのような教育行政の施策が必要なのか?」という切り口から、「法的対応」だけでなく、教育学的・心理学的な調査・検証作業を行って、再発防止策や学校の再建計画をつくるところから動くべきです。

その大事な作業をすっとばして、こういう「組織いじり」「機構いじり」をすることに、いったい何の意味があるのか? 「改革やってます」アピール以外には、何の意味もないのではないか? 少なくとも、私としてはそのように考えます。

<(3)について>

それこそ、市教委の社会教育部門、博物館や図書館、美術館関係者にしてみると、「とんだとばっちり」でしかありません。「いったい須磨の小学校の事件から見えてくる諸課題の解決と、市教委の社会教育部門の首長部局移管に、どんな関係があるのか?」と、ほんとうに疑問に思えてならない提案です。「論外」といってもいいでしょう。

私はもともと、教委の担ってきた社会教育を首長部局に移す提案は、積極的におすすめしません(それこそ、大阪市が似たようなことを十数年前にやって、今、社会教育や生涯学習の領域や文化行政がどれだけ低迷しているか…)。でも、それでもどうしても神戸市が、私の目から見ておすすめできないような社会教育施策をやりたいのであれば、この須磨の事件とは切り離して、数年かけて、それこそ文化行政や社会教育、博物館や図書館、美術館等々の運営に携わっている人びとやその領域の専門家の意見を聴いて、きっちり議論をしてから移管すべきでしょう。「なにをこの際、もめ事に便乗して、見当違いの改革をやろうとしているのか?」と、正直呆れてしまいました。これこそ「惨事便乗型」の教育改革、教育版のショック・ドクトリンです。

<(4)について>

こちらもまた、「怒りで振り上げたこぶしの落としどころ」として、「加害教員が休んでいるのに給料払ってなるものか! 早く休職処分にして、給料払わんで済むようにしろ!」みたいな、怒りの気分だけで動いている感、満載です。

また、加害教員への分限処分適用のために条例を制定(改正)するということは、他の市職員(教職員以外の人を含む)にもこの条例が適用されます。

ということで、私のところに聞こえてきた話では、今の提案では、「起訴される恐れ」があるだけで「分限休職」にすることを条例制定(改正)で可能にするそうですから…。今後はたとえば誰か市職員の刑法等々に触れる行為を見付けて、警察に被害届等を出すだけで「分限休職」という対応も可能になりますね。すると、この条例制定(改正)後、市長や首長部局・市教委の幹部が気に入らない職員であったり、あるいは一般の市民の気に入らない職員等々に対して、いろんな問題のあら捜しをして「分限休職」へ持ち込むことも可能になりますね。こうなってくるともはや、この条例制定(改正)案は「加害教員への対応のため」というよりも、この須磨の事件をきっかけとした「市職員」全体への攻撃ともいえるような、そんな提案になってしまっています。これはさすがに、問題ではないかと思います。

できるだけ速やかに、労働法や公務員法の専門家(弁護士・研究者ら)を中心に多方面から、このたびの市長の分限処分条例改正案に対する批判を行うことを、この場をお借りしてお伝えしておきたいと思います。

以上のとおり、ひととおり今日の市長側からの提案を私なりに見て、コメントをしましたが・・・。

「相変わらず、当該の小学校に通う子どもとその保護者、そこで今もなお働き続けている教職員」への配慮、考慮がなく、教育学的・心理学的な観点からの考察がなさすぎる、というしかない。

これが、市長側からの提案の実情です。そして、ますます「的外れ」になっていく傾向を強めています。

では、なぜ「的外れ」になってしまうのかといえば、「加害教員を許せない」という「怒り」が先に立ち、「処分してしまえ」「刑事事件にしてしまえ」「法的対応だけしておけばいい」という感情で動いてしまっているからではないか。また、市長たちがそういう感情を煽られるようなマスコミ報道やSNS上での議論、あるいは市議会の一部からの突き上げなどが行われているからではないか。そのようにも認識しています。

なので、もう少し冷静に対応するように、市長側の動きに対して、そろそろマスコミも批判的なまなざしを向けたほうがいいと思います。今は市長提案⇒マスコミ報道⇒SNS上での一部の「加害教員を許すな」という声の高まり⇒それが市長らに届く⇒さらにやらなくてもいいような的外れな対応を市長から提案する・・・という、悪循環が繰り返されているように思いますので。

それこそ、「はたして、こんな対応を、本当につらい状況のなか、自らの被害状況について、思い切って声をあげた教員の方も望んでいるのだろうか?」と、私などはふと、思うのですが・・・。

当該の学校に通う子どもや保護者、そこで働き続けている教職員への配慮だけでなく、実は被害にあった教員に対する配慮なども「まるで感じられない」点も、この「的外れ」な市長提案への違和感のひとつです。「いったい、誰のためにこんな提案をしているのか?」と、私はあらためて思ってしまいました。

 


 

 




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やはり「惨事便乗型」の教育改革がやりたいようですね(神戸・須磨の小学校の事件に関して)

2019-10-24 15:06:51 | 受験・学校

加害教員の給与差し止めへ 神戸市、条例整備を検討 (神戸新聞2019年10月24日付配信)


はい、さっそく一発目、打ってきましたよ。

これがまさに「惨事便乗型」の教育改革、教育版ショック・ドクトリンですね。

「加害教員への対応」を口実にしていますが、要するに神戸市側は今後、恒常的に刑事事件で起訴の「恐れ」がある市職員(教員に限定されない)に対して、それだけで「分限休職」を命じることが可能になる条例案を出してきた、ということです。

これが成立しますと・・・。

たとえば公務員労組(現業職の労組を含む)の幹部役員らの粗探しをして、刑事事件として立件可能そうな事実をみつけて、被害届を警察に出した段階で、神戸市は「はい、分限休職」とできますね。起訴の「恐れ」だけでいいんですから。

もしもそういう休職処分を出したあとで、検察の判断で起訴されない、不起訴や起訴猶予になった場合は、どうするんですかねぇ・・・。

このあたりは労働法や公務員法に詳しい弁護士さんや研究者の方、あるいは公務員労組の幹部あたりにきっちり、批判的なコメントをしていただきたいところです。

私のこのブログの記事をみた方で、上記に該当する方、ぜひともコメントを神戸市側に向けてお願いします。

また、このブログの記事をみた新聞やテレビ等々、マスコミ関係者の方は、ぜひとも神戸市側の対応について、私以外の批判的な論客(それも上記のような公務員法や労働法に詳しい弁護士や研究者の方)をみつけて、きちんと批判的にマスコミの論調を組み立てていただきますようお願いします。



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危機対応すべきとき(ピンチ)にキレまくるリーダーに思うこと

2019-10-21 11:06:10 | 私の「仲間」たちへ

マスコミが取り上げるような非常事態というか危機対応の各場面で、トップの人物像があらわになります。誰かに責任を負わせて逃げる人なのか、それとも「この難局をみんなで乗り切ろう」と冷静に呼びかける人なのか、等々。ピンチに強いリーダーは、やたらとキレまくる人ではないと思います。

ピンチにやたらとキレまくるリーダーは、それだけで周囲のスタッフの危機対応への意欲を削いだり、かえって反感を招いたりする恐れがあります。でも、そういうスタッフの様子を見て「自分の言うこときかないやつ」といって、余計にキレるんですよね。これって悪循環です。

ピンチのときの自分の気持ちの動揺を、適切なかたちで表現できるくらいの自制心を保てるかどうか。周囲のスタッフのやる気を削がない対応ができるかどうか。ピンチというか、危機対応にふさわしいリーダーには、そこがまずは問われると思います。

<追記>

※先ほどツイッターでつぶやいたことを3つ、ここでまとめておきました。学校の危機対応等々の参考にしてください。

※あと、ピンチのときにツイッターでやたらと騒ぎまわっている首長は、この私の視点から言えば「ダメダメ」ですね。



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「自分たちの既存の認識の枠組み」を疑う必要性(神戸の学校で起きていることを理解するために)

2019-10-20 12:48:08 | 受験・学校

神戸・須磨の小学校の一件や組体操の問題にしてもそうですが…。「いまこそ、既存の認識の枠組みに依拠して議論していると危ない局面はない」と、私は考えています。

特に左派・リベラル系の人たち、あるいは人権派と呼ばれる人たちも、「自分たちの既存の認識の枠組み」が「逆手にとられたり、うまく利用されている」という状況認識を持っておかないと、気付けばとんでもない教育改革のお先棒を担がされることになりかねません。

それこそ、いままで左派・リベラル系の人たちや人権派の人たちが指摘したような神戸の学校の問題について、いま、ネット右翼(ネトウヨ)やそれにつながる政治勢力が大喜びで、マスコミ報道を受けてSNS上で盛り上がっているのはなぜか。

そこを私なりに考えてみますと…。

わかりやすくいうと、いま、神戸で市長らが外圧を利用しつつやろうとしているのは、大阪の橋下・吉村改革の二番煎じ、三番煎じの首長主導の教育改革ではないかと思います。神戸ではつい最近、こうした学校の問題以外にも、公務員労組の「ヤミ専従」の問題が表面化していたことを思えば…。「ああ、これって、大阪の二番煎じだよな」と思われる節が多々あります(かつて橋下大阪市長(当時)が就任当初、公務員労組にアタマ下げさせたりするために、どれだけの攻撃を加えてきたかを思い出してほしいです…)。

また、その最初の段階で「抵抗勢力」となる学校や教委、教組、校長会等々の力を「削ぐ」ことを目的として、市長らは数々の不祥事を利用し、「悪代官を成敗するご公儀」像に自らを位置づけ、「劇場」をつくろうとしている…といえばいいでしょうか。

だから、市長らはこの何年か、「学校はけしからん」「教委はクソだ」という言説の持ち主を探して、その言説が煽られることを、どこかで待ち望んでいたのではないかと。

そこへ左派・リベラル系や人権派から、いじめ対応の問題や組体操の問題とか、教員間いじめの問題とかに関する議論を持ち込んだら…。

市長らとしては、外に向かっては「本市・市教委の対応が問題ばかりで申し訳ない」とアタマさげまくるのでしょうけど、内心はどこかで「チャンスだ。ここで今までやっかいだと思っていた存在、全部、始末してしまおう」と思っているのでしょう。

ちなみに、ここで神戸で首長主導の教育改革がすすめられたとします。首長優位で何事も進みますから、神戸でも大阪のようなチャレンジテストやろうと思ったらできますし、校長会も教組も反対する力ないですし、教委内部でも抵抗できなくなりますよね。あるいは「いじめ対応」の上手下手で教員を査定して、給与に反映させるシステムの導入なんてことも、いろいろやれます。

そして、これこそまさに、私が今まで書いてきた教育版ショック・ドクトリン、あるいは惨事便乗型教育改革ですよね。

さらに、こういう「悪代官を成敗するご公儀」像を描く「劇場」は、ネトウヨとそれにつながる政治勢力にとっては「大嫌いな教組、公務員を叩けるチャンス」くらいにしか思っていません。「いてまえ~、やれ~」とばかりに、「行政は加害教員を処分しろ、早く始末せえ」と言うているのでしょう。

なので、左派・リベラル系の人や人権派の人ほど、今は「たしかに学校や教委の対応のこことここは問題で、それは是正する必要があるが、それ以外のことについては必要なし」と、自分たちの議論のリミットを設定して、ネトウヨやそれにつながる政治勢力、あるいは「これを機会にやっかいな存在を始末してしまおう」と思っている市長らに対して、一線を引いておかなければいけないかと思います。

つまり、左派・リベラル系の人や人権派の人たちが「既存の自分たちの認識枠組み」を前提にして、今までどおり「にっくき学校・教委」みたいなことをやっていると、市長らの思惑に利用されたり、ネトウヨやそれにつながる政治勢力と同レベルの発想に自分たちが落ちてしまう…ということです。

このような次第で、以後、私は「既存の自分たちの認識枠組み」を疑えない左派・リベラル系や人権派の人たちとも、ネトウヨやそれにつながる政治勢力とも、そして「この機会にやっかいな存在を始末してしまおう」と思っている市長らに対しても、あえて「一線を引く」かたちでものを考え、発信していこうと思うのでした。そういった人たちと同レベルに、自分の考えを落としたくないので…。

なお、最後に一応、あえてお断りしておきますが。

私はいままでの神戸の学校でのいじめ対応がよかったとは思ってませんし(だから再調査委員会のアドバイザー的な仕事もした)、教員間いじめについてもしかるべき対応があると思います。組体操問題についても、もう一度この安全確保策でよかったのかどうか、議論を練り直す必要があると思います。

ですが、私は、そういう地道な学校現場での実践を見直し、問題点を是正していく営みをまずは大事にすべきであって、それ以外の思惑で「余計な改革をするなよ」と市長らには言いたいわけです。また、そういう地道な営みの「じゃま」になるような騒ぎ方を外の人がするのはやめてほしい、とも思うわけです。

なぜこういう冷静な議論ができないのか。左派・リベラル系や人権派、あるいはネトウヨとそれにつながる政治勢力の両方に、私はいま、神戸の問題では疑問を感じています。


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神戸市総合教育会議が10月17日付けで出した「今後の方向性」に「対案」を出してみる

2019-10-18 23:38:31 | 受験・学校

今日はお昼過ぎに大学での仕事を終えたあと神戸・三宮まで出て、この間、例の神戸市須磨区の小学校で起きた教職員間いじめ問題について、知人たちと意見交換、情報共有を図ってきました。

その際、10月17日付けで神戸市の総合教育会議(市長と市教委がメンバーで、市長が招集)が出した「今後の方向性」なるものがあることを知りました。その概要を紹介しますと、だいたい以下のとおりです。

○神戸市総合教育会議「今後の方向性」(2019年10月17日付け)

  1. 調査委員会による事実解明を早期に行う(メドは年内)。明白な事実はその都度速やかに公表、説明責任を果たす。
  2. その上で、関係職員に厳正な処分を行う。
  3. 被害教員に対するケアの実施、当該小学校の子ども・保護者に寄り添った対応。
  4. 今回のケースは教委のガバナンス欠如に問題あり。教委と学校現場の連携、外部人材の登用等の抜本的な見直しを行う(このなかに校長の人事に対する意見具申も含まれているのかと)。
  5. 学校や教育行政の積極的な情報発信(どうも市教委のホームページのリニューアルらしい)
一見、この間、私がこのブログで書いたことと似たようなことを書いているような気もするんですが…。
でも「私ならこう書くなあ」と思うところがあるので、あえて「対案」を次のとおり書いておきます。それを書くと、この「今後の方向性」がどういう理念、哲学や思想、状況判断にもとづいて書かれたのかが一目瞭然なので。

○住友の「今後の方向性」に対する「対案」(2019年10月18日)
  1. 市教委としての被害教員への謝罪、事実経過の説明、必要なケア等に関する対話の実施(そもそも、ご本人の望むことをまずは確認する必要あり。それなしに、市教委側からケア、ケアといっても…ご本人は不信感を抱くのはないか、と思うのです)。
  2. 当該小学校の子ども及び保護者、地元住民への謝罪、事実経過の説明、今後の学校再建に関する要望・意見の聴取(子どもたちや保護者、地元住民は、この学校を今後、どうしてほしいと願っているのか。そのことについてまずは把握する必要がある)。
  3. 当該小学校の残っている教職員への聴き取り、今後の学校再建に関する要望・意見の聴取(これから当該の学校の教職員たちはどういう形で学校を再建していきたいのか、それを把握する必要がある)。
  4. 2と3をふまえたかたちで、今後5~10年近くの中長期的な展望にたった学校再建計画をつくり、市教委及び当該の学校として着実な実施をはかる。また、そのために外部の専門職の支援を得たり、あるいはこの学校再建計画づくり及びその実施と連携する形で子どもたちのケアを実施する(学校の教育活動が再建されていくプロセスへの子どもの参加・参画と、子どもたちの心理的ケアを両立させる必要があるのではないかと。また、いま、小1の子どもたちがその小学校を卒業するころか、その先の地元中学校を卒業するころまでは、様子を見守る必要があるでしょう)。
  5. 加害教員及び他の教職員に対する事情聴取と、そこから明らかになった事実経過及び背景要因の分析をふまえて、適切な再発防止策をつくり、全市的に実施する。そのために、当該の案件に対する調査は、弁護士主体の調査チームではなく、教育学や心理学、精神医学などの諸領域の専門家によるチームによって行う。(前にも書いたとおり、弁護士主体のチームでは、コンプライアンス=法令遵守や懲戒処分に関する事項ばかりを調べることになり、学校の再建や教職員の人間関係の改善、教職員の人間的成熟への支援につながるような調査・検証作業にはなかなかならないかと思います)。
  6. 5の結果をふまえたかたちで、厳正な処分を実施する(さっさと処分してしまってクビにしたら、かえって事実は隠されます)。また、調査・検証作業が終わるまでは、不適切な情報公開は行わない。報告書のかたちでまとまってから、調査・検証作業の結果を開示する(今も当該の学校及び近隣の学校、市教委などに対して、この件で何か報道があるたび苦情電話が殺到し、関係職員が困惑している状態にある。その都度その都度何か公表することは、そのよくない状況をさらに拡大するのみである)

いかがでしょうか? 私のつくった「対案」は、次の4点を基本方針としてつくっています。

①被害にあった教員への謝罪と今後のケアに関する当事者との対話の継続。
②当該の小学校の教育の再建。その再建プラン作りには子どもたちと保護者、残っている教職員の参加・参画を促す。子どもたちのケアも、このプラン作り及びその実施過程と併行して行う。
③法的対応だけでなく、教育学的・心理学的観点からの調査・検証の実施と、それをふまえた再発防止策の実施。
④すでに起きている学校・教委バッシングを抑制しつつ、同時に適正手続きにもとづいた処分を実施する。
 
 
こういう対案をつくってみたらすぐにわかるのですが、神戸市の総合教育会議が10月17日付けで出した「今後の方向性」は、「とにかく、加害教員の処分を一日も早くやってしまって、世論を鎮めてしまおう」という思いばかりが先行しているように見受けられます(でもそれって、誰かを処分して切ってしまって、早く忘れてもらおう…というタイプの「事態の沈静化」策なんですけどね。桜宮高校事件でとられたのと同じ手法のようにも思われます)。

その一方で、被害にあった教員へのサポートや当該の学校に通う子ども・保護者への目配りは不十分です。これでは、地元の保護者や住民は動揺するでしょうし、そういう動揺するおとなたちに接して子どもも不安定になってしまうでしょう。被害にあった教員の方も、神戸市側がいう「ケア、ケア…」に対して、さまざまな思い(不信感や憤りを含む)を抱くかもしれません。

これに加えて、神戸市として当該の学校の教育活動の再建をどのように考えているのでしょうか? そこについても、具体的なプラン作りの芽すら今は見えていないような状況ですね。それでいいのでしょうか…。

さらに、まだ調査も十分に行われていないのに、現時点ですでに「ガバナンス欠如」という決めつけが行われ、それを前提にして、総合教育会議のメンバーの誰の発案かわかりませんが、でも、なんらかの改革を行おうとしています。もしもそのやろうとしている改革の中身がまちがっていたら、どうするんでしょうか?

そして、市教委のホームページのリニューアルですか。それは今、考えなければいけないことなのかと…。

いろいろとバッシングを受けて苦しい状況もわかるのですが、でも神戸市の総合教育会議のみなさん、今一度「冷静に」なって、本当にこの「方向性」でいいのかどうか、手直しをはかってください。私は、まずはそのことをお勧めしたいと思います。上述のとおり、私なら全面的にこの「方向性」を書きなおしますよ。


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「悪代官」を「ご公儀」が成敗するという「劇場」は、ここでいったん終わりにしましょう(神戸市での教員間いじめ問題関連)

2019-10-16 23:20:09 | 受験・学校

数日前からの予想通り、あまり中身のない文科省副大臣等と神戸市教委幹部らとの面談が行われたようです。一応、下記のとおり、ニフティからニュース配信がなされています。

教諭いじめで副大臣らに謝罪 2019年10月15日 12時24分 産経新聞(ニフティニュース配信)
https://news.nifty.com/article/domestic/society/12274-436131/

また、「こういうこともありうるだろうなぁ」と思って、すでに何度か、自分のブログにも記事を書いています。そのリンクも貼り付けます。

もしも私が調査・検証作業を担当するなら&文科省の副大臣等は何をするために来るの?(神戸・須磨の教員間いじめ問題関連)

https://blog.goo.ne.jp/seisyounenkaikan/e/71f537a35fe0a3c23f816cb0a6fe0182

いま、神戸の学校でやるべきこととは?(教職員間いじめ問題関連)

https://blog.goo.ne.jp/seisyounenkaikan/e/858cae9d1fbbf6e1ca2d020332eb86a8

神戸市の小学校で起きた教職員間「いじめ」の問題について

https://blog.goo.ne.jp/seisyounenkaikan/e/6a41a634011c59d48a8926969539709d

さて、このニフティニュースの記事を読んでいただければわかりますが、実際に文科省の副大臣らが神戸市教委に伝えたのは、「子供たちの指導を行うべき教員がこのような事件を起こすとは信じがたい。原因究明と事実解明を行い、厳正な処罰を含めた対応をしてほしい」ということのようです。

もちろん、記事になっていない部分で、もっと突っ込んだ要望を出している可能性はあります。ただ、この記事で文科省副大臣が言っている程度のことであれば、神戸市教委としては「言われなくてもわかっている」ということでしょう。

一方、この記事についている画像を見て、「ああ、これが文科省のやりたかったことか」とあらためて気づきました。文科省の副大臣らに対して神戸市の教育長らが頭を下げて、謝罪している写真をマスコミが撮って、ネット配信しているんですよね(もともとは産経新聞の記事を、ニフティニュースとして流しています)。

この画像を見て率直に私が思ったのは、か弱き庶民をいじめる「悪代官」を、「ご公儀」が成敗しにきたという絵柄です。

ここで「文科省がきつく、神戸市教委を叱りおいた」という絵柄をつくって、マスコミとSNSなどを通じて流布すれば…。実際はもともと神戸市教委が関係教員の処分を考えていても、「文科省がやらせた」みたいなかたちになって、「手柄」になりますよね。また、世論的にも「文科省、よくやった」と「拍手喝采」です。

ただ、ある意味「ご公儀」は「悪代官」に「かような不届き者、始末せい!」とだけ言い残して、去って行ったとも言えるわけです。よく考えてみると、タチ悪いですね、この「ご公儀」も。そう考えたとき、簡単に拍手喝采、できますか?

というのも、この「ご公儀」は「かような不届き者」さえ「始末」しておけば、あとは「悪代官」に対して何か具体的な改善をしろとは言っていない。つまり「トカゲのしっぽ切りで逃げろ」と言って帰ったようなものです。「それって、どうなんだ?」「文科省自身は何も責任を負わないのか?」と言いたくなりませんか?

つまり、この記事から読み取れるのは、文科省の副大臣らは神戸市教委側に、関係教員の厳正な処罰「だけ」を求めて帰っただけだ、ということ。

文科省としても、今回の神戸市教委側との面談を通して、たとえば被害にあった教員に対して謝罪し、回復に向けてのサポート体制を構築することを約束するとともに、本気で当該の学校や神戸市教委の持っているさまざまな課題を改善し、学校への信頼回復に向けて全力で取り組むことをバックアップすることを約束して帰ることだってできたはずですが…。

でも、少なくともこの文科省の副大臣らには、そういう地道な教育課題の改善や被害にあった教員への謝罪・回復に向けた支援等々には「まるで関心がない」ということを、この記事からは読み取れます(先述のとおり、記事になっていないところではもっと他の事も言っていた可能性も否定できませんが)。

ということで、私としてはこのニフティニュースの記事どおりのことを文科省が言っただけだとすれば、予想通り「なにしに来たの、文科省?」というしかない結果になった、ということです。

なお、このか弱き庶民をいじめる「悪代官」を成敗しに来た「ご公儀」というストーリーづくりは、実はこの間、マスコミ報道とSNSのリンクで、着々とつくられていたなあ、という印象があります。なにしろ以下のとおり・・・。

・神戸市垂水区の中学生いじめ自死の再調査報告書が出た(今年4月)

・そのいじめ自死の再調査開始前に発覚したメモ隠蔽問題などをふまえて、神戸市教委の組織風土改革のための有識者会議の報告書が出た(今年9月)

・その有識者会議報告書がでる少し前に、「危ないことはもう止めてほしい」という趣旨での運動会の組体操問題に関する市長のツイッター上での発言が流れた(今年9月)

・このようなかたちで「神戸市教委や学校は市長の要請になかなか応じない」「神戸市教委も学校も不祥事がいろいろ起きている」という先行的なイメージがあるなかで、例の教員間いじめの報道があって、被害にあっている場面の動画等々がSNS上で拡散された。それが10月初めのこと。

・この10月初めの時期というのは、大津中2いじめ自死事件で、中学生の子どもが亡くなった時期とも重なる。となると、マスメディアは7年目の節目の報道を何らかのかたちで行う時期でもある。そこへ、教員間いじめの報道を投げ込んだ感がある。

・また、ちょうどこの10月初めのこの時期に、大津中2いじめ自死事件以後、いじめ防止対策推進法の制定に動いた超党派議連の勉強会が、今後の法改正をにらんで動き始めるという報道もあった。こことも、教員間いじめの報道がリンクしているようにも見受けられる。

・ちなみに、神戸の話やいじめ防止対策推進法の話と直接関係あるかどうかわかりませんが…。宮城県石巻市の大川小学校の訴訟のことで、原告である遺族側の主張を認めるかたちでの最高裁判決が先週出ました。

このような次第で、もしも「10月初め」のこのタイミングを意図的に狙って、誰かが教員間いじめの問題をマスメディア上で取り上げさせるべく動いたとしたら・・・。そんなことすら、私は脇から見ていて、想像してしまいました。もちろん、過剰な想像かもしれないのですが。

ただ、このタイミングで教員間いじめの問題が報じられて、か弱き庶民をいじめる「悪代官」のようなイメージが神戸市教委に付けられ、それを成敗しにくる「文科省」という構図がつくられた。その構図に合わせて、文科省が神戸市教委を成敗する絵柄をつくって、画像にして配信する。そして、それを見た人が何らかの溜飲を下げているとしたら…。これこそ、まさに「劇場」型の政治ですね。

そして、その「劇場」に、ネット右翼系の人びとはここぞとばかりに市教委を攻撃し…。また、左派やリベラルな人々は「あの組体操への対応に象徴される市教委が~」と、ネット右翼系の人とは別の論理で教育委員会を攻撃し…。気づけば、日頃は別の問題では意見の対立しあう両者が、この問題ではとにかく「市教委が~」という一点で合流し、マスコミ報道やSNSでの発言を加速していく、と。この数日、そんな流れが形成されていたように思います。

私はその盛り上がりがたいへん気になって、この間「嫌だなあ」と思ってブログ等々を書き綴っていたのですが。要するに両方とも「市教委憎し」みたいな感情を駆り立てられていた、という風に見えた次第です。なにしろ、このような何かを「憎し」と思って、多方面から負の感情を駆り立てられる流れって、気を付けておかないと全体主義的な風潮へとつながりかねないですから。

でも、このような「劇場」での盛り上がりが、当該の学校や神戸市教委の抱えてきたさまざまな問題を解決するのかどうか。また、被害にあった教員への謝罪や回復に向けてのサポートにつながるのか。当該の学校の再生に向けた地道な取り組みにつながるのか(ここには、その学校に通う子どもや保護者たち、地域住民のみなさんへの謝罪と信頼回復も含まれます)。こうした本質的な課題への対応については、「おそらく、この劇場の盛り上がりは、その本質的な課題の解決とは、直接にはつながらないでしょう」というしかありません。

むしろ「劇場」への対応よりも、以前、このブログにも書いたような地道な、なおかつ本質的な課題解決の作業を、学校現場レベルで数年かけてでもやりぬくこと。このことのほうが、被害にあった教員への謝罪や回復に向けてのサポートにもつながるのではないでしょうか。少なくとも、私はそのように考えます。どんな対応が本質的な課題解決につながるかは、この間に書いた私のブログ記事(上記3本)を参考にしてください。

そして、同じ「劇場」をつくるのであれば…。個人的には時代劇のような「悪代官」を「ご公儀」が成敗する物語ではなくて、せめてプリキュアの物語にしてほしいです。プリキュアの物語には「悪いことをする側にはそれに至った事情がある」と考え、敵と和解し、敵を改心させて味方にしていく話が何度も登場します。今回の件も、たとえ一定の懲戒処分はやむなしとしても、加害教員の事情・背景を探り、反省をせまっていくようなアプローチも必要かと思うのですが。

ということで、そろそろ「悪代官」を「ご公儀」が成敗するという「劇場」は、ここでいったん終わりにしましょう。また、ここからは、たとえば被害にあった教員への謝罪と回復に向けたサポート、当該の学校の教育活動の再建と信頼回復に向けての地道な取り組み(先述のとおり、ここには当該の学校の子ども・保護者・地域住民への謝罪等々も含まれます)、そして加害教員への事情聴取と反省に向けた取り組み、そして懲戒処分等々、ひたすら「実務」にこだわった取組みをすすめてほしいものです。マスコミ報道も、そういう「実務」をアシストする方向へ、「劇場」づくりから流れを転換してほしいと思います。


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