できることを、できる人が、できるかたちで

京都精華大学教員・住友剛のブログ。
関西圏中心に、教育や子ども・若者に関する情報発信を主に行います。

反体罰NPO・研究者連絡会の第2回大阪集会を来年1月13日(月・祝)に行います。

2013-11-18 12:43:03 | ニュース
来年1月13日(月・祝)に、反体罰NPO・研究者連絡会の第2回大阪集会を開催します。
私が基調報告をして、そのあと、大学教員の立場、部活指導の立場(現職高校教員)、そして教育行政・人権啓発の立場という3つの立場からのご発言をいただくシンポジウムを行います。
詳しくは下記の画像(チラシ)をご確認ください。

20130922





『パラレルな知性』という本

2013-11-18 00:56:03 | 受験・学校
※下記の内容は、フェイスブックに書き込んだことの転載です。

今日(もう日付がかわって昨日)、学校事故・事件の被害者全国弁護団の設立集会で、某新聞社の人に取材でコメントもとめられたり、懇親会であいさつするときに紹介したのが、この本。
哲学者・鷲田清一の最近出たエッセイ集なんですが、その第1章「問い1―科学のエシックス」というところが、このところ学校事故・事件に携わる各種専門家と遺族や支援者などとの関係を考える上で、とっても参考になりました。
たとえば、18~19頁「どんな専門家がいい専門家?(2012年春)」にある、次の文章。

すべて学者が正解を出してくれるという、科学への過剰な信頼には危ういものがあるが、その揺り戻し、つまり学者の言うことはすべて信じられないという、科学への不信の過剰はもっと心配だ。
そんななか、友人からいい話を聴いた。火山学のベテランの研究者があるとき噴火の予知に失敗した。しばらくはないといった噴火が起こってしまったのだ。住民はすぐにその研究者を糾弾したのだろうとだれもが思いそうなものだが、じっさいにはその研究者に対する住民たちの信頼は揺らぐことがなかったという。理由は一つ、「わしらが盆休みに遊びほうけ、正月に酒びたりになっているときも、あの先生は一日も休まず加工を見に行ってたのを知っているから」というものだ。
その友人があるフォーラムで、参加者にこんな問いを投げかけた。「どんな専門家がいい専門家ですか?」
返ってきた答えはごくシンプル。高度な知識をもっている人でも、責任をとってくれる人でもなく、「いっしょに考えてくれる人」。市民に代わって正しい答えを出してくれる人ではないのだ。ちなみに、原発の推進にかかわった工学者たちも、文系の研究者にもいっしょに考えてほしかったと語ったそうである。
結局のところ、信頼の根はいつの時代も、学者がその知性をじぶんの利益のために使っていないというところにあるのだろう。

あるいは「語りづらさの経験を(2011年春)」にある、43~44頁の次の文章。

市民たちの、研究者とは違った視線、違った関心をそれとして理解しようとせず、じぶんの専門領域の、内側の符丁で相手を抑え込もうとする者は、、そもそも専門家として失格である。プロとしてのじぶんたちの思いとはうんと隔たったところでものを感じ、生活しているさまざまな市民の思いに十分な想像力をはたらかせられない専門家は、プロとして失格なのである。
専門でない研究領域の人たちに、そして市民に、みずからも一個の研究者ではなく、同時に一人の市民でもある者として、どんなふうに語りかけてゆけばよいのか、とことん悩むこと。そのときに語りづらさというものを、研究者はこのあたりで、とことん経験すべきではないかとおもう。そこからやりなおさねば、この国の「だれも責任をとらない構造」がますます修復不能なものになってしまうようにおもう。

ちなみに、この43~44頁の文章の前には、こんな文章もあります。

ときに傷ついたり、姿勢を責められたりもする、そのような場に身をさらしたくないという思いが、研究者あるいは政治家・官吏の「読み上げ」のなかにあるのではないか。そして、なによりそれを避けなければならないのが、研究や行政に携わるものの責務というものではないのか。
今回の福島第一原発事故への対応にかぎらず、研究者や政治家・官吏の姿勢に、いかにすすんで責任を負うかと自他に問うものが少なく、むしろいかにせきにんを回避できるかばかりを考えているものが多いことも、じつはここでのべたような研究者たちのハビトゥスと深く根がつながっているように思う。(42~43頁)

そして、「「専門的知性」と「市民的知性」とのパラレル・キャリアの養成、それがこの国の高等教育のまっさきの課題」(57頁、「知性のパラレル・キャリア(2011年夏)」という言葉も、この本には出ていました。本の帯広告にも「「専門的知性」と「市民的知性」をつなぐ鍵はどこにあるか? 危機の時代における知性のあり方を問う哲学的考察」とか書いてました。それにひかれて、本屋でこの本買ったわけですが。

まあ、学校事故・事件の被害者全国弁護団という専門家たちと、遺族や被害当事者という市民。あるいは、第三者調査委員会に集う専門家たちと、同じく遺族やその支援者たち。この関係を考えるときには、「専門的知性」と「市民的知性」のつながりを考えなきゃいけないんだなあ~って、この鷲田清一の本を読んでパッと思ったわけです。
そんなわけで、前にも書いたかもしれませんが、哲学・思想や倫理学などの本で科学技術や環境問題、原発について論じたものとか、戦争責任など「責任」について論じたものが、このところ、学校事故・事件の問題を考える上でも参考になる今日この頃です。また、このところつくづく、「人文学部にいる教育学研究者」でよかったな~とも思いますが。

ということで、長い文章をひととおり書いたところで、今夜は寝ます。おやすみなさい・・・。

パラレルな知性 (犀の教室)パラレルな知性 (犀の教室)
価格:¥ 1,785(税込)
発売日:2013-10-05



こういう場で市長がほんとうにいうべきこととは?

2013-11-11 20:25:43 | ニュース
http://mainichi.jp/select/news/20131111k0000e040141000c.html (橋下市長:桜宮高自殺「一生背負っていく十字架」毎日新聞 2013年11月11日 12時18分付け)

この記事の内容は、リンク先を見ていただければわかるとおり、大阪市での桜宮高校での「大運動会」と題したスポーツイベントに橋下市長が出向き、あいさつで生徒たちに、自殺は「一生背負っていかなければいけない十字架」と指摘したという記事です。また、この記事のなかで橋下市長は、「「君たちは暴力を指導の名の下に受け入れて問題意識を持たなかった」と指摘、学校が「確実に再生している」と強調した上で、事件について「みんなが一生背負っていかなければいけない十字架でもある。一生懸命頑張って、天国に行った仲間のためにも誇れるような学校にしてもらいたい」と述べた」とのことです。
このような記事対して、先ほどフェイスブックで、私は次のとおり書き込んでおきました。

「誰も忘れちゃいない」という男子生徒の話が、きっと多くの子どもと保護者と教職員の正直な実感だと思います。というよりも、こういう場面で市長としての彼が語らなきゃいけないのは、よそ事ではなくて、自分自身が市長として、市教委や桜宮高校を全面的に支えながら、どのように体罰のない学校づくり、子どもの人権を尊重する学校づくりをすすめていくのか、という話ではなかったのか。「よそごと」みたいに言うている市長、あなた自身こそ、この問題とどう向き合っていくのか、そこが問われているのです。なにしろ、あなたはあの事件発生前、教育振興基本計画をつくる大阪市の会合で、一度は体罰容認ともとれる発言をしたのですから。

橋下市長、あなた自身がほんとうは、この体罰事件の問題と真摯に向き合って、子どもの人権を本気で尊重する街づくり、学校づくりに取り組んだらいかがでしょうか。