できることを、できる人が、できるかたちで

京都精華大学教員・住友剛のブログ。
関西圏中心に、教育や子ども・若者に関する情報発信を主に行います。

昨日の交流会で感じたこと

2009-06-22 18:10:32 | 受験・学校

昨日は午後から、大阪府内(大阪市内を含む、以後同じ)の各地区で、解放子ども会活動に取り組んでいる保護者や地元住民の方の交流会がありました。今、各地区で取り組まれている活動のなかから小学生の子どもを軸とした活動と、中学生の子どもを軸とした活動の2つの実践報告があったあと、参加者全体の交流と意見交換をねらいとしたワークショップが行われました。

昨日はだいたい60人くらいの方が参加していたかと思いますし、ワークショップでであった方のなかには、「こういうイベントが開かれるのを待ち望んでいた」というような声もありました。私自身、参加してよかったという気持ちです。

この何年かの間の各地区での子ども会や保護者会の取組みの低迷状況、これについてはいろんな背景要因があるでしょう。そのことは今、とやかくいうのはやめておきます。

ただ、私としては、本当に解放運動が大阪府内の各地区であらためて子育てや教育の運動に取り組むのであれば、もう一度、足元である子ども会や保護者会活動の活性化、さらにはそこが母体となってのNPO活動などの展開に進む必要があるのではないか、と思います。また、子どもの人権や障害者、高齢者、在日外国人、ジェンダー、まちづくりなどの諸課題に取り組んできたNPO活動などとの連携とか、そこでの活動のノウハウの吸収といったことも、これからは必要になってくるのではないかと思います。

それこそ、今まで活動が低迷してきて、ここ数年、ほとんど動いてこなかったところほど、新しい発想で各地区の子ども会や保護者会活動を展開させる「チャンス」かもしれません。たとえば、誰か何かはじめてみようと思う世話人格の方が2~3人いて、その世話人格の方に「いっしょにやろう、ついていくわ~」という方が何人か出てくれば、それだけで、子ども会や保護者会の活動ははじめられると思います。また、毎回の活動内容も、たとえば今週は「いっしょにおにぎりをつくろう」「たこやきをつくろう」とか、「プールへ行こう」とか「施設見学に行こう」とか、無理をせず、保護者や学生ボランティアでも十分できるところからはじめればいいと思います。そして、ある程度何回か活動が続いて、常時来るような子どもや保護者が確定してくれば、その人たちの意見を聴いてあらためて活動内容を充実させればいいでしょう。また、外部の諸団体とのつながりをつくって、そこと交流するイベントを行ってもいいでしょうね。

要は、最初から大きな活動を狙おうとか、何年も継続しなければいけないとか考えずに、「まずは、誰かが軸になって、何人か集めて、できることをやってみる」こと。それが一番、今は大事なのではないかな、と思います。

私としては、たとえその活動が小規模なものであっても、そのやっていることが「いつもそれなりに楽しくて、それほど負担にならなくても、今の自分たちで担っていける範囲の取組みだ」と思えるのならば、世話人メンバーは交代しても活動は継続するでしょうし、続けたくなる人もたくさんでてくると思います。また、みんなが集まって何か楽しいことをやっている雰囲気にひきつけられて、新しいメンバーが集まってくることにもなるでしょうしね。

ところで、昨日は大阪市内のある地区で、青少年会館があった頃以来の仲間関係を続けたくて、小学生の子どもやその保護者の交流活動を続けている方たちの話を聴きました。たとえ週1回であれ、せっかく2年、3年と、保護者の間で工夫をしながら、子どもたちの意見を聴きながら、そして、地元の人たちを巻き込みながら、地道に活動を継続してきたこの人たちの集まりが、例の人権文化センターと旧青少年会館等の統廃合によって、活動場所の確保にかえって困るような事態に直面しています。

大阪市が本当に人権文化センター等の統廃合後、市民交流センターをつくって、地区内外の人々の交流や、世代を越えた人々のつながりを広げていこうとするなら、まずはこの保護者の営みこそ支援するのがスジなのではないでしょうか?

また、大阪市の教育委員会がたとえば「家庭・地域の教育力向上」だとか、「自然体験活動や世代間交流活動等、多様な体験活動の充実」だとか、「学校・家庭・地域社会の連携」だとか、そういったことを今後の重点施策に位置づけているのであれば、なぜ「施設統廃合」の名を借りて、今、そういう活動をしているこの保護者たちの営みをじゃまするようなことをするのでしょうか?

むしろ、今までどおりに旧青少年会館を活用して、この保護者たちが学校や地域社会の人々とつながったり、あるいは、子育て中の各家庭をつないだりする自発的な営みに、「活動場所の確保」等の形で支援をしていくことのほうが、大阪市教育委員会の取組みとしては有効なのではないかと思うのですが・・・・?

「行政と民間とのパートナーシップ」とか「市民の参加・参画」「行政と民間との協働」といった観点から見ても、そのほうが適切な施策だろうし、だいたい、旧青少年会館を施設統廃合で閉じたあと、そこを有効活用もせずに放置するより、はるかにましではないかと、少なくとも私は思うのですけど?

このような次第で、大阪市の行政当局者には、「そろそろ現場におりてきて、実際にそこで活動している人々の様子を見たり、話を聴いたりするところから今後の施策展開を考える時期に来ているのでは? でなければ、いろんな数値データを載せた書類をつくったり、庁舎内で市議会その他の人々のいろんな思惑を調整している間に、各地区の子どもや保護者、地元住民にとっても、大阪市民全体にとっても、あまり意味のない施策がつくられ、実施されるということになるのでは?」と、この際、伝えておこうと思います。

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ほかの活動からヒントを得ることも大事

2009-06-15 20:37:39 | 国際・政治

 久々の更新になります。このところの私は、こちらのブログで扱ってきたようなテーマについて考えたり、行動したりすることを一見、控えているようにも見えます。ですが、実はほかの研究テーマだとか社会的活動、あるいは、日々の仕事に取り組む中で、案外、こちらのブログで扱ってきたテーマを深めるにあたってのヒントを得ることがあります。そのことを、下記のとおり書き記しておきます。やや文体が変わりますが、ご容赦ください。

その1:当事者による「語り合い」や「気づき」の場の重要性

 学校における死亡事故・事件の被害者遺族が、その事故・事件後のつらさや怒り、悩みや、学校・教育行政の事故・事件後の対応上の諸問題、事故・事件後に生じる「二次被害」の問題などについて、日ごろの人間関係を離れて自由に語り合う場が、今はほんとうに少ない。そんな状況のなかで、同じような事故・事件に遭遇した被害者遺族が集まって、そこで自分たちが日ごろ抱えているつらさや怒り、悩みなどを話し、これから対応すべき課題が何なのかをお互いに整理しあう。そのような会が生まれている。それが「学校事故・事件を語る会」の取組みである。ちなみに、この会のことは、もうひとつの日記帳ブログで詳しく触れたので、これ以上はこちらでは触れない。

 この「学校事故・事件を語る会」のほかにも、たとえば不登校の子どものいる親の会や、いわゆるフリースクールの親の会などのように、何らかの子ども・若者とつきあう家族、特に親が抱えている困難について、日ごろの生活の場を離れて自由に語り合う場が生まれている。子育て支援活動における親たちのサークルにも、こうした側面があるだろう。

 こういう当事者による「語り合い」や「気づき」の機会を、これからどのように作り上げていくのか。これは社会教育・生涯学習の課題でもあるだろうし、地域福祉やまちづくりの課題でもあるだろうし、人権や反差別、貧困などの課題に取り組む社会運動の課題でもあるだろう。

 少なくとも今後の大阪市内の各地区において、「市民交流センター(仮称)」なるものが生まれようとしている状況のなかで、このような当事者による「語り合い」や「気づき」の機会をどう位置づけていくのか。それぞれの社会運動が今一度、確認していく必要があるのではないか。

 それこそ、各地区の解放運動だって、被差別当事者とその支援者たちによる「語り合い」や「気づき」の場の整備、あるいは、同じ地区内に住む古い住民と新しい住民との相互の意見交流、「語り合い」や「気づき」の場づくりから、もう一度、新たな活動スタイルを模索してもいいのではないだろうか。そのきっかけとして、各地区内での子ども会活動の再開、保護者会の組織づくり、識字教室その他の活動などの場が使えるなら、どんどん活用するといいと思う。

その2:当事者と向き合う、領域横断的(いわゆる「学際的」)な視点の重要性

 あくまでも私の目に映る限りなのだが、人権や反差別、貧困にかかわる研究活動や実践活動も、このところはあまりにも「細分化」されすぎて、その最先端で取り組んでいる研究や実践相互間の関係が見えづらいところがあるように思う。

 もちろん、個々の研究や実践に取り組んでいる方々の善意やまじめさは否定しないし、したくもない。だがしかし、脇で見ていると、その善意やまじめさゆえに、ある特定の課題をさらに掘り下げることばかりに夢中になっていて、その課題を追究することによって、いったい、どんな将来展望が開けてくるのかが見えてこないような、そんなことすらあるように思えるときがある。

 特に、人権や反差別、貧困などの問題にかかわって、今までのものの見方・考え方の問い直し(相対化)にかかわる研究や実践活動をはじめていると、その問い直しがさらなる問い直しを呼んで、ますます、袋小路に陥ってしまうことすら、今は生じつつあるように思う。そうなってくると、「いったい、それって、何のための(あるいは誰とつながるための)問い直しか?」ということを、私などは問いたくなってしまう。

 もちろん人権や反差別、貧困などの諸問題について、社会全体がまだ「平穏」な情勢下にあれば、そういう研究や実践活動におけるさまざまな「問い直し」が袋小路に入っているケースがいくつか見られても、さほど問題はないかもしれない。

 しかし、今、私たちが直面している状況は、そういう「もたつき」を待っていてはくれない。研究や実践活動に関する議論が「もたもた」している間に、これまで継続されてきた人権施策や子ども施策等々は打ち切られ、さまざまな社会運動が取り組み、実績を挙げてきたことも次々とやりづらくなる。そんな状況におかれているのが、今なのではないか?

 特に過去の議論の「問い直し」が袋小路におちいって、「もたもた」していて身動きのとれない状況にあることは、今の人権施策や人権に関する社会運動などが目障りで、何かと「つぶしたい」と思う側にとっては、好都合であろう。

 また、あまりにも研究や実践活動が細分化しすぎて、お互いに横の連携がとりあえないくらい、誰が何をやっているのかよくわからくなってきた状況もまた、人権施策や人権に関する社会運動などが目障りで、何かと「つぶしたい」と思う側にとっては、好都合であろう。それは研究や実践活動、あるいは社会運動の側が自らで自らを「分断」させているということであり、ひとつひとつ、その「分断」をうまく利用すれば、人権施策や人権に関する社会運動などを「つぶしたい」と思う側は、いろんな細工をすることができるからである。

 さらに、あまりにも研究や実践活動が細分化しすぎてしまうと、自分の取り組んでいることがなんらかの形で行き詰ると、それでもう「だめだ」と思ってしまいかねない。目の前のことばかりに追われるのではなく、もう少し大きな視野をもって全体状況を見直せば、別の分野で、別の取組みがアプローチしていることによって、今、直面している行き詰まりが打開できるかもしれない、ということに気づく可能性もでてくるだろう。でも、そうした全体状況をふりかえる余裕が、研究や実践活動の細分化によって、「まじめさ」と「善意」ゆえに失われてくることもあるのではないか。あるいは、ひとつまちがうと、「その細分化された自分の一領域だけ守れたらいい」という思いも芽生えてくるかもしれない。そうなると、ますます「分断」が、自分たちの内部で生じてくるだろう。

 そういうことから考えると、今、まさに人権や反差別、貧困などの諸問題に取り組む研究や実践活動に必要なことは、もう一度、当事者の暮らしている現場にこちらから出向いていき、当事者に向き合って、今、何が検討すべき課題なのかを把握しなおすこと。また、その把握しなおしたことをもとに、細分化された研究や実践活動をもう一度、今の課題に対応できるようにつなぎあわせ、領域横断的(もしくは学際的)なものに組みなおしていくこと。 この2つのことではないかと思う。

 特に人権施策などにおいて「縦割り」行政の弊害を指摘したいのであれば、研究や実践活動の側も各研究領域別に「縦割り」の状況を問い直して、当事者の直面する課題に即して、自らの立場を組みなおすことが必要なのではないだろうか。そして、まずは自らが領域横断的(あるいは学際的)な課題意識を持ち、当事者と話をしながら、「問い直し」の袋小路に陥らないように現実的な検討課題を設定して、何かに取り組んでいくことが今は必要なのではないだろうか。

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「新しい宿命主義」と「圏外化」にどう立ち向かうか?

2009-06-07 23:46:19 | いま・むかし
キャラ化する/される子どもたち―排除型社会における新たな人間像 (岩波ブックレット NO. 759) キャラ化する/される子どもたち―排除型社会における新たな人間像 (岩波ブックレット NO. 759)
価格:¥ 504(税込)
発売日:2009-06

今日、読んでいたこの土井隆義氏のブックレット『キャラ化する/される子どもたち』に、「圏外化」と「新しい宿命主義」という言葉がでてきました。私の印象では、これからの人権教育や解放教育、さらには障害児教育や在日外国人教育等々、マイノリティの教育課題に取り組む運動は、この2つにどう立ち向かうかを考える必要があるように思います。

もちろん、私は「学力向上」への対応が不要だという気はありません。ですが、このブックレットで論じられていることを前提にすると、「人権教育やマイノリティの教育課題に取り組む運動関係者が、学力向上ばっかり論じている間に、この圏外化と新しい宿命主義が子どもや若者によりいっそう広がると、とんでもないことになる」と思ったのです。

ちなみにこの「圏外化」というのは、このブックレットの内容を私なりに整理すると、子どもや若者たちができるだけフラットな交友関係を維持しつつ、そのなかでの対立や衝突を避けたいがために、どうしても関係がぎくしゃくしそうな人を最初から排除してしまい、認知の対象にすら入れないようにする現象といえます。それはあたかも、ケータイの「圏外」にある人とは「つながらないし、つながれない」かのように、かかわると大変そうな人を扱うようなものです。また、クラス内の人間関係も序列化(このブックレットでは「スクールカースト」という言葉をつかいますが)して、「自分とは異なる、格がちがう、身分がちがう」人たちとは、最初から「かかわらない、つきあわない」ようにして、できるだけ同質の人どうしでつながろうとする。そんな傾向も、このブックレットでは指摘されています。そして、同質の人どうしでつながるなかでの息苦しさを解消するために、「いじりやすいキャラ」の持ち主を標的にしたからかいなどで、そのよどんだ雰囲気を緩和するのではないか、とこのブックレットの著者は考えています。

一方、「新しい宿命主義」というのは、たとえば学習の習慣や学歴の獲得などをめぐって、「がんばれば必ず成功する」という子ども・若者と、「何をやっても無駄だ」と思う子ども・若者との間で、「意欲の二極化」という傾向が見られる状況が生まれていること、そのことを前提にしています。その「意欲の二極化」傾向のなかで、「何をやっても無駄だ」と思う子ども・若者の間から、「自分たちの将来は、生まれもった素質などによって宿命づけられ、決まっている」かのように思う傾向が芽生えているのではないか。このブックレットの著者は、このような傾向を「新しい宿命主義」と呼んでいます。

もちろん、このブックレットの著者の主張が、はたしてほんとうに的を射たものであるのかどうかは、今後、きちんとした検証作業が必要でしょう。ただ、著者のいうこの「圏外化」や「新しい宿命主義」が、どちらも今、子どもや若者たちの過ごす学校内で本当におきていることであれば、これはこの日本社会において、たとえば差別や偏見、「いじめ」などを生み出しやすい背景要因を形作っているのではないでしょうか。

したがって、ここで著者のいう現象がほんとうに存在するのであれば、私などはまず人権教育やマイノリティの教育課題に取り組む人々が、「学力向上」について論じるのと同じかそれ以上に、この「圏外化」や「新しい宿命主義」が子どもや若者たちに広がることについて、もっと危機感を持たないといけないのではないか。また、このような現象に対して、学校・家庭・地域社会の連携のなかで、あるいは、学校教育および社会教育・生涯学習の場において、具体的にどんな教育実践・施策をもって立ち向かうのか。そこをきちんと論じる必要があるのではないか。その前に、まずはこのブックレットの著者のいうような現象が、どの程度、今の子どもや若者に見られるようになっているのか、そこから確かめないといけないのではないか。

そのようなことを、このブックレットを読んで、少なくとも私は感じました。

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