できることを、できる人が、できるかたちで

京都精華大学教員・住友剛のブログ。
関西圏中心に、教育や子ども・若者に関する情報発信を主に行います。

そもそも「府市統合本部」ってどういう法的位置づけなの?

2012-01-30 16:56:21 | ニュース

この間、橋下大阪市政・松井大阪府政についていろんなマスメディアで報道が行われているのですが、当初からの疑問であり、いまだによくわからないことがひとつあります。それは、いま、いろんな改革提案が検討されている「府市統合本部」の法的な位置づけです。

これ、いま、自治体行政においてさまざまな権限を有している大阪市長と大阪府知事が、自分の部下の職員と特別顧問と称する人たちを集めて施策を検討させ、なおかつ、そこで検討の結果出た案について、市長と府知事の協議で決定を出しているという場ですよね。

つまり、この府市統合本部において現在、決めてもかまわないことというのは、あくまでも現行の法令の枠内で、なおかつ首長の権限に属するものに限られる。そういう解釈になるわけですよね。少なくとも、私はそんな感じで理解しています。

なにしろ、私の知る限り、大阪府議会や大阪市議会で、府市統合本部設置条例とか、府市統合本部で検討すべき事項に関する条例など、決まったという話は出ていないです。となると、今の府知事・市長権限でできる話の部分で、あれこれ両者が協議して、決定を出しているだけの機関、それを府市統合本部と呼んでいるにすぎないことになります。

では、次。この文科省の説明を見てください。

http://www.mext.go.jp/a_menu/chihou/05071301.htm

この説明によると、現行の教育委員会制度は首長からの独立性や政治的中立性、継続性・安定性をもって特徴づけられるわけですよね。

だとしたら、首長がたとえ「教育基本条例案をつくりたい」といっても、「それはこちらの独立性や中立性を侵すものだ」と教育委員会側が拒否したら、本来、引き下がるべきは首長の側ではないのか、ということになるのでは?

あるいは、首長が「教育基本条例」をどうしてもつくりたいと思っても、教育委員会側の主体的な協力意思がないところでは、やはり「首長が原案を議会などに出して、勝手に決める」というわけにはいかないのではないでしょうか?

さらに、もっといえば、そもそも「府市統合本部」のような、首長どうしが意思決定のスピードを上げるためにつくった協議・調整機関に、教育委員会側から誰か出て行って議論に参加するかどうかも、実は「首長からの独立性」や「政治的中立性」という観点から見れば、本来は教育委員会側の主体的な協力意思次第。

だから、「あんな内容での話し合いには応じられない」と教育委員会側が言えば、現行制度上、「府市統合本部」であろうが首長であろうが、うじうじと文句のひとつやふたついうとか、「俺こそが民意だ」とか、「いつか教育委員を罷免してやる」とか恫喝を加えることはできても、現時点では、それ以上のことを法的に求めることはできないはずではないのでしょうか?

そして、教育委員会側が全く納得していない、あずかり知らないところで勝手に作られた条例案を府議会や市議会に首長側から提出されたら、当然、提出を受けた議会側は教育委員会側に見解を求めることになるでしょう。そのときには、提出した側と同時に、教育委員会側の見解を議会側は尊重することになるでしょうし、また、この条例案の合法性なども議会で問われることになるはずです。

とすれば、この毎日新聞のネット配信記事も、読み方が変わってきますね。

http://mainichi.jp/kansai/news/20120129ddn041010012000c.html (教育基本条例案:市教委置き去り、「もう遅い」橋下市長議論拒否:毎日新聞2012年1月29日大阪朝刊ネット配信記事)

だから、首長サイドが自分の政治的スケジュールで「準備が遅い」とか「話し合いをしない」とかいうのは、それは首長の都合でしかありません。「だからどうなんですかね?」「そもそも、首長からの独立性のある機関ですから、こちらは。こちらはこちらのペースで物事を考えさせていただきます」と、教育委員会側が言い始めて、それに本格的に法的な説明を付け加えはじめたら、どうなりますかね? おそらく、危ういのは首長サイドの立場になるのでは?

そんなことを私、この新聞記事などから感じました。


大阪府教委の「教育基本条例」修正案、これならやっぱりいらない。

2012-01-29 10:24:08 | ニュース

本当は昨日の午後、佐藤学さん(東京大学)や野田正彰さん(関西学院大学)などがパネリストになって行われたシンポジウム(案内はここ:http://osaka1117.exblog.jp/ )についてブログで紹介したいのですが、その前に、こちらの話を。

25日(水)に大阪府市統合本部で議論をされた大阪府教委作成の「教育基本条例案」の修正案が、すでに大阪市のHPでアップされ、閲覧可能になっています。PDFファイル3つになっていましたので、こちらでダウンロードして、再度、ここでアップしておきます。

「3shiryo31.pdf」をダウンロード

「3shiryo32.pdf」をダウンロード

「3shiryo33.pdf」をダウンロード

それで、あらためてこの修正案をさっと目を通してみたのですが、「これならやっぱり、いらない」というのが率直な結論。もともとの条例案も、この修正案も、どっちも不要。そもそも「教育基本条例」制定のムーブメントそのものが大阪の子どもや教育にとって「余計なお世話」、という印象を強めました。

理由はいろいろあるのですが、結論から先に言えば、「この修正案って一応、法的な整合性をととのえて、大事なところはすべてあとは府教委が決められるようにしているけど、要は府教委が首長提案や大阪維新の会の教育政策を丸呑みしたら、結果的に同じことになるでしょう」ということ。そのうえで、「資料3-1 知事提案の条例案について」(3shiryo31のPDFファイル参照)を読んで、次のことも指摘しておきます。

(1)まず、府教委修正案は、教育基本条例案を3分割したうえで、教職員の人事評価、分限や懲戒等に関することは職員基本条例に「丸投げ」する形をとっています。しかし大阪府の一般行政職に関する規定と、教職員に関する規定、何もかも同じにすることが妥当なのでしょうか? 

(2)府教委修正案でいう「教育行政基本条例案」の目指すところが、やはりグローバル社会に対応した人材養成。このことは「前文」からわかる。大阪の教育が子どもの人権保障やインクルーシブな教育の実現を目指してきたことに対しては、なんら考慮も配慮もない。従来の大阪の教育から数歩も後退して、国の施策と大差ないものにこのままではなるだろう。

(3)「教育行政基本条例案」は結局、府としての「教育振興基本計画」の「共同作成」というところで府知事と府教委の関係をおさめようとしている。ただ、そのときに府知事が強引に「全国学力テストの順位をあげろ」「教員の人件費を削減しろ」「教職員の分限免職や懲戒免職等をもっと積極的に行え」等の要求をして、それが基本計画に盛り込まれることになったのであれば、従来の「教育基本条例案」と大差ないものになるだろう。

(4)教育施策に関する説明責任や点検、評価という「教育行政基本条例案」の第3章の趣旨も、一般論としては正しいのだが、その点検・評価をどのような指標で行うのか次第では、従来の「教育基本条例案」と大差なくなる。それこそ、「全国学力テストの順位が去年よりどれくらい上がったか?」を点検・評価の指標とするつもりなのか否か?

(5)「教育行政基本条例案」第4章の市町村との関係だが、従来だって教員研修等で市町村教委と府教委は連携してきたのではなかったか? ここに書いてあることの多くは、あらためて「教育行政基本条例案」をつくらねばできないことなのかどうか、きわめて疑問。

(6)「府立学校条例」の第1章、第2章でいう「効果的・効率的」な学校配置、学校運営とはなんなのか。それは誰にとっての「効果的・効率的」なものなのか。たとえば、「定期代くらい子どもでもバイトして稼げ」という首長のもとで、府立高校の大規模な統廃合を行って、教育財政面では「効果的・効率的」な学校配置・学校運営が行われたとする。しかし、通学時間が2時間以上かかるような状態が当たり前になってしまえば、高校生たちの生活が大きく乱れることになる。かえって学習効果は損なわれるのではないか。このことは特別支援学校の統廃合に際しても言えることであろう。

(7)「府立学校条例」第4章の府立学校運営の計画づくりって、これ、今までだって府立学校はやってきたのではないですか? もしもそうだとしたら、それで実際に学校がうまく運営されてきたのかどうなのか。学校に組織マネジメントの発想を導入するというのがこの府立学校条例の趣旨のようですし、これがこの十数年の国全体の教育改革の流れのようですけど、それでほんとうに日本の学校の何がよくなって、何がかえって悪くなったのか。そこから議論をするべきでしょう。

(8)「府立学校条例」第5章ですけど、第1節ではまず校長の「任期付採用の拡大」ですか。これって「教育基本条例案」の趣旨と何もかわっていない気がします。また、第2節のほうですけど、ここで書いてあるような教職員の研修等は、いままでだって条例がなくとも府教委としてやってきたのではないでしょうか。わざわざ条例をつくらなければならない理由がわかりません。

以上、ざっと気づいた範囲ですが、「こんな内容の修正案なら、教育基本条例案のもとの案ともども、どっちもいらない!」と、あらためてここで述べておきます。


「読む」「書く」という次元で議論をしたいですね。

2012-01-28 10:02:51 | ニュース

ツイッター経由の情報とメールで知らせてくださった方の話で、おおよその自分の予想どおりだと思ったのですが、1月27日(金)深夜(実際には28日の夜明け前?)の「朝まで生テレビ」の内容、ほんと、ひどかったようですね。

まあ、もともと、今回の「朝まで生テレビ」ですが、橋下市長が「学者」からの自分への批判にうっぷんがたまっていたのか、「反論がしたい」ということで、「朝まで生テレビ」の田原氏に番組出演を申し入れてできあがったもの。その経過は、ツイッターで私も知りました。だとすれば、番組の流れとして、最初から橋下氏が自分への批判者たちに対して好き放題言えるような構図をつくるだろうし、もしかしたら、討論の相手だって、橋下氏が「相手にしやすい」と思った人を中心に人選したかもしれません。要するにサッカーに例えるならば、橋下氏にとって「アウェー」ではなくて、「ホーム」に近い状態であの番組、そもそもつくられていたのではないか、ということですね。

おまけに、ツイッター経由で入ってきた情報などでは、大事なところにほかの出演者が切り込んで質問をすると橋下氏自身もはぐらかすとか、司会の田原氏が別の話題にふるとか、そういうこともあったようですね。そういう議論の流れの番組のなかで、どうして彼の発言などを評価できるのか、私にはよくわかりません。自分で確かめていない情報にもとづくので誰とは言いませんが、番組の後、橋下氏を擁護するようなことを言っている出演者もいるようですが、「だいじょうぶなの、あなた?」と言いたくなってしまいましたね。

まあ、このような流れになることは前もってわかっていたので、27日(金)の「朝まで生テレビ」は最初から見ませんでした。もう、ツイッター経由で入ってくる情報で十分だし、それもどうなるかが読めるようなものでしたから。また、もともと徹夜は苦手だし、「朝まで生テレビ」と「たかじんのそこまで言って委員会」と「TVタックル」の3つは、私の好きになれない番組ですので、これまでもなるべく見ないようにしてきました。その自分の方向性が、あらためてまちがってなかったな、と思いましたね。

ちなみに、基本的に今、私は橋下大阪市政や松井大阪府政に関する情報は、新聞や雑誌、書籍などのテキストベースの情報(=書かれた情報)を基本にして、あとはインターネットで文字配信されている情報を補う形で得るようにしています。

逆に橋下市政・松井府政に関して、映像メディアから配信される情報、それがテレビであれネット配信の動画であれ、そこから得られる情報については、あまり重きをおいていません。動画にはパフォーマンスなど、「雰囲気」や「勢い」でわかったような気にさせてしまう何かが含まれていて、内容の論理的整合性や過去の施策との関係などを検証する材料が隠されているような気がするからです。

ということで、私は今後もできるだけ、橋下市政や松井府政に関しては、それが新聞・雑誌や書籍なのか、インターネット上での文字ベースの情報なのかは別として、まずは「書かれたもの」を「読んで」検証して、書かれたものにコメントを「書いていく」形で検証、議論していこうと思います。当然、こちらもできるだけ「読むに値するもの」を書かなければいけないわけですが。


<「共に学び、共に生きる教育」日本一の大阪に!ネットワーク>からの抗議声明

2012-01-27 08:49:19 | ニュース

Photo

新聞やテレビなどのマスメディアでどれだけ取り上げられているのかがわからないのですが、大阪維新の会の代表(橋下大阪市長)・幹事長(松井大阪府知事)あてに、「共に学び、共に生きる教育」日本一の大阪に!ネットワークから、この画像のとおり、抗議声明が出されました。

ちなみに、私のところに入っている連絡では、この抗議声明は在阪のマスメディアに記者発表もしたそうですから、これを取り上げるか取り上げないかは、かなり、マスメディア各社の意向が反映していると思います。もちろん、担当記者の方がこれを記事にしたいといっても、上層部あたりでどういう判断がでるか、ということでもあるわけですが。

この抗議声明の文面からもわかるように、大阪維新の会に「共に学び、共に生きる教育」日本一の大阪に!ネットワーク(以後「ネットワーク」と略)はいくつか、先の知事選・市長選の前に質問をして、それに対する回答も得たようです。ところが選挙後、いくつかあらためてネットワークから質問をして、回答を待っていたにもかかわらず、なんら返答がないとか。

そのうえ、府知事時代の橋下氏が、このネットワークのすすめる地域の学校への障害のある子どもへの就学に好意的な回答を寄せていたにもかかわらず、「教育基本条例案」には競争主義的な内容が多く、これでは障害のある子どもたちが学校で片隅においやられるのではないかと危惧されること。ネットワークとしては、大阪でこれまで取り組んできた「共に学び、共に生きる教育」の推進をあらためて願っていること、そのことが大阪の教育を日本一にすることにつながること。そして、選挙前と同じように自分たちの声を聴く機会、話し合いの機会を設けること。このようなことをネットワークとして求めています。

マスメディアがこのことを報道していないかもしれないので、このブログを通じて、私からもこの「抗議声明」の件、発信します。なお、あわせてPDFファイルのバージョンもアップしておきます。

「20120125.pdf」をダウンロード


なんのための「府市統合」「都構想」なのか?

2012-01-25 14:48:37 | ニュース

今頃は大阪府市統合本部において、「教育基本条例案」の中身について、大阪府教委・大阪市教委を交えての協議が行われている頃でしょうか。府教委・市教委がどんな修正案をつくるにせよ、そもそも「教育基本条例案」などいらないという私の立場からすれば、ここで協議の結果出てくる案についても批判的に意見を言うということにはあまり変わりがないのですが。

そんな状況のなか、次のようなニュースがツイッター経由で飛び込んできました。

http://www.sponichi.co.jp/society/news/2012/01/25/kiji/K20120125002503520.html (大阪府市統合の象徴に・・・堺屋太一氏が提案、道頓堀川をプールに:スポーツニッポン(スポニチ)2012年1月25日付け配信記事)

もう、あきれてものが言えません。そもそも大阪府市統合本部というのは、こういうことを議論する場なのでしょうか? 大阪都構想というのは、こんな程度の施策を実施するために打ちだされたものなのでしょうか?

以前、堺屋太一氏が大阪府市統合本部でレクチャーしたときのレジュメをこのブログで紹介して、そこで<「大阪都」をどんな都市にするか、明確なビジョンがない。>と堺屋氏自身が書いていることも述べました。

「だったらもう、府市統合本部なんてやめて、都構想なんて撤回すればどうですか?」

あらためて先ほどのスポニチの配信記事を読んで、強くそう思いました。


いま、自分にできることは、これでは?

2012-01-23 09:43:44 | いま・むかし

先週の土曜日(1月21日)、<教育シンポジウム・「大阪府教育基本条例」で大阪の教育は良くなるのでしょうか? PARTⅢ」(主催:異議あり!「大阪府教育基本条例案」100人委員会)に出てきました。でも、今回の分はシンポジウムというより、ジャーナリストの斎藤貴男さんの「橋下政治の危険性と民意のつくられかた」という講演が中心だったのですが。また、斎藤さんの講演の中身そのものは、今までいろんな方々が語ってこられたことの整理のような感じだったので、あえて今、ここでは紹介しません。

ただ講演のおわりのほうで、斎藤さんがこの状況を変えていく「ウルトラCはない」こと、「必要なのはまともな人間」ということ、「問題点・矛盾点をついて批判する」こと、感情に訴えるような術に巻き込まれない、相手のペースに巻き込まれないということ。そして、教員がダメになれば子どもの世代までダメになる、だから教員は最後のとりでなのだ、ということ。こういった趣旨のことを語っておられました。また、「知性のデフレスパイラル」というレジュメの言葉に関していえば、私の記憶では、斎藤さんは「わかりやすければ中身はどうでもいい」という風潮をマスメディアがあおっているとか、「あまりにもモノを考えていなさすぎ、単純に割り切りたがる」「権力のチェックという役割の法規」といったことを語っておられました。こうしたことが、私には特に印象的でした。

で、このような斎藤さんの講演をうけて、あらためて自分に今、何ができるのかを考えてみました。その結果、でてきたことは<「教育基本条例案」の中身や、教育や子育てなどに関する橋下市政・松井府政、大阪維新の会の教育政策等々を批判的に見ていくのに必要な文献、資料を集めて、私なりに読み解き、紹介する形で、ここで積極的に情報発信していくこと。特に、マスメディアがなかなか言わないこと、紹介しないことを中心に発信していくこと>だということに、あらためて気づきました。

「なんだ、今までやってきたことと、何も変わりないじゃないか?」と思うかもしれません。ですが、私や私の周囲にいる人たちと、「教育基本条例案」を支持したり、大阪維新の会の教育政策や教育・子どもに関する橋下市政・松井府政を支持したりする人たちの間にあるのは、この批判的な観点からの情報・知識の有無、ある場合の量や質の差ではないのか、とも思うわけです。

たとえば「学校選択制」や「施設一体型小中一貫校」ですが、これは他の自治体ですでに失敗している、あるいは軌道修正を余儀なくされている教育施策でもあります。そういうことは教育学の関係者の間では知られていても、それ以外の研究領域の人々や、さらに一般の人々は別かもしれません。このような知識や情報の有無、あったとしてもその量や質の差が、同じ現象を見たときの評価の差を生んでいるとするならば、そこをまず埋め合わせていく作業からはじめていく必要があると思ったわけです。

そのようなわけで、今後もできるだけ、いろんな文献・資料から情報を集めて、地道に、こつこつと、ここで「教育基本条例案」などを批判的に読み解くために必要なことを発信していこうと思いました。


いまがちょうど、私たちのふんばりどころ。

2012-01-21 12:19:57 | ニュース

大阪市の橋下市長の就任から1か月が過ぎました。新聞各紙などはあらためてこの1か月をふりかえる特集記事を組んでいるようで、そこでは次のような形で、橋下市長サイドの「相当いろんなことをやった」というコメントが紹介されているようです。

http://www.yomiuri.co.jp/politics/news/20120120-OYT1T00247.htm (橋下市長就任1か月「相当いろんなことをやった」:読売新聞2012年1月20日付け配信記事)

ですが、よく考えてみたらすぐわかるのですが、この1か月間の橋下市長のしたことといえば、とにかくテレビのニュースや新聞の記事で目に付くような政策提案を発信することばかり。その発信した政策提案、これをどう具体的にこれまでの大阪市の施策に落とし込んでいくのか、整合性を保つのかといった調整作業は、「まだまだこれから」です。あるいは、そこはブレーンや市の職員に「丸投げ」ということでしょうか。

ということは、逆に言えば、彼は自分は方針さえ示していれば仕事をしたと思っている、ということでしょうか。あるいは、市長として関係する部局や市議会の各会派、地元の諸団体などとの地味な調整作業というのは、今後、彼としては「やらない」ということなのでしょうか。いずれにせよ、いろんな提案をぶちあげてみただけ、具体化は「まだまだこれから」という段階で「相当いろんなことやった」と言いうるところが、私などにしてみるととても信じられないですね。

と同時に、この1か月間でいろいろ見えてきたのですが、中央政界も橋下市長や大阪維新の会の動きにすり寄る方向性が見えてきましたし、あるいは、いままで批判的な意見を出してきた市民の間からも「敵に回すのはマズイ」といって、彼らに対する言葉を選んで発信するようになってきているように思います。そして最近では、大阪市長選・大阪府知事選のダブル選挙の結果を受けて、たとえば「ファシズム」や「ハシズム」「ポピュリズム」といった言葉で大阪維新の会や橋下市長サイドの動きを批判したことが、あまり得策でなかったかのような、そんな論調での識者のコメントに接することもあります。

でも私は、このような動きこそが、まさにこの社会における「ファシズム」「全体主義化」を加速する流れなのではないか、と思ってしまいます。

たとえば、去年のダブル選挙で平松氏に投票した52万票の大阪市民の「民意」、これをどう考えるのでしょうかね、このような論調の人々は? あるいは、大阪府知事選挙で、今の松井知事以外の候補者に投票した人々の「民意」、これはどう考えればいいのでしょうか?

私はこのように別の候補者に投票した人々の意思、これは無意味であったとは、とても思えません。というか、今日も大阪市内では「教育基本条例案」に反対する立場からの集会が開かれますが、大阪維新の会や橋下市長・松井知事の動き方に明確にノーをつきつける人々がこれだけの数ある、ということが、かえってはっきりしたという意味もあります。

実際、あまり大きくマスメディアは伝えていませんが、堺市議会や大阪市議会はいったん、「教育基本条例案」を否決していますしね。やはり、大阪維新の会や橋下市長・松井知事らの動き方については「納得いかない」「これはおかしい」ということに、それ相応の意味があると私は思っています。

また、この就任以来の橋下市長の市の職員労組への攻撃、「道徳教育」に関する監視機関の設置提案、さらには「国旗・国歌」に関する教員処分の問題で、最高裁の判決が出たにもかかわらず「教育基本条例案」の基本的な姿勢を変えようとしない部分など、やはり<彼らのやろうとしていることは、「ファシズム」「ハシズム」ではないのか?>という見方をしたほうがいいことも起きています。(ちなみに、彼の今の動き方を「マッカーシズム」と表現する識者の方もいるようです。これもなかなか当たっていると思います。)

そして、このような一連の動きを見て、「あれはやっぱり、問題が多いのではないか?」「何か改革は必要かもしれないけど、でも、あのようなやり方は望まない」等々と、橋下市長や大阪維新の会の支持層のなかにも動揺が広がる危険性すらあります。

だからこそ、橋下市長は連日マスメディアに出て、なんとかして自分達への期待をつなぎとめたい。あるいは、自分達こそ「民意」にこたえようと努力している側なのだ、おかしいのは公務員労組や教育委員会や学校教員なのだ、という風潮をつくっていきたい。そんな側面もあるのではないでしょうか。

でも、そうやって自分達こそ「民意」にこたえようと努力している、自分達の主張する改革こそすばらしいもので、反対する人々こそおかしい、我々に黙って従っていればいのだ、というポーズをしつづけるのも、やがてどこかで無理が出てきたり、ほころびが生じてくるでしょう。

たとえばいま、次々にいろんな政策提案をして、その実現に向けて努力していても、何か1つや2つくらい頓挫するものがでるでしょう。あるいは、その政策提案のなかには「拙速にすぎる」ものや「内実のあやしい」ものもあって、実施すればかえって市民生活に大きな支障が出るものもあるでしょう。そして、市民生活にさまざまな支障が出て、実際に混乱が生じてくれば、「黙って従っていた結果がこれですか?」とか「期待していたのに、なんだ、こんなにつまらないことなのか?」という声が出てきて、そこから期待が幻滅に変わり、やがて怒りや批判・非難へとつながることも予想されます。

そういうときこそ、橋下市長ではなくて平松市長に投票した人々、松井知事ではなくてほかの候補に投票した人々の声、意思が、大きくクローズアップされるとき。「ほらね、だから言ったでしょう? 最初から危ないってわかっていたじゃないの?」と、胸を張って言えるときだと思います。

いずれにせよ、マスメディアを通じて自分達への興味・関心をひきつけ、次々に人々の目を引くような政策提案をして世論を味方につけるような、劇場型の政治というのは、いずれ「現実」でボロが出たときに、一気に崩壊するのではないかと思われます。

今、私たちがなすべきことは、(1)その劇場型の政治に長けた人々が発信してきた政策提案に対して、「現実」の部分で表れてきた「ボロ」をていねいにすくいあげ、文字や映像・音声などで記録にして、さまざまなチャンネルで情報発信していくこと。また、(2)今、彼らが発信している政策提案そのものをさまざまな形で記録化して、あとで検証可能な状態にしておくこと。そして、(3)今の段階でも集められる限りの情報を集めて、彼らの政策提案に対してどれだけ批判的な見解を出せるのか、問題点があると言えるのか、それを検討しておくこと。この3つのことではないかと思います。

ちなみに、この3つのことに長けた人々は、実は大学にいる人文・社会系の研究者。あるいは、教育運動や労働運動、反差別や人権に関する運動など、何らかの形で社会運動に取り組んでいる人々、そして政治権力に対して批判的な立場を貫くようなジャーナリスト、マスメディア関係者のみなさんではないでしょうか。だからこそ、彼らはいま、こうした研究者や社会運動にかかわる人々、自分たちに対して批判的なジャーナリスト、マスメディア関係者などに対して、必要以上に攻撃的になるのだと思います。それだけ、この手の人たちがこわいのでしょう、恐れているのでしょう。

いまがちょうど、私たちのふんばりどころではないでしょうかね。


実際にどう運営するのか、「スーパー学校」としての小中一貫校?

2012-01-20 09:17:44 | 受験・学校

本業が忙しくてしばらく更新が途切れていましたが、今日からまた再開します(「一日一言」シリーズをやめたのは、この本業との兼ね合いの問題もあります。あれを続けるとなると、なかなか大変ですので)。ただ、今日もあまり長い記事を書くことはできませんので、ひとまず、文献の紹介だけにとどめます。

大阪市で先日、橋下市長が市内で開設予定の2つの小中一貫校を「スーパー学校」にするという方針を出したことは、このブログでも伝えたところです。また、それに対して私は、人口減少や少子化ということから、過疎地域などで行われているやむをえない小中一貫校化には妥当性があると思うが、私立学校並みの競争の教育を行うような小中一貫校化(おそらくこちらが「スーパー学校」化)には反対であるという意見も、このブログに書きました。

それで、いま、日本全国各地で実施されつつある小中一貫校設置のうち、この「スーパー学校化」を目指す側の動きについては、次の本などでかなり問題点が指摘されています。

これでいいのか小中一貫校―その理論と実態 これでいいのか小中一貫校―その理論と実態
価格:¥ 1,680(税込)
発売日:2011-09

この本を読むと、たとえば「4・3・2」型の学年の区分で小中一貫教育を行うことには、まだ教育学的・心理学的に見ても「そのほうがいい」とする結果が得られていないこと。むしろ、従来小学校のなかでは高学年としてリーダーシップをとってきた5・6年生が、さらに上の中学生たちといっしょになることで、そういう機会が得られなくなること。5・6年生の頃から中学生並みに教科担任制や中間テスト・期末テストなどが実施され、学力獲得に向けての競争やそれに対する準備学習がすすんでいくこと、などなど。学校教育のあり方として、子どもたちにとって本当に適切な学習環境に小中一貫校がなりうるのかどうか、さまざまな疑問があることがこの本では述べられています。

あるいは、施設一体型で小中一貫教育を行っている学校では、小学校低学年の子どもと中学生とを同じ時間帯に運動場を使わせるわけにいかず、何らかの形で結局「すみわけ」ざるをえなくなること。子どもの数が千人を越えるような大規模な施設一体型の小中一貫校の場合、運動会などの学校行事の運営にもさまざまな支障が出ること。自治体の経費節減の観点から学校統廃合をすすめるなかで施設一体型小中一貫校が設置されるが、その新しい校舎の建設等に多額の支出があって、必ずしも節減効果があるとは限らないこと。そして、施設一体型の小中一貫校の設置が、その学校周辺の地域の都市再開発構想などと結びついている可能性もあること(たとえば「よりよい教育環境」などをウリにして、マンション建設などを誘発しようとか)。このように、実際の学校運営面や自治体の教育行政のあり方として、小中一貫校(特に施設一体型)の設置が妥当かどうかも、この本では示されています。

今後、大阪市内で施設一体型の小中一貫校が設置され、そこが「スーパー学校」になるのであれば、このような本で指摘されている課題をクリアしていく形でなければ子どもにさまざまな支障が出るでしょう。また、そこがクリアできないのであれば、「やめたほうがよかったのでは?」ということになると思います。この本、ぜひ、小中一貫校の設置に関心のある方には読んでいただきたいです。

ちなみに、ふと思ったのですが、大阪市内の北東のはずれ、たとえば東淀川区の井高野地区あたりの小学校1年生が、ランドセル背負って朝早くから、満員の市営地下鉄(将来、民営化されるかも?)と市バスを使って、大阪市内でも最南端とでもいうべき矢田地区の小中一貫校に通う。あるいはその逆に、川一本隔てたら堺市というような、たとえば大阪市立大学(これも将来統合される?)のあるJR杉本町駅近辺の小学1年生が、やっぱり早朝からランドセル背負って、満員電車に乗って、大阪市内でも北の端くらいになる中島中学校区の小中一貫校に通う。この光景、ちょっと想像しただけでも、ぞっとしませんか? 「子どもの通学の安全」や「子どもの成長と心身の負担」という観点から見た場合、いいんですかね、これって・・・・? 両校の通学区域を大阪市内全域に広げたら、こういうことって起こりうるんですけど・・・・。


成功すれば市長の成果、失敗すれば公募区長の責任

2012-01-17 15:46:07 | ニュース

http://sankei.jp.msn.com/west/west_affairs/news/120116/waf12011623230022-n1.htm (【激動!橋下維新】橋下市長、学校選択制を26年度に導入へ)

この記事、よく読んだら気づいたのですが、橋下市長が出しているのは「2014(平成26)年度に市内に学校選択制を導入したい」という方針のみ。詳しいシステムは2012年度中につくるわけですし、その実施をどうするかは、「やめてくれ、という区は外す」ということで、最終的には「公募区長」にゆだねるわけですよね。

ということは、「自分は指示を出し、あとのことは市教委のスタッフと公募区長に任せる」という、いつものとおりの「逃げ」ですね。つまり、学校選択制導入に全市的に成功すれば指示を出した市長の成果、失敗すれば市教委と公募区長の責任、というわけです。

どことなく、こんな話、他にもありそうだと思いませんか? そして、このような形で市長から無理難題を押し付けられても、公募区長、やりたいですかねぇ・・・・?


AがBを、BがCを、CがAを隠す。では、一番隠されているのは?

2012-01-16 20:41:37 | ニュース

今日は少し、この間の橋下市長や大阪維新の会関連のマスメディアの伝えるところを見ていて感じたことを、ごく簡単にだけ書いて終わります。

まだ就任してから1か月もたたない橋下市長が矢継ぎ早にマスメディアに政策提案ができるのは、この間、このブログにも書いたとおり、次のようなパターンがあると考えられます。

(1)もともと就任前、つまり平松前市長の頃から実施が検討されてきた政策を、多少、橋下市長なりにアレンジして、まるで「横取り」したかのように発表するという方法。その例が、先日発表された市内の公立小中一貫校設置を、「スーパー学校」化提案として発表するということ。あるいは、市内の公立学校の統廃合の提案も、これに属するでしょうか。

(2)すでに他の自治体で実施済みの施策を持ち込んで、さも「新しくはじめるのだ」というような印象を与えるという方法。たとえば、「認証保育所」に関する提案などがそうですね。あるいは、学校選択制の導入の話は、ここにも属するでしょうか。

(3)徹底した反対派封じ、敵対勢力攻撃の動きを、さも「改革をしている」かのような印象で語ること。たとえば市の職員組合の事務所明け渡しや、組合活動の規制に関する条例のこと。あるいは、道徳教育の強化のための監視機関づくりですとか、教育基本条例案の修正としての不適格教員の申し立て権のことなど。もしかしたら区長公募も、従来の幹部公務員区長を排除するという意味では、ここに入れてもいいかもしれません。

そして、ここに(4)として、たとえば地下鉄などの市営交通の民営化、職員人件費の削減のように、市の行政機構のスリム化=大阪市役所のリストラ、解体に関する提案がはいるといえばいいでしょうか。(しかしこれも、ある意味で(1)かもしれません。平松前市長の時期に計画されていたものもあると思われるので。)

それで、ふと新聞やテレビなどのマスメディアの伝えるところを見て気づいたのですが、だいたいこの4つの提案の中身が入れ代わり立ち代わり出るような形で、マスメディアに橋下市長や大阪維新の会に関する記事が何らかの形で出るようになっているような印象があります。

ですが、入れ代わり立ち代わり大阪市の改革に関する情報がマスメディアで発信されているのですが、一向に見えてこないものが2つ。それは、肝心の「大阪都構想」と、修正中の「教育基本条例案」の中身。この2つです。

このうち「教育基本条例案」の修正案について、来月の市議会提出を前提に動いているのであれば、もっとその内容が伝わってきてもいいのですが、それが出てこないとなると、2つのことが考えられます。

(1)修正案の作成自体が、内部調整の段階で、かなり難航している。というか、これまでにいろんな方面から批判されていたことに耐える条例案をつくるとなると、だんだん、難しくなっている。

(2)修正案はできているとしても、それを今、表に出すと、反対勢力に対して袋叩きにあってつぶされかねない。だから2月市議会が始まってから表にだし、一気に議論をすすめて可決を目指す。

(3)なんとなくこのまま、うやむやにして、教育基本条例案の修正案提出そのものをなくしてしまう。そのかわり、別のところで教育を動かして、自分たちの思うようにする。

この3とおりのパターンが私には考えられるのですが、いかがでしょうか?

連日、政策提案Aに関する情報が提案Bの問題を隠し、Bの情報がCの問題を隠し、Cの情報がAの問題を隠すようにして、大阪維新の会や橋下市長からの情報発信がマスメディアを通じて続いているような印象が私にはあります。ですが今、一番肝心の「都構想」の中身や、「教育基本条例案の修正」に関する話が、実は巧妙に隠されている印象もあります。そして、オープンにされている政策提案ABC・・・・に相当する情報も、よく精査すれば、いろんな問題のある話が多いような印象があります。

このあたり、ぜひともマスメディアのみなさんに突っ込んで、取材をしていただきたいのですが・・・・?


中身のない都構想と、すでに準備されたことの横取りの「スーパー学校」

2012-01-15 21:13:51 | ニュース

しばらく更新が途切れました。久々に、次のことを書いておきます。

小中一貫校設置や学校選択制については、いずれまとめてコメントしようと思っているので、今日は少し触れるだけにとどめます。ただ、昨日あたりから報道発表が続いているようなので、例の小中一貫校設置に関して、書いておきます。

http://www.yomiuri.co.jp/politics/news/20120114-OYT1T00159.htm?from=tw (市立小中一貫校「スーパー学校に」橋下市長:読売新聞ネット配信記事1月14日付け)

この記事を読むと、大阪市内の啓発小学校・中島中学校、矢田小学校・矢田南中学校を小中一貫校にすること、なおかつそこを私立学校に負けない「スーパー学校にする」こと、市内全域を通学区域にする(=他地区からも子どもを受け入れるということ)を目指すのだということ。この3つのことがわかります。なおかつ、橋下市長が「市長になったのだから、このくらいのことはさせてほしい」とも言ったといいますし、自分の母校(中島中学校のほう)でもあるようです。

ただこれも、前からこのブログで書いていることにつながりますが、すでに大阪市教委で準備されてきたことの「横取り」みたいな、自分の成果のアピールですね。というのも、ツイッターで教えてくださった方がいるのですが、大阪市教委では次のように、この両方の小中一貫校設置の方針を発表していたからです。

http://www.city.osaka.lg.jp/hodoshiryo/cmsfiles/contents/0000092/92405/syoutyu.pdf

ただし、この大阪市教委の資料を読む限りでは、もともと両方の中学校区で地道に続けられてきた小中連携の取り組みが前提になって、学力向上と中1ギャップ(小中学校の間のさまざまなちがい)の是正ということをやっていこうということ。それが小中一貫校設置の本来の目的のようです。なおかつ、この両校、私も何度も校区で暮らす人たちに話を伺ったり、あるいは小学校の方の関係者に話を伺ったこともあるのですが、もともと子どもの数がかなり少なくなった地区で、両校とも実質的に小中9年間のつながりを意識した解放教育・人権教育の地盤のある学校です。

ですから、従来の取り組みの延長線上にある当初の大阪市教委の小中一貫校設置構想を、就任したての橋下市長が情報をつかんで、その成果を「横取り」するかっこうで、自らの主張である学校選択制導入のために「スーパー学校化」を持ちこんだ、というのが実情ではないか、と思われます。

ちなみに私は、従来の取り組みの延長線上の小中一貫校設置は、地元の事情を考慮すると「やむなし」と思いますが、「スーパー学校化」はやめてほしい、と思います。とりわけ、これが大阪市内全域から子どもを集めて、私立学校並みの受験競争を勝ち抜く学力形成などを重視した教育を行うのであれば、なおさら「やめてくれ」と言いたくなります。それは両校及び両地区が長年培ってきた教育運動の伝統を破壊することにつながるからです。どういう形で子どもたちを集めるのかが問題になりますが、場合によれば、地元の子どもたちがほとんどいない、地元外の子どもたちばかりが集まって、受験競争を勝ち抜く学力形成重視の「スーパー学校」がそこにできあがる危険性もあるからです。

その一方で、「これはなんだ? こんな程度の話で、大阪都構想が実施できると思っていたのか?」と感じたのが、この大阪府市統合本部の会議での堺屋太一氏の配布資料。

http://www.city.osaka.lg.jp/seisakukikakushitsu/cmsfiles/contents/0000151/151065/sakaiyakomonsiryo.pdf

これはほんとうに、内容的にみて、ひどすぎます。この資料の1ページにさっそく<「大阪都」をどんな都市にするか、明確なビジョンがない。>と、大阪府・市の改革の顧問である堺屋太一氏自らがいうわけです。

ちなみに、堺屋氏には橋下市長との共著『体制維新ー大阪都』(文春新書)なる本もあるわけですが、この府市改革本部での配布資料に「明確なビジョンがない」と堺屋氏が書くということは、あの新書に書いてあることも「明確なビジョンではない」ということになりますね。

去年11月末の大阪市長選・大阪府知事選で、あれだけ自信満々に大阪都構想を連呼して選挙に勝ってきたはずの人々が、今頃になってこんなことを言う。これってなんですか? あの選挙のときには、府民や市民をごまかしてきたということではないのですか?

また、大阪都構想にはさまざまな問題があることを、特に行政学や政治学などの研究者を中心に、これまでにいろんな立場から指摘があったはずです。むしろ、こうした学識経験者の意見のほうが正しかったことを示していますよね、堺屋氏が自ら「明確なビジョンがない」というわけですから。

だとしたら、堺屋氏はまず、橋下市長に、政治学や行政学の研究者を含む文系研究者への攻撃をやめさせなければいけない。テレビやツイッターなどのその場しのぎの方法(といっても、その多くは罵倒して反論する気をなくさせたり、話のすり替えをする手ですが)でごまかせても、結果的に見たら、文系研究者側の言っていることのほうが、少なくとも公にされている資料を見る限りは、まともだということになるわけですから。

そして、マスメディアです。橋下市長のサイドから出てくる情報を発信するときには、このような話のすり替えやその場しのぎの言葉等々も多々含まれている危険性があるわけですし、あるいは、ほんとうは十分に検討していないのにさも成案があるような「ハッタリ」をかましていることも多々ある危険性もあるわけですから、きちんと「事実の検証」をすること。あるいは、「反論・批判を併せて伝える」こと。このことをどちらもやっていただきたいですね。それがなければ、単なる橋下市長サイドの「広報・宣伝部門」にしか、マスメディアはなりませんから。


学校・教育行政への苦情対応にかかわって

2012-01-11 19:58:47 | いま・むかし

http://www.kyoto-seika.ac.jp/event/kiyo/pdf-data/no23/sumitomo.pdf

これは以前、うちの大学の紀要に書いた論文。子どもの人権オンブズパーソンで仕事をしていたときに経験した「学校・教育行政への苦情対応」のことについてまとめたもの。

このなかで私は、学校の教員の子どもへの不適切な対応や、子どもとかかわらせていることが「不適格だ」と思われる教員の存在に対して、その苦情をあるルールのもとに適切に処理し、その教員への指導を改善したり、人事異動等などの形で対応するシステムを整備すること。そのことについての両義性を指摘しました。

つまり、実際に子どもの側に立ってこの課題をとりあげてみれば、子どもへの教員の不適切な関わり方を改善したり、改善が見られなければその教員の異動や処分を行うというシステムは、それ相応の正当性をもっている。

がしかし、そのシステムがどういう手続きで導入され、どういう手続き的ルールのもとに運用されるのか。そこについてきちんとした検討を行わなければ、そのシステムを乱用して、「とにかく誰か教員をクビにしたい、転任させたいとき」に恣意的にシステムが使われるなど、別の問題への処理に使われる危険性が残る。そして、そのような恣意的なシステム運用の結果、かえって学校の教育環境が悪くなることだって十分予想される、ということです。

今までもブログに書いてきたように、学校事故・事件の被害者・遺族の方々と私、いろいろ関わりが深い立場にあって、「このまま、この人を教員として仕事させていていいの?」と思うような教員がいることも重々承知しています。「あの教員、何も教育行政からの指導や再研修もないまま、学校に居続けさせるのは、まずいでしょう」というケースがあることも、子どもの人権に関する課題に取り組んでいると、よく見聞きします。

ですが、下記の記事にあるような橋下市長が導入しようとしているシステムは、そういう被害者遺族側の願うようなものを実現させるために、教員を異動させたり、これまでの子どもとの関わり方を改善させたりするシステムとして、はたして本当に機能するのかどうか。

http://osaka.yomiuri.co.jp/e-news/20120111-OYO1T00781.htm?from=main1 (橋下大阪市長、道徳教育の内容監視機関を設置の意向:読売新聞2012年1月11日づけ配信記事)

http://osaka.yomiuri.co.jp/e-news/20120110-OYO1T00768.htm?from=newslist (不適格教員、保護者が申告、大阪市教育条例案:読売新聞2012年1月10日づけ配信記事)

むしろ、「教育基本条例案」や「学校統廃合」への抵抗勢力を排除するなど、自分たちの教育改革の路線に従わない教員を排除するために、今後、「保護者の声」を積極的に武器として使うぞ、と言っているだけにすぎないのではないか、という気がしてなりません。

なにしろ、橋下市長は知事時代、下記のブログが書いているように、体罰容認発言を行っていたことが知られています。このブログなどを見ている限り、今のところ、彼には子どもの人権を尊重するという姿勢はあまり見られません。このような体罰容認の論理を前提とする人のつくる苦情対応システムでは、いわゆる教員の暴行、過剰な叱責・暴言等が背景にあって生じるような子どもの「指導死」(指導を背景にした子どもの自殺)のようなケースは、どこまでまともな対応をしてくれるのか怪しいところです。

http://blog.livedoor.jp/hotforteacher/archives/51721036.html

とすれば、たとえば学校事故・事件の被害者・遺族の側が願っているような、子どもの人権を守らないような「不適格」教員の対応、教員の不適切な子どもへの指導については、彼らのつくるシステムでは対応しないとか、あるいは対応してもまともにとりあげない危険性が残ります。そこのところを、よくまちがえないでほしいと、私はいま、切実に思っています。

もう少しこの話を広げて言うと、今の学校や教育行政のあり方に何らかの形で不満を持ち、現状を変えよう、変えてほしいという願いをもつ人の気分をうまくすくい上げる形で、一見、それに寄り添ったような形をとりながら、全然別のねらいをもつシステムを導入していく。その結果、子どもや保護者、学校現場や各地域などに、新たな混乱と緊張、葛藤をもたらしていく。それが、今、大阪市内や大阪府内で進められようとしている教育改革の動きなのです。そこのところを、今、私たちは冷静に見つめ続けなければいけないのではないか、と思います。

と同時に、学校関係者や教育行政の関係者、そして私を含む教育学の研究者に言えることですが、ある種の「自浄作用」というものが働いて、ほんとうに子どもの人権を尊重する学校や教育行政、あるいはこれを支える教育学を創りなおして再出発しようと全力で尽くさない限り、たとえ「教育基本条例案」を撤回させても、第2、第3の形で、人々の学校や教育への不満をうまくすくい上げて、それを全然別の方向に持っていくような、そんな諸勢力の動きが登場してきます。そのことをどこまで私たちが自覚できているのか、ここも今、問われているような気がしてなりません。


だんだん「教育基本条例案」に対する説明が混乱してきましたね。

2012-01-11 06:51:40 | ニュース

http://www.youtube.com/watch?v=JbycO-Gblc8

橋下市長や松井知事の出るテレビ番組は極力見ない、なおかつ、大阪維新の会の「広報」のようなテレビ番組や、彼らのお仲間タレントの出る番組は極力見ないということに今はしているのですが、ツイッターや電子メールなどで、私のところにもいろんな彼らのテレビでの動きに関する情報が入ってきます。

それで、上のユーチューブの動画。これは今週月曜日(2012年1月9日)の毎日放送のテレビ番組に橋下市長が出演したときの「教育基本条例案」についてのコメントです。さっそく、これだけは私も見ておくことにしました。

感想を今の時点で一言だけ言っておくと、「ああいえばこういう」という形で、アナウンサーからのさまざまな質問をはぐらかしているだけ。饒舌にいろんなことを語っていますが、質問されたことに対して、肝心のことについては何も答えていないような印象です。むしろ、答えられないがゆえに、饒舌に「ああいえばこういう」形でごまかしている、とすらうかがえます。

たとえば「条例が通ったときに、市長として教育の目標をどう設定するのか?」という話を振られたときに、具体的なことは何も答えていない。「各学校ごとに定める」と書いていると逃げているか、「国際社会でも就職できる、自立できる子ども」「大阪でメシが食える子ども」というだけ。この後者の話であれば、「あのね、わざわざ教育基本条例つくる必要がどこにあるの?」というだけのことです。

しかもこの程度のことを「首長が選挙で教育について語っているのに、何も目標設定できないのはおかしい」というべきことか。首長が教育委員会と協議して、「こういうことをやってほしい」と伝えれば済む程度でしょう。それこそ、今の学習指導要領にせよ、中教審の答申にせよ、「知識基盤社会」なる言葉を使いながら、グローバリゼーションに対応する教育をやろうとしている面があるわけですから、「あなたが首長としてあらためて言うまでもなく、日本の学校はそっちに教育をシフトしようとしてますよ」とすら言えるわけです。(もちろん、その方向性自体が「ほんとうにいいのか?」という論点もあって、私もそう思っているのですが)

もっといえば「大阪でメシが食える子ども」うんぬんの話は、それこそ、たとえば市長として橋下氏が若者の雇用政策をどうとっていくのか、さらに、雇用政策をとっていくために、中小企業の振興策をふくめた経済政策をどうとっていくのか。そこで市長としてがんばればいい、むしろ学校教育の外で子どもや若者の自立を支援する施策をとればいいわけで、なにもそれだけで学校に対する基本条例をつくる必要はありません。

公立学校の間にも学力格差があるとか、だから学校選択を導入して、という話についても同じ。彼の話は、まったく説明になっていない。なぜなら、学校施設の整備や教員加配、教育予算の重点的な投入など、条件の悪い学校の教育環境をもっと整備することによって、その格差を埋めていくという道もある。なぜ学校選択でないといけないのか、ということについては、あいまいにはぐらかしています。要は学校に、教員に財政支出をしたくない、学校の数や教員の数を減らしたいだけでしょう、と彼は突っ込まれたら、どう答えるのでしょうか。

教員評価の問題も同じ。とにかく何か教員をやめさせることができるしくみをつくりたい、それに沿って、何か合理的な根拠があるかのような形式を整えたいということが、彼のホンネのようです。なにしろ彼はこの番組のなかで、「子どもが学校で評価されるのをやめたら、教員評価もやめる」というような発言もしていますが、「だったら、東井義雄にならって通知表の改善をすれば?」とか思ってしまいますね。なにしろ朝日新聞の年明けの連載を見る限り、市長のアドバイザーで呼んでくるワタミの会長も、東井義雄の教育論が好きなようですし、府の教育委員の陰山英男氏も東井義雄の教育論を評価していますから。

http://mytown.asahi.com/hyogo/news.php?k_id=29000131201040001 (書くこと学びの礎:朝日新聞ネット配信記事2012年1月4日)

http://mytown.asahi.com/hyogo/news.php?k_id=29000131201030002 (まばたき見逃さず向き合って引き出す個性:朝日新聞ネット配信記事2012年1月3日)

このような形で、だんだん「教育基本条例案」に対する説明が混乱し始めたのではないか、そんな印象を私は受けました。「やっぱり、こんなもんいらない! 白紙撤回して一から出直したほうがいい!」と、「教育基本条例案」をごり押ししようとする人々には言いたいです。


これまでの大阪の青少年施策の誤りを認めるわけですね?

2012-01-10 06:08:43 | いま・むかし

http://www.asahi.com/national/update/0109/OSK201201090036.html  (橋下市長に新成人が要望「公営施設、安く開放して」:朝日新聞ネット配信記事2012年1月9日)

この記事を読むと、橋下市長が成人の日の意見交換会で、新成人側の「公営施設安く開放して」という要望に対して、「学校など使われていない場所はいっぱいある。安く開放できるようにすぐに検討する」と答えたとか。

ということは、橋下市長、あなたはこの数年間の大阪市、大阪府の青少年施策は「誤り」であったということを認めることになるんですが、それでまちがいないでしょうか?

それでまちがいなければ、私としては、過去の青少年施策の誤りを認める公式見解を出すとともに、いま、使われていない青少年施設の利用促進策の導入、これを早急にやっていただきたいです。

というのも、このブログをずっと見ておられるみなさんはおわかりかと思うのですが、それこそ2007年3月末に、当時の関市長が大阪市の青少年会館条例を廃止したこと。また、その後3年近く市民利用施設として暫定利用したあと、各地区の人権文化センターなどと統合し、市民交流センターとなったこと。そのことによって、大阪市内の各地区に、多数の使われていないもと人権文化センター・もと青少年会館の建物・土地などが生まれていること。それをどう考えるのか、ということです。

あるいは、府知事時代の橋下市長が、真っ先に大阪国際児童文学館の廃止、府立青少年会館の廃止などを打ち出したこと。あるいは、大阪府内の青少年会館に対する府の助成金の打ち切りを決めたこと。そのことも、私はけっして忘れたわけではありません。(ましてや、府立青少年会館の跡地はもう更地になって、転売されたという話すら聞いています)

私などはずっと、大阪市の青少年会館条例の廃止はまちがっている、こんな青少年施策はおかしい、ということをこのブログや論文などで言い続けてきました。また、施設統廃合のあと、余った施設などはどう有効活用するのか、ということも言い続けてきました。府立青少年会館や府内の他自治体の青少年会館等の施設、国際児童文学館のことについても、同様です。

そして、地元の住民やNPO、あるいは、かつての利用者である子どもや若者、保護者などからも、「ここを使いたい」「ここを残してほしい」という声が出ていたはずです。そういった声をさんざん切り捨て、相手にしてこなかったのは、これまでの大阪市の行政ではないのでしょうか。あるいは、橋下知事時代の府政ではなかったのでしょうか?

そして、こんな形で青少年施設や地域にあるコミュニティ施設などを次々に閉じていく路線を、大阪市では関市長期に引いたのですが、その路線をひくときの市政改革のブレーンは、ほかならぬ、上山信一氏だったはず。彼は今、橋下市長のブレーンでもありますよね。今までの路線が誤りであったことをお認めになるんでしょうか、彼らは? 

もしも彼らが、過去の青少年施策の誤りを認めて、軌道修正をして、今使われてない施設を再活用する方針に転換されるということであれば、どうぞ、そのことをマスメディアにきちんと伝えて、議会にも報告して、転換をしていただければと思います。私としても、そうしていただけるのであれば、これまでの主張が認められたと考え、この点だけは評価します。

そうではなくて、もしも過去をごまかし、なにかうやむやにしたまま、ただ今使われていない青少年施設の利用促進策導入をさも自分たちの手柄のように勝ち誇ってマスメディアにアピールするのであれば、私はその方向性を歓迎するコメントはしつつも、過去の青少年施策の誤りについては今後もきっちりと批判をするつもりです。


もしも私が今日、「新成人」に何かあいさつするとしたら

2012-01-09 20:36:52 | いま・むかし

今日は「成人の日」。全国各地の自治体で成人式が行われる・・・・ということは、大阪市では橋下市長がいわゆる「新成人」を前に、いろんなことを語ったのでしょう。

もうすでにツイッター上では、橋下市長が成人式に来た若者たちに、「政治に無関心だと、(若者に)お金は全然回ってこない。自分たちに回ってくるように、政治に参加してもらいたい」とか言ったという話が流れています。「ほんと、こんなこと、よくいうよな~」って思います。なぜなら、「これってまさに利益誘導の政治。一部の地域ボスみたいな人たちがすすめてきた、古いスタイルそのものじゃないの?」ということですね。

今、若者たちが求めている社会や政治のあり方は、そういう「自分のところにお金がまわるかまわらないか」というだけの、狭い自分の欲望をどう実現するかというような、そんな次元のことだけを展望するものではないでしょう。

むしろ、自分たち若い世代が将来に希望を持ちつつ、自分と同世代、および世代の異なる周囲の人たちが落ち着いて、平和に共存していけるような、そんな社会のあり方。それを実現するための政治や行政のあり方。それを展望していけるような理念や思想と、それを実現するために自分に何ができるのか、という具体的な取り組み方。こんなことを求めているのではないでしょうか。

たとえば、すでに東京電力福島第一原発の事故を見てしまった以上、「これから原子力エネルギーに頼らない暮らしをどう実現していくのか? それを実現していくために社会や政治をどう変えていくのか?」ということは、単純に「自分のところにカネがまわるようになるか、ならないか」という次元を越えた「この時代とどう向き合うのか?」という思想的な話を含んでいます。

あるいは、東日本大震災後の被災地域の復興に関しても、これから先、経済成長最優先の社会をつくっていくのか、それとも、誰もが穏やかに暮らしていけるような、安全・安心の地域コミュニティをつくっていくのかで、ずいぶんと目指すべき復興の方向性はちがってきます。

特に、最近、私は福島県で学校ソーシャルワーク(SSW)活動にかかわる人々の書いたものを読む機会があったのですが、それを読む中で、被災した地域の復興については、やはり「安全・安心」のコミュニティ形成が重要だと感じました。結局、日頃からどのような立場の人も切り捨てず、できる限り落ち着いて生活できるような環境づくりに取り組んでいる地域のほうが、いわゆる「災害弱者」と呼ばれるような人たちにも対応が早いし、きめ細やかな動きを示せるのではないか、と考えたからです。

こういう震災後の復興や地域防災といった課題についても、実は「カネになるか、ならないか」という次元の話ではなくて、「政治や行政がいったい、だれの生活を支えるためにあるのか?」という、きわめて基本的な理念、思想的な次元の話ほうが、いまは大事なのだということを示している、と思うわけです。

逆に言うと、いま、これだけ政治や行政を支える理念、思想的な次元の話のほうが大事な状況のなかで、それを語れず、「自分ところにカネがまわるようになるか、ならないか」ということしか言えないような政治家は、それ自体、見識を疑われてしかるべきかと考えます。

それこそ、「自分のところにカネがまわるようになるか、ならないか」という次元でしか政策を考えられない政治家であれば、今述べたような地域防災や災害弱者に関する対応も、原子力にかわる新たなエネルギー開発も、それが「カネになる」と判断しない限り、放置してまったく対応をしないということになるでしょう。と同時に、それが「カネになる」と判断すれば、この手の政治家は、今までの問題だらけの社会のしくみを温存し、自分たちの都合の悪い不正・不公正な問題も隠ぺいし、それに抗議する人々を抑圧する、ということでもあります。

これって、今までの日本社会、日本の政治や行政のあり方と、どこがちがうのでしょうか? 若い人たちが「何かおかしい」と疑問を感じている社会や政治のあり方と、どこがちがうのでしょうか?

そういうことから考えても、今、若い人たちが求めているのは、このような「自分のところにカネがまわるようになるか、ならないか」ということを基準にして政策をつくって、導入していくような、そんな政治家たちの言葉ではないでしょう。

若い人たちがほんとうに今、求めているのは、そういう政治家たちのこれまでを批判し、乗り越えて、自分たちが自分の仲間と、世代の異なる人たち、生まれ育った文化の異なる人たちなどと、ともに手を取り合って生きていけるような、そんな社会を展望する・構想するための思想や理念、その思想や理念に基づく政治や行政の新たな手法なのではないでしょうか。

もしも今日、私が「新成人」に何かあいさつをするとしたら、きっと、こういうことを軸にして、「みなさんといっしょに、これから私も勉強していきましょう」というと思います。間違っても私なら、「自分たちのところにカネがまわってくるように、政治参加を」などとは呼びかけないでしょうね。そして、みなさんの世の中を変えたいという思い、政治や社会はこのままではダメだという思いを利用し、まったく違う方向に持っていこうとする人か、それとも、自分たちの願っている方向をいっしょにつくろうとしている人か。政治家のいう言葉を吟味し、よく確かめていけるようなかしこさを磨いてください。そのためには、大学や短大、専門学校での学び、いま働いている職場での学び、ひとりで、あるいは家族や仲間とともに過ごす時の学び、それがとっても大事です」と、若い人たちには呼びかけるでしょうね。