できることを、できる人が、できるかたちで

京都精華大学教員・住友剛のブログ。
関西圏中心に、教育や子ども・若者に関する情報発信を主に行います。

読んでいて面白かった本から

2008-12-29 21:48:33 | 受験・学校

今日、私が読んでいた本のなかに、次のような言葉がでてきた。

「諸個人がバラバラに切り離される結果として、孤立して、また孤立しているがゆえに無力感に襲われて、それがまた“場”の形成を難しくし、モノを言いにくくしている。社会に向けて発言ができたり、ただその場にいるだけでもお互いが尊重される安心感・信頼感を感じられる空間としての“居場所”が大事なんだと思うんです。」(湯浅誠・河添誠編『「生きづらさ」の臨界へ “溜め”のある社会へ』(旬報社、2008年)、p.178)

今、大阪市内のもと青少年会館(もと青館)を使って、例えば子ども会活動をやってみたり、あるいは若者たちの学習サークルだとか、識字教室、文化活動やスポーツ活動のサークルづくりなどをやっている。

そのような営みは、まずは各地区で孤立しがちな子どもや若者、保護者、高齢者や地区住民などを「つなぐ」こと、その人たちが安心して思うことを言い、「似たようなことを感じている人が、自分以外にもいたのだ」と感じられること自体に、大きな意味があると見ていいのではないだろうか。

もちろん、その場を通して培った人間関係のなかから、「みんなそう思ってるのなら、いっぺん、このことをオモテに出して、意見として出していこうや」という形で、何らかの社会的な要求をかかげた運動が創出できるのなら、それはそれでよい。

また、そこまで至らなくても、「とにかく、ひとりぼっちになって、バラバラになって、社会のさまざまなプレッシャーのなかで、ひとりひとりがつぶれていく」ということを回避できるのであれば、それだけでも大きなメリットがあるのではないだろうか。

だからこそ、少人数でもいいから、例えばいっしょに遊んだり、本を読んだり、子どもに読み聞かせをしたり、文字の学習をしたり、太鼓をたたいたり陶器をつくったり、バスケットボールやドッチボールをしたり・・・・。そんな活動が長期間にわたって続けられ、その活動をしているサークルどうしが縦横ナナメにつながりあうことができれば、子どもや若者、地域住民の社会教育や文化活動などが軸になって、今の社会情勢に対する「抵抗」の動きがつくれるのではないか、と思う。

だからこそ、今の社会情勢の流れを推し進めたい側にとっては、社会教育や文化活動のための公的施設は「うっとおしい」のかもしれない。それだけに、社会教育や文化活動のための公的施設を大事にしていく営みは、今は、それ自体が社会の動きへの「抵抗」といってよいのではないだろうか。

また、この本で編者らと対談している本田由紀さん(東大教員、教育社会学専攻)の次のコメントも、大阪市や大阪府下で今、すすめられようとしている「キャリア教育」なるものへの鋭い批判だな、と思う。

「最近政策的に推進されている『キャリア教育』と言われるものは、『額に汗して働くことの大切さを知ろう』とか『自分のやりたいことを見つけよう』とか『仕事を通じて社会に貢献しよう』とか、道徳教育のような性質が強く、実際に労働の現場で身を守るすべとなる具体的で実践的な知識やスキル、ノウハウを与えるものではありません。労働者をエンパワーするというよりも、総じて雇う側にとって都合のいい学校教育になってしまっている場合がほとんどなのです。」(同上、p.54~55)

また、編者のひとり・河添誠さんは、学校教育での進路指導等について、次のようなことを述べていた。これも、私には納得の意見である。

「階層化された労働市場のなかで、日々、不当な解雇、違法な賃下げは起こり続けている。『不器用な若者』が職場のトラブルに遭遇したとき、それに対応できる能力こそを育てる必要がある。それは、まず、労働者の権利の知識―雇用契約書の読み方、社会保険・雇用保険の知識など。そして、違法行為があったときに、どう問題解決に向かうのかについての知識―である。それをできる限り具体的に身につけることが決定的に重要である。」(同上、p.26)

ところで、私は今年の9月、このブログ上で、大阪市教委の出した教育改革プログラム「重点行動プラン2008-2011(案)」の「キャリア教育」に関する項目について、次のような問題点の指摘をしておいた。そのことと、今回読んだ本のなかでの本田由紀さんや河添誠さんのコメントがかなり似ているので、うれしかった。

<今年9月に「重点行動プラン」に対して述べたこと>

(12)「キャリア教育の推進」についても、これが職場体験・見学や、企業派遣の外部講師による講演程度で終わるのであれば、今までやってきたのとほぼ同じであり、これ以上、あまり効果は期待できないように思う。

 むしろ今、職業観や勤労観の育成にとってほんとうに必要なのは、働く人々の持つ諸権利についての学習であったり、就労に関する法的手続き等に関する学習ではないのだろうか。

 そのことは社会保障に関する権利学習や、政治・経済のしくみに関する学習、つまり、社会科や公民科(高校)の学習、総合的学習の充実ということともつながるものであると思うのだが。

今、私が抱いているのととてもよく似たような疑問や感想などを、遠く離れた場所で、生活保護の問題や非正規労働者の雇用の問題、若者の仕事の問題などに取り組む人たちが、実際にこうして文字に示していてくれるのは、とてもうれしい。

と同時に、大阪の人権教育(あるいは解放教育でもいいのだが)や解放運動を含む人権関係のさまざまな運動体の筋から、目の前の子どもや若者たちの現状などをふまえて、このような話がどれだけ今、出せるのか? 今、そこが問われているような気がしてならない。

また、もうすでに運動体筋や人権教育の筋からの情報発信が行われているとしたなkらば、それがどれだけの社会的な影響力をもって、じわじわとでもいいから、関西圏で地道に活動を続けている人たちの間に、あるいはそれ以外の人たちの間に、少しずつでも浸透していくことができるのか。そこが今、問われているような気がしてならない。

いずれにせよ、今ある社会の動きや学校のあり方、社会教育や文化活動に対する行政施策のあり方などに対して、私たちが批判的な意識を研ぎ澄ませるための「学習」のありようや、何かあるときの異議申し立ての動きができるような「拠点」、あるいは、そんな私たちが自らを保つための「居場所」をどのようにして構築するのかということ。そのこと自体に目を向けないような、そんな社会運動のスタイルでは、もはやこの先、状況のなかでふんばることすらできないのではないか、と思った。そんな一冊に、この冬休み、出会ったような気がする。

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自戒をこめて

2008-12-28 19:24:07 | 悩み

「支えあうべき人と、闘うべき相手を取りちがえている。しかし、そうやって手を取りあうことができない状態にもっていくのが、支配する側の戦略なのだ。

 その手に乗ってはいけない。」

(辛淑玉『その手に乗ってはいけない!』ひとなる書房、2008年、p.181)

さっきまで読んでいた本に、この言葉がでていた。自戒もこめて、紹介をしておきたい。

大阪市の青少年会館条例の廃止・市職員の引き上げ等の一連のプランが発表されたのが、22006年の夏の終わり。それがほぼそのまま、当時の市長の方針として決まったのが、2006年の11月末のこと。それから気づけば、2年と少しの月日が流れた。

この間、私や私をとりまく人々の間で、辛淑玉さんが書いているような出来事が全く無かったのかというと、そうではない。本当は支えあって、協力しあって、いっしょに青館条例廃止後の各地区で、子どもや若者の活動を再建するべく努力していけるはずの人どうしが、いがみあったり、争いあったりしてきたことが、まったくなかったとはいえない。

いや、各地区で活動をしてきた人たちはその立場で、運動体の人は運動体の中で、市職員は市職員どうしの間で、それぞれに考え方や意見の食い違いなどがはっきりしてきたり、あるいは、目指すところのちがいが明確になってきて、ひとり、またひとりと、所属団体などを去っていくということも起きているのではないだろうか。

特に、一連の不祥事をめぐる対応のあり方をめぐって、いろんなもめごとや意見の食い違い、さらには仲たがい、仲間割れという事態に至ったところだってあるだろう。そして、そういうことをうまく整理したり、食い止められなかった私なども、やはり「ほんとうに自分の対応はこれでよかったのか?」と思うところが多々ある。

ただ、あれから2年が過ぎた今、やはり「ほんとうにこのままでいいのか?」と言いたい。「争うべき相手を、まちがえてはいけない」といいたい。

もちろん、「過去のいきさつをすべて水に流せ」とか、「昔のことは脇において」とか、そんなことまで言う気はない。

しかし、本当に大阪市内の子ども・若者の居場所を、至るところにつくっていく。特に、生活困難層の子どもや若者への支援施策を充実させ、そのための拠点になるべき居場所を増やしていく。その一点をお互いに願っているのであれば、ここから先は立場のちがいを乗り越えて、できるところから少しずつ協力関係を構築して、できることを共に行っていくなかで信頼関係を再度、創りだす必要があるのではないだろうか。

私たちが今、本当に考えなければいけないのは、目の前にいる生活困難層の子どもや若者の暮らしであり、その子どもや若者たちの「今後」のことである。そのことをきちんとおさえて、そのことで協力できる仲間を増やしていくこと、そのことで協力できる仲間どうしの信頼関係を作り出していくこと。まずは、そのことではなかろうか。

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空き施設は使わないともったいない

2008-12-14 11:57:35 | 国際・政治

「事業廃止などで出てきた空き施設は、それが使える間は、何かの形で有効活用しないともったいない」って思うのは、私だけでしょうか?

昨日、大阪市市民局のホームページから、今年11月18日にあった「第5回地対財特法期限後の事業等の見直し監理委員会」の配布資料を見ました。そこでどんな議論があったのか、早く議事録(要旨)の公開をしてほしいと思っています。

ただ、その配布資料を見ていると、そのなかには例の「市民交流センター(仮称)」構想にかかわる文書もありました。以下は、その資料・文書を見て気づいたことです。

まず、この「市民交流センター」案ですが、目指すべき理念についてはまだ詰める余地はあっても、いちがいに「ダメ」とはいいきれません。多世代交流の場や地域の枠を越えた市民の交流という方向性は、私も「それができればいいよね」と思うものです。また、今まで「ほっとスペース事業」の実施場所として旧青館(旧青少年会館)を使ってきましたが、市の子ども施策や高齢者背策などについては、その実施場所をなんらかの形で今後も引き続き確保する必要があると思います。

ただ、施設のハード面から考えたときに、「今の人権文化センターは、そういう多世代交流の場として、多様な活動を展開できるような設計になっているのかな?」と思うのです。例えば体育館やグラウンドなどでしたら旧青館が子どもの活動場所として持っていますし、工作室や音楽室のスペースも旧青館にはありますよね。子どもが何か多様な活動をする上では、旧青館のほうが便利ですし、場合によれば、高齢者や障がいのある人たちの文化サークル活動だって、旧青館の諸設備を活用したほうがいい、というケースだってあるかもしれません。

そう考えると、今の構想では人権文化センターを「市民交流センター」に転換すると考えていますが、実際にそこを活用している人の利便性から考えて、「いっそ、旧青館施設を市民交流センターにしては?」という考え方もできるかな、と思うのです。

あるいは、「市民交流センターA館・B館」みたいに位置付けて、旧青館と人権文化センター、両方とも使えるようにするとか。そのほうが、常設で市の事業の実施場所をキープしたり、あるいはNPOなどに委託する形で子どもの学童保育的なとりくみ、学校の補習事業的な取組みをしつつ、同じような時間帯に高齢者の活動など、多様な住民の活動を展開することも可能になるでしょう。そして、どうしてもこうした市民利用施設は、土曜日・日曜日・休日や夜間の利用がメインになりがちですが、このような利用しやすい時間帯にニーズが集中しても、建物・部屋が複数あれば、受け皿はそれだけ多様にあるということになりますよね。

そして、「市民交流センター」への統合後、供用停止になる施設は20施設近くになりそうですが、あれ、「雨風にさらして、朽ち果てるまで放置」ということにするつもりでしょうか? それこそ、もったいないですし、地域コミュニティの荒廃を招くような気がします。それは建物を取り壊し更地にしても、「買い手がつかないから、空き地のままにしておく」場合も同じことです。

いっそ、更地にして買い手がない間は「地元住民のスポーツ活動の場所」として使えるようにするとか、「家庭菜園的なことができる場」にするという道もあるでしょう。あるいは、供用停止しても数年間放置するつもりなら、「光熱水費を払ってでも、そこでNPO活動をやりたい」という団体(それも複数)に、いっそ施設の管理面まで含めて任せてしまえばいいのではないでしょうか。

せっかく建てた施設ですから、事業や条例を廃止することは一定やむをえないとしても、そのあとの施設の有効活用をもっと考えたほうがいいと思うのは、私だけでしょうか? また、そこが自由に使えるのであれば、「あんなこともやりたい、こんなこともやってみたい」と考えている市民って、大阪くらい大きな自治体であれば、いろいろいるのではないでしょうか。地元の人たちのなかにだって、そういう希望を持っている人もいるでしょうしね。

「もうちょっと、役所の側は市民やNPO、地元住民のパワーを信頼したら?」という風にも思いますね、この「空き施設の有効利用」ということについていえば、ですが。

ついでにいうと、市議会側も、実際にそこを使って活動している人々のニーズとか、そこで活動中の人々の願いとか、そういったものを組み入れて議論してほしいと思いますね。なにしろ、先の資料によると、年間約40万人近くの人が、青少年会館条例廃止後も引き続き、暫定利用期間中の旧青館で活動中なんですからね。その人たちの営みの重さを実感して、実際にその人たちの声も聴いた上で、議論をすすめてほしいです。

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利用者や地元住民の声を聴けば?

2008-12-06 10:58:45 | ニュース

本業の大学での仕事が、毎年の「山場」ともいうべき4回生の卒論提出を終え、ようやくひと段落つきました。かなり更新が途切れていたのでご心配をおかけしましたが、そろそろ、こちらのブログの更新も再開します。

さて、前回も書いた大阪市の旧青少年会館と人権文化センター等との統合案(「市民交流センター(仮称)」の設置案)について、引き続き、私の思うところを書きます。

私がこの案を聞いて率直に思ったのは、「地区内の拠点施設を現在の人権文化センターに統合するとして、あと残っている施設はどう利用するのだろう?」ということと、「旧青少年会館の体育館やグラウンドを利用している人たちとか、あるいは、旧青少年会館で子ども会活動や青少年サークル活動、識字教室などを営んでいる人たちのニーズは、どうなるんだろう?」ということ。さらに、大阪市側は、旧青少年会館を使って活動中の人々の不利益ができるだけ少なくなるように配慮するとの意向のようですが、「だとしたら、今、旧青少年会館を使っている人たちの意見や要望などは、どのような形で聴取し、それを今後の統合案実施に向けて役立てていくのか?」ということも、私としては疑問に残っています。

これは私の知りうる範囲で言えることですが、そもそも人権文化センターには、こうした住民のスポーツ活動や青少年活動に対応できるような設備が整っているのでしょうか? 旧青少年会館の建物や設備のほうが、人権文化センターのそれよりも、例えば調理室や工作室、体育館やグラウンドまである以上、子どもから高齢者に至るまでの多様な人々の多様な活動ニーズに対応できるのではないでしょうか。

個人的には、大阪市が今後「市民交流センター」を設置するのであれば、その場所は人権文化センターではなく旧青少年会館のほうに置く、という道もあるように思うのですが。それがもしもできないとしたら、その理由はなんなのか。大阪市はその理由を示して、「市民交流センター」設置構想について、各地区住民や利用者に対してていねいな説明をするべきでしょう。

また、人権文化センターを「市民交流センター」にするとして、では、残った旧青少年会館等の地区内施設は、「朽ち果てるまで放置」ということにするのでしょうか? それこそ「もったいない」話。例えば光熱水費などのメンテナンス費用さえ負担するのであれば、各地区内で子ども会活動や学校外での学習・スポーツ・文化活動等、なんらかの青少年育成の諸活動に地元で取り組む民間団体(NPO法人その他)に、耐用年数ギリギリまで旧青少年会館の空き部屋を無償で貸し出すという道だってあってしかるべきでしょう。特に、地元地区を含む大阪市内の子どもたちの利益になるような活動を展開してくれそうな民間団体に、旧青少年会館の建物の管理等も含めて委託してしまう。そんな道を考えることはできないのでしょうか?

あるいは、旧青少年会館等の残った地区内施設について、大阪市側は「将来的に更地にして売却」ということを考えているのかもしれません。ですが、土地バブルの頃ならさておき、この昨今の不況のなかで、「実際に売れる見込みはあるのか?」「売れるとしたら、どのくらいの金額になるのか? 資産価値はどの程度あるのか?」ともたずねたい。もしも「売れる見込みがない」とか言うのであれば、「だったら、耐用年数ギリギリまで、地元の諸団体や大阪市内の子どもの活動に取り組む民間団体などに、事務所や活動スペースとして無償提供するというほうが、まだ空き施設の有効活用でしょう?」と言いたくなります。

そして、これから大阪市役所内で、あるいは、市議会で、この「市民交流センター」構想をめぐって議論が行われることになるかと思います。しかし私としては、その議論は、実際に人権文化センターや旧青少年会館等の利用者や、地元住民の意見・要望をまずはきちんと把握した上で、それをふまえた上で行っていただきたいと思います。また、今の利用者や地元住民からのニーズだけでなく、地区外の住民のニーズなども何らかの形で把握して、「今後の青少年施策をどうするのか? 人権施策をどうするのか?」あるいは「市民参加でのまちづくりをどうすすめるのか?」といった観点から、大阪市としての方針をつくった上で、市議会等での議論に付していただきたいと思います。

最後にひとこと。もしも今の大阪市役所側に、こうした方針をつくるだけの準備ができていないというのであれば、その準備をする段階から利用者や地元住民、青少年活動などに取り組む民間団体の関係者も参加できるような検討委員会をつくって、そこで議論を積み重ねていくという手法もあるかと思うのですが、いかがでしょうか?

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