今日から何度かに分けて、大阪維新の会が出している「大阪府教育基本条例(素案)」を読んで、私が思うことを書いていきます。
もっとも、このブログの更新頻度が不定期です。また、子どもの自殺や学校事故に関すること、大阪市内・大阪府内の子ども会活動のこと、そして人権教育やインクルーシブ教育のことなど、ほかにも書きたいことが出てくる場合があります。ですから、この「教育基本条例のこと」シリーズも、不定期の更新になることをお許しください。
また、この「大阪府教育基本条例(素案)」の文章そのものについては、前にも掲載しましたが、次のホームページを参照しています。
http://osakanet.web.fc2.com/kyoikujorei.html
さて、上記のホームページからこの「教育基本条例(素案)」を読んでみて、まず「前文」のところで私はつまづきました。
率直にいって、「こんなこと、条例の前文に書くことなのかな?」という思いしかでません。というのも、内容的に見て、「これって、条例の制定者たる議会が、自分たちが教育に介入することを正当化するための理屈付け、言い訳のための前文でしかない」と思うからです。
たとえば、参考までに、「川崎市子どもの権利に関する条例」の「前文」と比較してみてください。次のページから、川崎市の子どもの権利条例の前文を引用してみます。
http://www.city.kawasaki.jp/25/25zinken/home/kodomo/jourei.htm
<川崎市子どもの権利に関する条例・前文>
子どもは,それぞれが一人の人間である。子どもは,かけがえのない価値と尊厳を持っており,個性や他の者との違いが認められ,自分が自分であることを大切にされたいと願っている。
子どもは,権利の全面的な主体である。子どもは,子どもの最善の利益の確保,差別の禁止,子どもの意見の尊重などの国際的な原則の下で,その権利を総合的に,かつ,現実に保障される。子どもにとって権利は,人間としての尊厳をもって,自分を自分として実現し,自分らしく生きていく上で不可欠なものである。
子どもは,その権利が保障される中で,豊かな子ども時代を過ごすことができる。子どもの権利について学習することや実際に行使することなどを通して,子どもは,権利の認識を深め,権利を実現する力,他の者の権利を尊重する力や責任などを身に付けることができる。また,自分の権利が尊重され,保障されるためには,同じように他の者の権利が尊重され,保障されなければならず,それぞれの権利が相互に尊重されることが不可欠である。
子どもは,大人とともに社会を構成するパートナーである。子どもは,現在の社会の一員として,また,未来の社会の担い手として,社会の在り方や形成にかかわる固有の役割があるとともに,そこに参加する権利がある。そのためにも社会は,子どもに開かれる。子どもは,同時代を生きる地球市民として国内外の子どもと相互の理解と交流を深め,共生と平和を願い,自然を守り,都市のより良い環境を創造することに欠かせない役割を持っている。
市における子どもの権利を保障する取組は,市に生活するすべての人々の共生を進め,その権利の保障につながる。私たちは,子ども最優先などの国際的な原則も踏まえ,それぞれの子どもが一人の人間として生きていく上で必要な権利が保障されるよう努める。
私たちは,こうした考えの下,平成元年11月20日に国際連合総会で採択された「児童の権利に関する条約」の理念に基づき,子どもの権利の保障を進めることを宣言し,この条例を制定する。
いかがですか? ずいぶん格調高い文章ですよね。この前文からは、子どもの権利を川崎市としてはどのように考え、どのようなことを保障したいから条例を制定したのか、そのことがつたわってくる文章になっています。条例の原案作成者はきっと、子どもの権利保障に対する自治体としての責務などを意識したり、川崎市の子どもたちの実際の暮らしなどをいろいろと思い浮かべながら、この条例案をつくったのではないか・・・・とすら思えてきます。
これに対して、先ほどのホームページから、大阪府教育基本条例(素案)の前文を引用してみます。
<大阪府教育基本条例(素案)・前文>
大阪府における教育行政は、選挙を通じて民意を代表する議会及び首長と、教育委員会及び同委員会の管理下におかれる学校組織(学校教職員を含む)が、法令に従ってともに役割を担い、協力し、補完し合うことによって初めて理想的に実現されうるものである。教育行政からあまりに政治が遠ざけられ、教育に民意が十分に反映されてこなかったという不均衡な役割分担を改善し、政治が適切に教育行政における役割を果たし、民の力が確実に教育行政に及ばなければならない。
教育の政治的中立性や教育委員会の独立性という概念は、従来、教育行政に政治は一切関与できないかのように認識され、その結果、教員組織と教育行政は聖域扱いされがちであった。しかし、教育の政治的中立性とは、本来、教育基本法(平成18年法律第120号)第14条に規定されているとおり、「特定の政党を支持し、又はこれに反対するための政治教育」などを行ってはならないとの趣旨であって、教員組織と教育行政に政治が関与できない、すなわち住民が一切の手出しをできないということではない。
地方教育行政の組織及び運営に関する法律(昭和31年法律第162号)では、第23条及び第24条において、教育委員会と地方公共団体の長の職権権限の分担を規定し、教育委員会に広範な職務権限を与えている一方、第25条においては、教育委員会及び地方公共団体の長は、事務の管理・執行にあたって、「条例」に基づかなければならない旨を定めている。すなわち、議会が条例制定を通じて、教育行政に関与し、民意を反映することは、禁じられているどころか、法律上も明らかに予定されているのである。
大阪府における現状は、府内学校の児童・生徒が十分に自己の人格を完成、実現されているとはいい難い状況にある。とりわけ加速する昨今のグローバル社会に十分対応できる人材育成を実現する教育には、時代の変化への敏感な認識が不可欠である。大阪府の教育は、常に世界の動向を注視しつつ、激化する国際競争に対応できるものでなければならない。教育行政の主体が過去の教育を引きずり、時宜にかなった教育内容を実現しないとなれば、国際競争から取りのこされるのは自明である。
我々は、我が国の未来を担う子供たちの適切な教育を受ける権利に対して責任を負うことを自覚し、この条例を制定する。
いかがでしょうか? たしかに、大阪府教育基本条例(素案)前文も、最後に「我が国の未来を担う子供たちの適切な教育を受ける権利に対して責任を負うことを自覚し」とあります。ですが、子どもの権利に対する理解の深さや中身においては、川崎市子どもの権利条例前文には、はるかに及ばない。
というか、この大阪府教育基本条例(素案)前文を読む限り、「子どもの権利」の保障やそのための自治体としての責任というのは「つけたし」でしかない。もしもその実現がほんとうに大事だと考えているのであれば、「この前文の前3段落はなんなのか?」というしかありません。というのも、この条例素案の作成者に本気で「子どもの権利」についての理解があり、その実現に向けての努力をするための条例をつくろうという意図があるのならば、冒頭から素案作成者なりの子どもの権利論を展開するはずだ、と私などは考えるからです。
むしろ、この素案前文、特に最初から3段落からうかがえるのは何か。それは、首長と議会がとにかく、条例をテコにして「教育」に対して何か介入することのできるルートをつくりたいのだ、という素案作成者の意図です。
しかも、その首長と議会の関与によって実現すべきだと素案作成者が考えている「教育」の中身は、4段落目にもあるとおり、「大阪府の教育は、常に世界の動向を注視しつつ、激化する国際競争に対応できるものでなければならない。教育行政の主体が過去の教育を引きずり、時宜にかなった教育内容を実現しないとなれば、国際競争から取りのこされるのは自明である」というようなもの。つまり、「国際競争に勝ち残るための人材育成」を軸とした「教育」なのです。
しかし、このような日本社会における過剰な競争主義的な教育の在り方は、国連子どもの権利委員会の第3回総括所見(勧告)においても、次のとおり批判されています。
※なお、この総括所見(勧告)の政府仮訳については、外務省の次のページで見ることができます。
http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/jido/pdfs/1006_kj03_kenkai.pdf#search='国連子どもの権利委員会 総括所見'
70. 委員会は,日本の教育制度において極めて質の高い教育が行われていることは認識するが,学校や大学への入学のために競争する児童の人数が減少しているにもかかわらず,過度の競争に関する苦情が増加し続けていることに懸念をもって留意する。委員会はまた,高度に競争的な学校環境が,就学年齢にある児童の間で,いじめ,精神障害,不登校,中途退学,自殺を助長している可能性があることを懸念する。
いかがですか? 国連子どもの権利委員会の側から見ると問題が多い「教育」の在り方を、この大阪府の教育基本条例(素案)の作成者は、今後、積極的に推進しようとしているわけですね。そのことだけでも、この条例(素案)の作成者は、子どもの権利のことなど「つけたし」にしか考えておらず、ホンネは別のところにあることがよくわかります。
したがって、私としては、こういう教育基本条例(素案)の内容には首をひねらざるをえないですし、子どもの権利保障の充実という観点からすれば「マイナス」にしかならないだろう、と思うわけです。そして、だからこそ、大阪の人権教育の関係者だとか、子どもの人権関連の取り組みを続けてきた人たちは、今こそこの条例素案に「反対だ」という意思表示をしなければいけないのではないか、と思うわけです。
ちなみに、この条例素案なんですが、この素案を作った人は、大阪府の「教育」への介入をてこにして日本全国の「教育」もこの方向に変えたいとでも考えているのでしょうか? 「我が国の未来を担う」という言葉づかいや、「激化する国際競争」に取り残されることへの危機感を訴える文言などに、そういう意識を感じてしまいます。
しかし、「大阪府」の「教育」の基本条例素案なのに、そこまで国を背負う必要があるのでしょうか? もしも本気で国を背負ってこういう教育改革をしたいのであれば、「大阪府」の「教育」の基本条例ではなくて、それこそ2006年に制定したばかりの新・教育基本法を改正するべきではないのでしょうか。
まだまだこの条例素案、前文の部分だけで言いたいことが多々あるのですが、長くなりそうなのでいったん、ここで切ります。続きはまた、別の機会に。