できることを、できる人が、できるかたちで

京都精華大学人文学部・住友剛のブログ。
関西圏に関することを中心に、教育や子ども・若者に関する情報発信を主に行います。

実はおとなにも必要なメディア・リテラシー

2010-01-25 17:52:54 | ニュース

少し古い本になるのだが、いま、私の手元には、NHK放送文化研究所編『テレビ視聴の50年』(NHK出版、2003年)という本がある。

この本の第2部第3章が「生活で変わるテレビの見方」という章で、この章には男女別・年齢別・職業別のテレビの週あたり平均視聴時間のグラフが出ている(p.165)。

それによると、実は案外、小学生~高校生の子どもはテレビを見ていないことがわかる(高校生が1時間53分、中学生が1時間49分、小学生が2時間15分)。むしろ、主婦(4時間45分)、無職(5時間35分)の「おとな」のほうが、平均的にはテレビをよく見ているようである。また、60歳以上の男性(5時間26分)・女性(5時間4分)のほうが、20代の男性(2時間17分)・女性(2時間47分)よりも、よくテレビを見ている傾向にある。

ちなみに、同書p.167の表によると、60歳以上の男性がよくテレビを見ている時間帯は、朝6時過ぎから9時ごろまで、お昼12時~13時、夕方17時30分~22時30分であり、この傾向はだいたい、60歳以上の女性の場合と共通している。また、夜19時~21時の間は、60歳以上男性の約6割がテレビを見ているようだ。そして、13時から17時あたりの時間帯でも、だいたい15%前後の60歳以上の男性がテレビを見ている傾向にある。

ここからわかるのは、朝とお昼頃のニュースとワイドショー、情報番組や、夜のニュースや情報番組を「よく見ている」のは、若い世代よりも「60歳以上の男女」ということである。まぁ、平日の日中に家に居て、テレビを見ていることができる人たちということでいえば、当然といえば当然なのだが。

その一方で、鈴木哲夫『政党が操る選挙報道』(集英社新書)という本がある。この本は、最近の政党がテレビというメディアにおいて、いかにして自分たちの党のいいイメージを売り込むかというバトルを繰り広げている様子を描いたものである。

ちなみに、この本でかなり明らかにされているのだが、民間のPR会社や広告代理店、調査機関などにも協力を求めながら、最近の各政党は有権者を意識して、テレビなどによく出てくる選挙の候補者や政党の幹部等の発言を適宜修正したり、ポスターやマニフェストなどの内容を検討したりしているという。これを「コミュニケーション戦略」(略して「コミ戦」)というそうだ。

このコミ戦、場合によれば、どのテレビ番組に政治家の誰を出すのか、どんな髪型や服装にするのか、印象に残るようにどのようなせりふを言わせるのかまで検討しているとか。あるいは、テレビのワイドショーなどのコメンテーターの発言や、政治記者の取材などについてもチェックをして、自分たちの党に対して理解がないと思われるコメンテーターや記者のところには、各党のコミ戦担当者が出向いていって、自分たちの主張を説明するともいう。そして、選挙や国会報道などにおいて「○○対●●」というようなわかりやすい対決の構図を描いたり、絵になる政治家を追いかけて連日取材するなど、テレビのワイドショーなどの番組づくりに、このコミ戦がまたいろいろ水面下で働きかけているともいう。

とすれば、このコミ戦によって仕掛けられた各政党のテレビ向けメッセージに一番影響されやすいのは、子どもや若い世代以上に「60歳以上の男女」ということになるのではないか? なにしろ、テレビの朝と昼のワイドショーや情報番組、夜のニュースなどを一番よく見ているのは、この世代なのだから。

「近頃の子どもはテレビばっかり見て・・・・」というおとなたち、とくに「60歳以上の男女」。実は子どもや若者よりもあなたたちのほうが、各政党のコミ戦にのせられて、思わぬ投票行動をとってしまったり、あるいは、変な世論をつくりあげてまちがった方向に政治・行政を導く危険性が高いのである。だから、テレビというメディアに対する批判的な読解力、つまりテレビに対するメディア・リテラシーを身に付ける必要性が高いのは、子どもや若者以上に年長者ではないかとも言えるのである。

もっとも、子どもや若者には、テレビ以外のメディア接触、たとえばケータイやインターネットといったものへの接触をどう考えるかという、別の意味でのメディア・リテラシー教育が必要なのであるが・・・・。

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研究の「手薄な」領域を埋めていく努力が必要

2010-01-23 13:05:50 | 受験・学校

昨日、大阪市内のもと青少年会館での子ども会活動等のあり方を考える研究会に出ていて、あらためて実感したことを、ここに書いておこうと思う。

正直なところ、今の大阪での部落解放教育・人権教育系の諸研究のなかで、たとえば放課後の子どもたちの生活や、子どもの学校外活動に関する研究は、かなり「手薄」である。それがなぜ生じたかについては、今はあえて問わない。

ただ、たとえば大阪市内の公立小学校を使って行われている「放課後いきいき事業」だとか、民間学童保育や教育NPOの取り組みなどについて、あるいは各地区の子ども会活動のあり方などについて、今後、早急に足りない部分を埋めていく必要があると思う。

あるいは、大阪以外の各地で少しずつ広がりつつある自治体の「子ども条例」制定の動きだとか、その動きとリンクする形ですすんでいる児童館・青少年社会教育施設などを活用した「居場所づくり」の取り組みに関する研究も、大阪での部落解放教育・人権教育系の諸研究のなかでは、まだまだ「弱い」分野だというしかない。

さらに、生活保護世帯などの生活困難な課題を抱えた家庭と子どもを、学校教育・社会教育・児童福祉・社会保障などの諸領域を横断するような取り組みで支えていく、ということ。このことに関する研究も、本来、「きょうも机にあの子がいない」からはじまったような同和教育や部落解放教育の伝統から考えると、もっと活性化されていてしかるべきなのだが、今のところは「弱い」。

そもそも、「子どもの権利」の保障という観点にたって、「教育と福祉」を統一的に把握するような子ども理解をすすめようと、「同和教育・保育」論のなかで積極的に主張してきたのは、故・鈴木祥蔵ではなかったか(この点は、鈴木祥蔵の『「保育一元化」への提言』(明石書店)を参照)。

その鈴木祥蔵らが中心になってまとめられた1970年代の部落解放教育論関係の文献には、子ども会や保護者組織、青年の活動や識字の話も、就学援助や教科書無償配布といった教育条件整備の話も、地域教育計画づくりや「まちづくり」の取り組みを通じての学校と家庭・地域社会の連携の話も、保育所からの子育て運動の取り組みの話も出てくる(この点は、明治図書から1970年代に刊行された『講座部落解放教育』シリーズを参照)。

こうした「過去の議論に学ぶ」という取り組みが、今こそ部落解放教育・人権教育系の諸研究には求められていると思う。また、その当時の研究がもっていた視野や議論の広がりに比べてみると、今はある特定分野に研究が「特化」されすぎて、数多くの「手薄な」領域がかえって広がっているということ。このことをもっと意識して、「手薄な」領域を埋めていく作業をどんどん、したほうがいいように思う。

そして、なぜあえて今、こんなことを書くのかというと、その「手薄な」領域の部分で生じている教育・学習・子育ての課題に、まさに今、各地区の子どもや保護者、若者、住民たちが悩んでいるように思われるからである。また、その「手薄な」領域で生じている諸課題が整理されず、きちんとした対応も行われないまま、学校教育の領域にまで持ち込まれているようにも思うのである。

もちろん、「手薄な」領域がある反面で、たとえば「得意な」あるいは「充実した」領域があることも、大阪の部落解放教育・人権教育系の研究にはあること。そのことは、私も認める。でも、ここから先、各地区で子どもや保護者、若者、住民たちが直面している諸課題を考えると、「その得意な領域ばかり研究していても・・・・」と思ってしまうのである。

やはり、みんなで手分けして、その「手薄な」領域を埋めていく努力が必要ではないのだろうか。そのためにも、まずは私から、できることを、できるかたちで、「手薄な」領域を埋めていきたいと思う。

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戦車購入よりも就学援助費の増額を

2010-01-23 11:50:42 | 受験・学校

今日は最近読んだ2冊の本の内容から。

まずは『知られざる就学援助』のp.12によると、2002年度の市区町村が給与した援助費総額に対する国庫補助金交付決定額は、総額約313億円に対して国庫補助金交付決定額が約74億円。これに対して、2006年度は、総額約431億円に対して国庫補助金交付決定額は約6億円だという。

ちなみに、2005年度に「就学困難な児童及び生徒に係る就学奨励についての国の援助に関する法律」(略称「就学援助法」)の改正が行われた。このとき、国の「準要保護者」対象の補助金が廃止されたという。

したがって、このような数字からは、就学援助制度に関する制度改正(実際は「改悪」だが)によって、地方自治体(市区町村)が就学援助の運営において、かなり大きな財政上の負担をひきうけていることがわかる。

その一方で、『防衛破綻』という本を読む。p.81に陸上自衛隊が保有する90式戦車の調達価格が「9億円程度」、開発費が「400億円程度」と書いている。なおかつ、この90式戦車が旧式化しつつあるので、新たに新型戦車を開発して、今後約30年間で600輌を持つことを検討中だとか。

ちなみに、この本の著者は、「そもそも現在の我が国で600輌もの戦車が必要なのだろうか」とか、この600輌の戦車を上回る戦車を揚陸しての戦闘など(特に、攻めるほうが守るほうの3倍という「攻守三倍の原則」で考えると)、「我が国本土でこれほど大規模な機甲戦が行われると想定するのは妄想に近い」という(p.90)。

だとするならば、「ここに就学援助制度をより拡充するための財源、あるじゃないか?」と思うのは、私だけだろうか? 戦車一輌の購入をやめるだけで、現状では、生活保護世帯の子どもなどへの就学援助制度を運営するのにかかる国の補助金分が、そっくりそのまま、でてくるようにも思うのだが。

ところで、民主党政権が今後、既存の国の行政施策について「事業仕分け」を本当にするのであれば、まだまだ、切り込むべきところはいっぱいあるだろうし、そもそも「事業仕分け」をする人たちはいったい、何を基準に「予算のムダ」を洗い出しているのだろうか。その「ムダ」を検証する基準や、その基準を裏打ちしている人間観や思想の部分にも、今後は批判的な議論が必要だと思う。

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昨日のテレビ番組と絵本『ひらがなにっき』から

2010-01-18 18:43:39 | いま・むかし
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発売日:2008-09-20

このブログを見ている人のなかで、昨日の夜10時から、NHK教育テレビのETV特集『なまえをかいた』を見た人が、どのくらいいるだろうか?

この特集番組は、もともと上に紹介している絵本『ひらがなにっき』が題材になっているもの。大阪府・富田林市の人権文化センターで開かれている識字学級に通う80代の女性が主人公になっているのが、この絵本。ちなみに、この絵本は出てすぐに購入し、我が家にも置いてある。

学校へ通う機会をもてなかった彼女の生い立ちや、文字の読み書きを学べなかったがゆえに生じてくるさまざまな生活上の問題、識字学級での学習やお孫さんとの日々のかかわりのなかで文字を学びとっていくプロセス、そして、文字の読み書きができるようになって見えてきたさまざまなこと・・・・、そういったことが、この一冊の絵本に詰まっている。

そして、この絵本の主人公になった女性と彼女を支える家族や識字学級の人々の様子や、そして、絵本の作家の思いなどを軸に、この特集番組はつくられていた。また、その合間に、1960~70年代に高まった部落解放運動のことや、同和対策事業のこと、富田林での識字学級開設以来の歩みなどについて、ていねいに彼女が識字学級に通う社会的背景にも触れていた。「なかなか、いい特集番組ではないか」と、私としては思う。

さて、このテレビの特集番組や、あらためて絵本『ひらがなにっき』を見て思ったのだが、まずは識字教室等々、それぞれの同和地区で取り組まれている社会教育活動について、マスメディアでこのような番組が作られたり、絵本などの形で広く人々に知ってもらったりする取り組みが、今までどの程度、行われてきたのだろうか、ということ。

この何年か、特に同和対策事業や部落解放運動がらみでは、何か不祥事があると、すぐにマスメディアなどでセンセーショナルな報道が行われてきたように思う。もちろん、マスメディアが不祥事を取り上げ、今までの事業や運動のあり方についての再考を促すこと自体は、取り上げ方にもよるが、一概にすべてダメとは言い切れない。だが、それと同じくらい、地道にこつこつと、それぞれの地区で学習・文化活動に取り組んでいる人々の姿を、マスメディアなどはどれだけ追ってきたのだろうか? まずはそのことが思い浮かんだ。

と同時に、富田林の識字学級などで活動している人々が、この女性を主人公に絵本づくりを思いつき、絵本作家の協力を得て立派な本をつくった。そのこと自体は、ほんとうにすばらしいことだと思う。ただ、この間、絵本づくりにとりくんだ富田林以外の地区で活動している人々の情報発信は、どのくらい、すすんだのだろうか? 「日々の活動だけでみんな大変だ」ということは百も承知でいうのだが、この間、目の前の活動をこなすことに終われていて、対外的に情報発信するところにまで手がまわらなかったのではないだろうか。そのことを思うと、とても残念でならない。

そして、行政である。この識字学級、富田林市の人権文化センターで実施されているとのことだが、社会教育行政あるいは人権行政の仕事として、やはり今後も識字活動に関する何らかの公的な支援が必要なのではないだろうか。

だいたい、「子どもの権利条約」第28条(教育への権利)においても、「非識字の廃絶」ということがうたわれている。日本という国は、この条約の締約国のひとつ。諸外国の「非識字」者の問題に積極的に取り組むだけでなく、日本国内における「非識字」者の問題にも取り組む義務が、「子どもの権利条約」の趣旨からすると「ある」と思う。

にもかかわらず・・・・。大阪市内ではもうすぐ、人権文化センターともと青少年会館等々、いくつかの地区内施設を統廃合して「市民交流センター」ができる。大阪市内では人権文化センター、あるいはもと青少年会館などを使って、従来「識字」に関する取り組みがさまざまな形で続けられてきた。では、「市民交流センター」が設置されてからあと、大阪市内では行政サイドから、どれだけ「識字」に関する取り組みを支援していくのだろうか? 大阪市の行政サイドは、文字の読み書きになんらかの課題のある人々については、今後は「自助努力」や「自己責任」で、その課題を解決しろというのだろうか? あるいは、ボランティアによる支援に「丸投げ」の形をとるのだろうか? 

そういったことを感じながら、昨日のテレビ番組を見て、あらためて絵本を読んだ。この番組を見て「いい番組だ・・・・」と、喜んでばかりいられない。それが私のつらいところである。

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いろいろ改革してみて、何かよくなりましたか?

2010-01-10 21:05:37 | 国際・政治

去年の秋の政権交代以後、中央政界での動きは、なにか、もたもたしているような印象を受けます。まぁ、民主党・社民党・国民新党の連立政権が成立して、今まで自民党・公明党連立政権がすすめてきた諸改革・諸施策の動きをいったん止めるという作業と、新たに3党連立政権独自の諸改革・諸施策を実施しようとする作業とが、いま、同時に進行しているわけです。外から見ていると「いったい、どっちを向いているのやら?」と思われてもならないでしょう。

しかも、財政難のこの何年かで積極的にすすめられてきた行財政改革の手法は、「スクラップ&ビルド」。例の「事業仕分け」が顕著な現れ方ですが、既存事業で「ムダ」や「不要」と思われるものをいったん「廃止」「実施の停止」「縮小」等にした上で、それで生まれてきた財源や人員などを別の諸事業実施に振り向けていく、というのが、この「スクラップ&ビルド」という発想です。だから、既存の諸事業についての「廃止」等の動きと、新しい諸事業実施の動きとが並行的に現れるので、「いったい、どっちに向かっているのか、よくわからん」という雰囲気も生まれるわけです。

ただ、地方自治体レベルでの行財政改革の動向を見ていると、おおざっぱな言い方になりますが、「スクラップ」>「ビルド」という傾向。つまり、「スクラップ」される事業が多数なのに対して、新規に開始される事業はあまり多くない、という印象を受けるのです。あるいは、「スクラップ」される事業はかなり大きいものが多いのに、それに対して「ビルド」される事業は規模などが小さいという印象もあります。

要するに、「スクラップ」されて生まれた行政・財政上の「余力」は、どこかにその多くが吸い取られていって(おそらく、財政赤字の解消などに費やされているのでは?)、新たな事業を実施することには、比較的小さな部分しか「余力」が向けられていないように思うのです。(だから、いわゆる「市民オンブズマン」の方が、「そんなことに使うなら、もっと庶民生活の維持向上に使ってほしい」と、「善意」で「行財政のムダ」を追求し、「余力」が出るように働きかけるのですが、それは今の情勢下では結果的に、期待した効果を挙げていないように思います。)

もちろん、行財政改革の担い手の側からすると「費用対効果」を考えて、今、ふりむけることの「最小の予算・人員で、できるだけ効果の大きなものを狙ったら、こうなった」という「ビルド」部分もあるでしょう。しかし、「安かろう、悪かろう」という新規事業もあるでしょうし、「それ相応の予算と人手をかけたら効果はでるのだろうけど、たいして予算や人手をかけないがゆえに、逆に当初狙った事業の効果がそがれている」というケースもあるのではないでしょうか。(どうせ「市民オンブズマン」が行財政改革の動向を「監視」するのであれば、こういう方向をもっとチェックしたほうがいいのではないでしょうか? たとえば、「こんな事業をはじめるくらいなら、前の事業のほうがいい」という観点からは、どうして行財政改革の動きをチェックしないのでしょうか?)

さらに、たとえば「学力向上」を「実現すべき最大目標」のように考える研究者は、高校生がケータイの維持にかける数千円を「ムダ」と感じます。「そんなもん使ってる暇があれば、勉強しろ!」が、その人の目標から導き出されるケータイへの評価ですから。ですが、「ケータイこそ、いまどきの若者に人間関係を維持するのに必須のツール」と考えるメディア論系の研究者は、どうやってその数千円を獲得するのかは別として、さほどムダとは思わないでしょう。

あるいは、これは今日我が家で起きたことですが、指先に穴のあいた手袋を「もう使えない」と見てゴミ箱に捨てる人も居れば、「まだ、何かに使えるかも?」といって、ゴミ箱から取り出してくる人も居るわけです。

つまり、なにをもって「ムダ」というのかには、「何を実現すべき目標と設定するのか?」という次元に照らしあわせて決まるわけで、その「目標設定」が異なれば「ムダ」の理解も異なるわけです。あるいは、今「ムダ」と言って捨ててしまっている事業のなかにも、あらためて別の観点から見直せば、「もっと使い道があるのではないか?」というものも含まれているかもしれません。

これは身近なたとえで、それをどこまで行政施策にあてはめて考えていいのかという問題はあります。ですが、きっと行政施策においても、何を基準に「ムダ」だという評価を出しているのかを問い直せば、きっと「ほんとうはやめてはいけない事業」が出てくるかもしれませんし、あるいは、「もっと別のところに、やめたほうがいい事業がある」ということだって、出てくるかもしれません。(そういう意味では、これまでの「市民オンブズマン」的な「ムダ」感覚も、軌道修正が必要な時期が来ているように思います。「市民もいろいろ、オンブズマンもいろいろ」あっていいんじゃないでしょうか?)

少なくとも、この何年かの大阪市の行財政改革には、こうした事例が次々に積もっているようにも思います。たとえば、今の時点でふりかえってみて、「ほんとうに青少年会館(青館)事業をやめてしまって、それでよかったのか?」と問うてみることや、「青館事業にかわる形で、何かいい青少年施策・人権施策を大阪市は打ち出すことができたのか?」といった形で、この間、市政改革を推進してきた人々とは別の観点から、市政改革のあり方をふりかえってみると、いろいろと気づくことがあるように思います。

ついでにいうと、今の時点では自公連立政権の時代をふりかえってみて、「いろいろ改革してみて、何かよくなりましたか?」と問うことが必要ではないかと。特に、矢継ぎ早にこの10年間くらい、いろんな教育改革が行われてきましたが、「それでほんとうに、日本の学校、よくなりましたか?」と問うことが大事ではないかと思います。少なくとも、政権を担っていた当時、「こうすれば、日本の教育はよくなる」と称していろんなこと、やってきたわけですからねぇ・・・・。

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新しい年を迎えました。

2010-01-04 10:10:42 | 受験・学校

2010年に入って、もう4日目。今年もどうぞよろしくお願いいたします。更新のペースは昨年と同様になるかもしれませんし、どのくらいの頻度でこちらのブログに何か書き込めるかわかりませんが、ひきつづき、情報発信を継続したいと思います。

さて、この年末年始に読んでいた本のなかから、気に入った文章を見つけたので、以下のとおり引用しておきます。青字部分が引用部分で、アンダーラインは私が引きました。

批判的教育者は、自らの研究が支援する進歩主義的社会運動と協力して行動しなければならないし、また、自らが批判的に分析する右翼的な仮説や政策に対抗するさまざまな運動の中で行動しなければならない。(中略)

研究者としての知的努力も重要だが、ブルデューの言葉にもあるように、「世界の将来が懸かっている闘争を目前に、それを傍観し、中立・無関心を装うことはできないのである」。

(以上、マイケル・W・アップル、ジェフ・ウィッティ、長尾彰夫編著『批判的教育学と公教育の再生』明石書店、2009年、p.12より引用)

この言葉、特にアンダーラインの部分に触れたときに、私は「そうだ、そのとおりだ」と思いました。

それこそ、2007年の春に大阪市の青少年会館条例が廃止され、青少年会館事業が「解体」されたとき、その条例廃止方針が出た前年秋の時点から、私はいろいろとインターネット空間上で、あるいは実際の抗議活動のなかで、いろんな発言を繰り返してきました。このブログも、そのプロセスのなかで生まれたものです。

また、実際に条例廃止・事業「解体」後も、大阪市内の各地区でもと青少年会館(以後「もと青館」と略)を使って子ども会や保護者会、中学生・高校生の学習会、若者たちの和太鼓などのサークル活動、識字教室などに取組む人たちと、いろんな形で交流を続けてきました。

研究者のひとりとして、私がほんとうに大阪市内の各地区で子どもの人権に関する諸問題や、あるいは、部落解放教育・人権教育に関わる人たちとつながっていこうと思えば、やはり、この青館条例廃止という事態をふまえてもなお各地区に出入りして、そこで何が起きて、何に人々が困っているのかをレポートしつづける必要があると思ったんですよね。

私としては、条例廃止を迎えるときに、今、各地区に入って状況報告の活動をしなければ、今、展開中の教育や子ども施策に関する行財政改革の動向に、私自身がきちんと対峙することができないように思ったのです。

大学でいろんな文献を読んでものを考え、文章を書くことも大事ですし、そのことは否定しません。ですが、目の前で自分の「仲間」とでもいうべき人々が直面している困難を前に、今まで学んできたこと・考えてきたことを使って、自分に何ができるかを問うことも大事。大阪市の青少年会館条例廃止のときに、そんなことを思ったんですよね。

それにしても・・・・。今まで大阪市内の部落解放教育や人権教育の営みにかかわった研究者は多々いるかと思うのですが、もと青館での諸活動や、あるいは、各地区での運動の営みに、条例廃止後もなお続けて関わっている人は、いったい、どのくらいいるのでしょうか? もちろん、表立った動き方をすることだけが活動ではないと思うので、いろんな動き方があっていいとは思うのですが。

また、この本には、次のような文章もありました。先の引用と同じように、青字で書いておきます。

すなわち、私たちは、現実世界を常に社会の底辺を生きる人々の立ち位置から眺め、彼らがおかれた抑圧的な諸条件を再生産するイデオロギー的・制度的プロセスや形態に抵抗しなければならないのである。この位置づけ直しの作業は、批判的教育学の諸原理を具現化する政治的実践および文化的実践の双方に関係すると同時に、やがて研究や研究者自体の役割を根底から再定義するに至る多くの研究や理論をも生み出してきた。

(前出『批判的教育学と公教育の再生』p.11)

それは(教育における批判的分析のこと=住友注)、「否定的なるものを証言」するものでなければならない。すなわち、その最も主要な役割の一つは、教育政策・実践が、それを取り巻くより大きな社会における搾取と支配の関係といかに結びついているかを明らかにすることである。

批判的教育研究は、このような批判的分析に取り組むと同時に、諸矛盾を指摘し、どこに行動の可能性があるのかも示さなければならない。ゆえに、批判的教育研究の目的は、どこで対抗ヘゲモニー的な行動が可能であり、どこでそれが現に進行しているのかを際立たせるような概念的・政治的枠組みに依拠して現状を批判的に検討することである。

場合によって、それは「研究」を再定義することを要する、ここでは現存するさまざまな不平等の権力関係に抵抗する集団や社会運動、つまり「非改良主義的改革」に関わる人々のために「秘書的な役割」に徹することも、研究の定義に含めている。

(前出『批判的教育学と公教育の再生』p.11~12)

2009年の間に、私は大阪市内の各地区で子ども会等の活動に取り組む人たちの話を聴いたり、あるいは各地区にある公立学校の教員のみなさんから話を聴く機会を持ってきました。去年の私の取り組みは、この引用にある「研究」の再定義ということとも深く関わっているように思います。

なにしろ、実際に困難な状況におかれながらも、そこでさまざまな実践に取り組み、なんとか状況打開の道を模索しようとしている人々とともに、その人々の活動に何がしかのプラスになるような方策を考える形で、今の私は自らの研究活動をすすめようとしているわけですから。それが、この引用文でいう「秘書的な役割」とも重なるのではないか、と思ったのです。

そんなわけで、今年もこうした「批判的教育学」の理論や伝統に学びながら、このブログを通じて、さまざまな情報発信を続けたいと思います。今年も引き続き、どうぞよろしくお願いいたします。

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