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できることを、できる人が、できるかたちで

京都精華大学教員・住友剛のブログ。
関西圏中心に、教育や子ども・若者に関する情報発信を主に行います。

貧困は地域に偏在する。

2009-05-31 11:49:15 | いま・むかし

以下の文章は、岩田正美『現代の貧困-ワーキングプア/ホームレス/生活保護』(ちくま新書、2007年)の160~162ページからの引用である。引用部分がわかるように、色を変えておく。

 貧困は、特定の「不利な人々」に集中するだけでなく、地域による偏りも大きい。生活保護基準を使った先の駒村氏の分析でも、保護基準以下の貧困層の割合は、都道府県によってかなり違いがあった。1999年のデータでは、高い県と低い県では4倍以上の開きがあったという。生活保護の保護率が地域によって異なることはよく知られている。これには各地域の保護行政の「力」の差も影響しているだろうけれども、しかし、一連の研究では、その地域の失業率との結びつきが強いといわれている。

 都道府県レベルよりも、もう少し細かく見ていくと、たとえば同じ県の中でも、貧困が比較的集中している地域とそうでない地域がある。路上ホームレスの場合も、集中している場所とそうでない場所があって、集中している地域の行政担当者は、どこか別の地域の行政担当者がホームレスを送り込んでいるのではないかと疑いを抱くこともある。

 こうした、地域による貧困の違いを地図にしたパンフレットを、イギリスの地方都市で見かけたことがある。この地図は、タウンゼントの社会的剥奪指標のいくつかを、地方剥奪指標に読み替えて作成されたものだった。具体的には、低所得や失業、低教育や質の悪い住宅、犯罪発生率などの指標を組み合わせてスコアをつくり、その市の地区ごとに剥奪ゼロ(最良地域)と全部剥奪(最悪地域)とに色分けしたものだった。

 このパンフレットを編集したのは地理学協会という公共団体で、なんと同じ地図が市のホームページにも堂々と掲載されていたので、ここまでやるかと唸ったものである。日本にも暮らしやすい県のランキングなどはあるが、最悪地域を明確に地図で示すなどということは、逆立ちしてもできないだろう。

 英国でこのようなあからさまなランキングが行えるのは、それが最悪地域への重点政策や優遇策のベースとなるからで、行政側にとってもそこで暮らす人々にとっても実利があるからである。わが市こそ貧困地域だと手を挙げたがる自治体もあると聞く。

 そもそもイギリスでは、こうした地域ランクによって市の徴収する税金額が異なっている。貧困地域に住むと税金は安くなる。このランクでいうと高い方にある地域の大学までタクシーで行った時、その運転手は「貧困」と「剥奪」という言葉を使いながら、自分の住んでいるところと大学のある地域の環境がいかに異なるかを、緑地面積やら保育所の数やらを挙げて、私に説いて聞かせた。「貧困」や「剥奪」といった言葉が、学会の専門用語としてだけではなく、実際にそこで暮らす地域の問題を語るための言葉として日常的に使われていることに驚いた。さすがに貧困の「再発見」先進国ならではのことである。

 日本はイギリスなどとは違って、貧困による地域区分ははっきりしていない、と言われてきた。金持ちが住んでいるところと貧困な人々が住んでいるところ、日本人のすんでいるところと外国人の住んでいるところの線引きは曖昧で、比較的混在しているという指摘もある。それでも大まかな違いは、やはりある。

ちなみに、岩田氏は社会福祉学の研究者で、「貧困・社会的排除と福祉政策」が研究テーマの方である。また、私はイギリスへ行ったことがないし、イギリスの事情に詳しいわけでもない。だから、ここで岩田氏が書いていることを信じるしかない。

だが、私の印象でいえば、言っていることは必ずしも悪いわけではなく、むしろまともな議論だと思う。貧困世帯の人々が、たとえば家賃その他の生活費との関係で、その収入の範囲内でも比較的生活しやすい条件の整った地域に集まって暮らす傾向にあるのは、日本社会においてもおそらく同じことだろう。

ところで、私があらためてこのような文章を読むと、「社会福祉学の貧困研究のなかで、敗戦後日本における同和対策事業の位置づけはどうなっているのだろう?」と思ってしまう。「過去を忘れてはいませんか?」と思うのである。

たとえば金井宏司『同和行政 戦後の軌跡』(解放出版社、1991年)の「戦後同和行政の出発」という章を見れば、「オール・ロマンス闘争」のことを書いた部分で、1950年代はじめの京都市民生局が当時の市内被差別の生活実態調査を行った結果が紹介されている(p.71~75)。ここから敗戦後京都市の「同和行政」がはじまっていくことになるのだが、このように、日本でも「貧困と差別の悪循環」を断ち切るために、被差別の生活環境に関する実態把握をもとに、それを少しでも変えていこうと、「同和行政」という枠組みでさまざまな施策を打ってきた歴史的経過がある。

こうした歴史的経過を、社会福祉学における貧困研究は、今、どう位置づけるのか? あらためて今、過去をふりかえって位置づける作業をする必要があるのでは? こういったことが、専攻領域の異なる私から見ても、気がかりなのである。

さらに、現在、地区内にさまざまな施設などが集中しているというのは、こうした歴史的経過を持つ行政施策の結果として見れば当然のことであろう。だから今、そのことをとりあげて、地区に施設が「地域的に偏在」しているので「統廃合」して「解消」するということをしぶしぶであれ容認するとしても、その代替プランが具体的に行政当局や地方議会サイドから出てこないのであれば、ある意味、「今後、行政当局は貧困などの問題に対して、積極的な是正策をとらないでいい」というのに等しいようにも思ってしまう。

今までの歴史的経過がある以上、どうしても地区内施設が「地域的に偏在」している状態を「統廃合」して「解消」したいというのであれば、逆にそれを主張する側が、「どのような施策をもって貧困などの問題に対して全市的にとりくむのか?」ということを、説得力ある形で提示しなければならないのではないか。

今までの施策ではなぜダメなのか、どこに問題点があって、どういう方向で新たな施策を打ち出さなければならないのか、等々。今までの施策を批判して「やめろ」という側から、もっと積極的かつ説得力のある施策を打ち出してほしいものである。

このように、説得力ある代替策の提示なしに、地区内に今ある施設などを「地域的な偏在」だけを理由に「統廃合」して「解消」することだけに議論を集中するなら、ますます、私などは「今後、行政当局は貧困などの問題に対して、積極的な是正策をとらないでいい」と言っているのに等しいようにしか思えないのである。

なにしろ、過去の「同和行政」には触れない今の社会福祉学における貧困研究ですら、先に岩田氏の書いた文章を引用したように、イギリスの例を引きながら、「貧困の地域的偏在」に対して、ある特定の地域限定の施策実施を認める議論があるわけだから。また、岩田氏の本は新書本サイズのものだから、その気になれば、すぐに読めるだろう。

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利用者の声を聴く、歴史的経過をふまえる、そのくらいやるべき

2009-05-29 19:54:03 | いま・むかし

2007年3月末の大阪市の青少年会館条例廃止から、とうとう3年目を迎えた。去年の暮れあたりから、大阪市の行政当局サイドは、市内各地区(以後「地区」と略)にある人権文化センターともと青少年会館(もと青館)、高齢者施設などを統合した「仮称・市民交流センター」の設置を検討しつつある。というか、それを次年度以降導入する前提で、すでに動き始めている節が濃厚である。

これに対して、私も「ほんとうにそれでいいのか?」という思いがあって、すでにある雑誌に原稿を書いたし、私の仲間からも、もと青館で活動中の保護者のサークルなどを取材した上で、同じ雑誌に疑問を投げ掛ける原稿が出ている。さらに、各地区の住民や現在のもと青館等の利用者の間からも、「こんな統廃合の進め方はおかしい」等の抗議の声が出始めているし、前にもこのブログで書いたように、利用者の間で署名運動も開始されている。

いま、人権文化センターにしても、もと青館にしても、高齢者施設についても、そこで活動中の人々がいて、子どもや若者、保護者や高齢者その他の地元の人々にとって無くてはならない居場所になっている、そんな施設を、いったい、どういう理由で行政当局は統廃合しようというのであろうか。また、その理由や構想などについて、行政当局側は今までに一度でもきちんと説明の機会をもったのであろうか。あるいは逆に、今、その施設を利用している地元の人々が、今後、どのような形で地区内施設の存続等を求めているのか、行政当局は話を聞く機会をもったのであろうか。前に青館条例を廃止するときにやったように、先に行政当局側で廃止方針を決め、その結果だけを伝えるような、かたちだけの説明会をして、そのあとに市議会に条例廃止案を出す。そんなひどい対応だけは、今回に限っては絶対にやめてほしいと私は思う。

さらに、行政当局が少なくとも今、各地区の人権文化センターにせよ、もと青館にせよ、地元住民だけが利用者だという前提で動いているとすれば、それは大きな間違いではないのだろうか。少なくとも私は、例えば複数の研究会や学習会の開催といったかたちで、定期的に大阪市内のある人権文化センターを利用している。それこそ、今の人権文化センターやもと青館については、地元住民だけでなく、広く大阪市内に在住・在勤・在学の人々や、さらには大阪市内に事務所を置く企業や民間団体が利用しているケースもあるだろう。まだまだ利用状況は少ないかもしれないが、すでに人権文化センターやもと青館は、市内の幅広い層の人々に利用される「市民利用施設」としての顔を持ち始めているのではないのか。そのことを、行政当局は一度でも確認したことがあるのだろうか。だとすれば、先に述べた説明会などは、各地区の住民に対して行うだけでなく、幅広く市民が参加できるようなかたちで行わなければならないだろう。

あるいは、まだ青少年会館条例があり、各種事業が存続していた頃には、夏休みのプール利用や館まつり、各種の学習会やイベントなどを通じて地区内外の子どもや若者、保護者の交流があっただろう。また、利用率や参加者数がどうかという課題はあるにせよ、今でも人権文化センターで開催されているさまざまな講座・学習会などには、地区内外からいろんな立場の人々が参加しているのではないだろうか。そういった地区外からの利用者についても、行政当局は各施設の統廃合計画について、きちんとした説明を行う必要があるのではないだろうか。

一方、このような実情から考えると、もと青館や人権文化センターなどの地区内施設を、いまだにそこは地元住民「だけ」が利用していると考えている方が、私としては、「状況認識が古い」ように思う。もしもそういう理解で行政当局が動いていたり、あるいは、大阪市議会や大阪市の各種審議会・委員会等でもそういう前提で議論が動いているのだとすれば、私の側からは、「いったい、いつの時代の各施設の状況を前提に動いているのか?」と言いたくなってしまう。

それこそ例えば、大阪市内のもと青館だって、90年代のおわりに地区内青少年の育成だけを対象とした社会教育施設から、一般的に広く市内青少年の育成事業を行う社会教育施設へと、条例改正をしたはずである。また、だからこそ大阪市は、例えば不登校や非行傾向等、「課題のある青少年」を支援するための相談・居場所づくり事業(いわゆる「ほっとスペース事業」)のような「一般的な青少年施策」の取り組みを、以前の青少年会館を拠点として行ってきたのである。歴史的な経過をたどれば各地区に設置された施設であっても、その施設を有効活用するかたちで展開されてきた諸事業はすでに「一般施策」であり、「条例」でもそのように位置付けてきたのではないのか。同じことはおそらく、今の人権文化センターにだってあてはまるのではないのだろうか。

しかも、今もなお、こども青少年局の事業として大阪市では実施されている「ほっとスペース事業」は、一部は他の場所に移されたとはいうものの、引き続きもと青館を活動場所として実施しているケースがある。今後、この事業を大阪市としてどう維持するのかはわからないが(事業発足時の運営協議会の委員長として、私は、何らかの形での事業の存続、もしくは類似事業への発展的な拡大を願うのみ)、過去の青少年会館事業が取り組んできたこと及びその施設等のハード面のなかには、今後も大阪市にとって維持すべきものが多々含まれているのではないのか。そういった従来の事業などの中身の精査ということを、はたして行政当局はどこまでやっているのだろうか? もしも「やっていない」としたら、私としては、「まずは従来の事業などの中身を精査して、何が今後も存続すべきもので、何がもういらないのか、そこを明らかにする段階から、行政部局内の検討をやりなおしてほしい」と言うしかない。

このように、もと青館や人権文化センターなどが、もともとは地区内施設として設置されたとしても、そこで展開される諸事業などをより幅広い市民の利用に供するよう実施してきた経過や、あるいは、一般的な施策へと位置づけを変更してきた経過などは、今の「仮称・市民利用センター」構想を検討するにあたって、どの程度考慮されているのであろうか。もしも大阪市の行政当局や、あるいは大阪市議会、大阪市の各種審議会・委員会などで、こうした歴史的経過をふまえない議論が行われているとしたら、私としては「せめて、そのことくらいふまえた検討にしてほしい」と言わざるをえない。また、この何年かの一般的な施策への移行や、幅広い市民利用を促すための取り組みなどの経過を無視して、いまだに「地区内施設だ」という前提で行政当局や市議会、各種審議会・委員会などが議論をしていれば、「その認識こそ古い」と言わざるをえないのである。

だから、私としては最低でも今の時点では、「利用者の声を聴く」ことと、「これまでの事業や取組みについての歴史的な経過をふまえる」こと。この2つくらいは、人権文化センター・もと青館などの地区内施設の統廃合に関して、行政当局や市議会、各種審議会・委員会などでの検討において、やるべきだろうと思う。

ついでにいうと、このことは大阪市内の地区内施設の問題だけでなく、他の自治体のそれにもあてはまる。昨日のアクセス解析を見ていると、このブログに、例えば茨木市の青少年センターの存続問題に関心のある方がアクセスしてこられたようだが、同じことは茨木市のケースにおいてもいえるだろう。

そして、大阪市内や茨木市にかかわらず、どこでもそうなのだが、今ある施策や施設がなくなってからあと、「あの取り組みがあったほうがよかった」などということを言っても、もう遅い。だとしたら、たとえ少人数の取り組みではじめたとしても、まずは、行政当局や市議会、各種の審議会や委員会などに対して、反対するべきときに徹底して反対の意見表明をして、自分たちの態度を示し、きちんとスジを通しておくこと。それが今はいちばん大事だと思う。

さらに、自分たちにとって今あるその施設や施策がほんとうに大事なものなら、たとえひとりであっても、「これはなくさないで」という意見表明だけなら、とりあえず、できるものである。例えば、区役所や市役所の市民の意見を聞く窓口に、そういう手紙を出したり、直接出向いたり、メールを送ったりすればいいのだから。あるいは、こうやってブログなどを通じて、反対意見を述べることだってできるのだから。

ついでにいうと、私にとっての「人権教育(学習)」というのは、こういうときに、自分の意見をきちんと述べる力を育てたり、「何か、動いてみよう」という意欲を励ましたりする営みではないのかと思う。また、子どもの学校教育に関していえば、こういうときのための学力形成が「人権教育(学習)」が重要であり、その土台としての生活習慣の形成とか、「いっしょに動こう」という仲間づくり(集団づくり)が必要なのだろうと思う。さらに、社会教育・生涯学習の領域においても、成人学習において、こうした住民生活の向上と行政施策とのかかわりについて考える機会を設けたり、そこで自分たちのあり方をふりかえり、何かアクションを起こすことへとつながる学習を行ったりすることが必要なのではないかと思う。それこそ教育学の各領域で、例えば「主権者の育成」や「シティズンシップ教育の重要性」、あるいは「現代社会の諸課題に取り組む社会教育・生涯学習の充実」などと言ってきた人々は、今こそ、大阪市内の各地区に出入りして、地区内施設統廃合に疑問を感じている地元住民とともに動けばどうか、といいたい。「そこに、あなたたちの研究課題があるじゃないか?」と思うのである。

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3つの筋道と「担い手」養成の課題

2009-05-26 19:45:09 | 受験・学校

このところ、いわゆる「新自由主義」的な発想で行われる地方自治体の行財政改革のなかで、どのようにして教育や福祉などの子ども施策を守る取り組みを行っていくのか、ということに、私は関心をもち続けてきました。

あるいは、経済的な格差(露骨に言えば「社会的不平等」)が拡大しつつある最近の社会情勢のなかで、このところ、「財政再建」等を理由に地方自治体が行財政改革を進め、子どもや子育て中の家庭に対するさまざまな行政施策によるセーフティネットをはずそうとしているわけですが、このような状況に対して、どのような「適応」と「抵抗」のかたちがあるのか。そういうことに関心をもち続けてきた、といってよいでしょう。

ちなみに、ここで「適応」と「抵抗」というのには理由があって、はっきりいってよくない情勢ではありますが、この情勢のどこかに自分たちがまず根付き、その取り組みをしっかりと位置付けなければ(=すなわち「適応」しなければ)、次々に子ども施策などが打ち切られていくスピードに飲み込まれ、自分たちが先につぶれてしまいかねないということ。しかし同時に、いつまでもその情勢を前に何もしないでいると、ますます、今後の子ども施策や、さらには子どもや子育て中の家庭の生活が悪くなる。だから、何らかの形で「抵抗」して、この情勢を少しずついい方向にずらしていく必要がある。そんな風に思ったからです。

そういう関心をもち続けるなかで、最近、「この情勢への『適応』と『抵抗』のかたちには、大きく3つくらいの筋道があるのかな?」と思えてきました。それはだいたい、次のとおりです。

1つめの筋道。予算の枠は狭まったり、経済的支援の方法は変更されたりしていても、まだ何らかの形で地方自治体の子ども施策の枠内で、子どもや子育て中の家庭へのセーフティネットが張られている部分があるから、そこを有効活用する。あるいは、別の目的でおりてくる予算や施策をうまく活用して、子どもや子育て中の家庭に必要な取り組みに現場レベルで作り変えてしまう、というもの。例えば、各校区に「学力向上」という目的でついた予算を、「学力向上のためにこそ、子どもたちが放課後に集まって、自主的に勉強する場を地域社会につくる必要がある」とか、「生活習慣の乱れをおさえて、学習習慣の形成を目指す」いう理由をつけて、その予算の目的に合致する範囲で、子どもの居場所づくりとそこでの指導ボランティアの活動費につかうとか。あるいは、現場にいる指導者のアイデアで、今、小学校の余裕教室などを使って行われている放課後の子どもたちの活動を工夫していくとか。

2つめの筋道。これからの行政施策は「あてにならない」とわりきって、例えば自分たちで何か、必要な取り組みを組織してしまうとか、お互いにお互いを支えあうネットワークを形成してしまう。例えば、子どもの体験活動や子育てを支援するNPO団体を立ち上げてみたり、そのNPO団体に企業からの助成金をとってくるとか。あるいは、自分たちで何か商売をはじめて、その収益を子どもの活動に役立てるとか。はてまた、「生活協同組合」とか「互助会」のような組織をつくってしまうとか。青館条例廃止後の大阪市内各地区で、例えば学童保育や学習の遅れのある子どもへの補習教室のようなことを、保護者と地元住民が主体となった教育NPOのようなかたちではじめるのも、こうした取り組みのひとつになるでしょう。

3つめの筋道。あらためて、子どもや子育て中の家庭に必要なセーフティネットのあり方を構想し、それを施策として実施するよう、要求運動を組織して地方自治体行政にもとめていく。あるいは、今、まさに廃止されたり、縮小されようとしている施策に対して、その動向に対する反対運動を組織して、地方自治体行政に働きかける。例えば、大阪市内で今、すすめられようとしているもと青少年会館・人権文化センター・高齢者施設の3施設統廃合反対の取り組みは、この3つめの筋道での取り組みになるでしょう。あるいは、青館条例廃止後の大阪市内の各地区に研究者が入り込んで実態調査を行い、地元住民や保護者などとともに、今後必要と思われる子ども施策のあり方などを議論して、政策提言にまとめていく。これも、3つめの筋道での取り組みですね。

この3つの取り組みは、お互いにお互いを否定するものではありません。むしろ、たとえば今ある子ども施策の有効活用や、教育NPOへの支援施策の充実について、実態調査をふまえて提案するとか。あるいは、自前の教育NPOでとりくめない範囲については、行政施策の充実を求めていくとか。はてまた、既存の子ども関連の行政施策の一部を教育NPOが担うとか。こんなかたちで、お互いにお互いをリンクさせながら、相乗効果を発揮するように取り組みを行うことも可能です。

ただ、この3つの筋道のいずれも、その取り組みの「担い手」をどう見つけ、育てていくかが重要です。「担い手」がいなければ、どの筋道もはじまりませんし、その「担い手」がどのような問題意識に沿って、何を、どう展開するかによって、「適応」と「抵抗」のかたちは変わってきます。

個人的には、この情勢への「適応」ばかりを優先する「担い手」では、「先細り」になるのではないかという危惧があります。とりわけ、1つめの筋道での取り組みについては、行財政改革の進展によって、子どもや子育て中家庭に対するセーフティネットそのものが縮小されようとする情勢なのですから、その「先細り」する施策に「適応」すること最優先の対応では、現状維持は努力しだいで可能であっても、「その先」は見えてきません。だから、1つめの筋道での取り組みの拡大と、それにふさわしい「担い手」の養成からは、あまり明るい展望が開けてこないだろうな、と私は思います。

そうなると、1つめの筋道の拡大よりも、2つめの筋道や3つめの筋道からの取り組みを拡大していくことと、それにふさわしい「担い手」の養成を行うことが必要になってきます。しかし、これもいきなり、「無から有を生み出す」ことはむずかしいでしょう。今ある施策を有効活用する(=1つめの筋道)なかで、2つめの筋道や3つめの筋道からの取り組みを担いうる人材を養成するとか。あるいは、既存の社会運動のなかで形成された人的ネットワークだとか、活動のノウハウなどの「良質の資源」を有効活用して、そこで新たな人を育てて、新たな情勢に適応できるような社会運動に組みなおすとか。そんな取り組みが必要不可欠ではないかな、という気がします。

いずれにせよ、今こそ、ほんとうに子どもや子育て中家庭へのセーフティネットの充実だとか、地方自治体レベルでの子ども施策の充実を目指す取り組みが必要なのであれば、そのことに取り組みうる「担い手」の養成が必要不可欠です。子どもの人権関係の運動や、解放運動などが、自分たちの運動の「担い手」養成の課題にどれだけ真剣に取り組むか。そこがますます、重要になってきているように思います。

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施設統廃合反対の取り組み

2009-05-23 15:10:08 | 国際・政治

先日、用事があって大阪市内の某人権文化センターに行ったら、「私たち利用者の『居場所』をなくさないで! 一方的な『廃館』決定に断固抗議します。」という表題の署名用紙が置いてありました。これは「人権文化センター・青少年会館・老人福祉センターを利用する市民の会」が行っているもので、その署名に際しての要望事項は、次の3点です。以下、そのまま引用しておきます。

(1)2007年度末に「青少年会館」「老人福祉センター」の両条例が廃止されました。この1年間利用してきた私たちにとって、両施設は今も地域の居場所です。それを「施設統合」といって、十分な説明もなく一方的に「廃館」とすることに断固抗議します。両施設を有効に活用できるように条件整備を行ってください。

(2)「老人福祉センター」「青少年会館」を利用している市民・グループの活動に支障をきたすことがないよう、必要な施設整備の充実と条件整備を行ってください。

(3)「人権文化センター」で取り組まれている相談活動は、様々な困難を抱えた市民の自立を促すことを支援するためには、継続的な働きかけが必要不可欠です。相談を希望する市民の利益をしっかりと担保・保障することができるように必要な条件整備を行ってください。

個人的には表現上の好みで、要望内容のことばをもう少し手なおししたいところはありますが、でも、(1)~(3)で訴えている趣旨には、まったく異論ありません。

また、少なくとも現在、私の知りえている範囲や私の個人的な経験からいえば、今の人権文化センターやもと青少年会館には、いわゆる地区内の利用者だけでなく、地区外からも利用している人々が一定の割合で存在しています。

というか、今ももと青少年会館で活動中の人々と話を聴いていると時々出てくるのですが、2007年3月末の条例廃止によって、夏休み中の青少年会館でのプール開放がなくなりました。そのことによって、今まで地区外から子どもをプールに行かせていた人たちが困っているとか。また、私には、例えば青少年会館の各種学習会や体験活動、館まつりのような地区内外の子どもたちが多数参加する行事もなくなったことで、かえって地区外の子どもが学校外で参加できるような学習活動、イベント等も減っている感もあります。

それに、もと青少年会館の施設を使って、今、いろんな人たちがさまざまなサークル活動を続けていますが、施設統廃合でその活動すらできないようにしてしまえば、各地区内に遊休施設をますます増やすだけでしょう。そうなれば、ますます、各地区のコミュニティ形成がしづらくなるだろうし、街がますます、さびれていくのではないでしょうか。そういうことを、大阪市役所も市議会も、容認するのでしょうか? 

だから、統廃合後の施設の使い方についての説明や、各地区の今後のコミュニティ形成について行政と住民とが話し合う機会などが何もないのに、ただ「ここをとじます」とだけいうのであれば、行政当局はいったい、住民生活の何に責任を負うのでしょうか? また、そういう行政当局のあり方を容認する地方議会もまた、問題が多いのではないでしょうか。

要するに、今ある施設の統廃合によって不利益を被るのは、現在の各施設の利用者だけでなく、地区内外から各施設の取り組みなどに参加したり、各施設を何らかの形で利用する可能性のある人々「すべて」なのです。そのことを意識して、今の大阪市役所も市議会も、この施設統廃合について動いているのでしょうか?

今ここで、地区内外から数多くの市民の声が集まって「施設をなくすな!」と言っていかないと、例えば「あれは、利用者だけのことだから」とか、「あれはあの地区の人たちの問題だから」とか言って「自分に関係ない」と思っているあいだに、大阪市内で次々に、利用率低迷だとか財政上の問題等々の理由をつけて、今後も次々に市民が利用可能な施設が閉じられていくことにだってつながりかねません。

そのことをふまえて、現在の各施設の利用者はもちろんのこと、地区内の多くの住民と、地区外のさまざまな人々から、「この施設をなくすな!」という声があがることを願ってやみません。もちろん、何かお手伝いできることがあれば、私もできることをさせていただきます。

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古い文献を読み直そう(その2) 昨日の続き

2009-05-18 19:44:16 | いま・むかし

昨日あたりから大きな騒ぎになっている新型インフルエンザ。大阪市内の学校園・保育所ももちろん、臨時休校(園・所)になっていることと思うし、大阪府内も同様の対応がとられていると思う。

ただ気になるのは、こういうときに例えば放課後いきいき事業に通っていた小学生だとか、あるいは、今までだと青少年会館での学童保育的事業に通っていた子どもたちが、自宅待機させられるなかで、どんな風にすごしているのかということ。また、保育所や幼稚園に子どもを通わせていた保護者たちも、どんな風に過ごすのだろうか? 感染拡大防止という理由はよくわかるのだけど、子どもや保護者たちの生活がこの臨時休校(園・所)でどうなったのか、たいへん気がかりなところである。

さて、昨日、このブログで書きかけたのだが、なぜかパソコンの不具合で消えてしまったことを、あらためてここで書いておきたい。

先日、このブログでは、最近の解放運動関係の雑誌に掲載された論文や記事などを手がかりにして、いくつか、今の解放教育・人権教育に関する議論の位置付けについて、私なりの問題意識(というか、気がかりなこと)を示しておいた。

そのこととも関わるのだが、今後、しばらくの間は、「古い解放教育系の文献」を読み直してみて、今の解放教育や人権教育に関する議論のあり方について、私なりの問題意識(というか、今度も気がかりなこと)を示そうと思う。

例えば、これは昨日も書いたのだが、今、私の手元には1977年に明治図書から出版された『講座解放教育1 解放運動と解放教育』という本がある。これは「講座」と名がつくとおり、5巻のシリーズ本。5冊をひととおり読めば、1970年代後半の時点での解放教育の理論や政策提案、実践論などの概要がわかることになる。

この1巻目が『講座解放教育1 解放運動と解放教育』なのだが、目次を見たらすぐにわかるのが、第一部~第四部とあるなかの第二部が「解放を目指す子どもの自主的活動」で、このなかにある4つの章が、例えば解放子ども会や高校生の活動など、解放運動と子どもたちの自主的活動の関係についての話を扱っているのである。まぁ、この話も昨日、このブログで書いたことに重複するが・・・・。

むしろ、この本では、例えば教育内容のことなど、学校における解放教育の話は、解放子ども会などの取り組みと比べると、まだまだ比重が小さい。あるいは、この本に即していえば、学校の教育内容のことよりは、例えば長欠・不就学問題や教科書無償、教育権保障のあり方や学校の教育条件整備の問題、解放保育、学校外の子ども会活動、解放学級を通じた成人の学習(ここには識字も含まれる)といった課題について、いろんな切り口から議論を試みていたといってよい。

いわば、この本から見えてくるのは、少なくとも1970年代の解放教育にとっては、子どもの時期からはじまる地域社会における学習活動、自主的な活動は、成人になってから後も解放運動との関係で続けられるべき、重要な取り組みであった、ということである。あるいは、少なくとも1970年代の議論においては、学校教育と並び立つ「もうひとつの柱」として、社会教育における解放教育の取り組みが位置づいていた、ということになる。

実は、大阪府内や大阪市内の青少年会館事業や、あるいは解放子ども会の取り組みというのは、こうした当時、解放運動の側から提起された教育計画の中身と密接な関係にあったのではないだろうか。そのことを、今の解放教育や人権教育の関係者が、どれだけ意識できているのだろうか・・・・。このことを意識できているかどうかで、この何年かの「施策見直し」の動向だとか、大阪市内の青館条例廃止などの動きに対して、少なくとも研究者が立つべきスタンスが決まってくると思うのだが・・・・。

学校教育と並び立つ「もうひとつの柱」としての社会教育、その重要な取り組みが子どもの時期からはじまるということ・・・・。そのことの意義を、もう一度、解放教育に関する古い文献を読み直す作業のなかから、今後は拾い上げていきたい。

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古い文献を読み直そう(その1) 子ども会は「もうひとつの柱」

2009-05-17 21:35:43 | いま・むかし

久しぶりのこちらのブログの更新になる。これまでは最近の解放運動関係の雑誌記事へのコメントだったが、今度は今から30年以上昔の解放教育関係の文献の引用から、記事を書き始めることにしたい。まずは、次の文章を見てほしい。(色の変わった部分が、引用部分である。)

解放教育の態勢は、先にも述べた。就学前の子どもたちを保育所で「皆保育」し、その上に小・中・高・大学という公教育を保障し、これを一本の柱とし、さらに別の柱として「子ども会低学年部」にはじまる校外における自治集団の育成を目指している。

わが国の労働者階級をはじめとする勤労人民の側の子どもたちの大部分は、都市・農村を問わず遊びを奪われ、遊び場を奪われ、学校と家庭をいききして、放課後はほとんどテレビにかじりつくか、塾か習い事に通って、そこでかろうじて友人に会う機会をもつような状態に追い込まれてしまっている。これではたくましい働く人間を育てることはできない。学校は主として体育・知育・美育・徳育・生産技術の基礎教育などの基本的なことがらを系統的に整理して教える場所でなければならない。子どもたちの自治的・創造的活動は、学校外の自治的集団によって育てられ、それらが相互に浸透しながら、子どもを全面的に育て上げていくことが必要なのである。

解放の目的意識が高揚したたたかいの場面では、常に子ども会が組織され、子どもたちは自治的・集団的な規律を創造しながら親集団の指導に従いつつ、しかも独自のたたかいを展開したのである。この経験は、子ども会にすでに十分にたくわえられている。(後略)

※以上は、鈴木祥蔵「解放教育の現状と構想」『講座解放教育1 解放運動と解放教育』第三部第四章、明治図書、1977年、p.217~218。

「こんな文章、知らんわ!」という人や、「何を今頃、古臭い話を持ち出してるねん?」という人も、きっといるだろうと思う。もちろん、この文章が書かれたときは私だって小学生。これを読んだのは、つい最近のことである。

だが、この文章を読んでもらえればわかると思うが、そもそも解放教育のはじまりの頃には、学校教育という一本の柱とは別に、「子どもの学校外の自治的集団形成」という観点から、解放子ども会をもう一本の柱とする構想があったということ。つまり、青少年の学校外活動や社会教育の果たす役割が、その出発点の時点では、解放教育のなかでは重要視されていたということではなかろうか。ちなみに、先に引用した章ではあまり取り上げられていないが、『講座解放教育1』の別の章では、識字教室を含む成人の社会教育も、「解放学級」という名で位置付けられている。

また、解放子ども会の組織化や、そこでの集団活動の展開が、解放運動本体の取り組みとも連動していくべきであるし、実態としてもそうなってきたという認識が、この文章では示されているように思う。実際、『講座解放教育1』の第二部は、4つの章を使って、解放子ども会や高校生の活動、さらにそれらと教育闘争との関係などが論じられている。

むしろ、この『講座解放教育1』では、学校教育における解放教育の内容の話は、「これから創造するべき話」として、第三部の1つの章で触れられている程度である。もちろん、『講座解放教育3』では、一巻全部を使って、学校での教育内容のあり方を論じている。しかし、学校での教育内容を論じたのは、このシリーズ5巻本のなかの1巻でしかない。

もしも今、ほんとうに解放教育の取り組みをふまえた人権教育のあり方を構想するのであれば、実は、子どもの学校外活動、特に解放子ども会の取り組んできたことをきちんと位置付けなければいけないのではないか。また、その子ども会活動と連携するかたちで、青年層や成人層、高齢者層の学習活動も位置付けていく必要があるのではないだろうか。そうして、学校における人権教育という柱とは別に、地域社会における人権教育、つまり、社会教育・生涯学習の領域における人権教育のあり方を、もうひとつの柱として構想しなければ、ほんとうに解放教育の取り組みをふまえたものにはならないような気がするのだが・・・・。

今月からある場で、何人かの方のご協力を得ながら、大阪市の青少年会館条例廃止後の状況把握の取り組みとは別に、大阪府内や大阪市内での解放子ども会の歩んできた道筋をふりかえる研究プロジェクトを開始した。私にとって、解放子ども会の歩みをふりかえる試みというのは、以上のような文脈で、「解放教育のもうひとつの柱」を確認する営みでもあるし、「そこから、これから先の人権教育のもうひとつの柱を見出す」営みでもあると考えている。

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雑誌を読んでいて気づいたこと(その3)

2009-05-06 23:22:46 | 受験・学校

一応、これまで2回続けて書いてきたことをふまえて、雑誌『解放』の608号と610号の2冊を読んでいて気づいたことをまとめておきます。

要するにこの2回で何を私が言いたかったのかといいますと、解放運動を含む人権を守るためのこの日本社会のさまざまな運動のなかで、今の「学校教育」の領域での取り組みがどんな位置に立っているのか、そのことをそろそろ検討したほうがいいのではないのか、ということになります。

例えば他の領域での人権を守るための運動が、貧困と社会的不平等の是正に向けての取り組みに相当、力を入れ始めたり、あるいは、市民の立場から国家・自治体(政府)に対して何か積極的にアクションを起こそうと考え始めているときに、今の「学校教育」の領域での取り組みは、そのほかの領域での取り組みを側面から支えたり、あるいは、何らかの連携をとりうるものになっているのかどうか。

特に、学校教育の領域での「効果のある学校」や「学校を核にしたコミュニティづくり」、あるいは「学力向上」に向けてのさまざまな研究・実践、これが、「貧困と社会的不平等の是正」や「市民の立場から国家・自治体に積極的にアクションを起こす」というほかの領域での取り組みと、どんな関係に立っているのか。そこを、そろそろ検討したほうがいいのではないか、と思うのです。

すなわち、「学力向上」といっても、そこで身につけようとする「学力」は、「市民の立場から国家・時自体に積極的にアクションを起こす」ための力になりうるものなのかどうか。あるいは、「貧困と社会的不平等の是正」という取り組みに対して、「学校を核にしたコミュニティづくり」は、どれだけ役にたつものなのか。そして、「効果のある学校」というときの「効果」は、、「貧困と社会的不平等の是正」という面から見たときには妥当なものであっても、「市民の立場から国家・時自体に積極的にアクションを起こす」という面から見たら有効なのかどうか。

私としては今後、「人権を守るためのさまざまな運動の連携」ということを意識しつつ、こういったことを検討して、学校教育の領域での取り組みを、他の領域での取り組みと連携させて、相乗効果を発揮させていく必要があるのではないか・・・・と思うわけです。

行政施策のたてわりや、既存の運動の諸領域にに対応する議論の立て方ではなくて、今あるさまざまな運動に共通して目指すべき方向性や、あるいは、今ある運動が直面している課題の共通性から、既存の枠組みにとらわれず研究テーマや議論を立ち上げていくという道筋もあるのかな・・・・。そんなことをふと、雑誌2冊を読みながら思ってしまいました。これが、この3回の「まとめ」ですね。

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雑誌を読んでいて気づいたこと(その2)

2009-05-05 13:33:09 | 受験・学校

昨日の続きで、最近読んだ2冊の雑誌の中身から、気づいたことをまとめておこうと思います。ちなみに、その2冊の雑誌とは、『解放』の610号(増刊)「解放研究第42回全国集会報告」と、608号(増刊)「解放・人権入門2009」の2冊です。また、私が気づいたことというのは、主に解放運動にかかわる研究などにおいて、「学校教育」の領域で扱われたり論じられたりしていることが、他の領域でのそれと「ズレ」が生じ始めているのではないか、ということです。

さて、610号掲載の記念講演「地方財政の現状と私たちの取り組み」(澤井勝さん:奈良女子大学名誉教授)を読むと、この何年かの「三位一体改革」の進展のなかで、地方自治体の財政がだんだん苦しくなってきていることがわかります。また、この講演のなかで、自治体の「職員数削減はすでに限界に来ている、という認識が必要」とか、「非正規職員に正規化の道をつくる」こと、「都市としてどこに責任を持つか、ビルドの方向性を明示する」といった、財政再建に関連して行われる地方自治体の改革のあり方に対して、批判的なコメントも行われています。

ただ、今の地方自治体の改革のあり方を批判する一方で、澤井さんは「新しい公共性を担う市民をつくる」ことや、「みんなのために働く、みんなのために出資する、そういう市民として活躍する人を増やしていくこと」という提案もしています(610号、p.28)。また、澤井さんは、「みんなのために、こうあるべきだ」ということを議論して提案する「市民的公共性」、これを育むためのサロンやコーヒーハウス的なものの役割と、それを作ることの必要性も主張されています(同、p.28~29)。そして、澤井さんからは、「地域の相互扶助組織を再生する。自治会、町内会、子ども会の活性化を図る」ことや、「NPOをつくる」「各地域で、財政の問題を考えるグループをつくる」といったことも提案されています(同、p.29)。

こういった澤井さんの提案を読んで、私などは「これこそまさに、社会教育・生涯学習の課題じゃないの?」と言いたくなります。もちろん、私もこれまでの大阪市内や大阪府内の青少年会館にかかわる活動をしていて、澤井さんと似たような思いを抱くことも多々ありました。「子ども会の活性化」なんて、まさにそうですよね。また、「みんなのために働く、みんなのために出資する、そういう市民として活躍する人を増やしていくこと」の「下地」になる取り組みは、私としてはまさに「学校教育」の担うべきではないのかな、と思ってしまいます。

あるいは、608号の「自己の権利を学ぶことの意味」(阿久澤麻理子さん:兵庫県立大学)では、心情や思いやり、市民の相互理解のあり方に的を絞るような人権教育ではなく、「人権を実現するためには市民が国家や政府に対して訴えかけていくことも必要」(608号、p.191)という視点に立った人権教育のあり方について論じています。

「人権は重要な基準ですが、人権は市民が行動したり、政治的な現実をくぐったりしなければ実現しません。どのように私たちが行動できるのかということを学ばなければ、実現できないのです。」(同、p.192)

阿久澤さんはこのように述べておられるのですが、このことは、例えば「NPOをつくる」「各地域で財政の問題を考えるグループをつくる」「地域の相互扶助組織を再生する。自治会、町内会、子ども会の活性化を図る」といった、澤井さんの提案ともつながるところがあると思います。

こういう講演記録や報告などを読んでいて私が思うのは、これから人権を守る各地域での取り組みを活性化したり、今までの取り組みを方向転換して、新たな運動を創りだして行くためには、学校教育や社会教育・生涯学習の場などを通じて、新たな人々のつながりを生み出したり、今までとは異なる学習課題に取り組んだりすることが必要不可欠なのではないか、ということです。

では、今、学校教育の領域ですすめられている「学力」向上策や、「教育コミュニティ」形成のための取り組みが、はたして人権を守るための各地域の取り組みを活性化したり、新たな運動を創りだすための取り組みへとつながっているのでしょうか?

また、学校を核にした「教育コミュニティ」形成の取り組みが決してダメだという気はないのですが、その営みが、はたして「市民が国家や政府に対して訴えかけていくこと」のような営みにつながっていくのか、それとも、教育を含む行政当局の施策の「下支え」の営みにつながっていくのか。そこも気がかりなところです。

もっとも、行政当局の施策に市民にとって意味あるものが含まれているのであれば、それを「下支えする」のも意味があるところです。ですが、それ以前に、「行政当局の施策」のあり方を、市民が自らの目で点検したり、検証する機会をどのように確保すればいいのでしょうか?

こういった点で、解放運動をめぐって、学校教育以外の領域で論じられている諸課題と、学校教育の領域でのそれとが一度、どのような形でつながっているのかを、きちんと整理する必要があるのではないか・・・・と思った次第です。

今、熱心に活動をしている人の善意を否定する気はないのですが、でも、まじめに取り組んでいることの目指す方向性が、ほんとうに今、取り組まなければいけないことからズレはじめているのなら、やはり、軌道修正は必要なのではないか・・・・と思うのです。

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雑誌を読んでいて気づいたこと(その1)

2009-05-04 13:30:38 | 受験・学校

このブログなのですが、前回の更新からかなり時間がたってしまいました。新しい年度に入り、公私共に多忙で、なかなか、思うように記事を書く時間が取れなかったのが理由です。たいへん申し訳ありません。ですが、このブログを辞めようという気持ちはさらさらありませんし、発信したいメッセージは多々ありますので、どうぞご安心ください。(ただ、今回のように「まとまって文章を書く」ということが、今後は多々増えてくるだろうな・・・・とは思いますが、その点はどうぞご理解ください。)

さて、この連休を利用して、あるゼミの卒業生に会うことと自分の電車好きをかねて、西宮~名古屋間を阪神電車・近鉄電車で往復する(しかも、運賃以外に特急料金のかかる近鉄特急を使わず)ということをやってみました。往復で9時間もあれば、いろんな本や雑誌が読める・・・・ということで、雑誌『解放』の610号(増刊号)「解放研究第42回全国集会報告書」と、608号(増刊号)「解放・人権入門2009」を読んでみたのです。なにしろ、こういう時間を意図的につくらないと、いろんな雑誌をまとめて「読む」という機会もできないので・・・・。

久々に雑誌をまとめて読む時間をつくって、この2冊を読み、気づいたことがいくつかあります。それは、解放運動に関わる最近の研究や議論のなかで、「学校教育」に関するものの部分が、どうも他の諸領域で取り組まれていることと、方向性や取り組みの部分で、だんだん「ズレ」はじめているのではないか・・・・ということでです。それは前々から私はいろんな部分で感じていたのですが、今回、この2冊の雑誌を読んでいて、あらためてそのことに気づかされような次第です。

そこで、この連休を利用して、2冊の雑誌を読んでいて気づいたことを、何点かにまとめて語ってみます。今回はその一点目です。

まず、貧困、あるいは経済的な不平等(いわゆる「格差」というもの)の拡大に対して、解放運動に関わる最近の議論や研究でも、「社会的なセーフティネットの形成」ということに力を入れようとする傾向が、だんだん、具体的になってきています。その傾向をより強める必要性があることは私も全く同感で、「どんどん、やってください!」という風に思います。

また、実際に610号で掲載された「入門・時事」の分科会での報告「子どもの貧困とライフチャンスの不平等」(小西祐馬さん:長崎大学)や、特別報告「学力形成の社会的メカニズム」(耳塚寛明さん:お茶の水女子大学)などでも、こうした「子ども・若者の社会的なセーフティネットの形成」や、社会的に不利な状況にある家庭への支援といった課題が意識されているように思いました。

そして今は、「子どもや若者の社会的なセーフティネットの形成」という観点から、国や地方自治体のレベルで、あるいは民間団体なども巻き込んだレベルで、教育や福祉といった従来の行政施策の枠組みを越えた議論が必要な時期が来ているように思いますし、そんなことも書けるチャンスがあれば、できるだけ私、論文などで書いてきました。

ちなみに、私が今、教育と福祉の連携の試みとしての学校ソーシャルワーク(SSW)に注目するのもそういういきさつがあってのことです。また、貧困や差別、家庭環境の崩壊などの課題に直面する子ども・若者に対する社会的(公的)支援の試みとして、大阪府内や大阪市内での青少年会館の取り組みに注目してきたこと、さらに、その青少年会館の「前史」としての解放子ども会の取り組みに注目しているのも、こうした最近の社会情勢とも関連しています。

さて、そういう私だから感じるのかもしれませんが、610号を読んでいて、ふと思ったことがあります。それは、本当は「社会保障・福祉」の分科会で報告された「母子世帯の自立支援・就労の課題」というのは、母親側だけでなく、子ども側にも焦点を合わせた場合、「教育」の分科会でも話し合われなければいけない課題なのではないか、ということです。

なにしろ、「社会保障・福祉」の分科会では、母子世帯の子育て上の課題として、「教育面については、機会の平等が保障されていない。生活の不安定さが子どもの勉強にも表れている。今回の調査でも、学習塾への通塾は大きな差があった。教育費がかけられない。進学期待も低い。小学校段階ではまだ『大学まで行かせたい』が三割ほどあるが、中学校段階では10ポイントほど減っている。実際に、子どもの最終学歴でも大きな格差が認められた」(610号、p.222)と報告されているわけです。

このような課題は、「社会保障・福祉」の分科会とともに「学校教育」の分科会でも議論をして、教育・福祉の両面にまたがる複合的な施策や実践としてとりくまなければならない課題ではないのでしょうか? どう読んでも、上の引用の部分で指摘されていることは、子どもの教育の課題と、母子家庭支援という社会保障・福祉の課題の「重なり」の話です。

私は決して、610号の「学校教育」の分科会でとり上げられていた「力のある学校」研究がいらないとも思わないですし(むしろ、こうした生活困難層の家庭の子どもを支える学校の研究としては、貴重なものだと思っている)、学校や家庭・地域社会の連携の取り組みや、そのなかでの「学力」向上策の検討も、不要だという気はありません。そして、「学校教育」の領域で何か、今の子どもたちが抱えている諸課題に対して、積極的に働き掛けていくことの必要性や、それによって何かが変わりうる可能性についても、期待している者のひとりです。

でも、そもそも「学校教育」の領域で自分たちが日々、出会っている子どもや若者たち。特に、何らかの生活困難な課題を示す子どもや若者たちが、いったい、どのような社会情勢のなかで生み出されているのか。また、どのような社会情勢に直面し、学校卒業後、そこへ送り出されていくのか・・・・。今は、こういった「学校教育」の領域での取り組みの「前提」にある社会情勢について、きちんとした議論をして、「社会保障・福祉」の領域での取り組みとの相互関係などを、きちんと確認していく必要があるのではないでしょうか。でなければ、「学校教育」での取り組みが、「社会保障・福祉」などの他領域での取り組みとつながって、相乗効果を発揮するのではなく、他領域と切れた、閉じられた営みになってしまうような気がするのです。

これがまず、2つの雑誌を読んでいて、気づいたことの1点目です。他にもいろいろあるのですが、あす以降も引き続き、書いていこうと思います。今日はまず、このあたりで失礼します。

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