http://www.kobe-np.co.jp/news/shakai/201501/0007681245.shtml
先週の金曜日、2007年に兵庫県の龍野市の高校で起きたテニス部員の熱中症事故について、原告勝訴の大阪高裁判決が出ました。
詳細は神戸新聞NEXTの記事をご参照ください。
事故被害にあった女性は今も重い後遺症を抱え、ご家族の介護なしには暮らしていけない状況にあります。
このような状況にある原告に対して、兵庫県教委が最高裁への上告を行いますと、原告のご苦労はますます増すことになります。
一日も早く裁判を終結させ、速やかに日常生活への支援体制を組むべく、別添(画像)の要請書をファックスにて兵庫県教委に送っていただける方を募っています。
お手数をおかけいたしますが、よろしくお願いします。
なお、この件にかかわって2点、あらためて私が思ったことがあります。
1点目は、上記のとおり、大阪高裁訴訟で勝訴して多額の賠償金が支払われたとしても、このご家族は重い後遺症に苦しむ被害者を抱えながら、これから先、ずっと暮らしていくことになります。こういうご家族と被害当事者の両方をきちんとサポートしていく公的なしくみと、息の長い実践が必要です。
私の方からも文科省に対して、「こういう重い後遺症に苦しむ被害当事者とご家族に対して、どういう支援をするんだ?」という話をしていこうと思います。と同時に、このブログを見ている福祉系の方や障害のある方の人権の課題に取り組んでいる方、いいアイデアをください。そして、何かアクションを起こしてください。よろしくお願いします。
2点目は、こういうことを書いていて、今朝、あらためて自分自身で気づいたのは、私は学校での事故・事件防止にもそれ相応に関心は持っていますが、それと同等か、それ以上に「事故・事件の被害当事者及び家族・遺族の救済、権利擁護、支援のあり方」に関心が強いのだ、ということですね。で、実はこの点への関心の有無や強弱が、他の学校事故・事件の問題にかかわる研究者や諸領域の専門家と私との分岐点なのかもしれません。
まあ、それは要するに「自分に何ができるかわからないけど、とにかくその時々の自分にできる範囲で被害当事者やその家族・遺族とかかわって、失敗も成功も、喜びも悲しみも、笑顔も涙も含めて、まるごと引き受ける覚悟」を決めたかどうか、ということですが。
しかし、既存の学問領域での「成功」だとか、専門家や研究者の間などでの「相場感覚」みたいなものにこだわり続けていると、こんな覚悟はなかなか、出ないんじゃないかな。特に、今の大学を取り巻く「業績主義」的な研究環境では、こんな覚悟決めてとことんまで活動するのは、かえって不利かもしれません。なにしろ、こういうことやっているよりも、学会で評価されるような論文を1本書いているほうが、今の枠組みでは職にありつけたり学位とれたりして、有利かもしれないですから。
先週の金曜日、2007年に兵庫県の龍野市の高校で起きたテニス部員の熱中症事故について、原告勝訴の大阪高裁判決が出ました。
詳細は神戸新聞NEXTの記事をご参照ください。
事故被害にあった女性は今も重い後遺症を抱え、ご家族の介護なしには暮らしていけない状況にあります。
このような状況にある原告に対して、兵庫県教委が最高裁への上告を行いますと、原告のご苦労はますます増すことになります。
一日も早く裁判を終結させ、速やかに日常生活への支援体制を組むべく、別添(画像)の要請書をファックスにて兵庫県教委に送っていただける方を募っています。
お手数をおかけいたしますが、よろしくお願いします。
なお、この件にかかわって2点、あらためて私が思ったことがあります。
1点目は、上記のとおり、大阪高裁訴訟で勝訴して多額の賠償金が支払われたとしても、このご家族は重い後遺症に苦しむ被害者を抱えながら、これから先、ずっと暮らしていくことになります。こういうご家族と被害当事者の両方をきちんとサポートしていく公的なしくみと、息の長い実践が必要です。
私の方からも文科省に対して、「こういう重い後遺症に苦しむ被害当事者とご家族に対して、どういう支援をするんだ?」という話をしていこうと思います。と同時に、このブログを見ている福祉系の方や障害のある方の人権の課題に取り組んでいる方、いいアイデアをください。そして、何かアクションを起こしてください。よろしくお願いします。
2点目は、こういうことを書いていて、今朝、あらためて自分自身で気づいたのは、私は学校での事故・事件防止にもそれ相応に関心は持っていますが、それと同等か、それ以上に「事故・事件の被害当事者及び家族・遺族の救済、権利擁護、支援のあり方」に関心が強いのだ、ということですね。で、実はこの点への関心の有無や強弱が、他の学校事故・事件の問題にかかわる研究者や諸領域の専門家と私との分岐点なのかもしれません。
まあ、それは要するに「自分に何ができるかわからないけど、とにかくその時々の自分にできる範囲で被害当事者やその家族・遺族とかかわって、失敗も成功も、喜びも悲しみも、笑顔も涙も含めて、まるごと引き受ける覚悟」を決めたかどうか、ということですが。
しかし、既存の学問領域での「成功」だとか、専門家や研究者の間などでの「相場感覚」みたいなものにこだわり続けていると、こんな覚悟はなかなか、出ないんじゃないかな。特に、今の大学を取り巻く「業績主義」的な研究環境では、こんな覚悟決めてとことんまで活動するのは、かえって不利かもしれません。なにしろ、こういうことやっているよりも、学会で評価されるような論文を1本書いているほうが、今の枠組みでは職にありつけたり学位とれたりして、有利かもしれないですから。