できることを、できる人が、できるかたちで

京都精華大学人文学部・住友剛のブログ。
関西圏に関することを中心に、教育や子ども・若者に関する情報発信を主に行います。

「泥をかぶる」ことのできる政党は今、あるのか?

2010-05-29 20:52:19 | ニュース

例の普天間基地問題への対応で、鳩山連立政権がとうとう、福島社民党党首・少子化担当大臣を「罷免」という形で切りました。

今日あたりのインターネット上のニュースなどによると、それでも鳩山政権側は社民党に「連立維持」を呼びかけているのですが、それに社民党が応じる可能性はほとんど起きないでしょう。このような仕打ちをしてもなお、社民党に「連立維持を」と呼びかける側のほうが、正直なところ、私にしてみれば「どうかしてるんじゃない?」としか思えないですが・・・・。

このところの一連の普天間基地問題について言うならば、それが実現する可能性がどの程度あるかという問題は別として、「米軍基地を県外に出してくれ」という沖縄県民の願いをふまえての社民党の動きには一応、スジが通っています。

これからの日本の政界には、選挙目当てや政権維持目当てで自らの主張をそのときの情勢次第で変えるのではなく、たとえ議席数は少数でも、一貫して「ある立場の人々の側に立ってものをいう」という政党がひとつやふたつ、あってしかるべきだろうと思います。

今後も徹底して沖縄県民の声など、国会内で忘れ去られたり無視されたりしている人々の声を届ける政党として社民党が動けるかどうかが問われるでしょうし、私はそこに今後の社民党の可能性を見たいと思っています。もちろん、そのためには、時には今回の普天間基地問題のように、あれこれ住民サイドにたって汗をかいて動くがゆえの挫折や、「泥をかぶる」「地をはう」ような苦労をすることも出てくるのでしょうけど・・・・。

また、いっそこの際、「人権」と「平和」を大事にすることをかかげて国会に議席を持っている各政党の方、社民党に移籍したらどうでしょうか? そうしたほうが、よほど政界内での論点整理がやりやすくなる面もあるのではないでしょうか?

あるいは、ツイッターあたりから入ってくる情報によると、民主党内にも、在沖米軍のマリアナ諸島(グアム・サイパン)への移転を検討した人々がいたようです。こういった人々の動きを見ていると、「できれば国外・最低でも県外」といい続けてきた鳩山政権の対応の迷走ぶりが、やっぱり際立ってしまいます。せめて民主党、特に鳩山首相の側が「海兵隊はいったん、マリアナ諸島へ帰ってくれ」という話を自らの「腹案」として、一度でもオープンに語っていれば、もうちょっと、今の議論の流れは変わっていたかもしれません。

それと、どうしてこの際、鳩山首相は「5月末決着」という目標時期設定自体が間違っていたことのほうを陳謝して、「あらためて長期間、本腰入れてアメリカ政府側と交渉して、なんとか移転先を最低県外、できれば国外に持っていくようにしたい」といわなかったのでしょうか・・・・。これだと、連立政権が当面維持できるでしょうし、ひとまず相手側と議論を継続いる間に、移転先や負担軽減策について、いろんな方向性を模索することも可能だったのではないでしょうか? たぶん、今後、社民党が連立政権に復帰するのは、こういう道を民主党がのんだときだけだろうと思います。

ちなみにこの間、共産党や公明党は、どこで何をしていたのでしょうか? 国民新党も、ある時期まではこの普天間基地問題で幹部が動いていた様子が見えましたが、途中から何か、動きが見えなくなりましたね。この3党、何がしたかったんでしょうね? 特に共産党と公明党には、「本気で平和の実現に取り組む気あるなら、こういうときに社民党みたいに汗かけよ、泥かぶれよ」「そういう本気で動いている姿、見せろよ」といいたくなります。

それと、自民党から分裂して出て行った人たちだとか、目立ちたがりの自治体首長らのつくったミニ新党も、この問題については目立ちませんでしたね。いったい、この人たちも何がしたかったんでしょうね? 「公務員削減」だけしか目立った政策的な主張がないのなら、今の鳩山政権だってそれ、やろうとしているわけですから、「そんなミニ新党、いらない」といわれるのがオチです。

あと自民党。これから民主党に、自民党の主だった政治家がマスメディアに出て、「それ見たことか」とばかりの批判をするのでしょう。だけど、「では自民党は、政権が続いている間にどれだけの負担軽減策を打ち出せたのか?」「自民党はどれだけこの間、県外移設に向けて、沖縄県民の声を聴いて、汗かいたの? 泥かぶったの?」と問われたときに、どう応答するのでしょうか?

そんなわけで、個人的にはこの普天間基地問題に関して、社民党に対しても民主党に対しても、それ以外のどの政党の立場からも、きちんとした批判はできないだろうと思っています。なにしろ、結果的にここでいろんな情勢を踏まえ、従来案に「妥協」する結果になったけど、民主党も一応、沖縄県民の声を聴いて基地問題をなんとかしようという「努力」はしたわけですからね。そういう意味では、社民党とは別の形で、民主党も「泥をかぶる」努力はしたのですから。ただ、「どうせやるなら、もっと徹底的にやれ!」といいたいわけですが・・・・。

このようなことから、私としては、それぞれの各地域の住民の声を聴いて、その願いの実現のために汗をかき、泥にまみれ、地をはうような努力をしている政党。また、たとえ国政や地方政界で一時的に争いに敗れるようなことがあったとしても、そのたたかい方に潔さがあったり、自らの主義・主張を貫いて、「いい負けっぷりのできる」政党。それが今は一番、私にとっては信頼できるように思います。

そして、これからの日本社会に必要なのは、ほんとうに国民の生活向上、国民の幸福実現のために、「泥をかぶる」覚悟のある政治家で構成された政党。別に二世でもタレント出身でも元議員秘書でもいいけれども、テレビなどでのいさましいパフォーマンスに長けたり、評論家的に高みにたって社会や行政を批判してものを言う政治家ではなく、自分の支持者との「信義」「信頼関係」を大事にして、地味な活動でもこつこつ動くことのできる政治家で構成された政党。そして、自らの手柄や成功話ばかりするのではなく、たとえば何かあたらな政策実現に失敗した場合は、その挫折の経過もきちんと国民に説明できる誠実さを持った政治家で構成された政党。

そういう政党が、今後の選挙の結果を通じて形成されることを、私としては願っています。

ちなみに、子どもの人権に関することも、人権教育に関することも、こういう政治のあり方の転換と深く結びつけながら議論するのでないと、あまり大きな力にはならないような気がしています。本気で「子どもの人権」を大事にする社会の実現を目指したり、人権教育を大事にする学校などを創ろうとするのであれば、わが身を安全地帯において研究だけしていればいい、なんて話にはならないだろうと思うので。

それこそ、大阪市内の青少年会館条例が廃止されようとするときに、関西圏の「子どもの人権」や「人権教育」に関する研究をしている人たちで、いったい、どのくらいの数が発言したのか。あるいは、橋下知事が就任して以来の一連の「改革」という名の人権施策や子ども施策の「リストラ」のなかで、どのくらいの研究者が発言したのか。その数を思うとき、あらためて「みんな、もっと泥をかぶれよ。こういうときのために、学問の自由や思想・良心の自由、言論の自由はあるんじゃないか?」と、私などは思ってしまいます。

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時間がないなか、言いたいことがたまる一方(2)

2010-05-26 19:02:58 | 受験・学校

アクセス2万回は達成したというものの、あいかわらず本業やいろんな活動に追われて、なかなかこちらのブログの更新にまで手がまわらず、悪戦苦闘の連続です。

そんななかでも、今の子どもの教育や福祉、あるいは子どもの人権に関する取り組みについては、自分なりにいろいろと言いたいことが次々に出てきますね。

たとえば先日、公教育計画学会の大会に出席してきました。そこで直接話を聞いたわけではないのですが、研究発表の要旨集を見ていると、イギリス社会における学校の「拡張サービス」に関する報告の要旨がありました。

この「拡張サービス」とは、ブレア政権以来、イギリス社会において学校を入り口にして、社会教育・児童福祉的な諸サービスの提供が行われているというもの。たとえば、学習サポート、親へのサポート、朝食クラブ、工作や音楽、演劇などのクラブを提供するといったもののようで、こうしたサービスを年間48週(休業中も含む)、朝8時~夕方6時まで受けられるようにしているそうです。

で、正直言って思ったのですが、「これに近いことは、日本の学校はすでにやってるのでは?」ということ。たとえば中学校の放課後のいわゆる「部活動」だとか、大阪市内の小学校で行っている「放課後いきいき事業」。あれってこの「拡張サービス」ですよね。あるいは最近、私の知る限り、大阪府内の小学校のなかには放課後や長期休暇中に子どもたちを集めて、宿題の面倒をみる活動をボランティアの協力を得て進めているところもあるとか。これなども、「拡張サービス」といってもいいかもしれませんよね。そう考えると、「まだ、やっていない」というのは、朝食を子どもたちに提供するような活動くらいでしょうか。

イギリスが日本に学んでいるのか、それとも日本がイギリスをまねているのか。それはよくわかりません。ですが、こういう例を見ていると、ある種「新自由主義」的な発想にもとづく教育改革の進んだところで、学校に子どもの教育や福祉に関するあらゆるサービスを集中させていく傾向が進んでいる、という見方もできなくはないですね。

ただ、そのうえで私は思うのですが、「なんでもかんでも学校に子どもに関するサービスを集中させて、いいのだろうか?」ということ。どうしても不登校の子どもたちへの支援を研究・実践面での課題にしてきた私にしてみると、「学校に行けば何もかも得られるけど、そこからドロップアウトしたらすべてを失う」というようなシステムは、個々の子どもにとって「かなり、リスクが高い」ようにも思うのです。何らかの事情で学校に行けない、行きづらい状態になれば、子どもたちにとっては「必要な支援が何も受けられない」ということにもなりかねないからです。

そう考えると、一方で学校に集う子どもたちの現状から発想して、さまざまな福祉サービス等々を学校に付け加えていくことをしつつも、もう一方で、「学校からドロップアウトしそうな子ども、すでにそうなってしまった子どもの教育・福祉的ニーズをキャッチし、支援するシステム」を構築する必要があるようにも思うのです。それこそが、子どもの生活支援という面で、セーフティーネットの機能をはたすものになるのではないか、とすら思ってしまいます。

だから、学校にさまざまな機能・サービスを付加していく議論を「やめろ」とまでは思いませんが(現実的に必要なことも多々ありますので)、その一方で、「子どもの生活支援に関するセーフティーネットの構築」についても、徹底した議論が必要なのではないか・・・・と思う今日この頃です。

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アクセス2万回達成、ありがとうございます。

2010-05-24 17:23:56 | 学問

先ほどこのブログのアクセス回数をチェックしたら、今朝の時点で2万回アクセスを達成していたことがわかりました。2006年9月のこのブログ開設以来、アクセスしてくださったみなさんに、あらためて「ありがとうございます」と、お礼の気持ちを述べさせていただきます。

それから、昨日・おとといと、東京の専修大学神田学舎で行われた公教育計画学会の第二回大会に参加してきました。いわゆる「インクルーシブ教育」関連の研究発表に対して、「コメンテーターをしてほしい」ということだったので、それで参加してきたのですが。

ほんとうは今日あたり、その学会に出ていて感じたことや、あるいは、そこからさらに発展させた考えなどを、このブログで発信したいと思っていました。ですが、ちょっと時間切れ。これから出かけなければいけないところがありますので、ひとまず、今日は2万回アクセス達成のご報告とお礼だけにとどめさせていただきます。

ただ、公教育計画学会に出て率直に感じたのは、「インクルーシブ教育」や「人権教育」についても、あるいは、社会教育・生涯学習施策にしても、「学力」向上をめぐる一連の施策についても、何かにつけて今の新自由主義的教育改革路線の「最前線」が、まさに大阪市内や大阪府内にあるのだということ。その「最前線」である大阪市内・大阪府内において、子ども・若者や保護者、現場教員や社会教育・生涯学習のスタッフ、地元住民や市民などのどんな現実をふまえて、どういう批判的な理解を持ち、どういう理論と運動・政策提案をつくっていくのか・・・・。そこが、「これから先の日本の教育のあり方を、大きく左右するのではないか?」ということ。そのことを痛感しました。

と同時に、学校教育や社会教育・生涯学習、あるいは子どもの人権などについて考えようとする人々が集うなかで、「ミクロレベル」というのか、「現場レベルで、当事者とともにさまざまな課題を共有し、情報発信をしていく人」が、同じく「マクロレベル」というのか、「国家的(場合によればグローバル社会)レベルで政治・経済の動向をふまえてものを考えている人」とが、どのようなテーマを軸に、どのような形で連携して問題解決にあたっていくのか・・・・。そのことのむずかしさと大切さも、昨日・おとといで痛感しました。

ひとまず、今日のところは、この程度までの記述にとどめておきます。今後もこのテーマに関して、何らかの形で情報発信を続けていこうと思います。引き続き、このブログをどうぞよろしくお願いいたします。

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「売ったらあかん」という、岡部伊都子の詩

2010-05-16 20:16:01 | いま・むかし

いろいろ書きたいことが多々あるのですが、今日もまたあまり時間が取れそうにないので、ひとつ、最近読んだ本のなかから印象に残った詩をひとつだけ、紹介しておきます。

売ったらあかん 岡部伊都子

売ったらあかん

友達を 売ったらあかん

子どもらを 売ったらあかん

まごころを 売ったらあかん

本心を 売ったらあかん

情愛を 売ったらあかん

信仰を 売ったらあかん

教育を 売ったらあかん

学問を 売ったらあかん

秘密を 売ったらあかん

こころざしを 売ったらあかん

大自然を 売ったらあかん

いのちを 売ったらあかん

自分を 売ったらあかん

自分を 売ったらあかん

(以上、岡部伊都子『遺言のつもりで』藤原書店、2006年、275~276ページ)

人権教育のこれからがどうのとか、子どもの人権論がどうだとか、あるいは、部落解放教育の現状がどうだとか、いろいろ、議論はされている。

でも、人権や差別の問題を考えていくときに、結局、いくつくところは、この詩の訴えようとしていることになるのではないのかな、という気が、このごろしている。

ついでにいうと、「人権文化の構築」なる掛け声をあちこちで言う人がいるのだが、このような詩を次々に生み出すような人たちが育っていくことこそ、ほんとうの意味で「人権文化の構築」では?

空疎な掛け声を唱え続けることよりも、ほんとうに私たちひとりひとりが、自分自身を振り返り、他者を見つめ、社会や文化を深く掘り下げて考える中から、わが身と誰かの心を串刺しにするような鋭い言葉を発すること。そのことのほうが、よっぽど「人権文化の構築」につながるのではないかと思う。

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時間がないなか、言いたいことがたまる一方(1)

2010-05-10 12:19:27 | 受験・学校

このところ、もうひとつの日記帳ブログでも書いたとおり、あまり体調がよくない。と同時に、家事育児介護と大学での仕事・研究の両立がなかなかむずかしく、自分の自由になる時間が思うように創り出せない。それが正直なところ、ものすごく、つらい。

個人的には一日24時間という限られた枠の中で、自分の自由になる時間は、仕事や家事育児介護などをうまくやりくりして「創り出す」しかないと思って、これまではいろんな活動に取り組んできた。だが、そのやりくりにも限界が来ているな・・・・、これ以上やりくりしようと思うと、寝る時間を削るしかないな・・・・。かといって、寝る時間を削るのは、短期的にはいいけど、長期的には自分の心身をすり減らすだけで、後々、どっと疲れが出る。だから、このところ、時間のやりくりがたいへんである。

でも、その時間のやりくりがたいへんな状況下でも、いろいろといいたいことが多々ある。それは大阪市内や府内の子どもたちのこと、昨今の教育や子ども施策の動き、子どもの人権関連の研究や運動の動向、その他、いろいろある。また、いいたいことが多々あるのに、ブログで情報発信していかないと、モヤモヤした気持ちがたまる一方。これもまたつらいのだが、時間のやりくりがなかなかつかず、ほんとうに困る。

たとえば、全国一斉学力テスト。今年実施の分(先月行ったらしいが)は、今までの悉皆調査をやめて、3割程度の抽出調査にしたとか。抽出調査でいいなら、もともと悉皆の必要性はなかったわけだし、さらに、その抽出調査の「3割」にしても「なぜ3割?」と思ってしまう。統計学的に見て「3割程度の実施」は必要だったのかどうか? おまけに、新聞記事だと「3割程度の抽出調査」にしたのに、「自主参加」する学校が多くて、結局75%程度の公立学校が参加したとか。

こういう記事を見ていると、「そもそも、なんのために全国一斉学力テストをするのか?」ということ自体から、「一から議論やりなおし」を求めたい気持ちになる。だいたい、そもそも、国のテストだけでなく、市町村や都道府県独自で学力テストを導入しようというところもあるのでは? どうせ学力テストを実施するなら、国の分か、自治体の分か、どっちかやめたらいい。そんな予算こそ真っ先に「事業仕分け」したらいいんじゃないか、という気がする。

ついでにいうと、そういう全国一斉学力テストのようなもので「優秀」だと評価された力が、この社会で生きていくうえで「どの程度のものか?」、もっといえば「なんぼのもんか?」という議論も必要では?

個人的には、「今ある社会の枠組みが当面変わらないとして、その枠組みのなかで一定の時間内に努力をして、一定の成果を挙げうる力」という意味では、「学力テスト」で測定され、評価される力にも意味はあると思う。

でも、もしも今、「今ある社会の枠組みが当面変わらない」という前提を「突き崩す」事態が次々と起こっているとしたら、そこで測定され、評価された「優秀さ」というのは、「たいして、意味ないじゃん」ということでは?

また、「今ある社会の枠組みが当面変わらない」がゆえに、「努力しても意味ね~じゃん。自分の将来に明るい展望なんてないぜ」と思ってる人たちにとっては、いくら学力テストをテコにして勉強させようとしても、「ど~せ、そんなところで努力したって、俺ら(私ら)の評価ってダメに決まってる」という話になるのではないだろうか。

だから、こういう議論を見ていると、「全国一斉学力テストの点がよかったとか、悪かったとか。あるいは何割参加だとか。そんなことにこだわっているよりも、もっと違う次元から議論していかないといけないのとちがうか?」と思ってしまう。なんか、そういう議論にかかわりあうことのほうが「時間のムダ」「エネルギーのロス」、ついでにいうと、それにかかわる印刷物もたくさんでてくるわけで、「それってエコに反するくらいの紙資源のムダ」のように思えてならない。

少なくとも私は、「今の子ども・若者たちが、これから先の社会・文化の変化を見通したときに、どのような形でその社会・文化の変化に対する批判的な理解力を持って暮らしていけばいいのか?」という次元から、今後の教育のあり方について議論をしたい。そういう観点から見たときには、学校内外の教育にこれから望むのは、「別に全国一斉学力テストの点数なんてソコソコでええから、たとえば、むちゃくちゃなことを言う政治家や官僚を見て『こんなん、おかしいのとちゃうか?』という力や、おかしなことを流しているマスメディアに対して『なんか、変やで!』と気づく力、そっちを伸ばしてほしいな」ということ。もっとこっちを大事にしてほしいな、と思ってしまう。

しかし、それにしても、こういう話をもっといろいろ書きたい。だが、時間がないのがつらい。(今後に続く)

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今日は憲法記念日です。

2010-05-03 09:58:31 | いま・むかし

今日は5月3日、憲法記念日です。また、今月20日は、子どもの権利条約(児童の権利に関する条約)の批准の日です。

さて、最近、「人権教育」と「道徳教育」との関係を考える研究会が、私の身近なところで開催されたようです。「ようです」と書いたのは、詳しい内容などについてあまりよくわからないので、こういう書きかたになったのですが。

ただ、どういう思惑でこのような研究をはじめたのかわかりませんが、私の考えとしては、「両者は関連はどこかであるとしても、一応、別のものであるべきだ」と思っています。また、学校内外での子どもの「人権教育」は、少なくとも「日本国憲法や子どもの権利条約などに関する基礎的な理解」に向けての学習活動をベースにするべきであって、安易に「~を大事にする心を育てる」などの心情的な面での学習活動につなげてほしくない、と思っています。そして、できれば、現実の日本社会における子どもの諸課題に対する理解を深める作業、これと結びついた形での「人権教育」が、今は子ども以上におとなの側に必要なのではないか、と考えています。

古い本になりますが、先日、『うどん学校』(岩井好子編、盛書房、1977年)という本を読みました。この本は、1970年代に奈良県に夜間中学校を作ろうとした人々の手によって書かれたもので、当時の夜間中学校開設要求運動と、自主的に取り組んだ夜間中学校の実践記です。この本のなかには、当時、夜間中学開設を求める運動に取り組んだ人々が、憲法と教育基本法、児童憲章などの規定を手がかりにして、長年放置されたままであった未就学の人々の問題に取り組もうとしている一節がでてきます(p.17~18)。

少なくとも私としては、「人権教育」「人権学習」というのは、自分自身にとって身近な課題、あるいは生きていくうえで切実な課題について考える(=それは、「自分はこの社会のなかでどんな位置づけに立っているのか?」を問うこと、自分の立場の「社会的自覚」ということ)中で、自分自身の暮らしを問い直し、編みなおしていく切り口として使いこなせるレベルにまで、抽象的な文言で書かれた法的諸権利について学ぶことをつないでいく作業ではないか、と考えています。だから、上記のような古い夜間中学校開設要求運動などのほうが、私のイメージする「人権教育」「人権学習」のイメージに近いのです。

逆に、「自分自身と向き合う」こと自体を否定はしませんが、たとえばワークショップを開いたり、指示に従って自分の思ったことを書き込むワークブックをつくるとか、そういうことに重きを置いた「人権教育」「人権学習」については、「それがどのように、自分の立場の社会的な自覚につながるのか?」と思ってしまいます。自分を社会から切り離した形であっても、「自分自身と向き合うこと」はできますからね。

特に、文科省配布の『心のノート』で、子どもたちの自己理解を促すようなページの書き方は、社会と切り離された形で自分を見つめるような、そんな印象を受けてしまいます。『心のノート』は90年代後半以来の「道徳教育の強化」をめざす動きのなかででてきたものですが、「人権教育」「人権学習」がその動きに安易に接続されてしまうことに対しては、「それはやはり、ちがうだろう」と思ってしまいます。むしろ、少なくとも今は、そのような動きに対して、「自分はどんな立場に立っているのか?」を冷静に見つめる作業こそ、「人権教育」「人権学習」の重要な課題なのではないでしょうか。

というような次第で、あらためて憲法記念日の今日、もう一度日本国憲法や子どもの権利条約を読み直して、そこから今後の「人権教育」「人権学習」のあり方を検討することのほうが、今はやりの動きになじむことよりも大事なのではないか、と考えたのでした。

ちなみに、子どもたちに本当に「正義感」「悪を憎む心」や「友だち、仲間を大事にする心」、「目の前の課題に積極的にチャレンジしようとする心」などの大切さを伝えたいなら、つまらない「道徳」の授業を学校でするよりも(ましてや「道徳」の授業をつかって「人権」の話をするよりも)、プリキュアシリーズのアニメをおとなが子どもといっしょに見るほうが、よっぽどましなように思います。制作者の意図かどうかはわかりませんが、私の見たところ、あのプリキュアシリーズのアニメには、こうした子どもたちに「人として大事にしてほしいこと」へのメッセージが、いっぱい詰まっているように思いますので。

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もうすぐアクセスが2万回に到達します。

2010-05-02 23:34:45 | 学問

2006年の秋(9月)に、もうひとつの日記帳ブログに書いていた大阪市内の青少年会館条例廃止問題に関する記事を、あらためてこちらに移転させる形で、このブログははじまりました。

いま、ちょうどその頃から3年8ヶ月目くらいになるわけですが、いよいよ、あともう少しで2万回アクセスを達成することになります。今日、このブログを書いている時点で、19760回くらいです。この調子でいくと、あともう少し(たぶん来月あたり)には2万回に到達すると思います。

さて、大阪市内の青少年会館条例が廃止されて、満3年がたちました。また、この春から、人権文化センターともと青少年会館等を統合して、あらためて大阪市内各地区に「市民交流センター」が設置されました。いよいよ、大阪市内の人権施策・同和施策や青少年施策も、新しい段階に入りました。

ただ問題は、「それではたして、今までよりもよくなったのか? あるいは、今までよりもよくなる見通しがあるのか?」ということ。ひとまず、「もと青少年会館」を使った子ども会活動等の現状把握を目指した私たちのプロジェクトは、この夏ごろに3年間の取り組みの報告書をまとめて終了することになります。

ですが、人権文化センター・もと青少年会館等が統合されて「市民交流センター」になったあとも、本来であれば、誰かが大阪市内の各地区にはり付き、そこでの子ども・若者・保護者・高齢者その他地元住民のみなさんの「学び」と「暮らし」にかかわる諸課題を把握し、それを実践的・理論的・政策的な諸課題に整理して、情報発信をし続ける必要があると思います。

ちょうど私や、私たちが取り組んできた研究プロジェクトは、「子ども・若者」の諸課題や、識字教室を含めた「学び」に関する諸課題に視点や方法を限定して活動を続けてきました。でも、私たちもまた、ほんとうは検討すべきことを子ども・若者だけに限定せず、「高齢者」や「障害者」はてまた「在日外国人」等の多様な人々のニーズに即して、今後「市民交流センター」のあり方を考えていく必要があると思ってます。

それを誰か、やってくれないかな・・・・。もちろん私も、自分たちのプロジェクトが終わったからといって、各地で粘り強く活動している人々を放置することはできません。ただ、「できることなら、いろんな人たちが大阪市内の各地区にこだわって、何かできる範囲から、できることを、できる形でやってくれないかな?」と思うのみです。

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