できることを、できる人が、できるかたちで

京都精華大学教員・住友剛のブログ。
関西圏中心に、教育や子ども・若者に関する情報発信を主に行います。

最近読んだ本をまとめて紹介(2405冊目~2416冊目)

2017-01-31 10:49:28 | 本と雑誌

気付けばもう1月31日。1月も終わりに近づこうとしています。

ここ最近の1か月くらいの間に読んだ本、主に新書が中心ですが、紹介しておきます。

2405冊目:生田武志『釜ヶ崎から 貧困と野宿の日本』ちくま文庫、2016年

2406冊目:西谷修『戦争とは何だろうか』ちくまプリマ―新書、2016年

2407冊目:内田樹『街場の共同体論』潮出版社、2017年

2408冊目:アキ・ロバーツ、竹内洋『アメリカの大学の裏側』朝日新書、2017年

2409冊目:森田健司『明治維新という幻想』洋泉社(歴史新書y)、2016年

2410冊目:水島治郎『ポピュリズムとは何か』中公新書、2016年

2411冊目:磯村英司『戦争する国にしないための中立国入門』平凡社新書、2016年

2412冊目:岩本真弥『駅伝日本一、世羅高校に学ぶ「脱管理」のチームづくり』光文社新書、2016年

2413冊目:氏家幹人『古文書にみる江戸犯罪考』祥伝社新書、2016年

2414冊目:平野貞夫『野党協力の深層』詩想社新書、2016年

2415冊目:濱田武士『魚と日本人』岩波新書、2016年

2416冊目:井手英策『18歳からの格差論』東洋経済新報社、2016年

 


この通知の「先」を考える時期に来ている―文科省通知「『学校事故対応に関する指針』に基づく適切な事故対応の推進について」に関して―

2017-01-18 06:11:14 | 受験・学校

「『学校事故対応に関する指針』に基づく適切な事故対応の推進について」

(文部科学省初等中等教育局長通知、2016年12月21日)

http://www.mext.go.jp/a_menu/kenko/anzen/1380824.htm

文科省が「学校事故対応に関する指針」に即して、こんな通知を年末に出していたなんて、いままで気付かなかった(昨日、大学に届いた「教育新聞」を読んで、はじめて知りました)。

まずは「学校事故対応に関する指針」の周知自体が大事で、それを各地の教育行政にやらせることが必要だってことで、この通知自体は否定しない。

でも、問題は今や次の段階。「その先」に来ている。

学校現場も教育行政も、従来の事後対応と「指針」に即した事後対応とのちがいに戸惑い、さらに、調査・検証の実務に長けた研究者・専門職も著しく不足。

その一方で、起きてほしくはないけれども、次々に重大事故はおきていて、遺族・家族からの学校や教育行政への要望・苦情・批判の声も高まっている。

「このような現状のなかで、今までよりも一歩、二歩と、「指針」にもとづく取り組みを前に進めていくためには、誰が、何を、どのようにすすめていくのか?」

そういう「実務」的な議論と実践(試行錯誤)を、早急に積み重ねていかなければいけない。

このような次第で、いまや、そういう段階。文科省から各地の教育行政へ、各地の教育行政から学校現場へ、「指針の趣旨をもっと理解しろ」という通知だけ送っていれば「事足れり」じゃない。そんなことでは「何も解決しない」というか「それだけでは、まったく足りない」。

むしろ、「その『指針』の趣旨に即して、誰が、何を、どのように対応すれば、遺族・家族とのコミュニケーションが円滑にはかれるのか?」とか。あるいは「『指針』の趣旨に即した未然防止・再発防止のあり方や、調査・検証作業のあり方とは?」といったかたちで、「誰かが手とり足とり、そういう「実務」的なことを、学校現場や教育行政につきっきりで、指導・助言をする」くらいでないと・・・。

でもね、そういうかたちで「指針」に即した「実務」的な対応を「指導・助言」できる人自体が、文科省にも地方教育行政にも、そして学校事故・事件研究をしてきた研究者・専門職にも、いまは著しく不足。

まずはいま、そこから徹底的に変えていかないといけない。

そういうふうに私は思っています。

なにしろ、自分がすべての重大事故の発生した学校や教育行政をまわり、遺族・家族と学校・教育行政、双方の話をていねいに聞いて、両方がきちんとおり合った形で調査・検証をすすめていけるようにコーディネートするのは、到底無理なので。

いままでできるだけ、そういう作業をしてきましたが、もう心身ともに限界です。

いまの段階でご連絡・ご相談いただいているケースはさておき、もうこれ以上、お引き受けするのは無理です・・・。

そして、そういう課題意識に即して書いたのが、つい先日、原稿をすべて書き上げた近著(この春には出る予定)です。



これは許しがたい、卑劣な行為である。

2017-01-07 09:37:34 | 受験・学校

OBS大分放送ニュース「県庁と竹田高校に爆破予告」(2017年1月6日)

http://www.e-obs.com/news/detail.php?id=01060036161&day=20170106

おはようございます。まずはこちらの大分県のテレビ局のニュース、ご紹介します。

これは「絶対にやったらあかん、とても容認しがたい、卑劣な」行為です。

そもそも、ご遺族への支援にはなんにもつながらないどころか、かえって「学校を守れ」という地域社会の人々の声を強め、学校や教育行政の組織防衛的な反応を引き起こすだけにしかなりません。

さらに今、「学校事故対応に関する指針」の作成、周知など、「起きた重大事故・事件についてはできるだけオープンに事実を伝え、その経過や背景要因を検証し、再発防止策をつくって学校を再出発させていく」流れを、教育行政に対してご遺族たちがなんとかして創り出そうとしている状況下で、こういう「爆破予告」みたいなことをされると、ますます「危機管理だ」の名のもとに事故・事件の経過等々を「隠しておこう」「オープンにしないほうがいいんだ」とする流れが復活してしまいます。

そして、こうやってご遺族たちに新たな苦しみ、悲しみを創り出して、いったいどうするつもりなんですかね、この「爆破予告」をした人は? 「あかんもんは、あかん!」としか、私は言いようがありません。

まずはその点、私の立場からも「容認しがたい、卑劣な行為」ということで、コメントさせていただきます。

<追記>

こういう卑劣な行為に対して、「これはあかんやろ!」と、すぐにコメントが出せないような教育学の研究者、あるいは学校事故・事件問題の専門家と称する人々もまた、情けないくらい「ダメ」ですね。それも追記しておきます。



大丈夫なの、このコメントで?

2017-01-05 22:24:55 | 受験・学校

このたびの大分での求償権訴訟のことについて、学校事故・事件の問題を扱っている研究者がいま、このコメント程度のことしかいえないようでは、正直「大丈夫なの、このコメントで?」って思ってしまいました。


以下に一応、コメントというか、ツイッター上のつぶやき、引用しておきます。


そもそも、この訴訟で大分県側の敗訴が確定すると、今後、他の公立学校での重大事故に関する訴訟でも、教職員の過失責任に対して求償権が認定される恐れがある。


となると、この訴訟の判決がどう確定するかは、大分県だけの問題にとどまらず、全国の他の学校での重大事故に関する訴訟にもいろんな影響が及ぶ。


このように考えると、この訴訟の行方は、地方教育行政とその用心棒的な弁護士にとっては、今後の自分たちの立場、特に法的な責任をどのように問われるのか、その立場を左右するくらいの「一大事」です。


「そういう行政側の主張はおかしいでしょう」と思うかどうかは別として(私は「もういい加減、教育行政や学校の対応の誤りを認めろよ」とは思っていますが)、でも、訴訟のなりゆきを少し考えたら、私でも被告になった教育行政側とその用心棒的弁護士の側の発想そのものは「こんなところじゃないか?」という推測くらいはできます。


「どうしてそれくらいのこと、思いつかないかな・・・?」って、このつぶやきを見て思いました。










 


大分県立高校剣道部での死亡事件に関する「求償権」訴訟に思うこと。

2017-01-05 18:44:59 | 受験・学校

「公務員賠償訴訟で県側が控訴」(NHKニュースWEB 2017年1月5日)

http://www3.nhk.or.jp/lnews/oita/5075786541.html

「剣道部員死亡訴訟で県教委が控訴」(OBS大分放送ニュース、2017年1月5日)

http://www.e-obs.com/news/detail.php?id=01050036146&day=20170105

この事件、まずおさえておかないといけないのは、事実経過かと。

それでいうならば、まず、夏休み中の剣道部の活動中に深刻な熱中症を発した高校生に、それ以前から暴力・暴言の問題があった部活顧問の教員が、症状を発してから後もくりかえし暴力・暴言を発し、適切な救護措置もとらず、死に追いやったという事件です。

なおかつ、この事件には、事後対応の問題もあります。

私の記憶にもとづいて事後対応の問題を書きますと・・・。

まず、この件、大分地検は業務上過失致死罪での起訴を見送りました。

検察審査会での「不起訴不当」の判断もあったはずですが。

また、このような重大事態を引き起こしたにもかかわらず、大分県教委が当該顧問に下した処分は、停職数ヶ月程度です。

そして、ご遺族が民事訴訟を提起されて、すでに賠償金を支払うことが判決では確定しています。

そのことはネット配信されている記事からもわかります。

でも、その賠償金は、国家賠償法で、公のお金で出すことになっている。

「あの顧問には停職以外に、公にはなんのおとがめもなしですか?」

「あんなふうに、子どもを死に追いやるような対応を、大分県は「業務」というのですか?」

この疑問というのか、強い憤りが、ご遺族にはあると思うのです。

少なくとも、私はそのように認識しています。

また、そこを問うためには、大分県が払うことになる賠償金の一部を当時の顧問にも負わせるべく、今回の訴訟をせざるをえなかった(これが「求償権訴訟」というものです)。

そして、その判決が先月、大分地裁ででて、やっぱり顧問にも一部、賠償金を払わせようという判断が示されたわけです。

これに対する大分県側の控訴の方針が、今日、表明されたわけですね。

それで、大分県側の控訴理由を見る限り・・・。

ホンネは「自分たちがここで控訴断念して、敗訴確定で、こういう重大事件に際して顧問に一部であれ賠償を担わせる先例をつくるのは嫌。だから、とにかく上級審の判断に委ねる形をとりたい。高裁も最高裁も同じ判断されるなら、しょうがないから顧問に賠償を担わせる判決を受け入れる」というところかと。

このネット配信の記事からすると、私はそう読み取りました。

そういう読み取りを前提にしていいますと・・・次の2つのことが言えるかと。

ひとつは、去年の大川小訴訟の地裁判決のときもそうでしたが、とにかく「行政側敗訴」という先例だけは残したくない、チャンスがあるなら上級審でひっくり返して、判決が確定しないようにしたいという、そういう思惑が見えること。

これはおそらく、大分県だけに限らず、他の都道府県に対しても「先例」になりたくない・・・という思惑ですね。

まずはそういう行政関係者と、その用心棒みたいに動いている弁護士さんに対しても「あのなあ・・・」と、いろいろと言いたくなる思いがありますね(被告側には被告側の法的利益があるから、それを擁護したい・・・という理屈は一応、尊重するとしても)。

もうひとつは、教育学・教育法学の関係者も、この判決・控訴の流れをどのように認識して、どのように意見を発するのか、そこが問われているぞ、ということ。

さすがに私もこの件については、「事実経過及び事後対応の過程って、ちょっとひどすぎやしませんか?」という思いがあります。

「これはさすがにこのまま、学校現場にこの人、おいておけないよなあ・・・」という思いすらあります。

だから、ご遺族が訴訟にうったえて出られた思いは、できる限り尊重したい・・・と思っています。

その上で「本来、こうしたケースでの事後対応はどうあるべきか?」「同様の重大事態の防止にどのように努めるのか?」を考えたり、個々の教員のおかれている状況とともに、その背景要因への考察・検討を行いたいと思ったりもします。

しかしながら、私のよく知る子どもの権利論の「大御所」的なある研究者は、こうした公立学校教員個人に対する賠償責任を認めるよう求めた訴訟や、「指導死」という概念そのものにも否定的だったりします。

そういう話を見聞きしたり、読んだりするにつれて、私と同じ領域の研究者といいますか、同業者に対しても「あのなあ、いつまでもそんな認識でほんとうにいいのか・・・?」と言いたくなる思いがありますね。

このような次第で、この訴訟に対しては、私たち教育学などの関連領域の研究者の認識も大きく問われているのではないか、と思っています。

以上、長々と書きましたが、まずはこの記事に対するコメントでした。


「大阪市教育振興基本計画」(素案)のパブリック・コメント募集のこと

2017-01-04 19:09:14 | 受験・学校

「大阪市教育振興基本計画」(素案)

http://www.city.osaka.lg.jp/templates/jorei_boshu/kyoiku/0000336241.html

この意見募集、つまりパブリック・コメントが行われていることを越後湯沢に居るときに知って、「とにかく何か言っておこう」と思い、上記のページの「概要版」だけを見て、以下のとおり気づいたことをまとめて先方に発信しておきました。

「まあ、こういうこと書いても、どこまできちんと受け止めて対応するのやら? 最初から『ご意見・ご提言だけは聴きましたよ』というアリバイづくりじゃないの?」と思う面もあります。

なので、「本気で市民の声聴く気あったら、この素案じゃダメという声も聴くべきでは?」という嫌味みたいなことを書いて、送ってしまうことにしました。

<以下が私のコメント>

 

あくまでも素案概要版を見ての感想ですが、以下のとおりまとめておきます。

①「教育改革の成果」ですが、ほんとうに「分権型」で校長の判断が尊重されるなら、たとえば大阪市では中学生の統一テストをやめてほしいとか、あるいは中学校卒業後の進路状況の公開をやめてほしいといった校長の声をきちんと反映させるべきだったはずです。

また、大阪市の教育施策に「市民の意向を反映するしくみ」っていったい、どこに、どのようにつくったのでしょうか?

それこそ、学校選択制はあくまでも子どもの就学先を決めるため「だけ」の形であって、教育施策に市民の声を反映させるしくみではありません。議論がすり替えられている印象があります。

それこそ、このパブリック・コメントで素案に対して厳しい意見が突き付けられた場合、大阪市教育委員会はこの素案を全面的に見直す覚悟があるのでしょうか?

②「厳しい家庭環境にある児童生徒を含む全ての子どもたちが、静穏かつ明るい教育環境のなかで、生き生きと学習に取り組み、学びを深め、友だちと交流しながら、心身ともに健全に成長できる学校園生活を、幼児児童生徒に保障します」と概要版にはありますが、「だとしたら、中学校での統一テストと学校選択制はやめてほしい」という「市民の声」があがってきた場合、大阪市教委としてはどのように対処するおつもりですか?

子どもたちの人間関係を分断し、ゆがめるような教育施策を止めることなしに、このような教育機会の保障は無理なのではありませんか。

また、大阪市内に暮らす多様な子どもたちのなかには、差別や貧困にまつわる諸課題に直面している子どもが多数います。そうした子どもたちへの支援施策はどのように考えておられるのでしょうか?

「公設民営学校」など、いったい、こうした教育の保障とどのような関係があるのでしょうか?

今まで大阪の学校現場で人権教育などに熱心に取り組んできた実践を、これまでの諸改革が抑圧しておきながら、「よくいうよ」というしかないのが、この「概要版」です。

おそらく素案本体もそういう内容のオンパレードでしょう。全く期待が持てません。

③総じて、「(1)子どもが安心して成長できる安全な社会(学校園・家庭・地域)の実現」という基本理念を、「(2)心豊かに力強く生き抜き未来を切り拓くための学力・体力の向上」が常に裏切るというしかけになっている教育振興基本計画なのではありませんか。

「概要版」を見ただけでもわかりますが、総じて国のすすめる教育改革の「後追い」もしくは「先取り」で、学力向上と規範意識の涵養ばかりのつまらない、くだらない教育改革構想でしかありません。

すでにこういう路線を何年も続けてきた結果が、今の大阪市の教育の現状ではありませんか。

「これを検討するメンバー自体を入れ替えて、一から教育振興基本計画を練り直せ」というのが、率直な私の意見です。

<以上でおわり>


 





2017年、どう過ごしたいか?

2017-01-04 09:48:56 | 私の「仲間」たちへ

今日は1月4日。2017年になりました。本年もどうぞよろしくお願いします。

さて、この年末年始、2泊3日で越後湯沢の温泉に出かけておりました。

昨日帰ってきたんですけど、越後湯沢から東京で途中下車して、浅草や東京スカイツリーの見物にも出かけました。

そんなわけで、新年のご挨拶が今日になってしまいました。申し訳ありません。

さて、その越後湯沢の温泉につかりながら、この2017年をどうすごそうかと考えたことを、ここで書いておきます。

まず、ご存知の方もいるかと思いますが、私、「年男」です。今年6月で48歳になります。

そして、越後湯沢の温泉につかりながら考えたのですが、今年はいろんな意味で、私の人生にとって「節目」になる年ですし、「節目」の年にしようといま、思っています。

前々から何人かの方にはお伝えしてきたとおり、いよいよ今年から本格的に、「充電の時期」をつくるための準備作業に入りたいと思います。

まず、基本的に、いままでお引き受けしてきたお仕事や活動であったとしても、最近、あちこちにからだの問題が出始めている自分のからだとこころと相談させていただいて、お断りしたり、活動に参加する頻度をできるだけ減らしたりして、なるべく「できる範囲」にとどめておきたいと思います。

それから、うちの大学でも、この3月末で人文学部の4回生ゼミの担当から離れ、いよいよ春から本格的に教職課程の仕事+全学共通科目の仕事に専念する体制に移行します。

また、それにあわせて、もしかしたらいくつかの学内の諸業務を引き受けることがでてくるかもしれません。

春から新しい学内組織がいくつか、立ち上がることになると思うので。

そうなってくると、ますます、いままでお引き受けしてきたお仕事や活動であったとしても、新しい学内業務や授業科目の準備等々に時間を割くために、「できる範囲」でのおつきあいにとどめることがでてくるかと思います。

このような次第で今後、「なんかあいつ、最近つきあい悪いなあ~」「なんで急にあいつ、動いてくれなくなったんだ??」と思われる方も出てくるかもしれません。

でも、「ほんとうにいまの自分の心身のコンディション、あるいは学内事情に合せて仕事や活動をしたら、このくらいなんだ」ということ。そのことをまずは、ご理解いただければと願っております。

いろいろとご不便をおかけすることになるかと思いますが、どうぞよろしくお願いいたします。

その上で・・・。

私、ここのところ、いろんな仕事・活動のなかで、正直なところ「わりにあわないな」感を強く抱いております。

たとえば、ここのところ原稿を書いている本は、この十何年か、学校事故・事件にまつわる諸課題、特に事後対応にかかわる諸課題にかかわって思うことを、文科省「学校事故対応に関する指針」の解説に即して綴っている本です。おそらく春先にはできあがることかと思います。

ですが、それを書いていていちばん思ったのが、「正直なところ、いちばんしんどいところで、ああでもない、こうでもないと気をつかって、心身すり減らしていろいろ実務的に動いてきたわりには、自分のしてきたこと・考えてきたことって、ほんとうにこの分野で、あまり注目されてなかったよなあ。いまだにどれだけ注目されているんだか・・・。そろそろ、まっとうに評価する目をもってほしいわ、関係者のみなさん・・・」ということですね。

まあ、ほんとうに現実のいろんな課題に追われて格闘して、心身ともにすりつぶしていたら、自分のやっていることを「外」に向けていろいろ表明するチャンスって、あんまり取れないんですよねえ。

傍観者的なスタンスで居る方が、むしろ好き勝手にいろいろ言えて「お気楽だなあ~」って、少なくとも私なんかからは思えたりもします。

このような次第で、今後、こういう「わりにあわないよな~」感など、時間や手間をかける余裕がある限り、あっち、こっちで、いろんな形で表明していこうかな、と思っています。

やっぱりねぇ、美しくて大きな花を咲かせるために、土をきっちり耕して肥やしまいたり、その花の芽がでてしっかり伸びるまで世話を惜しまなかったり・・・。

そういう地道な作業してきた人にも、そろそろ、誰かがきっちりと光をあててほしいよねえ。

まあ、こんな感じで、当分の間、ぼやきやひがみみたいなこと言う機会がい~っぱい増えるので、その点もどうか、ご理解をお願いします。

そして、できれば、こんな自分のしてきたこと、しんどくてめんどくさくて困難も多いけど、でも「誰かが引き受けてやらなきゃ、何も前に進まない」ようなことを、「次、安心して託せる人」を、これから見つけて、磨いていきたいな・・・って思います。

でないと私、「休むに休めない」んだわさ・・・。

心身ともにクタクタでも「にこっ」と笑って、いろんなやっかいなこと引き受けて対応するのにも、さすがに私にも「限界」ってものがあります。

でも「限界」がきたときに、ふと誰かに「代わり」をお願いしようと思っても、「頼めそうな人」が見当たらないっていうのは、つらいですよねえ・・・。

実は、年末に扁桃腺がはれて数日寝込んでしまいました。

そのときに、「ああもう、潮時だな~」って正直、思いました。

「もうこれ以上、無理はできない」と思いましたし、「誰かに委ねられるものは委ねたい」とも考えました。

そして「これまで自分のしてきたことに、そろそろ、きちんと光を当てていただきたいし、また、そうなるように、言うべきことは言っておこう」と。

そして、任せられることから誰かに任せて、時間にも心身にも余裕ができたら、今までずっと言ってきたとおり「充電」の時間を確保しようと。

家の中に買ったけど読んでない本がいっぱいあるんで、それをまずは読んで、残したい本やチャリボンにまわしていい本に整理したいな・・・って思います。

以上が、今年をひとつの「節目」にしたいという、今の私の正直な思いでした。

そんなことを、越後湯沢の温泉で考えていました。