できることを、できる人が、できるかたちで

京都精華大学教員・住友剛のブログ。
関西圏中心に、教育や子ども・若者に関する情報発信を主に行います。

今こそ物事を深く考え、言葉を吟味し、議論を深めたい。

2009-10-30 21:18:58 | いま・むかし

今回はケータイからの投稿ではなく、久々にパソコンの画面に向かっての投稿になります。

この数日の試験的な投稿で、ケータイを使えばこのブログを「開店休業」状態ではなく、なんとか日々、何か書き込んで、動かしていくことが可能だということはわかりました。だから今後もひきつづき、ケータイによる投稿は繰り返すことになると思いますし、いったんケータイで入稿して、あとで修正ということもあると思います。

しかし、やはりケータイの画面に向かって入力できることには限りがあります。たとえば、新聞やテレビなどを見て思いついたような「速報」的なことだとか、「すぐに伝えたい感想・ひとことコメント」みたいなことであればケータイでもいけるのですが、「じっくりと考えて、訴えたいこと」だとか、「言葉を吟味して、議論を深めたいこと」を発信するのには、ケータイは向いていません。なにしろ、あの小さなケータイ画面をスクロールしながら入力できる文字数と、その入力に耐えられる気力と体力(特に指先の力)には限界がありますから。

そんなわけで、今後はケータイでの投稿とパソコンからの投稿の両方を、目的にあわせて上手に使い分けていきたいと思います。その点はどうか、事情をご理解ください。

さて、最近の私は、子どもの人権と教育・福祉というテーマや、前から書いているような「課題」のある子ども・若者の自立支援というテーマ、あるいは、人権教育や解放教育・同和教育(この場合は「保育」も含む)というテーマなどについて、「今こそ物事を深く考え、言葉を吟味し、議論を深めたい」と思っています。

たとえば先日もケータイから自己批判や反省もこめて投稿しましたが、子どもの権利条約(児童の権利に関する条約)にある「教育への権利」(28条)に沿って、中等教育段階での子どもの就学保障に向けて、たとえば授業料不徴収や減免制度・奨学金制度の拡大などについて、自分がこれまでどれだけのことを言ってきたかというと、ほんとうに心もとない。目の前に経済的な困難を抱えた子どもや家庭がいるにもかかわらず、こうした検討課題について、今まで、自分にどれだけのことができたのだろうか・・・・と思っています。

あるいは昨今、人権教育系の研究者のなかに、「社会権的教育権」ということを主張されている方がいるのですが、その「社会権的教育権」という概念の中身はなんなのか。そこが過去の議論をふまえて論じられているのかどうか、とても疑問に思うのです。

たとえば、これまでの日本の教育学において、「教育権」については実にさまざまな議論があったはずです。それこそ、私の書棚には今、1976年に出版された『教育権(教育学研究全集第6巻)』(真野宮雄編著、第一法規出版)という本があります。この本には、私の大学院時代の指導教授だった故・岡村達雄先生の若かりし頃の論文も入っています。

そしてなによりも、この本の第4章「現在の教育問題と『教育権』」の「一 社会的弱者と教育権」という節(高倉翔氏執筆)には、「教育福祉の問題―公教育における差別の現実―」という項目があります。そこでは、短い文章ではありますが、差別の問題、障害者の教育権保障の問題、生活保護世帯などの子どもの貧困をめぐる諸問題、男女差別の問題、沖縄やアイヌの教育の問題などが取り上げられているのです。

ここにあげられている諸課題は、今の「人権教育」が論じている諸課題と、どこが異なっているのでしょうか。もちろん、30年以上も前にあった話は「問題提起」だけで、「あれから、いろんな取り組みや議論が深まったのだ」ということは可能だし、実際そうなのだろうと思うのです。ですが、今、あえて「社会権的教育権」論を提起するのであれば、この30年間のさまざまな取り組みや議論のなかで、「では、何が深まって、何がまだ未解決の課題として残っているのか?」という整理を行うことがまずは必要なようにも思うのです。

そうした過去の議論の成果と課題の検討を踏まえつつ、今の子どもの現実を前に、あらためて「社会権的教育権」ということを提起していく理由はなんなのか。また、「社会権的教育権」論を提起して、そこで保障されるべき「教育」の中身とはなんなのか。それは従来、取組まれてきたこととどこでどうつながり、どこでどう断絶するものなのか、等々。

・・・・こんなふうに、今、提案されているような話を見ても、私などは「今こそ物事を深く考え、言葉を吟味し、議論を深めたい」という風に思うのです。そして、このことこそ私たち研究者が今、担うべき仕事なのではないか・・・・とすら、思ってしまうわけです。

今の子どもや若者、保護者、地域で活動している人々、学校の教員や社会教育施設の職員、教育行政や児童福祉行政の職員のみなさんが置かれている現実を前に、過去の文献をもう一度読み直したり、これまでの施策や実践・運動の成果と課題を明らかにすること。あるいは、今の文献で語られていることの妥当性を検証したり、はやりの言葉を吟味したり、そこから何か施策や実践・運動をよりよくするための提案をしていくこと。こういったことを重要な「任務」として引き受けているのが私たち研究者だろうし、そのために「学問の自由」の保障など、私たちの立場にはいろんな配慮が行われているのだろうと思うのです。

今後も引き続き、過去の文献と今の議論とを比べながら、やや辛口なコメントを含め、思いつくことをこんな感じで、パソコンから、あるいはケータイから発信していきたいと思います。また、その辛口なコメントは、今までの自分の研究や実践活動にも及ぶことがあるかと思います。行きつ戻りつするような形になるかと思いますが、今後ともどうぞよろしくお願いします。

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子どもの権利条約28条の具体化と高校の授業料無償化のこと

2009-10-29 09:35:00 | 受験・学校

今日書くことは、私の反省や自己批判をふくめての話です。

まず、子どもの権利条約(児童の権利に関する条約)のなかには、次のような条文があります。国際教育法研究会訳で紹介します。

第28条(教育への権利)

1 締約国は、子どもの教育への権利を認め、かつ、漸進的におよび平等な機会に基づいてこの権利を達成するために、とくに次のことをする。

(a)初等教育を義務的なものとし、かつすべての者に対して無償とすること。

(b)一般教育および職業教育を含む種々の形態の中等教育の発展を奨励し、すべての子どもが利用可能でありかつアクセスできるようにし、ならびに、無償教育の導入および必要な場合には財政的援助の提供などの適当な措置をとること。(以下略)

この条文の趣旨に沿って言えば、日本で高校教育の段階(後期中等教育)においても、授業料不徴収その他の無償制実施について議論があってもおかしくない。あるいは、経済的な困難を抱えた家庭への公立高校の授業料減免措置拡大や受け入れ定員増、私立高校でも授業料減免措置ができるよう助成金を増やすこととか、そんな議論があってしかるべきですよね。さらに、給付奨学金を増やす方法もありますしね。

でも、私を含め、これまで子どもの人権研究において、例えば高校段階の教育費負担の問題は、ていねいかつ豊かな議論をこなかった気がしています。私が知らないだけかもしれませんが、この点は十分に論じられていなかった気がします。

いま、「子どもの貧困」の広がりを前にして、子どもの権利保障の観点から高校の授業料無償化問題について具体的な検討が弱かったことは、私たちもきちんと反省していかねばならないと思います。

以上のようなことを、昨夜の朝日新聞夕刊(大阪版)を見て思いました。なにしろ、大阪府立の高校の定員増や、私立高校に進学した低所得世帯の子どもに対する授業料補助(実質的無償化)などの話がでていたので。

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WTCに思うこと

2009-10-28 10:36:00 | 受験・学校

確か以前、橋下大阪府知事は、大阪府の財政状況を「破産寸前の会社」にたとえて、府内のいくつかの公的施設の統廃合だとか、マイノリティや子どもに関する支援施策に関連する予算を削減したのではなかったのでしょうか?

また、そういうロジックを使って、府職員の人件費削減を検討したり、あるいは、府知事の方針に批判的な職員の意見を押さえつけてきたのでは?

にもかかわらず、昨今のマスコミ報道では、大阪市からWTCを買う予算を大阪府議会が認めたとか。また、そこへの府庁移転についても、今後条例改正をして行う意向だとか。

「破産寸前の会社」に、よくもまあ、そういうゆとりがあるもんだなあって思いますね。今までの説明はなんだったのでしょう?

また、高潮や津波を想定すれば、臨海部のWTCに府庁の移転をして「本当に大丈夫?」と思いますし、今ですら車に乗らなければニュートラムくらいしか公共交通機関では行けないWTCで、「災害時にどうやって行くの?」と思いますね。

まあ、大阪府がWTCを買い取れば、大阪市の財政状況は多少ましになるかもしれませんが・・・。

いずれにせよ、府議会でなぜこの案が通ってしまったのか。合理的な理由がよくわかりませんでした。そして、今はこういう大阪府政(議会にも、知事にも)のあり方や、これに関するマスコミからの情報に批判的な目を向けるような、そんなセンスを養う子ども・若者の学習活動が大事だと思いました。(ただし、子どもや若者のことをいうそれ以前に、おとなたちがどれだけ批判的な目を持ってるかが気になるんですけどね=苦笑)。

※今日から本格的にケータイからの投稿を開始します。文章やレイアウトのおかしなところは、後日、パソコンから直しますね。

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ケータイからの投稿に初挑戦

2009-10-27 19:28:00 | 悩み

大学での仕事に父の葬儀後のまつりごと等々、これまで公私ともどもほんとうに慌ただしく、なかなかこちらのブログの更新にまで手が回りませんでした。
情報発信がなかなか思うようにすすまず、たいへん申し訳ないないです。

ただ、このブログのモバイル機能を活用して、ケータイで書ける範囲からであれば、何か言えるようにも思います。

そこでためしに、一度ケータイからモバイル機能を活用して、このブログの更新をしてみることにしました。

きょうはひとまず、試験送信的な更新です。改行等、不具合があれば、あとで修正しますね。

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「若者・よそ者・ばか者」がすすめる「人権尊重のコミュニティ形成」

2009-10-03 09:30:59 | 国際・政治

久しぶりの更新になります。やっぱり大学での仕事が忙しくなると、こちらの更新もなかなかまわらなくなりますね。それでも、時間を見つけて、こつこつ更新していこうと思います。

さて、昨日の夜は大阪府内や大阪市内の各地区で、子ども会や保護者会活動などに取組んでいる人たちの交流会に出てきました。といっても、ほんとうは交流会をすすめるための準備委員会のような会合なのですが。

週1回土曜日に保護者が交代でチームをくんで子ども会活動をしているところ、地元の大学生や高校生のボランティアの協力を得て活動しているところ、これから子ども会を立ち上げたいと思っているところ、高齢者の地域活動と連携を模索しようとしているところ、地元のまつりに子どもを参加させていこうとしているところ・・・・などなど、各地区がそれぞれの事情を抱えながらも、積極的に子ども・保護者を軸に地域社会の側から教育・子育て運動をすすめようとしていることがわかりました。(まぁ、準備委員会に出てくるところですから、「熱心なところ」が中心なのですが・・・・)

それで、集まったみなさんの話を聴いていてふと思ったのが、まちづくり運動などで誰が言い出したのかわかりませんんが、よく言われる「若者・よそ者・ばか者」という言葉。「ばか者」という言葉の使い方がいいのかどうか・・・・という問題はありますが、要するに、「まちづくりを活性化するためには、今までの枠組みにとらわれない人が必要」ということですね。

例えば「よそ者」。私などのような研究者に限定されませんが、その地区に外から入ってくる人々は、その地区の人たちがどんな状況にあるのかを少し客観的なところから見ることができます。また、長年にわたるその地区の人間関係のしがらみにとらわれず、出入り自由なところがあります。その分、新しい活動に取り組みやすいわけですよね。

同じように「若者」。当然ながら、その地区に生まれ育ってまだ時間が短いわけですから、人間関係のしがらみは「ない」とはいえないものの、年長者ほどではありません。また、地区外に出て外の刺激に触れてくることや、地区外で何か新たなことを身に着けてくる余裕もありますし、地区内で新たな取り組みをはじめて、時間をかけてそれを育てる余裕もあります。その分、まちづくり活動などを活性化するのには向いているわけですよね。

そして「ばか者」。ここでいう「ばか者」というのは、「ひとつのことを夢中になって、熱心にやりつづけていく人」とか、「今までの枠組みにとらわれない発想で新しいことをはじめて、成果があがりはじめるまで熱心にとりくむ人」という意味ですが。しかし、誰かが各地区で何かはじめて、ある程度軌道に乗るまで熱心にやりつづけないと、新しい活動は定着しませんよね。

そんなわけで「若者・よそ者・ばか者」がまちづくり活動の活性化には重要だ、ということになるわけですが、これは今の大阪府内や大阪市内各地区の教育・子育て運動にも言えることではないかな、と思います。

つまり、地区内から誰かが「こんな子ども会を作りたい!」とか、「こんな若者たちの集まりを作りたい!」と呼びかけ、最初のとっかかりをつくるところまで、しんどくてもとにかくやりつづける、ということ(=「ばか者」の領域)。その最初のとっかかりをつくった人たちのところに、地区内外から「若者」や「よそ者」が集まってきて、その地区内に新しい「風」が起きるということ。こうしたことが、今後の子ども会や保護者会活動には必要なのではないか、ということですね。

そうやって考えていくと、今まで解放教育・人権教育における地域社会での子育て運動は、学校とのつながりを意識して行ってきた部分がありますが、それを引き続き維持しつつも、例えば「人権のまちづくり」運動や「地域福祉」に関する運動など、「コミュニティ形成」にかかわる運動とのヨコのつながりを意識していくことも必要なのではないか、と思います。あるいは、このことは「学校・家庭・地域との連携」や「教育・福祉・まちづくりの連携」を通じて、「行政と市民との協働」によって「人権尊重を核にしたコミュニティ形成」をすすめていく、という営みでもあると思います。

ついでにいえば、本来、大阪市内ですすめられている「市民交流センター(仮称)」なるものは、こうした「人権尊重を核にしたコミュニティ形成」の拠点として、「学校・家庭・地域との連携」や「教育・福祉・まちづくりの連携」を通じて、「行政と市民との協働」をすすめていくものとして構想されなければいけないでしょう。また、地方自治体レベルでの社会教育・生涯学習施策こそ、こうした「人権尊重を核にしたコミュニティ形成」の取組みにふさわしい行政施策ではないのか、と私などは思うわけですが。

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