できることを、できる人が、できるかたちで

京都精華大学教員・住友剛のブログ。
関西圏中心に、教育や子ども・若者に関する情報発信を主に行います。

今こそマスメディア関係者の「できることを、できる人が、できるかたちで」を

2012-10-21 12:18:56 | ニュース

ここ数日、マスメディアやインターネット、ツイッターなどで話題になっているのが、『週刊朝日』掲載の佐野真一氏らの連載のこと。この連載の1回目の中身をめぐって、橋下市長が抗議し、「朝日新聞の取材を受けない」等々の話が出て、『週刊朝日』側が謝罪・連載を中止するということが起きています。
また、橋下市長がツイッターで引き続き、『週刊朝日』や朝日新聞等々に対して攻撃を加えたり、あるいは、自分のとった対応に批判的な意見の持ち主に罵倒するかのような行為が続いているとも聞きます。
この件について、私なりに脇で見ていて、また、ちらっとではありますが、実際の『週刊朝日』の連載1回目の文章も読んでみて、思ったことを書いておきます。なお、いま、ツイッターやインターネット空間上での議論から距離をおき、「事態をなるべく時系列的に、俯瞰的に」見る努力をしてみようという意図で、連載1回目の文章の中身にはほとんど触れずに文章を書いてみました。こんな形のコメントでいいのかどうか、という思いはあります。ただ、事態を時系列的に、俯瞰的に見て行くと、この件を大きく取り上げ、「朝日」を罵倒することで、彼が何を意図しているのかもよく見えるように思えてきました。

(1)まず、時の政治家の人物像を生い立ちから描くことや、その人物につながる人脈などを書くこと。こうしたことは「時と場合」において必要であることは、私も認めます。また、それがたとえ被差別出身の政治家であっても、です。でなければ、たとえば、解放運動の指導者でもあり、参院議員でもあった松本治一郎のことを、きちんと論評することもできませんから。また、何か書く場合には、その人物のいい面ばかりではなくて、負の側面も書くことは当然出てくるとは思います。そして、書かれたものの中身については賛否両論、いろんなコメントを書き手が、あるいは出版した会社がうけることになるでしょう。また、差別的意図が記述にあたってあったかどうかも、そこで問われることもでてくると思います。

(2)ただ、今回の橋下市長の話でいうと、たとえば去年の大阪市長・府知事ダブル選挙の頃に、すでにいくつかの月刊誌(例えば『新潮45』2011年11月号)などで、橋下市長の生い立ちや人脈などについて触れる記事が出ています。また、その後も私の知る限り、雑誌など(例えば『G2』という雑誌の連載「と橋下徹」など)でもこうした記事があったかと思います。さらに、彼をめぐる人脈にさまざまな「利権」が絡んでいるのではないか、ということについても、すでにいろんな本で指摘されていることでもあります(たとえば一ノ宮美成、グループK21『橋下徹のカネと黒い人脈』宝島社、2012年)。そこにあえて、『週刊朝日』があらためて橋下市長の生い立ちや人脈などについて連載で切り込む、というわけですから、私などは従来とは異なる切り口がほしいな、というところでしょうか。でなければ、「もうそんなの、読んで知ってるよ。それがどうしたの?」という話になるでしょう。

(3)一方、雑誌が橋下市長の生い立ちや人脈に差別の問題を織り交ぜて書くことで、政治家としての彼への批判を強めようとする、いわゆるネガティブ・キャンペーンンの問題性については、すでに解放運動の関係者からも批判されています(たとえば赤井隆史「大阪W選挙と週刊誌ジャーナリズム―橋下氏勝利の立役者は「週刊新潮」「週刊文春」ではなかったのか」『ヒューマンライツ』2012年1月号)。また、こうした雑誌のキャンペーンが橋下市長の政治的な勢いを削ぐものにはあまりつながらなかったことも、すでに去年のダブル選挙の結果でも明らかなとおりです。

(4)さらに、先月はかつて従軍慰安婦だった韓国人女性に橋下市長が面会しなかったことについて、ツイッター上で強く抗議をした朝日新聞の阿久沢悦子記者に、橋下市長が罵倒を繰り返した上、「朝日の取材は受けない」といった出来事もありました。結局、阿久沢記者が謝罪をし、しばらくツイッターでの発言を控えることで一応、この件は終了したのですが。でも、ここからもわかるとおり、橋下市長が今、一番「朝日」と名のつく活字メディア(新聞・雑誌)に過敏になっていることがわかります。ちなみに、その後も橋下市長は、朝日新聞が取材したニュージーランドの学校評議会の記事に対して、何かツイッターなどでかみついたと聞いています。また、橋下市長が大阪府知事だった頃にも、なにかにつけて朝日新聞の記事にはかみついてきたのではなかったのでしょうか。それこそ、見様によっては彼の「朝日」嫌悪が、今回の『週刊朝日』への対応でも立ち現れたのだ、といってもいいのではないでしょうか。

(5)そして、この間、私の見る限りではありますが、新聞・雑誌などの活字メディア(それも一部でしょうけど)と、毎日放送のVOICEや関西テレビのニュースアンカーなど、ほんの一握りの志あるテレビ番組を除き、マスメディアの大勢は、橋下市長の流す情報をそのまま流しているのか、もしくは「劇場型」政治の「お先棒」をかつぐかのように、橋下市長の動きを面白おかしく伝えるような動きをしてきたかと思います。つまり、マスメディアの大勢が橋下市長の動きをただ追いかけるだけになるなかで、こうした一部の活字メディアと、ほんの一握りのテレビ番組だけが、「それはおかしいのではないか?」と彼に異論を唱え、突出するかっこうになっていたわけです。彼の側には、そういう突出したメディア関係者を、「いつか、口実を見つけて、たたいてやろう」という思いがあったのではないか。そんな推測すらできるくらいです。逆に言うと、「他のメディア関係者が、すでに彼の術中にはまって、身動きとれないでいる」がゆえに、一握りの突出したメディアに対する彼の攻撃という手法が成功しているのかもしれません。

(6)こうしたこの間のいきさつ、状況から見て、私は<『週刊朝日』の編集部や佐野氏が、この間の大阪のマスメディアと橋下市長の関係をめぐる状況について、あるいは、差別をめぐる状況について、十分な理解ができてなかったのでは?>という思いを抱きます。もしもそこがよく理解できていたのであれば、たとえば橋下市長が推進しようとしている施策が抱えている矛盾、赤字財政の再建など過去の実績と呼ばれるものが実はそうでもなかったことなど、政治家としての彼の手腕や発想などの問題点を先に連載で取り上げる、ということもできたのではないかと思います。あるいは、彼と彼の周辺に居る人に何がしかの「利権」をめぐる疑惑があったのなら、そこを先に、重点的に取り上げて書くという方法もあったのではないでしょうか。その意味では『週刊朝日』の連載について、個別の記事の中身以上に、私は橋下市長に関する連載の組み方、テーマの取り上げ方の面で、そもそも問題があったのではないか、とも思います。

(7)その一方で、「何か口実を見つけては、活字メディアもテレビも徹底的にぶったたいて、自分の言うことをきかせよう」という方向で橋下市長が動いているのであれば、これはこれで、やはり徹底的にその動きを批判しておかなければなりません。また、そのことで活字メディアやテレビが沈黙し、橋下市長の動きに対して追従する報道しかしないのであれば、これはこれで、大問題です。これまでもこのブログで書いてきたとおり、今、橋下市長が推進しようとしている諸施策は、子どもたちを中心に、大阪市内に暮らすさまざまな人々にマイナスの影響を及ぼす結果が予想されるものがたくさん含まれています。こうした施策の問題点をきっちりしてきて、「そこはどうするのだ?」「このようなマイナス面の大きい施策はいっそ止めた方がいいのではないか?」と追及していく営みが、今こそ求められているときはありません。その意味で、今、沈黙している「朝日」だけでなく、それ以外のメディアについても「いったい、これから橋下市長の動きに対して、どう対峙していきたいのか?」が問われているのではないでしょうか。

(8)もしかしたら今の彼には、今後の国政進出に際して、「大阪の改革の実績」を「ウリ」にしたいのかもしれません。だとしたら・・・・。今の彼にとっては、その「大阪の改革」なるものの内実が、実はこんなにも住民生活にマイナスの影響しか与えないものであったり、あるいは、地域コミュニティを破壊するものであったりする。そのことがオモテ沙汰になって、「大阪の改革の実績」なる看板に泥を塗られてしまうことこそ、彼は一番、恐れているのではないでしょうか。しかも、その「大阪の改革の実績」なるものの中身が実は住民生活にとってマイナスの影響しか与えないものだったことが、あれも、これも、こっちも、あっちもと言う具合に次々に表面化することこそ、彼にとっては困ることなのではないでしょうか。だからこそ、そういうことをぶつけてきそうなマスメディア関係者には、何か口実をみつけて、徹底的に彼は攻撃するのかもしれません。

(9)私が思うに、新聞・雑誌・テレビといったマスメディアが、それぞれにそれぞれの切り口、テーマ、方法でもって、今、彼が大阪で推進しようとしている施策の問題点を取り上げ、一斉に批判的な報道をはじめたら、彼は立ち往生すると思います。個別というか、ある突出したメディアだけを徹底的にたたくことでまわりを黙らせるという手法が、かなり通じなくなるからです。少なくとも、同時に2つ、3つの課題を突き付けられるだけでも、彼の突出したメディアをたたくという方法は、かなり有効性を失います。そして、そのときにおそらく彼がとる次の手は「ほとぼりが冷めるまで黙る」「自分が有利に反撃できる場所まで逃げる」「追っ手の来ないところで吠える」「自分より力のありそうな勢力の庇護の下に行く」といったこではなはいかな、と思います。

(10)ということで、ここらがマスメディア関係者の正念場です。今こそ、マスメディア関係者の「できることを、できる人が、できるかたちで」を発揮してください。私も応援しています。


これを読んで、どう思われますか??

2012-10-15 08:37:54 | 受験・学校

Q:保護者の意向で事故死と伝えたのですが、自殺という噂が流れているようです。どのように対応すればよいでしょうか?
A:いったん事故死として報告したのであれば、それを貫くことが
必要です。「自殺ではないのか」という生徒の質問に対しては、「なぜそのように思ったのか?」「誰にそのように聞いたのか?」「そう聞いたとき、どのように感じたのか?」など丁寧に話を聴いたうえで、「学校としては、家族の方から事故でなくなったと聞いている」ことを毅然として伝え、無責任な発言で亡くなった児童・生徒本人やご家族をさらに傷つけることのないように伝えます。(福岡県臨床心理士会編『学校コミュニティへの緊急支援の手引き』金剛出版、2005年、p.148)

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この文章を読んで、みなさんはどう思われましたか? この文章は、学校での事故・事件が発生するなどの事態が生じたときに、臨床心理士などが学校への緊急支援という形でどのような対応をするのかをまとめた本に出てくる言葉です。

しかし、たとえ当初「事故死ではないか?」と見て、その形で報告したケースであっても、あとから「自殺ではないか?」という声が出始めたのであれば、そこであらためて調査をしなおして、可能な限り正確な事実経過にもとづいて報告をしなおす。それが本来のあるべき姿なのではないでしょうか。
また、このような対応こそ、学校での事故・事件などで亡くなった子どもや遺族をさらに傷つける「隠蔽」という行為なのではないでしょうか。


ちなみに、この本は福岡県の臨床心理士会がまとめた手引きですが、この本の執筆者のひとりは、文部科学省の児童生徒の自殺予防に関する調査研究協力者会議のメンバーでもありました。


「いったい、誰に向けて、どんな調査研究やっているのか??」
そのことが今、学校現場の教職員や教育行政だけでなく、学校にかかわるさまざまな専門家集団についても問われているように思います。






この20年の自分の歩みをふりかえる話をしました。

2012-10-13 23:37:00 | いま・むかし

ここのところ、なかなかブログの更新にまで手間がまわらず、申し訳ありません。近況報告や急ぎの情報発信などは、フェイスブックまたはツイッターでやっています。もしもお急ぎの場合は、そちらを検索して、私の所在を確認してください。ただし、ツイッターでのフォローやフェイスブックでの友だち申請などにあたっては、どこの誰だかわからない方ははじくようにしています。また、誹謗中傷などがある場合も、その方をブロックするようにしておりますので、その点はご理解ください。

さて、私が大阪市内で不登校の子どもの居場所づくりに関わって、ちょうど今年で20年。かかわりはじめたその頃の私は、大学院進学が決まった直後の大学4回生。もうそんなに月日がたったのかと思うと、驚きです。
どうして今、あらためてそんなことを言うのかといいますと、今日の午前中、京都市内でおこなわれた「きたけん」学習会で、そのような趣旨での話をしたから。
今日はその学習会で、「できることを、できる人が、できるかたちで―子どもの人権を守るための地域のとりくみとは?―」というタイトルで、大阪で不登校の子どもの居場所づくりをはじめ、兵庫県川西市の子どもの人権オンブズパーソン制度にかかわり、そして、大阪市の「ほっとスペース事業」から青少年会館に関わりはじめたこと。青少年会館条例廃止後も大阪市内の各地区の子ども会活動などを側面から、研究面でサポートしていくことにとりくんだこと。そんなことをふまえて、子どもの人権を守るためのさまざまな地域レベルでの取組みについて、私が今、考えていることについて話をしました。
今日、自分が話をしたことをふりかえりますと・・・・。今まで自分がこの20年近く、主に大阪という場で取り組んできたことを、そろそろ「子どもの人権」や「居場所づくり」などをキーワードにまとめていく時期にさしかかっている・・・・。そのようなことをこの頃、実感しはじめました。
あと、私の講演の前に、この京都市内の地区で取り組んでいる子ども・若者のダンスサークルの発表や、「竹田の子守唄」の披露もよかったです。特にダンスサークルが解放歌や宣言などの映像を流しながら、そのイメージをからだで表現するヒップホップの踊りを見せてくださったのには、正直なところ「すごいな~、こういう表現もあるんだ」と思いました。また、あらためて映像と音楽で解放歌や宣言に触れると、今日はなぜだか、涙がぽろりと落ちました。今年って、宣言から90年目の年なんですね。
ところで、今後もしばらくの間、各地での講演活動が続き、日ごろの大学での仕事や原稿執筆との両立にいろいろと悩む日々が続きそうです。ブログの更新もその分、途切れがちになります。どうかご理解をお願いします。
また、このところ、大津市での中学生いじめ自殺事件をきっかけにして、私のところに「公的第三者機関(=川西市の子どもの人権オンブズパーソン)での経験をふまえて、何かお話を」という依頼が来ます。あるいは、『人権教育と市民力』(平沢安政編著、解放出版社)に「子どもの権利」(第6章)を書いたことをきっかけにして、子どもの権利条約の話をしてほしいという依頼もあります。そして、両方をまとめた講演依頼もあります。
そういう講演依頼を受けて、いろいろとお話をさせていただくなかで、今、私がかなり強調しているのが、子どもとおとなの「応答的なかかわり」ということ。これは大学で「子ども支援論」の授業をするなかでも強調していることですし、今年前期の大学院講義で、浜田寿美男さんのワロン論などを紹介するなかで、あらためて大事だと実感したことでもあります。
今日のところはあまり詳しく書くことはありませんが、また今後、このブログで「応答的なかかわり」について触れたいと思います。




そもそも、この提案をした人たち自身の他者への想像力が問題

2012-10-03 05:31:17 | ニュース

http://mainichi.jp/select/news/20121003k0000m040120000c.html
(大阪市教委:独自の独自の「いじめ対策」、教育振興計画素案:毎日新聞2012年10月2日付けネット配信記事)
そもそも、彼らは去年秋段階の「教育基本条例案」では反対が多くて盛り込めなかったことを、こうして教育振興基本計画の議論のプロセスで盛り込み、やろうとしている点で、「おかしいやないか!」と言わなければいけない。そこで1点目。
次、彼らは体罰を加えなければ痛みがわからないというが、逆に、「なんでも身を以て痛さを知らなければ何も理解できないような、子どもってそんなに鈍感な存在なの?」という、そもそもの子ども理解の前提の部分で「あんたら、大丈夫?」と言わねばならないこと。そもそも、子どもという存在への想像力や理解力を欠いている、と思う事。そこで2点目。
3点目。暴力をふるったり荒れたりしている子どものなかに、かつて誰かにそういうしうちにあってきて、今、そうせざるをえない状況にある子どももいるかもしれない。そういうことへの想像力、理解力を彼らが欠いているということ。
4点目。自分にとっては「あそび」や「ふざけ」のつもりでも、その行為が相手やそれを見ている周囲の人にとっては苦痛極まりない。そういう他者への理解や想像の力こそ、本来はさまざまな経験を通して子どもたちに育む必要があると思うのだが、これだと彼ら自身が、日常の学校生活のなかで、「自分が気に入らないと思ったら、相手がどう思おうと、少々乱暴に殴ってでもなにしてでもかまわない」という行動のモデルを提示してしまうことになる。そのことへの想像力や理解力を、彼ら自身が欠いている、ということ。
そして、こういう子どもへの理解力や想像力を欠いたところから発想される諸提案は、それが学校で実現されたときには、自分らのストレス発散にはなるかもしれないが、結果的には子どもを追いつめ、教職員をしばり、学校をより息苦しいものにするだけ、ということ。これで5点目。
ついでにいうと、「そうですか。人は殴らないと痛みを理解できないということですね。じゃあ、あんたらが私らに理不尽なことしたら、私らあんたらを殴りますけど、いいですね?」といいたくなるけど、彼らは自分らにはがっちりSPつけて我が身を守り、法令でなおかつ自己弁護をする技には長けている。そういうことへの理解や想像がまるでできていないということ。これで6点目。

※フェイスブックに書きこんだことを、こちらにも転載しました。