できることを、できる人が、できるかたちで

京都精華大学教員・住友剛のブログ。
関西圏中心に、教育や子ども・若者に関する情報発信を主に行います。

子どもの権利条約第31条(その2)

2011-01-31 16:08:26 | アート・文化

久しぶりの更新になります。

ついこの前正月だと思ったのに、来月からもう2月ですか。月日がたつのは早いものです。来月からまた再び、こちらのブログも更新をこまめにしていこうと思います。今日はまず、その予告です。

それとともに、最近のアクセス解析をみていると、子どもの権利条約第31条(休息・余暇、遊び、文化的芸術的生活への参加)の話のところに、かなりひんぱんにアクセスがあるようです。これはたいへん、ありがたい話です。

最近の私は、学校教育における子どもの権利保障もさることながら、この子どもの権利条約第31条を手掛かりにして、学校外の生活における子どもの権利保障にも目を向けていくことの重要性を、いろんな場を通じて訴えかけていくように意識しています。

先週の金曜日夜も、大阪市西成区で障害のある子どもたちの職業体験活動に取り組む人たちの集まりで、子どもの権利条約の話をしてきました。その話をした場所が元青少年会館、今の市民交流センターです。

で、当然ですが、「放課後に子どもたちがさまざまな体験活動をする場」の重要性だとか、カルチャーセンターやスポーツクラブなどが運営する子どものピアノ教室や体操教室への参加に月謝がかかることから、家庭の経済力が放課後の子どもの暮らしを左右していること。その家庭の経済力のあるなしにかかわらず、子どもにさまざまな体験活動をする機会を保障しようとすれば、かつての青少年会館のような場が大事だとか。それなのに、なぜ大阪市はこんな大事な施設を廃止してしまったのか、等々。

あるいは、障害のある子どもたちの地域生活への参加促進、インクルージョンの進展ということを考えると、子どもの権利条約にのっとって学校でのインクルーシブ教育の推進も大事であることはまちがいない。だけど、放課後や長期休暇中に、障害のある子どもたちが地域社会に参加していくことのできる場づくりも大事。そのときに、職業体験や自然体験、アートや音楽に触れる体験等々、子どもの権利条約第31条にのっとった取り組みも大事だということ(だから、西成区で今、みなさんが取り組んでいるような障害のある子の職場体験活動は、子どもの権利条約の理念に沿ったとりくみなんですよ、ということ)。

とにかく、なにかと子どもの権利条約第31条にひっかけて、このような感じで、好き放題、話をしてきました。

でも、あらためて考えてみると、上で述べたような視点って、大事ですよね。子どもは学校という場のなかだけで育つのではなく、地域社会のさまざまな活動の場でも育っていく。そこでは遊びやアート、音楽、スポーツ等々、いろんな体験を積み重ねていく機会が用意されていることが望ましいだろうし、その機会の利用にあたってはお金はできるだけかからないことが重要だろうし・・・・。そして、そういう活動の場に参加する・しないという段階からその活動の運営の在り方に至るまで、子どもたちの意見が尊重されるような場であることも望ましいでしょうし・・・・。

このような形で、私としては今後も積極的に、子どもの権利条約第31条に関する話をしていきたいと思ったのでした。

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中教審の「インクルーシブ教育」関連パブリック・コメント

2011-01-23 18:00:17 | 受験・学校

今日は中央教育審議会初等中等教育分科会・特別支援教育の在り方に関する特別委員会(この委員会の名前が長い! ひとまずここでは「特別委員会」と略)が出した「論点整理」に対して、文部科学省が「パブリック・コメント」を受け付ける最終日です。

ひとまず私のほうとしても、何かコメントを送っておきたいと思って、「論点整理」の出だしの部分にある「1.インクルーシブ教育構築に向けての特別支援教育の方向性について」に関してのみ、自分の意見をメールで送っておきました。

なにしろ「論点整理」を読んだときに、一応添付資料で「子どもの権利条約」(児童の権利に関する条約)の「抄」が掲載されているものの、それに触れられているのは障害のある子どもの就学先決定に関する手続きでの本人の意見聴取の話の部分くらい。もちろん、その手続きそのものは大事です。

しかし、子どもの権利条約における障害のある子どもに関する規定や、これまでの国連子どもの権利委員会の総括所見の趣旨からすると、「そもそも、インクルーシブ教育をすすめるにあたって」という部分から、子どもの権利条約や総括所見の趣旨を反映させたものにすること。つまり、教育の場において、障害のある子どものインクルージョンを促進することを原則としたものにしなければおかしいのではないか、とも思うわけです。

だから中教審では今、障害者の権利条約批准という状況を前にして、今後日本でインクルーシブ教育をどうすすめるかという議論になっているのだけど、「そもそも、もっと前から子どもの権利条約を手がかりにして、インクルーシブ教育の推進を原則にするべきではなかったのか」という話もあるだろう。そういうコメントを書いて、メールで送信しました。

ちなみに、中教審の前出「特別委員会」のヒアリングにおいては、下記のように、インクルーシブ教育を推進する立場から、以下のような意見もでています。

http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chukyo/chukyo3/044/attach/1298937.htm

この「障害者権利条約批准・インクルーシブ教育推進ネットワーク」の立場からの意見には、子どもの権利条約だけでなく、国連子どもの権利委員会の障害のある子どもに関する総括所見の趣旨を、障害者の権利条約の趣旨とあわせて取り上げる形で、日本の今の障害児教育の問題点を指摘しています。

こうした議論の展開のしかたは、同時期にヒアリングされたほかの団体には見られない特徴なのですが、しかし、私はこのグループの立場からの意見こそ「まっとう」だろうと思います。

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最近読んだ雑誌から(1)

2011-01-13 19:41:29 | いま・むかし

今日は最近読んだ雑誌の内容へのコメント。とりあげるのは民主教育研究所編『季刊人間と教育』68号(2010年冬号)。

まず、特集の「子どもの権利条約と日本の教育」のほうから。

最初の2本、ロタール・クラップマン「日本政府に対する最終所見のポイント(講演記録)」、世取山洋介「国連子どもの権利委員会第三回最終所見を読み解く」を読むと、最近の教育政策の動向、特に新自由主義構造改革が子どもや学校、子育て中の家庭にもたらしたものへの批判的な意識の高まりを感じる。特に世取山論文には、そのような意識を強く感じる。

でも、そのあとの実践記録4本と、最初の2本との間に、論調のギャップを感じる。確かに子どもの権利条約の広報とか、子どもの生活実態の把握だとか、あるいは学校での子どもの権利憲章作りや地域社会での子育てネットワークの形成など、「子どもの人権保障」という観点から見たら重要な実践報告。だけど、世取山論文で出された子どもをとりまく社会の現状に対する批判的な意識と、そのあとの4本の実践記録に流れている執筆者の意識との間には、かなりギャップがあるような気がするのだが・・・・。

また、宮本みち子「子ども・若者育成支援推進法とは何か」、関口昌幸「自治体にとっての『子ども・若者育成支援推進法』を考える」は、正直なところまだ「こんな法律できましたよ。うまく活用しましょうよ」というレベルの話だと思って読んだ。不登校・ひきこもり経験者など「課題のある青少年」への社会的な支援の充実にこの法律がはたす役割については、この2本の書くところに同感。だが、すでに大阪市内で「ほっとスペース事業」にかかわってきた経験からすると、「今はこの法律を活かして、どんな施策を自治体レベルで構想するかという、その段階に来ているのでは?」と思う。

木村浩則「子どもの権利条約と教育実践の課題」は、子どもとの応答的関係の重要性や、子どもの権利の視点から教育実践を反省的に見直すことの大切さなどが指摘されていて、同感だと思うところもある。ただ、反省的な実践のふりかえり、見直しについては、川西市の子どもの人権オンブズパーソンの取り組みの中で、私らは繰り返し「おとなが子どもに対してよかれと思ってしていることが、子どもの側からみればそうとも限らないこともある」という話をしてきた。そんな話もつけくわえてくれたら・・・・というところだろうか。

総じて、私としては、子どもの権利条約に関する学校での教育実践や、国連子どもの権利委員会の所見(3回目)に触れているということで、この雑誌の特集自体はプラスに見ている。だが、世取山論文であそこまで子どもをとりまく社会の現状批判を強くするのであれば、実践報告や他の論文も、この特集ではその視点でコーディネートして書く必要があったのでは・・・・と思ってしまった。

ちなみに、後半の小特集「戦後教育学理論への批判と継承」。これ、あらためて、じっくりと読みたいと思った企画である。私もこのテーマには、興味を持っている。

それと、この小特集で目を引いたのは、佐貫浩「堀尾輝久の『国民の教育権論』をいかに継承するか」の次の文章。以下、引用部分を色を変えて表記する。

1970年代、持田栄一が盛んに堀尾の「私事の組織化」論に対して、それはブルジョワ民主主義だという趣旨の批判を行っていた。今、親の「私事」が、まさに「私的欲求の公共化」として学校選択などのシステムによって「組織化」され、市場的な競争教育を推進する圧力として働いている現実からすれば、持田の批判は当たっていたともいえる。(『季刊人間と教育』68号、2010年、114ページ)

持田栄一の強い影響を受け、その公教育論を批判的に継承しようとした故・岡村達雄の教え子としてみれば、「やっぱり、そういう評価になるでしょう」ということ。「亡くなった岡村先生は昔から、持田さんの理論に学んで、こういうことを言ってきたように思うのだけど・・・・」と、あらためてこの佐貫論文を読んで思った。

だからきっと、そういう持田栄一・岡村達雄やその仲間たちからの批判の系譜を無視しないで、きちんと位置付けたうえで、堀尾輝久「国民の教育権」論について議論してほしいと思うのは、私だけではないと思う。

というような次第で、あらためてこの雑誌を読んで、持田栄一・岡村達雄の公教育論を読みなおしたいという気持ちを抱いた次第である。

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最近読んだ本から(1)

2011-01-10 11:16:21 | いま・むかし

今日は最近読んだ本の内容から。

今週末に仕事でハンセン病療養所に行く関係もあって、昨夜、畑谷史代『差別とハンセン病 「柊の垣根」は今も』(平凡社新書、2006年)を読みました。この本の第6章「内田博文さんインタビュー」に、次のような文章がありました(以下、文字色を変えている部分は、この本からの引用部分です)。ちなみに内田博文さんは、この本によると、ハンセン病問題の歴史的検証と再発防止のために、国が設置した第三者機関「ハンセン病問題に関する検証会議」で、副座長と最終報告書起草委員長を務めた方とのこと。また、内田さんの本職は刑事法が専門の大学教員だそうです。

 検証会議では、「検証と裁判の関係」「研究と検証の違い」について整理しなければいけないと発言しました。裁判は、法的責任を追及する限りにおいて過去の事実に光を当てるので、法的責任になじまないものは扱わない。一方、検証は歴史の事実を明らかにする目的なので、法的責任の有無にかかわらず重要な事実は事実として解明しなければいけない。また、検証は再発防止に結びつかなければいけません。

 多くの研究者にとって、研究は第三者の立場に立つことです。これに対して、検証に第三者の立場はない、と私は思う。徹底的に被害者の立場に立たない限り、検証はありえません。だから、机の上で考えていては検証にならない。被害の現場でものを考えなければいけない、というのが私の考えです。(以上、『差別とハンセン病』146~147ページから引用)

これを読んでパッと私のアタマに浮かんだのが、学校事故・事件をめぐる研究の動向、特に教育法学や教育行政学の立場からの研究の動向のことです。

学校事故・事件の問題については、教育法学や教育行政学の領域で、長年、さまざまな研究が行われてきました。また、このような研究領域からは、事件・事故発生時の公的第三者機関設置に関する提案や、事実究明のあり方などについて、さまざまな提案も行われてきたところです。だから、今まで行われてきた教育法学や教育行政学などの学校事故・事件関係の研究のなかには、被害者の救済や被害者遺族支援という観点から見て、意味のあるものもたくさん含まれています。

ただ、これまでの学校事故・事件に関する教育法学・教育行政学の研究では、訴訟となった事例を軸に研究をすすめてきた面があるゆえに、どこか「裁判」という枠でしか、起きた学校事件・事故に関する事実を取り上げてこなかった面があるのではないのでしょうか。あるいは、これらの領域での研究においては、今まで学校事故・事件について、事実の「検証」という面からのアプローチは、どこまで徹底されていたのか、という疑問が私にはあります。

また、これまでの学校事故・事件に関する研究において、「被害者の立場にたちきる」形での「検証」が弱かったとすれば、従来の研究は、内田さんの意見をふまえていえば、どこまで行っても研究する側の利害・関心にもとづくもの(それが全部、ダメというわけではないのですが)であったということになるのではないでしょうか。

このような次第で、私はこの内田さんインタビューの文章に触れることで、いままでの学校事故・事件に関する研究に何が足りなかったのか、ということにハッと気づかされたような次第です。そのことを、今回、書き記しておこうと思います。

なお、この本の最後に「Ⅱ 資料編」という位置づけで、検証会議報告書の概要紹介が行われています。このなかにある「4 各界の責任」という節には、医学・医療界、法曹界、宗教界、マスメディアとともに、ハンセン病者の隔離政策に「依存」してきた福祉界、この政策と「表裏一体」の教育界の責任が指摘されています。たとえば、次のような内容です。

 近代の社会事業は、公衆衛生とともに治安政策としての側面を持っていた。それは「近代国家の体面維持」という目的があり、社会事業、公衆衛生ともに内務省の所管だったからでもある。こうした背景から、社会事業を担う福祉界は、強制隔離政策に初期段階から全面的に同調し、患者の入院援助や隔離政策への募金協力などに具体的に取り組み、民生委員は無らい県運動の推進役となった。 (同上、207ページ)

 療養所内の普通教育は、子どもたちがあくまでもらい予防法の体制を受け入れ、療養所内で生きることを前提としていた。このため、獲得されるべき学力の目標も「新聞が読めて、手紙が書けて、園内通用券の計算ができる」という水準にとどまっていた。その意味で、教育は隔離政策と表裏一体をなしていた。(同上、209ページ)

昨日は学校ソーシャルワーク(SSW)について、SSWの関係者が本気で「子どもの人権と社会正義の実現」にこだわるのであれば、必ずしも「学校・教育行政との協働」とばかり言ってられないこともあるのではないか、という話をしました。

かつて日本政府が積極的に進めてきたハンセン病者の強制隔離政策の実施に、教育・福祉・医療などの専門家、研究者がどのようにかかわってきたのか。SSW関係者が本気で「人権と社会正義の実現」という言葉にこだわっていくのであれば、このような強制隔離政策の歴史的な事実の重みに謙虚に向き合う必要もあるのではないのでしょうか。それこそ、かつてのハンセン病者の強制隔離政策だって、行政と専門家を含むさまざまな人びとの「協働」で進められた面もあるのではないでしょうか。

なんのための行政との「協働」なのか、行政との「協働」は無条件に、常にすばらしいことなのか・・・・。本気でSSW関係者が「人権と社会正義の実現」にこだわるのであれば、そこを問う必要があるのではないかと思います。

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学校・教育行政との「協働」をめぐって(1)

2011-01-09 18:08:21 | 受験・学校

日記帳ブログにも書きましたが、昨日は「教育の境界研究会」で久々に報告をしました。そこで私は、学校ソーシャルワーク(School Social Work:以後SSWと略)の研究、事業や実践の現状などについて、自分の思うところを正直に語ってみました。

ちなみに、私はSSWに対して「期待するところ大」という立場をとっています。特に「子どもの人権と社会的公正の実現」だとか、教育に関する子どもの権利の実現に向けて、SSWの取り組みが、学校と家庭・地域社会や関係機関の連携の各場面において、いろんな力を発揮してくれることを願っています。

また、SSWに関する文献を読んでいると、かつて自分がかかわった子どもの人権救済・擁護の取り組み、あるいは、不登校の子どもたちなど、課題のある子どもの居場所づくりに学校外で取り組んだ経験が整理され、「なるほど、こうだったのか」と理解できるようになる面もあります。だからこそ、なおさら「期待したい」とSSWについては思ってしまうのです。

ただ、それだけに、かつての自分の経験と照らし合わせてみて、SSWに対しては、「本気で子どもの人権と社会的公正の実現にこだわるのであれば、もっと~でなければ・・・・」と思うところも多々あります。その1点目に挙げられるのが、この学校・教育行政との「協働」という部分についてです。

もちろん、子どもの人権保障の領域において、学校や教育行政と子ども人権救済・擁護の担い手や、あるいは子どもの人権に関する社会運動、民間団体の側とが協力して、いろんな取り組みをすすめていくべき必要があることは、これまでの私の経験からもいえることです。だから、SSWが学校・教育行政との「協働」を強調すること自体に、まったく意味がないとは思いません。

ですが、私としては、学校・教育行政のこれまでのあり方こそが「子どもの人権」を脅かしたり、あるいは、子どもの人権保障の拡大を著しく制約してきた部分があるとしたら、そこは当然、子どもの人権を守る側から何か、学校や教育行政に対してしかるべき批判等をしていく必要だって生じると思うわけです。

つまり、子どもの人権保障の充実ということを本気でSSWの関係者が考えるのであれば、学校・教育行政との「協働」も必要だけど、「それだけでは立ち行かない領域もある」ということを、どこかで「知っておく必要もある」のではないか、ということです。

たとえば、SSWが今後取り組もうとしている課題のなかに、「子どもの不就学問題への取り組み」ということがあります。この話は、『スクールソーシャルワーカー養成テキスト』(日本学校ソーシャルワーク学会編、中央法規、2008年)の第Ⅲ章に出てきます。また、この本では、外国籍の子どもたちの不就学の問題が取り上げられています。

さて、外国籍の子どもたちの日本の不就学問題については、これまで「人権教育」に関する研究のなかでも取り上げられてきたこと。たとえばこの問題については、教育社会学や比較教育学、教育制度論や多文化共生教育論、在日外国人教育論などの観点から、理論(歴史)・政策(制度)・実践などのさまざまな領域において、積極的に論じられてきました。また、外国籍の子どもの人権保障をすすめるさまざまな運動(アクション)、民間団体の取り組みもあるはずです。

こうした外国籍の子どもの教育課題に関する研究や、外国籍の子どもの人権保障をすすめる運動の側からは、これまで、義務教育制度を中心とする日本の教育において、やはり「国民の権利保障」という法制上の建前や、「日本人であること」を前提とした学校文化などが、さまざまな場面で学校から「国民ならざるもの」「日本人でないもの」を排除するものになってきた実態が指摘されてきました。

そして、外国籍の子どもたちの不就学問題について、SSWが本気で「子どもの人権と社会的公正の実現」にこだわるのであれば、当然、こうした研究や運動の動向と自分たちの取り組みがどう連携していくのか、そこを論じる必要があると私などは思うわけです。

また、SSWが重視する学校・教育行政との「協働」についても、外国籍の子どもの不就学問題については、そのような子どもをを積極的に学校で受け入れるために、今ある学校文化を組みなおそうとする教員たちや、そういう教員たちを積極的に支援しようとする教育行政と「協働」することはできるでしょう。しかし、外国籍の子どもの受け入れに消極的な学校・教育行政と、「子どもの人権と社会的公正の実現」をめざすSSWとは、どのように「協働」するのでしょうか?

このような形で、「子どもの人権と社会的公正の実現」を本気でSSWが目指すのであれば、必ずしも学校・教育行政の「協働」ということがうまくいくとは限らないような、そんな場面が多々あるのではないかと思われること。むしろ明確に学校や教育行政の「改革」を求めていくしかない場面があること。このことを、これまでの「人権教育」や「子どもの人権」に関する議論の流れのなかで育ってきた私としては、外国籍の子どもの不就学の問題に限らず、いろんな場面で感じることがあります。

今後、折を見て、このテーマについては、このブログで情報発信していきたいと思います。

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とりあえず、お知らせだけ

2011-01-06 18:55:03 | ニュース

今日は、ほんとうは最近読んだ子どもの人権関連の雑誌の話とか、いろいろと書きたいことがあったのですが、時間があまりとれそうにないので、ひとまず「告知」だけしておきます。

実は3月18日(金)、19日(土)=再放送、KBS京都のラジオ番組「京都人権情報」に、私が出ることが決まりました。「子どもの人権」に関する話をする予定です。

詳しいことは、下記のホームページをご覧ください。

http://www.pref.kyoto.jp/jinken/1290730437878.html (京都人権情報)

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子どもの権利条約第31条(休息・余暇、遊び、文化的・芸術的生活への参加)

2011-01-05 19:27:33 | いま・むかし

児童の権利に関する条約(子どもの権利条約)第31条 (休息・余暇、遊び、文化的・芸術的生活への参加)

1 締約国は、休息及び余暇についての児童の権利並びに児童がその年齢に適した遊び及びレクリエーションの活動を行い並びに文化的な生活及び芸術に自由に参加する権利を認める。

2 締約国は、児童が文化的及び芸術的な生活に十分に参加する権利を尊重しかつ促進するものとし、文化的及び芸術的な活動並びにレクリエーション及び余暇の活動のための適当かつ平等な機会の提供を奨励する。

(以上は『解説教育六法』(三省堂、2010年版)から、日本政府訳を引用。アンダーライン部は筆者)

日記帳ブログにも書いたとおり、今日から娘が民間のスポーツクラブが運営する短期間の体操教室に参加しました。この教室は主に幼児や小学生を対象に、鉄棒・跳び箱・マット運動の3種目について、冬休み最後の4日間の間にトレーニングをするというものですが。

ただ、この教室は民間のスポーツクラブ(それも企業が開設)が運営するものであるがゆえに、いわゆるカルチャーセンターの各種講座ように、受講料が必要。娘の場合、4日間で約1万円近くかかります。

そこから思ったのは、上記に引用した「子どもの権利条約」(児童の権利に関する条約)第31条の条文。特に2項の色を変え、アンダーラインを引いた部分についてです。

4日間で約1万円のこの体操教室、夫婦共働きの我が家の経済力ならまあ、子どもが「やりたい」といえば「出せるかな?」という範囲の金額です。

ですが、いくら子どもが「やりたい」といっても、そう簡単にこの金額を出しづらい、出したくても出せない家庭も、この日本社会にはあると思います。そうなると、<子どもの身体的な能力やスポーツにかかわる力の形成も、その力を形成する機会を「家庭の経済力」で得られるかどうかによって左右されるのか?>という疑問も出てきますよね。

また、今回の体操教室で扱う種目が鉄棒・跳び箱・マット運動と、学校の体育の時間でもおなじみの種目ということからすれば、「学校での体育の授業になじめるかどうかも、学校外でのスポーツや身体的な運動の機会に参加する機会を、各家庭が得られるかどうかに左右されるのか?」という話にもつながってきます。

そして、これは単にスポーツの領域に限らず、音楽や美術(アート)の領域にも同様のことがおきているのではないか・・・・とも思ったりします。

となれば、学校外で子どもがスポーツや音楽、美術(アート)などに触れる機会も、まさに子どもの権利条約第31条でいうように、この日本社会において「適当かつ平等な機会の提供」が十分に行われる必要があるということになるのではないでしょうか。

とりわけ、経済的に今、生活のしんどい状況にある家庭の子どもたちのなかにも、美術(アート)や音楽、スポーツといった文化的・芸術的活動に「参加」する場を必要としている子どもたち、子どもたちにそうした活動をやらせてみたいと思う親たちは、たくさんいると思います。そんな親子を支援していくためにも、公費による子どもの社会教育(スポーツ活動を含む)の機会の整備、文化的・芸術的な活動に「触れる」体験の場の整備ということは、なんらかの形で必要なのではないでしょうか。あるいは、こうした活動にとりくむNPOなどの民間団体への支援に、自治体や政府が積極的に乗り出すことが必要ではないのでしょうか。そのことはいずれも、子どもの権利条約の趣旨から見ても、各地の自治体行政が、あるは日本政府が、積極的に取り組んでもおかしくないことのはずです。

こんなことを今日、うれしそうに体操教室に参加して、鉄棒でクルクルまわっている娘を見ながら、私はあらためて感じました。そして、つくづく、「今こそ大阪市内に青少年会館や児童館があって、経済的に生活が苦しい家庭の子どもたちでも、本人がやりたい・親がやらせたいと思えば、さまざまな体験活動に参加できるような体制が整っていれば・・・・」と思ったのでした。

大阪都構想だとか、大阪市をいくつかに分けるとか、カジノを誘致するとか、そういう議論をする前に、首長も地方議会議員ももう少し、この街に暮らす子どもたちがほんとうに「笑える」ような子ども施策を考えてほしいものです。

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学校外の学びの場のもつ意味をどう考えるか?

2011-01-04 21:31:48 | いま・むかし

今日は朝から、年末年始にあえてしなかった仕事をするのに追われていました。

そのなかでも、今学期の私の担当科目「子ども支援論Ⅰ」と「教育課程論」の小レポートで学生たちに書いてもらったことと、ここ最近考えていること、知りえたことなどが何かつながりかけたので、そのことを書いておこうと思います。

それは何かというと、「学校外の学びの場のもつ意味をどう考えるか?」ということです。

ちなみに「子ども支援論Ⅰ」のレポートでは、「子どもや若者の居場所」にこだわるということで、ある居場所づくり活動に取り組む方の文章を読んで、学生たちにコメントを書いていただきました。もうひとつの「教育課程論」のほうは、子安潤『反・教育入門 教育課程のアンラーン』(現代書館)を読んで書いてもらったレポートと、2008年版の中学校学習指導要領のうち「総則」の部分を読んで書いてもらったレポート、この2つです。

この3つのレポートを読みながら思い出したのは、去年12月の子育ち連携部会(子ども情報研究センター)で聴いた大賀正行さんの話と、同じく10月の山中多美男さんの話です。

具体的に何を思い出したのかというと、大賀さんや山中さんが地元で子ども会活動に熱心に取り組んでいた若かりし頃、仕事や活動を終えた夜の時間帯に仲間を集めて、社会科学系の本を読んで勉強する会をしていたというエピソードです。

このエピソードから私は、当時の高等教育機関への進学率を考えると(なにしろ1950年代末ですから)、学ぶ意欲にあふれた働く若者たちのなかに、夜や休日に自発的に集まり、誰かをリーダーにして学ぶ場をつくろうという動きが、それ相応にあったのではないか。そんな思いを抱いたのです。

また、このことは、以前、小関智弘さんの書かれた本(たとえば『働きながら書く人の文章教室』(岩波新書)など)を読んだときにも感じたこと。小関さんはご存知の方もいると思うのですが、長年、町工場の旋盤工として働きながら作家活動に取り組まれた方です。確か、働きながら小説を書いてみようと思う若者たちの同人誌づくりや、本を一緒に読む活動のなかで、小関さんは文章を書くトレーニングをされたはずです(このあたりは『働きながら書く人の文章教室』のなかに確か出てきたかと)。

それで、このような学校外で働く若者たちが、自発的に集まって学習会やサークル活動を行ってきたということ。ここになぜこだわるのかというと、「学校で学習指導要領に沿った学習を通じて身に着ける『学力』なるものは、それが全部無意味だという気はないが、しかし、やっぱり学習指導要領に枠づけられた力だということを忘れてはならない」という思いを、学生たちのレポートを読んでいてあらためて感じたからです。

また、「学校外の子どもや若者の居場所には、そのような学習指導要領に沿った学習を通じて身に着ける『学力』なるものに傷ついた子どもや若者が集まってくるのでは? だとしたら、学校外の居場所から学習指導要領の中身や、それを身に着けて『学力』を高めるということが持つ意味を問うこともできるのではないか?」と、学生たちのレポートを読んで感じました。

たぶんこの話は、今後も繰り返しでてくる話になると思います。また、不登校論を入り口にして教育学の研究の世界に入った私にとっては、いちばん「原点」にある問いといってもいいものだと思うものです。ただ、今日のところは長々と書かず、ひとまず思いついたことを書き留めておく程度でということで、この程度の記述にとどめます。

まぁ、今はとにかく、ツイッターでつぶやくように書くというのか、文章をこのブログにできるだけこまめに書くということ。それを大事にしようと思っていますので・・・・。

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新しい年を迎えました。

2011-01-01 11:02:33 | 学問

2011年の元旦です。新しい年を迎えました。本年もどうぞよろしくお願いいたします。

本格的なこのブログの更新は、「年末年始は仕事をしない宣言」をしている期間中ですので、1月4日(火)以降に行う予定です。

ですが、なにか気分だけでも変えてみようということで、ブログのテンプレートだけは変えてみました。

今年は日記帳ブログと同様、こちらのブログでも、季節感がでるように、テンプレートだけでもこまめに変えてみようかな、と思っています。

どうぞよろしくおつきあいください。

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