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京都精華大学教員・住友剛のブログ。
関西圏中心に、教育や子ども・若者に関する情報発信を主に行います。

教育基本条例のこと(2)

2011-09-08 07:02:44 | 受験・学校

2日前に「教育基本条例のこと(1)」を書いたところ、その内容を「いんくる~しぶ・は~つ」というブログで紹介していただいたようです(http://blog.goo.ne.jp/kiyoyo_2006)。その分、若干ではありますが、このブログへのアクセス者数が増えたような印象です。たいへんありがたいことです。この場をお借りして、ひとことお礼申し上げます。

さて、今日も書いておきたいのは、大阪維新の会が出そうとしている教育基本条例(素案)のことです。前回に引き続き、「前文」のところで私がつまづいてしまったことを書きたいと思います。ちなみに前回は、この大阪維新の会が出そうとしている条例素案は、他自治体の「子どもの権利条例」とは理念的にまったくちがって、議会や首長の教育への「介入」を正当化したいという意図が露骨に出た条例素案だ、ということを書きました。今回はその教育への「介入」を正当化したい意図がほんとうにまっとうなものなのかどうか、そこを問題にしたいと思います。

まず、この条例素案、前文の出だしで次のことを言います。

<大阪府教育基本条例(素案)・前文>

大阪府における教育行政は、選挙を通じて民意を代表する議会及び首長と、教育委員会及び同委員会の管理下におかれる学校組織(学校教職員を含む)が、法令に従ってともに役割を担い、協力し、補完し合うことによって初めて理想的に実現されうるものである。教育行政からあまりに政治が遠ざけられ、教育に民意が十分に反映されてこなかったという不均衡な役割分担を改善し、政治が適切に教育行政における役割を果たし、民の力が確実に教育行政に及ばなければならない。

私などはもう、ここでひっかかってしまいます。というのも、現行の教育委員会制度のうち、教育委員は、「地方教育行政の組織及び運営に関する法律」(略称・地教行法)によって、「当該地方公共団体の長の被選挙権を有する者で、教育、学術及び文化(以下、単に「教育」という。)に関し識見を有するもののうちから、地方公共団体の長が、議会の同意を経て任命する」(地教行法第4条)と書いているからです。

つまり、住民の選挙で選ばれた首長が、教育委員にしたいと考える人を候補に選んで、住民の選挙で選ばれた議会の同意を得て、教育委員を任命するわけです。したがって、もしも大阪維新の会がいうように、従来の教育委員会制度に民意が適切に反映されていないというのであれば、それは教育委員会制度そのもの、つまり国の法律自体を変えるのか、それとも、首長や議会の教育委員選任のプロセス自体を問題にしなければいけない、ということになるでしょう。

そして、上記下線部のような理解に立てば、私などは、今の大阪府の教育委員たちが「民意を反映していない」というのであれば、「そもそも今の教育委員を選んだのは首長である知事であるし、その知事が選んだ人に同意を与えた議会のほうが問題なのでは? そこを問題にすることなく、条例で教育委員の罷免権などを定めるのは、いかがなものか?」という気もするわけです。今のこの条例素案に対して、教育委員会側が冷ややかな態度をとるとしたら、「それも当然でしょ」といいたくなってしまいます。

だいたい、「選挙」という形で本当に「民意」を教育委員会制度に反映させたいのであれば、地教行法以前の教育委員会制度は、教育委員の公選制をとっていたわけですから、それにもどすという手もある。なぜ大阪維新の会は国政に対して、そこは提案しないのでしょうか? 

あるいは、かつての東京都中野区が条例を定めて行ったように、首長が任命すべき教育委員の候補者を選ぶという「教育委員の準公選」を大阪府でもやってみる、という道もあります。大阪維新の会は、その方向性はどう考えるのでしょうか?

もしも「民意の反映」ということを議会や首長の教育への「介入」を正当化する理由として掲げるのであれば、当然、大阪維新の会でこの2つのことは検討されてしかるべきだし、それではなぜダメかということを説明しなければいけないでしょう。

さらに、「民意の反映」は、「議会や首長の意見の反映」とイコールではありません。

たとえば、教育委員会が積極的に情報公開を行い、その情報をもとにして、各地でタウンミーティングや公聴会的なことを行って住民の要望や苦情、意見などを聴取するとか。あるいは、教育施策に関する各種審議会やプロジェクトなどに住民代表の参加の機会を設け、そこで住民の要望などを取り入れるとか。ほかにも、もうすでに行われているパブリック・コメントをもっと積極的に活用する道もあるだろうし、教育行政や学校に対する苦情対応の窓口をもっと積極的に整備する道もあります。このように、住民からの要望や意見などを受けて教育委員会が施策立案などに役立てるルートは、何も議会や首長が教育にもの申すルートだけとは限らないわけです。そのルートを適切に教育委員会規則などで定めることだってできるかと思うのですが。

それこそ、この条例素案にも「学校運営評議会」の設置が出ていますが、今の学校教育法施行規則第49条にも「学校評議員の設置・運営参加」という条文があります。これは小学校に関する規定ですが、中学校や高校にも準用されています。この学校評議員制度をもう少し大阪府内の学校で積極的に位置づけるような教育委員会規則などを設ければ、今よりは多少ましな形で、地元住民の要望などを反映する学校運営もできるでしょう。

今だされている大阪維新の会の条例素案は、こうしたさまざまな取り組みの良し悪しを一応検討・考慮したうえでつくられているのでしょうか? 私の目から見れば、どうもそうではなさそうだというしかありません。むしろ、「選挙で選ばれた首長と議会こそが民意、それこそがすべて」という立場にたって、「我こそが民意、それに従え」という論理で、教育への「介入」を正当化しようとしているのではないか。このように、私の目からはこの条例素案は見えてしまうのです。

もしもこの私の見方がまちがってないとするならば、この条例素案の作成者には「選挙結果には反映されなかったけれども、住民には多様な意思がある」ということへの細やかな配慮・考慮が不在だというしかないですし、「多数であることが常に正しい、絶対だ」ということへのこだわりを強く感じてしまいます。こういう発想って、大阪で今まで進めてきた人権教育の取り組みや子どもの人権関連の取り組みに、いちばん相容れないものだと思うのですが・・・・。

まだまだ前文だけでも言いたいことが多々あるので、この話、明日以降も続けます。不定期になるかもしれませんが・・・・。