できることを、できる人が、できるかたちで

京都精華大学教員・住友剛のブログ。
関西圏中心に、教育や子ども・若者に関する情報発信を主に行います。

3年間続いているだけでも「すごいこと」、しかし・・・・。

2009-12-25 21:39:48 | 学問

この2ヶ月くらいの間、本業での大学での仕事の合間をぬって、大阪市内のもと青少年会館(もと青館)を使って小学生の子ども会や中学生・高校生の学習会、和太鼓サークルなど、いろんな活動を続けてきている人たちに会ってくる取り組みを続けてきた。もちろん、12ヵ所あるもと青館をすべてまわることができたわけでなく、実際に行けたのはそのうちの半数くらいになるし、こういった活動を続けている人のリーダー層に会うことしかできなかったわけであるが。

ただ、たとえ毎週土曜日を使ってのイベント中心型の子ども会活動であれ、平日の夜に週2~3回程度の中学生対象の学習会活動であれ、あるいは、若者の和太鼓サークルやバンド活動であれ、それぞれ「よくやっている」というのが率直な印象である。学生として社会人としてそれぞれ「本業」を抱えながらも、中心的に活動をひっぱっているリーダー層のおとなたちは、ほんとうに上手に時間をやりくりしながら、この3年近く、活動を継続してきたように思う。

なかには、もと青館に集う地元の中学生や高校生たちの様子が気になるから、ほとんど毎晩、本業の仕事が終わるたびにかけつけているという元青館職員の方もいる。そのかいもあって、十数人くらいの中学生や高校生たちが、かなりの頻度でもと青館に集まって活動をつづけている。こういうことは、なかなかできることではない。

考えてみれば、単発で「まつり」的なイベントをするだけでも、けっこうな労力を費やす。まずは中心になるべきスタッフを集めて企画を立て、場所とりに参加者の名簿づくり、当日のスタッフの役割分担等々、参加費の徴収や準備すべき物の確保、終わったあとの後片付けや精算など、やるべきことは多々ある。また、そのイベント開催に向けて、くりかえし話し合いの機会を設けたり、電話や電子メール、FAXなどで連絡を取り合ったりすることもある。この準備作業や後始末の手間というもののたいへんさというのは、私もいくつかの研究会の事務局的な仕事をしているので、よくわかる。

単発のイベントですらけっこう準備がたいへんなのに、もと青館を使って毎週、毎月のように子ども会等でイベントを継続するというのは、それだけでも、相当のエネルギーを必要とすると思うのである。しかも、学習会や子ども会、サークルによっては、それをボランティアの力で、毎日・毎晩のようにやろうとしてきたところもあるわけである。

おまけに、今まで地元に青館があり、そこで大阪市の諸事業が営まれていたときには、「こんなこと、自前でやらなくても済んだ」面が多々あったわけである。また、「事業があった」という状態がもう何年も続いていて、それに子どもや若者の育成活動をまかせっきりになっていた地区もあるだろう。だから地区によっては、子ども会や学習会、サークル活動をはじめるにあたって、「ゼロどころか、マイナスからの出発」というところもあったのではないだろうか。そう考えると、「ほんとうによくやっているなぁ」と思ってしまうのである。

このこと自体、大阪市内の青館条例廃止後のこの3年間、各地区において地道に取組んできたことの「成果」として、まずは率直に「誇る」べきではないのだろうか。また、もちろん、これら子ども会や学習会、サークルの活動の中身や運営のあり方については、まだまだ改善すべき点は多々ある。おまけに、今後の活動継続を考えると、もう一度基本方針を練り直したり、スタッフを集めなおしたりするなど、検討しなおさないといけない課題が多々ある団体などもある。でも、もしもそうだとしても、私としてはどの活動に対しても、「それくらいのこと、できてあたりまえ」という言い方は、基本的にはするべきではないと考えている。これは別に各地区での活動だけに限らず、地区外で地道な活動に取組んでいる団体についても、同様のことが言えるだろう。

と同時に、このようにいろいろ努力をして、いろんな活動を継続しているとはいえ、青館条例廃止後のこの3年間の様子を見る限り、やはり行政施策の打ち切りによって「強いられた自立」という側面が、どうしても各地区の子どもや若者、保護者、住民層にはあるように思う。

「よそではこのくらいのこと、がんばってるのだから、あなたたちもこのくらい辛抱しろ」と、もと青館所在の各地区の人々に行政当局サイドはいうのかもしれない。あるいは、世間の声はそのようにささやくのかもしれない。しかし、それは見ようによっては、子ども施策や人権施策の「低位平準化」を「受け入れろ」と言っているのにすぎないのではないだろうか。

はたして、ほんとうにそれでいいのだろうか。個人や家庭、地域社会の地道な努力を否定する気はさらさらない。しかし、その個人や家庭、地域社会の地道な努力に「だけ」注目するあまり、国や地方自治体の行政として果たすべき責任を放置することを容認するかのような議論に流れては、やはり、まずいような気がするのである。

少なくとも、今、この3年間活動を継続してきた子ども会や学習会、サークル活動などのなかには、各地区での市民交流センター開設によって、かえって「次年度以降の活動場所がどうなるかわからない」というところも出てきている。各地区で子どもや若者、保護者、地元住民が自発的に子育て・教育活動に乗り出しているのに、行政当局はそれに対して、どんなサポートをしていくつもりなのだろうか。

行政当局にしてみると、各地区での自発的な子育て・教育活動など、「そんなもんはいらん」ということなのか? 「家庭・地域の教育力向上」を目指すのが、この何年かの国や自治体レベルでの教育施策の流れだとすると、今、大阪市内の各地区で進んでいるこうした取り組みを否定したり、妨害したりすることは、少なくとも行政当局にはできないはずである。だから、今後の場所の確保にかえって困っているという話を聞くたび、「いったい、大阪市の行政当局は、何がしたいのだろうか、誰のほうを向いて施策を考えているのだろうか・・・・?」と私などは思ってしまうのである。

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信頼感あふれる人間関係づくり

2009-12-20 20:14:00 | 学問

今月に入ってから、大阪市内のもと青少年会館で子ども会活動などに取り組む人たちに、インタビューを行っています。

昨日も2か所回って来ましたが、どこも地道な活動を続けています。

昨日出かけた子ども会のうち、先に見た方では、ちょうど昼ごはんどき。小学生の子どもたちは持ってきたお弁当を、おいしそうに食べてました。

そこに女子高生のボランティアがふたり来ていたのですが、彼女たちの様子を見てビックリ。去年の夏に出会ったときより、ずいぶんしっかりして、おとなっぽくなった感じ。思わず「成長したね~」って、声をかけてしまいました。

もう一ヵ所、次に回った子ども会では、小学生の男の子たちが大学生のボランティアと野球をしていました。かなり寒い日でしたが、元気ですね、子どもは。

こちらの子ども会では、この日はお昼にたこ焼きづくりをしたり、別の施設でやっていた「猿回し」を見に行ったりしたようです。そのあと、おやつまでの自由時間に野球をしていたようですね。

この2か所を回って思うのは、子ども会の活動で成長しているのは子どもたちだけでなく、高校生や大学生のボランティア、運営にかかわる保護者や地元の活動家たち。みんながなんか、いろんな形でかかわればかかわるほど、成長してるように思います。

各地区においていま、地道に、子ども会活動を入り口にして、「人と人とのかかわりを育てる」ことを大事にしていくことが、必要とされているように思いました。

たぶん、各地区において問題学習など人権教育の活動をすすめるにあたっても、いわゆる「学力」向上をすすめる取り組みをすすめるにあたっても、きっと「お互いにお互いを育てるような、信頼感あふれる人間関係」が土台にどっしりとおかれている必要があるように思うので。

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「自分らしく生きるため」に「読むこと・書くこと」を学ぶ

2009-12-04 12:29:37 | 受験・学校

だいたい半月くらいでしょうか、しばらくこちらのブログの更新が途切れました。ほんとうに申し訳ないです。

理由ははっきりしていて、もうひとつの日記帳ブログのほうにも書きましたが、私の勤務校での卒論ゼミ対応のためです。12月1日が毎年、卒論提出期限なので、その追い込みの学生対応に追われていて、こちらのブログの更新にまで手が回りませんでした。

ただ、その卒論ゼミの学生たちへの対応をするなかで、またあらためてひとつ、思い浮かんだことがあります。それは、「自分らしく生きるため」に「読むこと・書くこと」を学ぶ必要性ということです。

これはある意味で、大学を含む高等教育の営みにも、今後の学校外での成人学習や識字教室などの活動にもつながるでしょうし、学校における人権教育の実践にも重なるでしょうし、解放教育を含むさまざまな人権教育の「運動」の担い手養成の営みにもつながると思います。

あらためていうまでもなく、ユネスコの学習権宣言(1985年)には、「学習権は人間の生存にとって不可欠な手段である」と書いてあります。また、「学習権とは、読み書きの権利であり、問い続け、深く考える権利であり、想像し、創造する権利であり、自分自身の世界を読み取り、歴史をつづる権利であり、あらゆる教育の手だてを得る権利であり、個人的・集団的力量を発達させる権利である」と、このユネスコの学習権宣言ではうたわれています。

でも、その「学習権」は今、子どもや若者たちに、あるいは、おとなたちに、どのような形で保障されているのでしょうか。「学習権」が「人間の生存にとって不可欠な手段」だというのであれば、その権利保障が損なわれるというのは、人間の生存が脅かされるということでもあるはずです。

たとえば、最近、私のゼミでは、自分の中学生や高校生時代のことをふりかえりながら、最近の10代の若者の性意識の問題を扱った卒論を書く学生が増えてきました。もちろん、扱っているテーマには、たとえば妊娠中絶や避妊のこと、性行為感染症のこと、援助交際のこと、同性愛のこと等々、いろいろあります。

ですが、これら性意識の問題を扱った卒論を書く学生に共通して言えることは、「自分やまわりの人の命にかかわるような大きな問題であるにもかかわらず、こうした性の問題について、きちんとした情報を得る機会も、おとなと話し合う機会もないまま、彼ら・彼女らは10代をすごしてきた」ということ。また、こうしたテーマを扱う学生のなかには、「自分自身や他者に対する信頼感、肯定感をじっくりと育む機会が得られないまま、生きづらさを抱えながらも、とにかくその場をやりすごして、なんとか大学までたどり着いた」という学生もいます。

こうした学生たちが、大学で他の教員が展開しているジェンダー論やセクシュアリティ論、差別論などの授業を聞いたり、それに関する文献を読んだりする。あるいは、私がやっているような子どもの人権論関連の講義やゼミを受け、「いじめ」問題や「家庭の子育て(虐待問題を含む)」などに関する文献を読んだりする。そのなかで、「あのとき、自分の抱えていた課題は、そういうことだったのか」ということに気づき、その課題をあらためて整理する作業をするわけです。その結果、その学生なりに何かを見つけ、それを卒論という形にまとめようとする動きが生じてくるわけです。

こうした学生たちの作業は、まさに、大学入学までに抑圧されたり、否定されつづけてきた自分自身を、もう一度、大学入学後に学んだ諸学問領域の成果を使いながら、肯定的に受け止め、この社会のなかに位置づけなおす作業といってもいいでしょう。それはまさに大学にたどりつくための受験のための学習とは別に、あらためて「自分らしく生きるため」に「読むこと・書くこと」を「学びなおす」プロセスといってもいいかもしれません。

これはもちろん、あくまでも個人的な意見でしかないし、自分の大学での体験の範囲内でしかあてはまらないことかもしれません。

ですが、本気で「抑圧からの解放」だとか、「自己肯定感を育む」ということを今後の人権教育の関係者が言うのであれば、たとえば大学であれ、成人学習の場であれ、学校であれ、それぞれの学習の場で本を読むこと・文章を書くことが、その学習の場に集う人たちがこの社会のなかで「自分らしく生きていく」ということとが、どこで、どのようにつながるのか。そこをきちんと見つめて、何らかの説明ができるようにしておく必要があると思うのです。

少なくとも私は、自分のゼミに来て卒論や修論を書こうという学生たちが、卒業・修了後、大学外の社会で生きていくときに、まずは「うつむかずに生きていくこと」ができるようなものの見方・考え方がここで得られるように、今の(あるいは、その時々の)自分に何ができるかを考えたい。また、そのことに何らかの示唆が得られるような研究活動がしたい。そんなことをこの半月ほどの間、卒論ゼミの学生たちとつきあうなかで感じました。

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