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できることを、できる人が、できるかたちで

京都精華大学教員・住友剛のブログ。
関西圏中心に、教育や子ども・若者に関する情報発信を主に行います。

あれから半年、あれから5年、あれから10年。

2011-09-11 08:09:37 | いま・むかし

今日は9月11日です。今年3月11日の東日本大震災、東京電力福島第一原発(あえてこう書きます)の事故発生から、もう半年がたちました。それから、2001年9月11日のニューヨークでの飛行機を使ったテロ事件から、もう10年です。私がいまの大学に着任して間もないころ、超高層ビルに飛行機が突っ込む映像を、夫婦で夜のニュースなどで見た記憶があります。この2つの大きな出来事については、きっと今日、さまざまなテレビ番組などで取り上げられることでしょう。ですから、今ここではあえて、この2つのことには触れません。

でも「あれから5年」と書いたことは、きっとこのブログを続けて見てくださっている方しか気づかないと思います。このブログをつくってもうすぐ5年、つまり、大阪市の青少年会館条例の廃止、市職員の引き上げ方針を当時の大阪市長が発表して以来、もう5年が過ぎようとしている、ということです。この方針の発表はたしか、2006年の8月末のことですからね。ちょうど、その年のゼミ合宿に行く日のことでした。

それで、あれから5年たちましたが、このブログを見ているみなさんの間で、青少年会館を廃止してからのこの間、大阪市内の子どもや若者たちの様子、何かよくなったという実感はありますか? もう5年もたちますと、青少年会館がない状態のほうが「あたりまえ」みたいな子どもや若者がどんどん増えつつあるので、あまり「あったほうがよかった」という感覚が薄れてきているのかもしれません。だからこそ、今の市政改革のなかでできるだけハコものや職員を抱え込みたくないと思う人々は、「そのときはいろいろ反対があっても、つぶせるときにつぶしておけばいいのだ。そのうち、施設がない状態になじむから」と思って、5年前の方針決定を行ったのかもしれません。

しかし、あれから5年が過ぎてみて、やっぱり各地区の子どもや若者たちの様子、その保護者たちの様子に何か「しんどさ」「しわよせ」が立ち現われているのであるならば、しつこく「あの方針決定はまちがっていたのではないか?」「すぐに代替案は出せないにせよ、このまま放置はできないと思うので、何らかの手立てを講じる必要があるのではないか?」と、誰かが地元から言い続ける必要があるのではないかとも思います。あるいは、廃止後ただ放置しているだけの施設の姿を「見るに忍びない」と思う人がいるのであれば、やはり地元の側から、「もったいないから、何かの形であそこを活用するべきではないか?」という必要もあると思います。

あれから5年たった今、不十分な形であるとはいえ、青少年会館廃止後の各地区の様子、そこに暮らす子どもや若者、保護者や地元の人たちを見ていて思うのは、「あの青館条例廃止・市職員引き揚げという出来事を風化させてはいけない」ということと、「そういう政策決定を行った行政に対して、簡単に物わかりよくなってはいけない」ということ。この2点です。

また、この2点をおさえたら次に出てくるのは、「粘り強く、しつこく、地道に地元で子どもや若者の活動を続けていくこと自体が、この5年前の決定に対する抗議の意思表示である」ということと、「そういう粘り強い、しつこい、地道な活動を続けていく中で、今までとは異なる子どもの人権や解放などの運動にかかわる人々の動き、底力が形成されてくるのではないか」ということです。そして、「運動のスタイル」も、こうした「粘り強い、しつこい、地道な活動」を継続する中で、おのずから変わってくるのではないか、と思います。

これからも私としては、どこまでできるかはわかりませんが、何人かの仲間とともに、大阪市内の「かつて、青少年会館があったところ」で活動中の人たち、そこに暮らす子どもや若者、保護者や地元のみなさんの様子を、くりかえしくりかえし、確認していきたいと思います。それが私にとっての「粘り強い、しつこい、地道な活動」だと思いますので。

ついでにいいますと、東京電力福島第一原発の事故以後の脱原発の動きやエネルギー政策の転換の動きにしても、東日本大震災の被災地域の復興にしても、学校事故・事件での事実究明と再発防止を求める動きにしても、そして子どもの権利条約の趣旨に沿った学校や児童福祉、地域社会の諸活動をつくっていく動きにしても、識字・日本語教室の充実を目指す動きにしても、そして、さまざまな差別をなくしたり人権のまちづくりをすすめていく動きにしても、今後はこの「粘り強い、しつこい、地道な活動」が求められるのではないのかな、と思います。

そういう「粘り強い、しつこい、地道な活動」をやりぬく人々のアタマとこころとからだを育て、世代を越えてその活動を受け継ぐような関係を育てること。そのことこそ、人権教育や反差別・平和の教育の取り組みではないのかな、という風に私はこのごろ、思っています。

いわゆる「学力」なんてものについても、起きてしまった事故や重大な過失を「なかったこと」にするための技として使うための力ではなくて、こうしたものを育てていく力につながっていくのでなければいけないのではないでしょうか。

そして耳触りのいい心地よい言葉だとか、「元気のでるような言葉」「癒される言葉」だとか、そんなことを紡ぎだすための言葉の力ではなくて、たとえその中身が重くとも実態や現状を直視して、そこから自分たちが何をすべきかを考えていけるような言葉の力。今後はそんな言葉の力を大事にしていくようなアタマとこころとからだを育てていかなければ、原発事故や震災復興、学校事故・事件の防止、差別や人権の問題等々、あらゆる場面で私たちが行き詰っていくような気がしています。

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