できることを、できる人が、できるかたちで

京都精華大学教員・住友剛のブログ。
関西圏中心に、教育や子ども・若者に関する情報発信を主に行います。

2245冊目~2248冊目:現代日本社会のあり方を考える新書4冊

2016-02-29 10:00:44 | 本と雑誌

引き続き、2月中に読んだ新書本4冊の紹介を。今度はどちらかというと、現代日本社会のあり方を考える新書本ですね。

ちなみに読んだ本の紹介をブログで行う時に、この方法のほうがいい感じでまとめられそうだと思ったら、今後も4~5冊まとめてブログに記事を書く方法をとりたいと思います。単発で今まで1冊1冊紹介してきましたが、けっこうめんどうに思う時があるので。

<2245冊目>

金菱清・大澤史伸『反福祉論―新時代のセーフティーネットを求めて』(ちくま新書、2014年)

この本は内容よりも、「タイトルのつけ方」に違和感を覚えた。

内容はむしろ私が読んだ限り、「福祉や社会保障の「制度的(政策的)限界」というものをどう見極めて、その「枠の外」に出てしまう人びとの暮らしをどう支えていくのか?」ということと、「その「枠の外」に出てしまう人びとの暮らしを支えていく具体的な実践のなかから、本来の福祉的な実践がはじまってくるのではないか?」ということ、この2点を論じた本のように思う。

たとえばかつて在日朝鮮人の集落が伊丹空港に隣接する土地に「不法占拠」のようなかたちでつくられたが、そこに暮らす人々が行政と交渉して立ち退いていく経過をまとめた章だとか。あるいは、たとえば障害者、高齢者、児童福祉、生活保護等々の制度で縦割りになった福祉施策の網の目からこぼれおちるようなニーズをあえて拾っていくために、社会福祉法人化せずにNPOとして活動している団体のことを書いた章だとか。他にも、横浜寿町でキリスト教の伝道をする団体が、さまざまな福祉ニーズを持つ人々と福祉諸制度を「つなぐ」役割を果たしていることを扱った章だとか。そして、東日本大震災で被災した漁村が、あえて「船を沖に出す」ことで津波から船を守り、ワカメ養殖に村をあげて取り組むことで復興を果していくことを綴った章だとか。いずれも、既存の福祉諸制度・施策の枠から「外」に出ているような営みではあるけれども、人びとの暮らしを実際に支えてきた営みのように思われる。

だから「反福祉」ではなくて、「制度にもとづく福祉の限界と本来の福祉的実践の関係」を考察したものである。もちろん、「制度にもとづく福祉」の限界を問うという意味では、「反福祉」とは言えなくもないのだが。でも、やはり何か誤解を招くタイトルのように思ってしまった。

<2246冊目>

金子勝・児玉龍彦『日本病 長期衰退のダイナミズム』(岩波新書、2016年)

経済学者と医学(生命科学)の研究者との共著で、日本社会・経済が長期低迷から衰退に至る悪循環のスパイラルについて考察した本。

たとえば景気低迷する経済の現状に対して、誤った事実認識に沿って、誤った方法を用いて景気刺激策を用いると、一時的には景気指標は回復しても、長期的にはより状況は悪化しかねない。それは医学の世界で、誤った病状診断にもとづいて、誤った治療法(投薬等)を行うと、かえって病気が悪くなるのと似ている。こういうかたちで、医学(生命科学)の世界で論じられていることにヒントを得ながら、日本経済の現状と課題について考察を深めていこうとしたのが、本書である。

それこそ、景気回復が遅れていること=構造改革が立ち遅れていることと考えて、次々に規制緩和や行政改革などの「構造改革」を推進するとか。あるいは、景気指標の回復が思ったよりも伸び悩んでいること=市場に出回る資金量の不足と考えて、なおいっそうの金融緩和策をとるとか。こういったことが、「誤った事実認識に沿って、誤った方法を用いて景気対策や経済政策を行っている」と考えられる例になる。

これに対して、本格的な内需拡大策であるとか、あるいは庶民生活の向上をはかるような施策として、たとえば教育や福祉、社会保障に関する政策の充実をはかり、庶民にお金が行きまわるようにする。庶民生活に直接お金がいきわたることを通じて家計消費の拡大をはかり、庶民生活に密着した産業が発展し、徐々にさまざまな物品・サービスの需要と供給が釣り合うようにしていく。そういう政策のすじ道がありうることも、この本から読むとよくわかる。

そして、こういう本書のような立場からすると、アベノミクスなんてとんでもない・・・ということになるだろう。

<2247冊目>

新崎盛輝『日本にとって沖縄とは何か』(岩波新書、2016年)

敗戦後日本の政治、特に外交・防衛政策における沖縄の位置づけを歴史的にふりかえり、保守系の勢力も含めた「オール沖縄」で日本政府に対峙する今の情勢ができあがってきた背景をていねいに論じたのが、この本。学生たちにぜひ、読ませたいなと思う一冊である。

特に本書では、「象徴天皇制・非武装国家日本」と「沖縄の米軍支配」とが一体となった敗戦後日本の占領政策のあり方から議論をすすめる。これは「構造的沖縄差別」が、現行憲法と日米安保条約をふまえた日本の外交・防衛政策のなかから、日本政府とアメリカ政府の間で戦後70年にわたってつくりだされ、維持されてきたという著者の問題意識と深く結びついている。特に「非武装国家」としての日本が、日米安保条約によってアメリカにとって「目下(めした)の同盟国」に変化したものの、沖縄社会にとっては、日本政府の外交・防衛の基本的な枠組みは敗戦直後以来、大きく変わっていない。著者のこのような問題意識が本書全体に貫かれているように思う。

また、沖縄社会においても、特に近年、記憶の「風化」の危機にさらされながらも、世代や政治的立場のちがいを越えて沖縄戦の悲劇を継承し、歴史の忘却や歪曲に対抗していこうとしてきた姿も、この本では描かれている。そのような「歴史の忘却や歪曲への対抗」が、いまの政権与党の沖縄に対する政策に対して、保守系の勢力を含めた「オール沖縄」での対抗とつながっていることは、あらためて言うまでもない。

<2248冊目>

危険地報道を考えるジャーナリストの会編『ジャーナリストはなぜ「戦場」へ行くのか―取材現場からの自己検証』(集英社新書、2015年)

2015年1月にIS(いわゆる「イスラム国」)によって殺害されたジャーナリストらのことをふまえて、世界各地の紛争(戦場)地域での取材に携わったジャーナリストらが、危険地取材・報道の重要性とその継続を訴えるために書かれた本。

日本政府の行う外交・防衛政策の結果、たとえば紛争地のPKO活動などに自衛隊が派遣されたとする。その派遣された自衛隊が現地で何をしているのか、その派遣によってかえって紛争が混迷をふかめていないか、等々。そういったことを誰が取材して、誰が紛争地から日本社会に向けて正確な情報を発信し、日本政府の外交・防衛政策の検証を行うのか。

あるいは、今後「戦地」に日本から自衛隊が派遣されたとする。そこで日本の自衛隊が現地の人々に対して行った行為について、あるいは自衛隊員の戦闘状況やそこでの「戦死」者のことについて、誰が取材し、正確な情報を日本社会に伝えるのか。

そうしたことを考えても、現在、我が身を命の危険にさらしながらも、フリーのジャーナリストの方々が取材活動を通じて紛争地域で果たしている役割は、日本社会に暮らす私たちにとって、とても重要かつ大きいものであると言わなければいけない。そのことがよく理解できたのが、本書である。



2241冊目~2244冊目:リスク・コミュニケーションや不祥事対応のあり方を考える新書4冊

2016-02-29 08:45:34 | 本と雑誌

今度も2月中に読んだ本のなかから、主に新書本4冊を紹介します。

今回紹介する4冊の新書本は、どれもリスク・コミュニケーションや不祥事対応のあり方を考えることにつながる本ですね。

<2241冊目>

佐藤健太郎『「ゼロリスク」社会の罠 「怖い」が判断を狂わせる』(光文社新書、2012年)

この本は主に食品や医療・健康の領域での事例を取り上げつつ、「ゼロリスク」を目指すためのリスク回避のさまざまな営みが、かえって別の形でのリスクを招きこんだり、膨大なコストを生じさせて、かえって人々の暮らしを不自由にしたり、困難に直面させている例があることを紹介している。

なぜそうなってしまうのか? その背景として、著者は「人はリスクを読み誤る生き物」(24頁)という観点から、たとえば「嫌いなものは、間違っている(はずだ)!」というバイアスなど、人びとのリスク認知にかかるバイアスの存在を指摘する。また、著者はマスコミがリスクに関する情報を「商品」として流通させるために、そのセンセーショナルな報道が人びとの感情をあおってしまう傾向や、ネット上でのリスクに関する情報は同じような考え方を持つ人どうしで増幅される傾向があることなどについても指摘する。

こうした傾向は、昨今の一連の「組立体操(通称・組体操)」問題についても言えることではないか。

つまり、「危険な組体操」なるものを指摘する言説(この時点で、それを指摘する人自身の「(学校教育がやっていることで自分が)嫌いなものは間違っている(はず)」という思いこみが反映している危険性あり)が、ネットやマスコミなどでセンセーショナルに取り上げられ、そのことを疑問視したり不安に思う人びとの感情を煽り、同じような考え方・感じ方をする人どうしで増幅してしまい、あたかも「すべての組体操=危険」という流れを作ってしまったのではないか、と思われるのである。

こういうリスク・コミュニケーションに関する議論を学べば学ぶほど、一連の「組立体操(通称・組体操)」問題に関する言説の「おかしさ」がいろいろと見えてきて、「安易にあれに乗らずによかった」と思う今日この頃である。

<2242冊目>

岩田健太郎『「感染症パニック」を防げ! リスク・コミュニケーション入門』(光文社新書、2014年)

今度は感染症対策を専門とする医師の立場から、「感染症パニック」を防ぐためのリスク・コミュニケーションのあり方について論じた本。

ちょっと編集のしかたが気になるというのか、「第一部」「第二部」ならわかるのだけど、リスク・コミュニケーションのあり方をていねいに論じた章(第一章)と、具体的な感染症流行の事例を取り上げて「こういう説明をすべき(だった)」と論じた章(第二章)との分量がアンバランスなように感じた。

ただ、内容はとても興味深いもの。特に第一章での感染症流行を例に取上げながら、医学的なリスク情報の発信のしかたについて具体的に説明したところは、今後、学校事故・事件に関する情報発信のあり方を考える上でもとても参考になる。

たとえばリスクをどのように見積もるかという、「リスク・アセスメント」の重要性。具体的にいうと「起こりやすさ」と「起きると大変」をごっちゃにしないこと、だとか。

あるいは一見クールに物事を論じているように見えても、その背後に強固な感情や信念が潜んでいたり、パニックを起こしている心情を正当さ化するために、ロジックでごまかしているケースもあること、だとか。

さらに、何をリスクと考え、どのようにそれに対処するのかという部分には、それぞれの国や社会の文化のあり方、人びとの意識のあり方などが深く関わっているのではないか、ということだとか。

このように、リスク管理に関する情報を適切に発信し、適切な方向で人びとの対処を促していくためには、「その情報を受け取る側」と「情報を発信する側」の双方に対する冷静な考察・検討が必要不可欠だということ。

昨今の一連の「組立体操(通称・組体操)」の危険性を訴える言説についても、その訴える側は「リスク」という言葉を使いながらも、実は「リスク・コミュニケーション」のあり方についての深い考察を欠いていたのではないか、と思われてならない。そのことが今、さまざまな問題・混乱を招いていると思われる。

<2243冊目>

菊池誠・松永和紀・伊勢田哲治・平川秀幸・飯田泰之+SYNODOS編『もうダマされないための「科学」講義』(光文社新書、2011年)

こちらは東日本大震災と福島第一原発の事故が発生した直後に書かれた本。

「原発は安全だ」と言い続けてきた科学技術の専門家への信頼があの原発事故によって崩壊したあとで、もう一度、科学技術と社会の関係を問い直すために、どのような観点から何を論じなければいけないのか。そういうことを扱った本だといってよい。

そうなると、たとえば「そもそも科学的であるとはどういうことか?」「科学的なものとそうでないものは何で線引きできるのか?」とか。

あるいは、「人々の生活の場や具体的な課題解決の場から生まれてきたローカルな知(科学)は、古典的な知(科学)とどのような関係にあるのか?」とか。

さらに「科学的な知見に関する情報は、人びとに正確な理解を促すように、マスメディアなどを通じて発信され、適切な形で社会的に共有されているのか?」とか。

そして、「私たちの暮らしのなかで科学技術が果たしている役割の増大と、その科学技術の適切な管理のために政治・行政が果たしている役割の増大を前にして、私たちはどのように科学技術と政治・行政の関係について、民主的に開かれた議論を構築できるのか?」ということ。

こうした4つの大きな論点(これ以外にもきっとあるのだろうけど)が浮上してくる。この4つの論点が、本書ではそれぞれ、ひとつひとつの章になって論じられている。

おそらく「組立体操(通称・組体操)」の危険性に関する言説も、一方で「リスク」や「科学的」といった言葉を使いながら、こういう学校批判・教育批判の言説に関するリスク・コミュニケーションや科学技術社会論、科学哲学的な深い考察を欠いてきたのではなかろうか。そのことが持つさまざまなマイナス面が、今、いろんな形で浮上しているように思われる。

<2244冊目>

郷原信郎『思考停止社会 「遵守」に蝕まれる日本』(講談社現代新書、2009年)

元・検事で、企業や官庁の不祥事に際して調査・検証委員会等の取り組みにかかわる弁護士の立場から、「コンプライアンス=法令遵守」という発想の問題点や、検察・司法・マスメディアのこの問題に対する取り組み方の問題点などを指摘した本。

要するに「目の前の法令を守っていたかどうか」という観点から、守っていなかった企業などをバッシングするだけの議論では、「その法令自体が今の社会情勢に適合しているのか?」という切り口からの議論がかえってできなくなること。

また、本来論じなければいけないことは、さまざまな問題が浮上した企業や官庁がどのような構造的な(あるいは体質的な)問題を抱えていて、それを改善していくためには、「どのようなルールを新たに創造すべきか?」という観点からも議論が必要であること。

こうしたことを、この本の著者は言いたかったのではないか、と思われる。

もしも本書の主張がこのような点にあるのならば、私も納得する。

いじめ自殺や「体罰」その他の学校事故・事件報道などでも、子どもや教職員に何か問題があったのかなかったのか、あるいはその教職員の対応が教育法令にもとづくのかどうかばかりが問題になっている傾向がある。しかし、本当に考えなければいけないのは、「どうしてこのような実践が行われたのか?」「なぜ教職員はこのような子どもとのかかわりしかできなかったのか?」ということ。学校や教職員をただバッシングしているだけの議論では、もはや何も解決することはないだろう・・・と、このごろつくづく思う。

 

 


2237冊目~2240冊目:4冊まとめて紹介

2016-02-29 08:13:38 | 本と雑誌

今回は2月中に読んだ本のうち4冊をまとめて紹介します。2237冊目~2240冊目です。

<2237冊目>

諏訪清二『防災教育の不思議な力 子ども・学校・地域を変える』(岩波書店、2015年)

阪神淡路大震災のあとの兵庫県において、たとえば県立舞子高校環境防災科の立ち上げなど、防災教育の旗振り役的に活躍してきた現職高校教員の書いた本。内容的には『高校生、災害と向き合う』(岩波ジュニア新書)の続編というところだろうか。

ただ、防災教育の必要性そのものは認めるとして、現行の学校のカリキュラムのなかにどのように組み込めばいいのだろう?

たとえば、著者がいうように、防災教育の土台づくりという面から見て、高校理科教育の「地学」や、高校地歴科・公民科教育での「地理」の学習の重要性は、まったくそのとおり。ただ、これらの科目は大学入試とはあまり関係がないということで、高校教育ではあまり大事にされてこなかった面がある。防災教育の推進のためには、高校と大学との接続関係も見直さなければいけない。そういう面でも、著者がいう入試のあり方の見直しは、防災教育の推進という面から見ても、とても大事な課題なのではないかと思う。

<2238冊目>

阿部利洋『真実委員会という選択 紛争後社会の再生のために』(岩波書店、2008年)

じっくりと再読・熟読しなければならないような、そういう一冊。

(法)社会学の立場から、各地の民族紛争や人種対立などの調停・関係調整のために、紛争後に立ち上がる「真実委員会」の取り組みに注目し、その役割や意義などについて考察した一冊。特にこの本では南アフリカ共和国のアパルトヘイト終結後に立ちあがった「真実委員会」の営みに注目し、検討を加えている。

この本で論じられている諸テーマのうち、たとえば第2章「多元的な真実認識」でいう「法的ないし史実としての真実」「個人的ないし物語としての真実」「社会的・対話的な真実」「修復的ないし癒しとしての真実」の4つの真実認識は、学校事故・事件の問題でも必要な認識なのではないか。

<2239冊目>

仲正昌樹『寛容と正義 絶対的正義の限界』(明月堂書店、2015年)

2004年に『正義と不自由』というタイトルで出た本の新装改訂版。どことなく「前に読んだ」という気がしていたのは、そのせいか・・・。

ただ、この本で論じられていた「左派」からの社会批判の限界、問題点は、今まさに顕著に表れているように思う。

要するに庶民層の生活要求などを「左派」が捉え損ねていて、ある種「エリートの文化」みたいになっている側面があるということを、この本は言いたかったのではないか。

<2240冊目>

鈴木庸裕編著『スクールソーシャルワーカーの学校理解 子ども福祉の発展を目指して』(ミネルヴァ書房、2015年)

研究会などでごいっしょするみなさんが書かれた一冊。主に教育学のなかでも生活指導や臨床教育、子どもの人権論関係者と、スクールソーシャルワークの実践者(社会福祉士など)が中心になってまとめられている。

社会福祉の実践の場としての「学校」をどうとらえるのか。このことがスクールソーシャルワーク論において問われてくるのだが、でもその「学校」は長年にわたって教員たちが子どもと向き合い、さまざまな実践を積み重ねてきた場でもある。また、教育学がさまざまな形で研究、議論を積み重ねてきた場でもある。その教育学の蓄積してきた議論や、あるいは学校現場において教員たちが積み重ねてきた実践的な知見をふまえないで、社会福祉の側から「自分たちの専門的な技法をあてはめたら問題は解決する」と思っていたら、大きな過ちを犯すかもしれない。そういう危機意識がこの本に現れているように思われる。


2236冊目:西村徹『東井義雄の言葉』

2016-02-26 23:24:40 | 本と雑誌

2236冊目はこの本。

西村徹『東井義雄の言葉』(致知出版社、2015年)

兵庫県但馬地方で長年小学校教師・校長を務めた故・東井義雄の言葉を集めた本。

東井義雄の言葉そのものにはハッとさせられるものがあるんだが、そのひとつひとつの言葉が東井の著作のどこに出ているのか、出典を明記してほしかった。

東井義雄の言葉 (心の花がひらくとき)


2235冊目:片田珠美『自分のついた嘘を真実だと思い込む人』

2016-02-26 23:17:13 | 本と雑誌

2235冊目はこの本。

片田珠美『自分のついた嘘を真実だと思い込む人』(朝日新書、2015年)

自分のついた嘘を真実だと思い込む人 (朝日新書)

ひとまず、読みました、ということで。

この人、精神科医なんだけど、次々に本を出していますね。

それも割と似たような「~のような人」みたいなタイトルの新書本が多いかと。

これだけ本が量産できるウラには、何があるのだろう? 本の内容よりも、そちらの方が気になりました。


2234冊目:鍋田恭孝『子どものまま中年化する若者たち』

2016-02-26 23:12:15 | 本と雑誌

2234冊目はこの本。

鍋田恭孝『子どものまま中年化する若者たち』(幻冬舎新書、2015年)

子どものまま中年化する若者たち 根拠なき万能感とあきらめの心理 (幻冬舎新書)

児童・青年期の精神医学の立場から、最近の子どもや若者に見られるさまざまな特徴を論じた本。

基本的にご自分の精神科医としての臨床経験と、他の文献等で語られていることとをつないで論じているものなので、「なるほど、こういう見方もできますね」ということは多々あるのだけど、「はたしてそれが今の子どもや若者全般にどこまで見られる傾向なのか?」という点では、おそらく社会調査みたいなものをやって検証する必要があると思った。

ただそれでも、たとえば同じように学校に通いづらい「不登校」の子どもでも、20年前と今とでは悩み方の質が違うという指摘(最近のほうが悩みが深まらない傾向。その分、学校へ通えという規範は弱まっているというのが著者の理解)など、「なるほど」と思われる部分があるのは事実。なかなか面白い本だと思った。


一連の組体操をめぐる議論に思うこと(7) 規制を求める側も揺れている???

2016-02-26 20:27:51 | 受験・学校

今度は組立体操(通称・組体操)の危険な技の規制を求めてきた側にも、議論の揺れが見られることの紹介です。

ある方がツイッターでリツイートしておられる内容を見て、この2年近く、危険な組立体操(通称・組体操)の技を指摘し、その規制の必要性を訴えてきた人の主張が最近、以下のとおり揺らいできていることがわかりました。

@a_la_clef  2月24日

【緊急提言】組体操は,やめたほうがよい。子どものためにも,そして先生のためにも。▽組体操リスク(1)(内田良) - Y!ニュース 

https://twitter.com/a_la_clef/status/702476310367473664

※このヤフーニュースの記事自体は、2014年5月のものです。

@RyoUchida_RIRIS  2月22日

「全廃という極端な方針、『ピラミッド5段、タワー3段』等の安全には程遠い方針、現場任せの方針… いずれも、具体的な危険性の検討を欠いている」

https://twitter.com/RyoUchida_RIRIS/status/701902547389296640

@RyoUchida_RIRIS  2月23日

今朝投稿した記事です。組体操を「全廃」にすると何もできなくなる,という内容です。

▼組体操の「全廃」から教育委員会の対応を問う 「二人三脚」も組体操に含まれる?(内田良) - Y!ニュース

https://twitter.com/RyoUchida_RIRIS/status/701988722300944384

このような形で、規制を求めてきた側の議論が揺らいでくるということは、とても大事なこと、いいことではないのかな、と私は思っています。

また、その議論の揺らぎのなかで、だんだん、規制を求めてきた側の見解も、当初から私が言ってきたことに近づいてきていることも感じます。

やはり以前から私が指摘してきたように、危険な技があるからといって、すべての組立体操(通称・組体操)を危険視するのはおかしいです。

また、先ほど体育学の専門家の立場からのコメント(フジテレビ系のニュース動画)も紹介しましたが、ある程度の危険を伴う技を学ぶなかで、子どもが安全な身のこなし方について考えていくということも大事なことかと思います。

しかし、この間の規制を求める側の議論は、こうした組立体操(通称・組体操)の技や、その学び方の多様性を一切捨象する形で、ただ特に危険度の高い技を前面に出して、「とにかく危険性を訴える」ということに終始してきたのではないかと思います。

そのことの行過ぎ、弊害が今、この問題に関する議論に浮上してきているのではないかと思います。

ちなみに、下記の点については、「一度、ご自身の発信したメッセージが、マスメディアやSNSを通じてどのように社会的な反響を呼び、どのようにある問題を構築していったのか。まさに<社会問題の構築>という観点から、教育社会学的に自己反省的に考察されることが適切ではないか?」とコメントしておきます。

@RyoUchida_RIRIS 組体操,2分の1成人式,柔道,部活動…
問題を指摘すると,すぐに「全否定レッテル」が作動する。
「全部やめるべき」と主張せずとも,全否定・全廃論者として扱われる。
こうして,具体的問題から目が逸れていく。

https://twitter.com/RyoUchida_RIRIS/status/703169999913889793 (19:49 - 2016年2月26日)

 



一連の組体操をめぐる議論に思うこと(6) 本職・体育学の研究者からのコメント

2016-02-26 20:10:22 | 受験・学校

FNN「ふかぼり」組み体操は危険なのか? 独自に検証 (02/25 18:34)

http://www.fnn-news.com/news/headlines/articles/CONN00317294.html

これはフジテレビ系列のニュース番組で、日本体育大学の研究者と体操部の学生たちとが出てきて、「組体操」問題について実演も含めてコメントしている動画です。

ちなみにこの動画の最後で、体育学の研究者が「組体操」と「組立体操」がちがうという話をしていて、今、問題になっているのは「組立体操だ」という指摘をしています。ただ、実際には今の日本社会では2つの言葉は混同して使われています。

そこで私のブログでは今後、なるべく「組立体操(通称・組体操)」と書くことにします。ただ、毎日のブログの表題は統一したほうがいいので、「一連の組体操をめぐる議論に思うこと」で統一します。

本題にもどってなのですが、この動画でも体育学の研究者が、さすがに十段ピラミッドなどの危険な技は日体大の体操部の学生でもしない・させないけれども、たとえば二人組で片方をもう片方が持ち上げて肩の上に載せる技だとか、「この程度のことであれば、きちんと練習を積めば小中学生でもできる」ことがあって、「全部禁止するのはおかしい」と指摘しています。

また、「安全教育」の観点から見ても、この動画のなかで体育学の研究者が、危険度がある技を練習するなかでお互いに声をかけあったり注意しあったりすることを、組立体操(通称・組体操)を教材として使うことの意義として語っています。

私としても、このような見解はきわめて妥当なものですし、また、実はこのような体育学研究者の見解に沿って組立体操(通称・組体操)を行うのであれば、小中学校学習指導要領における体育(保健体育)の「体つくり運動」などの趣旨にもある程度沿うような取り組みになるのではないか、と思われます。

だとするならば、「マスメディアや政界を巻き込んでの、この間の大騒ぎはいったい、なんなのか?」ということですね。

やはり「モラル・パニック現象としての組立体操(通称・組体操)問題」という視点から、もう少し時期を見て、この間の大騒ぎを一度、調査・検証する必要があると思われます。




一連の組体操をめぐる議論に思うこと(5) 「着地(つまり規制のかけ方)」を一貫して気にかけてきた私

2016-02-24 12:13:00 | 受験・学校

一連の組体操問題について、自分がツイッター上(@tsuyo0618)でコメントしたことのなかから、いくつか「あっ、これは大事」と思うことのみ、以下のとおりここで転載・列記しておこうと思います。

だいたい時期的には2014年の9月頃から2015年の10月頃に、ツイッター上でコメントしたものになります。

なお、先にURLを書いて、そのあとツイッター上でのコメントを引用する形をとります。

https://twitter.com/tsuyo0618/status/512787711061532674

○組体操の中でも巨大な人間ピラミッドの停止>人間ピラミッド自体の停止>人間ピラミッドを含む事故の危険性の高い組体操の種目の停止>運動会の組体操それ自体の停止>組体操以外も含めて事故の危険性の高い運動会の種目の停止>運動会自体の停止。たぶん左から右にいくにつれて、賛同者は減りそう (11:18 - 2014年9月19日)

https://twitter.com/tsuyo0618/status/512788763773128704

○さてさて、いま話題を呼んでいる組体操の「人間ピラミッド」の危険性を指摘する議論は、当面、どのレベルに着地するのが妥当なのだろう? ここがおそらく、運動会の事故防止という点から、いま、考えないといけないことかと。根本的に議論し出したら「全部」になるだろうけどね。(11:22 - 2014年9月19日)

https://twitter.com/tsuyo0618/status/649795201456738304

○なんか組体操問題のツイートが次々に流れて来ますが、この運動会のシーズン中、十段ピラミッドとか何段かのタワーみたいな危険な技を止めるのは当然。ただその一方で「みなさんこの話をどこで着地させたいの?」とも思い始めました。これは去年から感じている疑問でもあります。(12:57 - 2015年10月2日)

https://twitter.com/tsuyo0618/status/649796790049374208

○それと運動会のシーズン中の話題として、一部の学校の危険な組体操の事例や実際に起きた事故事例が取り上げられ、ネットやマスコミで騒ぎになり、教育行政の注意喚起文書を引き出して、シーズン終了。今後はそういうパターンを繰り返さないように願いたいです。(13:03 - 2015年10月2日)

https://twitter.com/tsuyo0618/status/651158487574032384

○組体操問題に関する私の今のところの最大の疑問。「なぜ『いじめ自殺』や他の重大事故・事件ならみんな、あれだけ調査・検証の重要性を指摘するのに、今回の八尾のケースでは誰も委員会を立ち上げて、調査・検証をしようと言わないのか?」ということ。なぜしないの??言わないの??おかしいよ。(7:14 - 2015年10月6日)

https://twitter.com/tsuyo0618/status/651159054673272840

○もちろん組体操事故の調査・検証は、ものすごく手間暇かかる作業。しかしどこかで誰かがネット上で、マスコミで、あるいは本のなかで言った「教育病」なる言葉で、組体操問題の背景をすべて理解した気になってしまうのは、かなり危ないんじゃないかな? それって背景要因の仮説のひとつでしょ?(7:16 - 2015年10月6日)

https://twitter.com/tsuyo0618/status/651159647944994816

○もしも「教育病」なる言葉で組体操問題の背景をすべて理解した気になって、一枚の「危険な組体操の技禁止」という教育行政の文書をひき出して満足して、ひとつひとつの事故ケースの調査・検証をおろそかにしてしまったとしたら、私はそのほうが大きな問題だと思う。だから今の議論、好きになれない。(7:18 - 2015年10月6日)

以上でいったん、ツイッター上で私が組体操問題についてコメントしたものの転載・列記はおわります。

この続きで今年(2016年2月)のものを後日、このブログに載せようと思います。

ただ、今の転載部分でわかると思いますが、2014年秋頃から組体操問題がSNSその他のインターネット上で話題になったり、あるいはテレビなどで取り上げられるようになった頃から今に至るまで、私、一貫して「この問題、危険性を指摘することについては一理あるとしても、結局、具体的な解決策については、どこで着地するの?」ということを問題にしてきたように思います。

また、この2月に入ってからの一連の組体操問題をめぐる動きは、まさにこの「着地」のあり方、つまり「危険な組体操を規制するにあたって、いったい学校や教育行政当局は何を根拠に、どこまでの範囲で規制をかけるのか?」ということをめぐって、議論が混乱をしている様子を示しているように思います。

「どこで規制をかけるかをめぐって、議論がだんだん混乱していくであろうという見通し。そのくらいのことは、実は2014年の9月、この組体操問題がインターネット空間上で話題になってきた頃から、見るべき人が見たらわかっていた(問題提起した人たちは、逆にいうと、「そんなことも気づかずに、問題提起してきたの?」ということ)」

このことを示すために、あえて私の過去のツイッター上でのコメントを、ひととおり、ここで転載・列記しておきます。


 


子ども情報研究センター2015年度子育ち連携部会連続講座のお知らせ

2016-02-23 21:02:52 | 私の「仲間」たちへ

※下記の連続講座の告知をします。できるだけ多くの方に参加していただきたいと思っています。よろしくお願いします。

公益社団法人子ども情報研究センター

2015年度 子育ち連携部会 連続講座のお知らせです

生きづらい状況にある人の暮らしを地域で支える
-地域で自分らしく生活できる社会を目指して-

参加費★無料★

講師 井上寿美(関西福祉大学)・笹倉千佳弘(就実短期大学)

第1回 2月27日(土)13:30~16:30 (場所:HRCビル4階ももぐみ)

【テーマ】地域の支えが乏しくなった時代の子育ち・子育て

第2回 3月5日(土)13:30~16:30 (場所:HRCビル4階ももぐみ) 

【テーマ】精神障害者の暮らしを地域で支える精神科医のとりくみ

第3回 3月26日(土)13:30~16:30 (場所:HRCビル5階小会議室)

【テーマ】地域で支える被虐待経験のある子どもの育ち

―社会的養護児童の子育ての社会化の意義とそれを可能とする地域―

*事前にお申し込みください。どなたでもご参加いただけます。

〈申込〉FAX 06-4394-8501 または E-mail  info@kojoken.jp

※詳しい案内は下記を参照してください。

http://www.kojoken.jp/info/2015kosodati/


政権与党の「朝鮮学校への補助金廃止」検討と「多様な教育機会確保法案」に関連して思うこと

2016-02-18 20:37:43 | 受験・学校

「自民 朝鮮学校への補助金廃止の検討を」(NHK NEWSWEB 2016年2月18日)

http://www3.nhk.or.jp/news/html/20160217/k10010413021000.html

この記事を見ればわかるかと思いますが、今の日本政府・政権与党には、本気で「多様な教育機会の確保」などする気はありません。

「フリースクール関係者やその支援をしている研究者等々は、いつまで日本政府・政権与党に期待するのか? もうやめたほうがいいのではないのか?」

とすら、正直なところ、思ってしまいます。

 

この記事から、気持ちを抑えて冷静に言いたいことが3点。

1点目。今の日本政府や政権与党には、本気で「多様な教育機会確保」を考える意識はない、ということ。なぜなら、朝鮮学校もまた、日本社会にある「多様な教育機会」のひとつではないですか。

2点目。その一方で、この朝鮮学校のように、自治体が学校教育法1条校以外の学校に補助金を出してきた事例がある、ということ。とすれば、今あるフリースクールにだって、自治体レベルで補助金を出そうと思えば可能ではないか、と考えられること。となれば、ますます「多様な教育機会確保」のあの法案って「なんのため?」と問われること。

3点目。朝鮮学校への補助金に限らず、およそ国や自治体の補助金はその対象団体に対して、このような政治的な「恫喝」や「支配」等々を求める道具に使われかねない危険性が常に付きまとうということ。だからそのような扱いを抑制したり、もしも行われたときに異議申立てをするようなしくみがなければ、「公的補助金もらってなおかつ自由」なんてことは維持できないのではないか、ということ。だから「そんなややこしいことに巻き込まれるくらいなら、経営が苦しくても自由を選ぶ」という道も考えておかないといけないだろう・・・ということ。

ひとまず以上3点、書いておきます。

その上で、私の知人で子どもの人権論の研究者が、先ほどフェイスブックに書いていたコメントを、ここに転載します。

<以下、転載部分>

子どもの権利条約の理念に反します!

ジュネーブの子どもの権利委員会からも再三、日本政府は勧告を受けています!

マイノリティの子どもの権利を奪うことは、私たちの社会の体力が奪われてしまうことにつながりますよ!

<以上、転載おわり>




本当に「オルタナティブな教育」を考えるには、この「悪循環のスパイラル」を断つことから

2016-02-13 13:01:46 | 受験・学校

都教委、高校定時制4校の廃止決定!~教育委員はいいなり 反対の声は無視(レイバーネット、2016年2月12日)

http://www.labornetjp.org/news/2016/0212yumoto/newsitem_view

この記事を読んで思ったことを、こんな感じで、例の「オルタナティブな教育」とか「多様な教育機会確保法案」の話とも関連づけながら、以下のとおりまとめてみました。一部、フェイスブックに書き込んだこととも重なりますが、加筆修正しています。

 

まず、このような定時制を含む公立高校再編計画(=という名の学校リストラ計画)がすすむと、他方で今までそこに通っていた子どもの「受け皿」が必要になります。

そこに、私立通信制高校(株式会社立含む)や大検(今は高卒認定試験)のサポート校などのニーズが広がってきます。ここはここで、子どもの数が減る中、民間(私立)どうしのパイの食い合いは必死でしょうね。

と同時に、「再編対象になりたくなければ、特色と実績あげなさい」と公立高校側は言われ、ある学校は受験特化型、ある学校は「アクティブ・ラーニング」とか「スーパーイングリッシュハイスクール」とか、ある学校は「学び直しニーズへの対応」とか・・・。まあ、より一層の「改革努力」を迫られるわけですね。

で、特色と実績をあげるための準備に公立高校教員が四苦八苦して、部活がものすご~く負担に感じたりするようになるわけです。

そうすると、そこに部活の外注化というニーズが発生して、またスポーツクラブのインストラクターたち派遣業とか、カルチャーセンターの講師派遣業みたいな仕事が広がってきます。

で、そうやっていろんなことを外注化していきますと、ますます教員の仕事は教室のなかの授業改善やカリキュラム開発に集中することになりますが、そこにさらに「特色と実績をあげろ」というプレッシャーがかかるわけで・・・。

教員を疲弊させる教育改革の進展⇒教員の多忙化⇒外注化ニーズの発生⇒安心して外注できるシステムの整備⇒教員をより教育改革の枠内での仕事に従事させ、さらなる疲弊をもたらす⇒さらなる外注化ニーズの発生・・・。

こういう悪循環のスパイラルがはじまっているように思えてなりません。

もうそろそろ、私たちがこの悪循環のスパイラルからどうやって逃れるか、ということ。そこを考えていく必要がありますね。

いま求められる「オルタナティブ」って、本当はそういうことでしょ?

この悪循環のスパイラルのなかで「安心して外注できるシステム」の一角に食い込むことじゃないと思うんだけどなあ。

でも、いまここに描いたような悪循環のスパイラルに気付かないでいると、なんかよさそうに見えるんですよね。「多忙化解消のために」とか「学校が行き詰っているから」とか「~しよう」という話が・・・。

※ちなみに私の印象では、今のフリースクール系の人々やこれを支援する子どもの人権論関係者も、この悪循環のスパイラルを構築する一部に組み入れられてしまっています。

つまり「今の学校ではもうだめだ。子どもは暮らしづらい」と考えて、その「外」に子どもの居場所や学びの場をつくろうとしているわけですから、立派に「外注化」ニーズに組み込まれています。

また、熱心に「教員の多忙化」を「部活動の負担」問題から説く研究者(=その代表的な人は、例の組体操問題でも有名な方ですが)や現場教職員も、表層に現れた課題の指摘や苦情を訴えることはできても、この「外注化」ニーズに自らが組み込まれていること自体にあまり気づいていません。

だからこそ、こういう人々は政権与党や文科省的には「安全パイ」で、彼ら彼女らには「どんどんマスコミで情報発信してほしい」のでしょう。

なにしろ「悪循環のスパイラル」を有効活用して、既存の公教育体制を解体・再編したいという政権与党や文科省のニーズに、彼ら彼女ら、かなりマッチしているわけですからね。

それだけに、この「悪循環のスパイラル」が生み出している「教育の病」は深い、ということです。

 







今度は「多様な教育機会確保法案」に思うこと。(2) ―もっと「フェア」に議論してほしい―

2016-02-13 11:58:07 | 受験・学校

超党派議連 フリースクールの義務教育みなし規定削除 (教育新聞 2016年2月12日)

https://www.kyobun.co.jp/news/20160212_01/

もしかしたらこの記事、有料(あるいは登録制)になっていて、読める人が限定されているかもしれません(私は新聞の購読者(WEB版含む)なので読めますが)。

私がこの記事でひっかかったのは、法案の内容もさることながら(いろんな関係者スジから聴く限り、「これ、作る必要あるのか?」とも思ったりもする)、この法案の作成過程の不透明さです。

とにかく、「フェアじゃない」と思われるわけですね。

この法案、どう転ぶにせよ、学校教育法一条校ではないところに子どもが通っても義務教育として認められる道をつくるという意味で、国民としての子どもの学ぶ権利の保障のあり方を大きく変えるわけですよね。あるいは、その子どもの保護者の就学義務のあり方も、就学義務関連の地方教育行政の事務形態等々も、それにあわせて大きく変わるわけで。

そういう大きく、かつ重要な学校制度の変更に関わる法案が、一部の議員が超党派で集まって、「非公開」で検討されているわけですよ。

もちろん、一部のフリースクール関係者とか、これを支持する教育学研究者とかの意見くらいは聴いているんだろうと思いますが。

でも、そういう大きく、かつ重要な学校制度の変更に関わる法案が、一部の人々の手で「非公開」で検討されているって、何か「ヤバく」ないですか?

それだけで、「この議連に参加する国会議員たちと推進派の人々の裏に何があるんだろう??」という疑念を私は抱いてしまいます。

大事な法案ならマスメディアを通じてオープンに、堂々と、自分たちの主張をすればいいのではないですかね?

で、いろんな批判がでるわけですけど、それに対しても自説を堂々と主張して、説得すればいいのでは?

なんか、こういう部分で、不透明さを感じますし、「フェアじゃない」と思うんですよね。

特に子どもの権利の保障に熱心に取り組んできた人たちが、こういう「フェアじゃない」議論の進め方をするのには、違和感を抱きます。


2233冊目:谷田貝公昭『不器用っ子が増えている』(一連の組体操問題に思うこと・番外編)

2016-02-11 18:34:54 | 本と雑誌

2233冊目はこの本。

谷田貝公昭編著『不器用っ子が増えている 手と指は[第2の脳]』(一藝社、2016年)

この本の著者たちは長年にわたって、たとえば服のボタンの留め方、お箸の持ち方、包丁の使い方、鉛筆の削り方、ハサミの使い方といった手先を使うような子どもの生活技能や、このような技能を必要とする子どもの生活習慣などの実情について調査を行ってきた。

この本で取り上げられているさまざまな生活技能は、実は幼稚園・保育所・小学校での生活のなかで、あるいは図工や家庭科などの教科の学習のなかで必要とされているものばかり。そういうことがなかなかできなくなっている子どもたちの実情が、この本のなかで述べられている。

ただ・・・・。そういうことをすぐにこの本において、全て「脳の発育」に影響を与える等々の話に結び付けてしまうのには、やや閉口するのだが。むしろ学校生活への適応や、学業達成(つまり学力の獲得)にさまざまな支障が出る・・・といったほうが、私としてはスッキリする。「脳」のことは、まだまだ脳科学の研究でもわからないことは多々あるようだから。

それはさておき。この本で重要なのは、子どもに危ないことをなんでもやめさせていくような「消極的安全教育」は、かえって別のところで子どもの危険を生むとはっきり指摘しているところ。むしろ、ケガをする危険性もある活動のなかでで、それがどうすれば防げるかを、おとながきっちりと教え、子どもがおとなから学ぶ機会をつくっていく「積極的安全教育」のほうが大事であることを主張していること。

この点は、昨今話題の「組体操」問題についても、危険な技を規制するのはいいとしても、「組体操」全部やめてしまうような「消極的安全教育」にはむしろ弊害が多いという見方ができることを示している。

少々すりむいたり、転んだりするくらいの「組体操」の技であれば、むしろおとなが子どもとともに「どうすればそれが防げるか?」を考えるほうが、「積極的安全教育」につながるのではなかろうか。

そこで、本書の122~123ページの文章を引用しておく(若干、引用部分に「誤記では?」と思われる箇所もあるが、そのままにしておく)。

<以下、引用部分>

○「消極的安全教育」の蔓延

そこで、刃物を例に、考えてみましょう。

現代の子どもたちは、ナイフに限らず、ノコギリ、ハサミといった刃物は、使えなくなってしまいました。その現状たるや、想像を絶するものがあります。

ナイフが、子どもの世界から姿を消したのは、1960年代頃からと言われています。60年安保闘争をはじめ、ハガチー事件(1960年6月)など、血なまぐさい事件が多発した時代でもありました。

中でも、浅沼稲次郎日本社会党委員長(原文ママ)が、未成年の山口二矢に視察された事件(1960年10月)などが引き金になり、警察庁が全国の学校教育機関に対して、子どもにナイフを持たせないように指導したというのです。要するに、ナイフは危険だから持たせないで、学校は鉛筆削り器を設置せよ、というわけです。また、それに迎合した市民運動も起きたといいます。

いいかえれば、大人が子どもからナイフを取り上げることによって、安全を確保しようとしたのです。「消極的安全教育」の徹底を図ったのです。その結果、警察庁が期待したようになったでしょうか。答えは否です。

ナイフや、そのほかの刃物を使った子どもの事件は後を絶たないどころか、一向になくなる気配さえもありません。刃物を正しく使ったことがないから、刃物が持っている利点も、恐ろしさも、分からないのです。

長い間、「肥後守」で鉛筆を削る調査をしてきたのですが、最近では大学生でも、これを「ひごのかみ」と読める人は極めて少ないし、どういうものかも分かりません。

小学生の3分の1は、「肥後守」のどこに刃があるのかさえ分からない始末ですから、調査の際には、かなり神経を使います。

○小さなケガは子どもの勲章

刃物などの道具は、「危ないから」と大人が逃げて、子どもに使わせずにいれば、いつまで経っても安全に扱うことはできません。その子どもにとっては、「いつまでも危険」なままです。

危険を避けようとすることより、危険を克服することの方が、いつも実りの多いことを、思い起こしてほしいものです。

刃物の危険性は、ケガと痛みとの関係で、理解させる必要があります。ケガをさせてはいけないと、いつまでも使わせないでいるのは、過保護以外のなにものでもありません。

子どもが、刃物を、正しく自由に使えるようになるということは、それ以後の生活において、手を創造的に使う基礎になるということを、忘れてはなりません。ですから、大人は子どもの小さなケガを恐れてはならないし、それは、子どもがまともに育っている証であるし、勲章なのです。

ここでも大切なのは、「積極的安全教育」です。

<以上、引用おわり>

 

不器用っ子が増えている―手と指は


一連の組体操をめぐる議論に思うこと(4) リスク管理論は行政権力の介入容認に結びつきやすい?

2016-02-10 11:22:12 | 受験・学校

事故多発の組み体操、安全策を要請へ 文科省、各教委に(朝日新聞デジタル2016年2月10日)

http://www.asahi.com/articles/ASJ294SV3J29UTIL01Y.html

この朝日新聞デジタルの「組体操」問題の記事を読みますと、ここへ来て、教育行政による組体操の規制賛成派とそうでない人々の主張や論点、それぞれの課題がかなり整理されてきたように思います。

なかなか、いい記事だなあと久々に新聞を読んで思いました。

と同時に、このような形で朝日新聞がそれぞれの主張や論点、課題等を整理してくださったおかげで、あらためて規制賛成派の何に私が違和感を抱いてきたのかも、かなり明確になりました。

前々からうすうす「これって、ヤバいんじゃないの? 教育行政による学校現場への介入を容認し、教職員の実践の管理・統制、さらには子どもの暮らしの管理・統制の拡大にまで至るんじゃないの?」と、組体操の規制賛成派の論理に警戒感を示してきたわけですが・・・。

やっぱり今回、この記事での規制賛成派の研究者の見解を読んで、あらためてその「ヤバさ」に気づきました。

要するに、重大事故防止や危険回避という「子どものリスク管理」の議論を純化・徹底すればするほど、教育行政という行政権力の現場介入を容認し、現場への管理・統制を強めていくということ。

そのことが生み出すリスクへの懸念が、実は子どもの重大事故防止や危険回避について、リスク管理論的な立場からは「まったく、意識されていない」ということの問題性ですね。

そこに私、「ヤバい」と思って、違和感を抱いてきたんですよね。

もう少し具体的に、どぎつく言えば、「子どもの命や安全を守るためなら、子どもと子どもに関わるおとなの生活の隅々まで管理してしまうような全体主義、監視社会、あるいはファシズムも容認するのか? これもまた『教育』同様、『子どもを守りたい』という『善意』による『支配』ではないのか? そちらのリスクについてはどう考えるのか?」ということです。

それこそ、今まで些末な校則をもとに頭髪や服装の指導を厳しくするような、いわゆる「管理教育」が学校に行なわれてきたわけですが、あれもまた「子どもが問題行動に走るリスク」を回避するために、学校が「教育」の名の下で「善意」で子どもたちの暮らしを隅々まで管理・統制しようとしてきたわけですよね。

そういう学校の「教育」の名の下での「善意」に対して、この規制賛成派の研究者は、とても強い嫌悪感と批判的な意識を向けてこられたわけでして(そのことは至極、まっとうな意見だと思いますが)。

でも、ご自分たちが今、「子どもを守りたい」と思ってしている事故リスクの管理論には、そういう「善意」の持つ危うさ、ヤバさに対する自覚はあるのでしょうか?

そして、「子どもを守りたい」という一心であれば、どんな政治権力・行政権力とでも「手を結ぶ」のでしょうか?

今の政権与党だとか、あるいは文科省や今の地方教育行政だとか、そういう政治権力や行政権力に対する警戒感はないのかな・・・?

そういうことに対して、私は「ヤバい」と思って、違和感を抱いてきたんだなあ・・・ということが、あらためてこの記事を読んでわかりました。

ちなみにこの記事で規制賛成派として出てきている研究者とも、それに懸念を示す研究者とも、私、面識があります。

<追記>

ちなみに私は今年の9月、例の安保関連法案が国会で無理やり可決されたとき、こんなことをブログに書きました。

このときの思いは今も変わってないし、ここへきてますます、安保関連法案の可決・成立には表だって批判の声を挙げず、組体操のような問題では「学校のリスク管理」とかいうてきた熱心な研究者、専門家諸氏のあり方について、私は「冷ややか」な目線で見ていこうと思いました。

<以下、引用>

これから、つきあい方を変えます。(2015年9月19日)

http://blog.goo.ne.jp/seisyounenkaikan/e/44bc1bb4e7446c8538aa7e5baf7c069b

 このたびの国会での安保関連法案の成立に関して、付け加えて言っておきます。

それから日頃、子どもの安全・安心の確保とか、防災とか、学校のリスク管理とかいうている研究者、専門家諸氏。

 あなたたちが、この国に暮らすありとあらゆる人々を戦争やテロの危険性、リスクにさらすことになった法律が、あんなむちゃくちゃな手続きで可決・成立してしまったことに対して、抗議行動どころか、な~んも発言しなかったとしたら・・・。

 私は、そんな研究者、専門家諸氏のやってきた取り組みについて、その学問的成果や専門家としての力量を全面的に否定はしないものの、部分的・限定的なものとして冷ややかな目線で見ていくこと、今後のかかわりについても同様に部分的・限定的にして、距離を置いてつきあうことを、ここで明確に言っておきます。

 以上、2つめの今日のうちに言っておきたいことでした。

<引用おわり>