できることを、できる人が、できるかたちで

京都精華大学教員・住友剛のブログ。
関西圏中心に、教育や子ども・若者に関する情報発信を主に行います。

今朝のMSN産経ニュースの記事から

2014-01-26 22:10:21 | いま・むかし
MSN産経ニュース 【主張】子供の権利 甘やかさない教育必要だ
http://sankei.jp.msn.com/smp/life/news/140126/edc14012603060000-s.htm

この記事に関して伝えたいことは、次の3点。
いずれも、ある方からのこの記事の内容に関するご質問にお答えするメールに書いたことからの転載(一部)です。
産経新聞の社説に出たものだと、そのある方からの問い合わせの時にお聞きしたので、その前提で以下の文章を書きました。

(1)まず、子どもの権利条約は国際条約であり、日本国は1994年にこの条約を批准しましたから、日本国憲法および子どもの権利条約双方からの締約国の(実施)義務を負うことになります。
 したがって、子どもの権利条例を制定する自治体の方が締約国の(実施)義務を誠実に履行する努力をしているわけですから、産経新聞の社説であのように言われる筋合いはありません。
 むしろ日本国政府、特に文部科学省は、1994年5月に出した通知によって、意見表明権について、
「本条約第12条から第16条までの規定において、意見を表明する権利、表現の自由についての権利等の権利について定められているが、もとより学校においては、その教育目的を達成するために必要な合理的範囲内で児童生徒等に対し,指導や指示を行い、また校則を定めることができるものであること」
「表明された児童の意見がその年齢や成熟の度合いによって相応に考慮されるべきという理念を一般的に定めたものであり、必ず反映されるということまでをも求めているものではない」
という姿勢をとってきました(下記のURLで、文科省の通知全体が読めます)。
http://www.mext.go.jp/a_menu/kokusai/jidou/main4_a9.htm#label1
 このような文科省の子どもの権利条約の趣旨実現に対する消極的な姿勢が、子どもの意見を聴かないようなさまざまな学校の指導を容認するとともに、おとなの一方的な理解を前提に「問答無用」で子どもを罰すること、つまり、体罰・指導死等の背景要因をなしているとも考えられます。あるいは、子どもの訴えに耳を貸さないような学校のありようが、数々の学校事故やいじめによる自殺等のケースで、その背景要因として浮上しているとも考えられます。

(2)また、このように子どもの権利条約の趣旨実現に消極的で、「もっと厳しく『しつけ』を」という論調で「家庭の教育力向上」や「道徳教育の強化」といった路線での教育政策が、1990年代後半から今日まで続けられてきました。その結果として今、子どもや若者の置かれている現状がある、という認識も可能です。したがって、産経新聞社説のような論調と、これにもとづく教育改革の方が、すでに「その実効性が問われているのに、いつまでも同じこと言い続けるの?やり続けるの? そういうことをしているから、子どもが荒れるんじゃないの?」という見方をしていくことも可能です。

(3)さらに、子どもの権利条約については締約国の広報義務(42条)が定められており、日本政府の子どもの権利条約普及に対する努力の足りなさは、国連子どもの権利委員会からすでに3回(1998年、2004年、2010年)も総括所見で改善するよう勧告が行われています。
 したがって、子どもの権利条約の広報に関するまともな日本政府の施策が行われていない以上、産経新聞社説が「子どもの権利条約の普及」や「子どもの権利条例の制定」によって「子どもがわがままになった」等の見解を示すことは、事実認識の時点からまちがっているのではないか、と考えます。むしろ「子どもの権利条約について、子どもが何も知らされていないから、子どもがわがままになっている」とも言えるわけですからね。

以上の3点、ひとまずお伝えしておきます。


橿原市教委の対応に思うこと

2013-10-13 11:39:46 | いま・むかし
http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/131012/crm13101210060003-n1.htm
(「公平ないじめ調査委」は“ウソ” 中1女子自殺で橿原市教委は「訴訟を想定」 元委員が暴露:MSN産経新聞ニュース、2013年10月12日付け)

今年1月に出た大津市の調査委報告書でもそういう事後対応の経過が書かれていましたが、学校・教委が子どもが亡くなる事案が生じたときに、訴訟を想定して弁護士などに相談しながら動くことは、これまでも多々あったと思います。それがこの奈良・橿原の件では、調査委員会の構成や運営の面でも現れた、ということですね。だから、今まで遺族の側が疑問を感じてきたことが、「やっぱりそうだったのか」という形で表面化した、ともいえるわけです。
調査委員会を立ち上げるときに「単に知る権利の保障ではなくて、遺族の参加・参画が大事」とこのところ私が言うのは、このあたりの疑念を払拭しないことには、調査それ自体への信頼性が保てないだろう・・・ということあっての話です。
また、子どもが亡くなる事案が生じたときに「緊急支援」と称して臨床心理士らのチームが学校に入ることも、こうした弁護士と学校・教委の事後対応に関する方針のすりあわせとリンクしながら行われてきたのではなかったかと。
さらに、こうした子どもが亡くなる事案が生じたときの学校・教委と弁護士・臨床心理士ら専門家の連携は、「一日も早く、悲しい事件のことは忘れて、もとのような学校に戻したい」という他の子どもの保護者や地域の住民らに支持されてきたのではないかとも思います。そしてきっと、私立学校の場合は、このような学校と弁護士・臨床心理士、保護者、地域の住民らのリンクに、卒業生などの思惑も加わるのでしょう。
しかし遺族の立場にしてみれば、「一日も早く、悲しい事件のことは忘れて、もとのような学校にもどしたい」などという関係者の思いや、それにもとづく対応そのものが、「どうしょうもなく、ひどいしうち」なのです。「うちの子どもが生きていたあの日になんて、もどれるわけ、ないじゃないか!」と思うわけです。
だから、ここのところの遺族の心情などに思いが至らない専門家が、いくら亡くなった子どもの死に至る経過を明らかにする調査委員会をつくっても、遺族ときっちりと折り合っていくことは難しい。また、学会推薦や業界団体推薦であろうが、ここがわからない専門家であれば、十分に調査委員会が機能を発揮することはできないだろう。そういう点についての考慮・配慮が、法律ができて、国の基本方針ができたとしても、まだまだ不足しているのではないか・・・。
そういう状況のなかで唯一、できることは、亡くなった子どもの名誉を守りながら、その子どもの死に至る経過を検証して、遺族、学校、教委、他の保護者、地域住民、専門家等々、関係する人々がどのように再出発をしていくのか。それを共にさぐっていくという作業ではないかと。事実経過の検証作業がなぜ大事なのかといえば、こういうことなのではないか・・・。
というような趣旨で、昨日、奈良・橿原の件を追いかけてきた某新聞社の方に、いじめ防止対策基本法に関する国の基本方針を読んだ上でのコメントをしておきました。
(以上は今日、フェイスブックに書き込んだことの転載です)


意外なところで、意外な評判が

2013-06-30 20:57:46 | いま・むかし
昨日は京都市伏見区の「ふしみ人権のつどい」で、いじめ問題に関する講演をしてきました。
その講演終了後、このつどいを企画・運営されていたみなさんと懇親会をしてきたのですが、そこで私に関する意外な評判をお聞きしました。もちろん、プラスの方での評判なのですが。
まず、この「人権のつどい」でいじめ問題を取り上げるときに誰を講師に呼ぶか検討されたときに、「テレビにしょっちゅう出てくるような有名人ではなくて、地道にこつこつ活動や研究を続けてきて、信頼できる人」を呼ぼうと、企画・運営をされた方は考えたのだとか。
そのときに、今から7年前、2006年の大阪市の青少年会館条例廃止問題のときに、他の人権教育系のそうそうたる研究者たちが「沈黙」する道を選んだなかで、「さまざまなバッシングがあっても一歩も引かずに、そこに通う子どもの最善の利益という観点から、この条例を廃止するのはおかしいと言い続けた」ということで、「この人は信頼できる」と私のことを思い出したのだそうです。
そして、その私が、最近ではいじめや子どもの自殺の問題についても、教育学や子どもの人権論の立場から情報発信を続けているということ。こんなことから、講師依頼をしようということを思い立ったのだとか。
意外なところで、数年前に自分がやったことの意外な評判があるんだなあ・・・って、あらためて思った次第です。


この20年の自分の歩みをふりかえる話をしました。

2012-10-13 23:37:00 | いま・むかし

ここのところ、なかなかブログの更新にまで手間がまわらず、申し訳ありません。近況報告や急ぎの情報発信などは、フェイスブックまたはツイッターでやっています。もしもお急ぎの場合は、そちらを検索して、私の所在を確認してください。ただし、ツイッターでのフォローやフェイスブックでの友だち申請などにあたっては、どこの誰だかわからない方ははじくようにしています。また、誹謗中傷などがある場合も、その方をブロックするようにしておりますので、その点はご理解ください。

さて、私が大阪市内で不登校の子どもの居場所づくりに関わって、ちょうど今年で20年。かかわりはじめたその頃の私は、大学院進学が決まった直後の大学4回生。もうそんなに月日がたったのかと思うと、驚きです。
どうして今、あらためてそんなことを言うのかといいますと、今日の午前中、京都市内でおこなわれた「きたけん」学習会で、そのような趣旨での話をしたから。
今日はその学習会で、「できることを、できる人が、できるかたちで―子どもの人権を守るための地域のとりくみとは?―」というタイトルで、大阪で不登校の子どもの居場所づくりをはじめ、兵庫県川西市の子どもの人権オンブズパーソン制度にかかわり、そして、大阪市の「ほっとスペース事業」から青少年会館に関わりはじめたこと。青少年会館条例廃止後も大阪市内の各地区の子ども会活動などを側面から、研究面でサポートしていくことにとりくんだこと。そんなことをふまえて、子どもの人権を守るためのさまざまな地域レベルでの取組みについて、私が今、考えていることについて話をしました。
今日、自分が話をしたことをふりかえりますと・・・・。今まで自分がこの20年近く、主に大阪という場で取り組んできたことを、そろそろ「子どもの人権」や「居場所づくり」などをキーワードにまとめていく時期にさしかかっている・・・・。そのようなことをこの頃、実感しはじめました。
あと、私の講演の前に、この京都市内の地区で取り組んでいる子ども・若者のダンスサークルの発表や、「竹田の子守唄」の披露もよかったです。特にダンスサークルが解放歌や宣言などの映像を流しながら、そのイメージをからだで表現するヒップホップの踊りを見せてくださったのには、正直なところ「すごいな~、こういう表現もあるんだ」と思いました。また、あらためて映像と音楽で解放歌や宣言に触れると、今日はなぜだか、涙がぽろりと落ちました。今年って、宣言から90年目の年なんですね。
ところで、今後もしばらくの間、各地での講演活動が続き、日ごろの大学での仕事や原稿執筆との両立にいろいろと悩む日々が続きそうです。ブログの更新もその分、途切れがちになります。どうかご理解をお願いします。
また、このところ、大津市での中学生いじめ自殺事件をきっかけにして、私のところに「公的第三者機関(=川西市の子どもの人権オンブズパーソン)での経験をふまえて、何かお話を」という依頼が来ます。あるいは、『人権教育と市民力』(平沢安政編著、解放出版社)に「子どもの権利」(第6章)を書いたことをきっかけにして、子どもの権利条約の話をしてほしいという依頼もあります。そして、両方をまとめた講演依頼もあります。
そういう講演依頼を受けて、いろいろとお話をさせていただくなかで、今、私がかなり強調しているのが、子どもとおとなの「応答的なかかわり」ということ。これは大学で「子ども支援論」の授業をするなかでも強調していることですし、今年前期の大学院講義で、浜田寿美男さんのワロン論などを紹介するなかで、あらためて大事だと実感したことでもあります。
今日のところはあまり詳しく書くことはありませんが、また今後、このブログで「応答的なかかわり」について触れたいと思います。




もう一度、原点に立ち返る必要性

2012-09-11 17:49:05 | いま・むかし

http://mainichi.jp/select/news/20120911k0000e040233000c.html (兵庫の中学:同級生から集団暴行受け中3肋骨骨折:毎日新聞2012年9月11日付けネット配信記事)
この記事ですが、よく読めばわかるように、兵庫県川西市の公立中学校で起きたケースです。
兵庫県川西市には、市の条例にもとづく子どもの人権オンブズパーソン制度があって、それが私の前の職場であることは、このブログでも何度も書いてきました。
川西市子どもの人権オンブズパーソン制度の出発点は、90年代半ばに相次いだ子どものいじめ自殺などの問題に対して、「他市で起こりうることは自分の街でも起こりうること」という前提に立って、子どもの人権を尊重する教育を学校・地域社会・家庭で実現していこうという意識を高め、その方向でさまざまな取り組みを実施していくということ。そのことを、まずは教育委員会関係者が持ったことにありました。
また、市を挙げての子どもの人権を尊重する取り組みのなかで、学校や行政の対応の不十分な点を是正したり、実際にいじめの被害などで悩んでいる子どもへの相談・救済活動を行うシステムとして、この川西市の子どもの人権オンブズパーソン制度ができたのでした。
一方、実際に市議会で条例が出来たのが98年12月、実際に制度の運営が始まったのが99年4月、相談の受付開始が99年6月。本格的にこの川西市の制度が動きはじめて、13年が経過しました。そして、川西市の子どもの人権オンブズパーソン自体は、この13年、まさにフル稼働といってもいいくらい、熱心に仕事をしてきたと私自身は理解しています。
ですが、その13年間、オンブズはフル稼働していたとしても、当初の「子どもの人権を尊重する教育を学校・地域社会・家庭で実現していこうという意識」を高める取り組みを、川西市及び川西市教委、その下にある市立学校園は、いったい、どのくらい取り組んできたのでしょうか?? 
どうもこの新聞記事での川西市教委のコメントを見る限り、当該校や市教委は、被害を受けた子どもが当初、「からかい」を受けいていたことへの認識が甘かったのではないか、と思われてなりません。その段階ですでに何か対応しておけば、この暴行にまで至らずに、もっとちがった子どもどうしの関係が作れていたのではないか、とも思われてなりません。
また、この暴行が起きた背景に部活のあり方があるのだとすれば、99年7月に起きた故・宮脇健斗くんの市立中学校ラグビー部での熱中症死亡事故以後、川西市教委及び市立中学校はどんな部活改革をしてきたのかということが問われます。その時、死亡事故をふまえて原因究明の調査などに携わった私としては、あらためて、2000年当時の勧告・意見表明の中身に立ち返って、部活のあり方を見直してほしいと言いたくなります。
いずれにせよ、あらためて川西市、川西市教委及び市立学校園として、この暴行事件に関する報道を重く受け止め、自分たちが90年代後半に議論してきたことに立ち返って、もう一度、子どもの人権を尊重する学校・地域社会・家庭のあり方をどのように実現するのか、徹底的に検証・議論を行っていただきたい。また、そのために、子どもの人権オンブズパーソンとして、積極的に意見表明等、できる限りの対応をしていただきたい。
「もう一度、原点に立ち返って、みんなきっちり、やるべきことをやろうじゃないか」
あらためて、川西市、川西市教委、市立学校園、そしてオンブズの関係者に、このことを伝えておきたいと思います。




大阪市の「校長公募」に思うこと。

2012-08-10 07:02:46 | いま・むかし

http://osaka.yomiuri.co.jp/e-news/20120807-OYO1T00862.htm?from=newslist (小中学校長50人を公募、大阪市:読売新聞(関西発)ネット配信記事、2012年8月7日付け)

今日から徐々にですが、こちらのブログでの記事更新を再開していきます。ようやく本業も落ち着いてきたのですが、出かける用事がいろいろ入ったり、大津の事件関連でいろいろと問い合わせ、取材などが相次いでいて、なかなか思うようにブログの更新まで手がまわりません。このような状況なので、しばらく不定期更新になります。
さて、今日はこの「校長公募」の記事をとりあげました。いよいよ、学校活性化条例が制定されたことにともなって、これに関連するさまざまな取り組みがはじまります。というか、大阪市の従来の公教育が「解体」されていく、そういうことがはじまるわけですが。
私はいつもこの手の「公募」に対して率直に抱く疑問があります。それは次のことです。
(1)「民間のノウハウを活かして」というけど、「民間」にもいろいろあるし、そのノウハウが学校の運営に活かされて、ほんとうに学校がうまくいくのかどうかわからない。何を根拠にそういうのか?
(2)仮に「学校にもうまく適用可能な民間のノウハウ」があるとしても、「公募」でそのノウハウの持ち主が集まってきて、必要なすべての校長の枠が埋まるとは限らない。どうして「公募」でならうまく、必要な人数の校長が集まると考えるのか?
(3)仮に「学校にもうまく適用可能な民間のノウハウ」があって、「公募で必要な人数の校長があつまる」としても、その集まった校長のひとりひとりが、実際にある学校で受け入れられ、定着するかどうかはわからない。どうしてというか、何を根拠に「公募」校長ならみんな、各学校でうまくいくと想定できているのか?
(4)仮に「学校にもうまく適用可能な民間のノウハウ」があって、「公募で必要な人数の校長があつまる」ことになって、「その公募校長が各学校にうまくなじんだ」としても、「その学校で実施された教育が、ほんとうに子どもや保護者、地域住民にとってプラスの結果を招くものなのかどうか」はわからない。いったい、何を根拠に、うまくいくと想定しているのか??
逆にいえば、この「校長公募」の裏には、<その公募をやろうとする側の抱く「民間のノウハウ」と、そこに集まってくるであろう公募校長への資質・能力などへの、自分にとって都合のいい想定>と、<学校の管理職や教育行政が指示・命令を出せば、教職員はなんでも都合よく動いてくれるという身勝手な想定>と、<校長公募などを通じて一連の学校改革がすすめば、子どもや保護者、地域住民は喜んでくれるという、根拠のない想定>の3つ、これが重なって存在しているように思われます。
でも、こんな甘い想定ばっかり積み重ねた取組みで、「ほんとうにこんなこと、うまくいくんですかねぇ?」としか、私には思えません。

現実に大阪市内の公立小学校を何校かまわる調査をしたときに、ある学校で聞いた話です。夏休みのこのお盆あたりの時期になると、校長・教頭の管理職ふたりは、手分けをして校区内の町会の盆踊りをまわるそうです。だから、校長・教頭のおふたりにはこの時期、休みがないとか。そうまでして、学校と校区内の住民とのつながりをつくって、何かあると学校を頼ってくれる、あるいは学校を支えてくれるような関係を維持しようと、校長・教頭はがんばって動いているわけですね。そしてそういう基盤があって、学校と家庭・地域社会の連携もなりたつのではないかと思うのですが。
しかし、こんな泥臭い、地道な営みを、はたして上から落下傘のように降りてくる「公募校長」はするのかどうか。
この「公募校長」たちが就任後、毎年、夏休みになると、自分は涼しい校長室に居て、部下たる教職員に「民間のノウハウではこうだ!」とあれこれ自分勝手な指示・命令をだし、その結果、子どもや保護者、地域住民は迷惑を被るし、教職員もせっかくのリフレッシュの機会を台無しにされる・・・・なんてことのないように願いたいですね。
ましてや、どこかの市長やそのまねをする区長のように、涼しい部屋からツイッターで教職員にあれこれ指示を出すような、そういう「公募校長」が出てこないことを願います。
「民間のノウハウ」をもって「公募区長」になった方には、下記のとおり、さっそく、ツイッターでいろんな問題を起こしている方もいますからねぇ。「民間のノウハウ」をどう見るかという問題もあるだろうし、「公募」で集まる人材も、集まる側の質の問題や、選ぶ側の見る目の問題があると、結局こうなるんだなぁと、下記の記事を見ていると思いますね。

http://osaka.yomiuri.co.jp/e-news/20120809-OYO1T00721.htm?from=main1 (ツイッター発言の淀川区長、橋下市長「処分」も:読売新聞(関西発)ネット配信記事、2012年8月9日)

まあ、ツイッター上での発言を含め、選挙で当選した橋下市長が言っていること、特に教育に関して言っているも、たいがい、どうにかしてますけど・・・・。このことは、またいずれ、このブログで書くことにします。


約2週間ほど、更新が途切れました&「やぶへびかい」の告知

2012-08-04 07:05:57 | いま・むかし

この2週間ほど、こちらのブログ、更新が途切れました。ほんとうに申し訳ないです。とうとう可決してしまった大阪市の「学校活性化条例」のこと、大津市の中学生自殺問題のこと、その他いろいろ書きたいことは山ほどあったのですが、本業のほうが忙しくてなかなかこちらまで手がまわりませんでした。夏休みにようやく本業が入りましたので、徐々に生活を切り替えて、こちらのブログでも何か発信できるようにしていきたいと思います。
さて、今日のところはひとまず、午後からのイベント「やぶへびかい」の告知だけさせていただきます。詳しくはこちらのブログをどうぞ。
http://ameblo.jp/yabuhebikai/entry-11310902591.html
落語家の笑福亭竹林さん、ドキュメンタリー映画の監督の刀川達也さん、そして私。
この3人の「子育て」をめぐるトークイベントが、この「やぶへびかい」です。
また、3人のトークだけでなく、竹林さんの落語も予定されていると聞きます。
あと、刀川さんは児童養護施設の子どもとスタッフの関係を追い続けた映画「隣る人」の監督でもあります。そして、終了後は懇親会もあるのだそうです。雰囲気的には「夏の夕涼みの会」みたいにしたいそうで、私、浴衣を着て竹林さん、刀川さんと話をするそうです。
・・・・とまあ、ここまでは書けるのですが、実は「でたとこ勝負でいきましょ」という竹林さんの意向もあって、あんまり細かいこと決まってません。「実際に会場に来てください」ということですね。ひとまず、イベントの告知でした。

ひとまず、


いじめ問題への対応で首長が責任もってやるべきことは何か?

2012-07-14 21:39:29 | いま・むかし

またしばらく更新が途切れました。なかなか思うようにブログの更新の時間が取れず、申し訳ありません。

でも、そうしている間にも、大阪市議会では橋下市長(維新の会)・公明党市議団の協議により、学校活性化条例や市職員の政治活動を規制する条例などの修正合意ができたとか。下記の記事を参照してください。
http://www.asahi.com/kansai/news/OSK201207130032.html

一方、西成区などで行っている子どもの家事業を学童保育関連の事業に統合しようという市政改革プランに関連して、あるテレビ番組に出て批判的なコメントをした公立高校教員に対して、橋下市長は相変わらず、ツイッターで罵倒しています。その様子は、下記でわかります。
http://kiziosaka.seesaa.net/article/279998082.html

そして、例の大津市の中学生のいじめ自殺事件に関しても、橋下市長は「日本の教育行政の膿」等々、大津市教委を罵倒する発言を行っています。そのことは、下記でわかります。
http://kiziosaka.seesaa.net/article/280541038.html

しかし私は思うのですが、もしも今の大阪市内の公立学校で何か重大な事故・事件が生じたときに、橋下市長がほんとうに首長として責任ある対応をとるのかどうかは、たいへん怪しいところかと思っています。

これは私のうがった見方でしかないのですが、おそらく訴訟で大阪市あるいは大阪市教委の責任が問われるような事態が生じれば、彼は態度を豹変して、一点「守り」の態勢に入ったり、実際にあったことを「なかったこと」のように言ったり、学校や教育行政の非よりも亡くなった子どもやその保護者の非を大きく言いつのるのではないか。そのような懸念があります。

もしも本当に今の教育委員会の学校事故・事件後の被害者遺族対応のあり方に、彼が大阪の首長として疑念があるのであれば、まずは大阪市教委の教育委員及び市教委の事務当局に対して、「同様のケースが生じないように、万全の体制をとってほしい」と、速やかに要請をするべきでしょう。

また、「過去のケースをさかのぼって、学校や教育行政の対応に誤りがなかったのか、検証作業をするべきだ」と、大阪市の教育委員及び市教委の事務当局に要望するべきでしょう。

さらに、いじめ防止や子どもの自殺防止に向けて、首長としての彼は、大阪市教委及びこども青少年局、市民局等々、関連する部署に「いっそうの対応強化を」という要請をするべきでしょう。

でも、そういったことを、彼はこの数日でやったのでしょうか??? 

私の知る限りですが、大津市教委を罵倒はしたかもしれませんが、何か具体的に大阪市教委やこども青少年局に要請したという話は聞きませんよね。

もしも彼に本当に教育行政の膿を出し切ろうとか、子どものいじめ防止や自殺防止に努めようという気持ちがあるのなら、他市のことはさておき、自分が首長として責任をもってかかわれる大阪市において、やるべきことが多々あるはずです。

どうしてそこはしないのでしょうか? なぜ先に、他市の教育委員会を罵倒するのでしょうか? 筋違いの対応としか、私には思えないのですが。

私としては、この際、他市のことはどうでもいいから、まずは今すぐにでも、大阪市及び大阪市教委として、子どものいじめ防止、自殺防止や学校での事故・事件発生後の被害者遺族対応に関して、「できうる限りの対応策を考え、実行に移すよう関連部署に要請する」と、彼には首長としてのリーダーシップを発揮していただきたいものです。

先に述べた子どもの家事業に関する話も同じです。ほんとうに首長としての彼がすすめようとしている改革がまともであれば、先の公立高校教員も、テレビで彼の施策提案を批判するコメントはしないはずです。

にもかかわらず、そのような自分の施策提案の見直しなどは一切なく、職員の政治活動を規制する条例案をなんとかして大阪市議会で成立させようとしているわけですし、そのことにひっかけて、彼はこの公立高校教員を罵倒する。

もう、このような首長としての彼の対応、うんざりです。これでは、何も大阪市の子ども施策、よくならないでしょう。単に世の中で話題になっていることに対して自分のいらだちをぶつけたり、あるいは、自分に批判的な意見を投げかける人にたいして、感情的になっているだけのようにしか思えません。

ついでにいうと、教育行政基本条例や学校活性化条例、職員基本条例などの制定によって、子どもの自殺防止やいじめ防止が進むかというと、私は「直接的にはなんの関係もない」以上「期待はできない」というしかありません。

第一、これらの条例案のどこに、たとえば学校で深刻ないじめ自殺事案などが発生したときに、その背景などをきちんと調査して、遺族を含む関係者にきちんと報告をするという規定が盛り込まれているのか・・・・。私の知る限り、これら3条例には、そういう学校での事故事件発生時の対応についての条文は、きちんとした形では盛り込めていないように思います。

なにしろ、大阪市教育行政基本条例第6条の「点検・評価」も、基本的には教育振興基本計画の進捗状況に関する点検・評価を指しています。また、「開かれた教育行政」を規定した第5条1項も、これは学校選択制導入を促進することを狙いとしたもののように思われます。

しいていうなら、この教育行政基本条例が子どものいじめ防止や自殺防止、学校事故・事件発生後の被害者遺族への対応の充実につながるとしたら、第5条2項の「子どもの最善の利益の実現」を理由に、「市民の意向」を反映しろと、大阪市教委や大阪市立の学校園に対して、市民がこれらの対応の充実を積極的に求める動きが強まっていく。それに大阪市教委がなんとか応えなければ・・・・と動いたときくらいでしょうね。

しかし、これもかなり、教育行政基本条例を好意的に「こじつけ」た解釈。とすれば、「もともと、教育行政基本条例案をつくった人々、それに賛成票を投じた人には、子どものいじめ防止や自殺防止、学校事故・事件発生後の被害者遺族への対応の充実なんて観点はなかった」というしかないかと思います。とてもではないですが、こんな現状では、橋下市長が他市の教育委員会のことなど、批判できないのです。

<追記1>

もしも橋下市長が本気で子どものいじめ防止や自殺防止などに取り組む気があるのなら、子どもの家事業や教育相談事業のサテライトのような、子どもたちのセーフティネット機能をもった事業・施設などを縮小したり、廃止したりすることはできないはずです。そこは全く見直さないままで、他市の教育委員会を罵倒することには熱心だと言う段階で、彼がこの問題をどの程度のこととして受け止めているのかがわかります。

<追記2>

もしも本気で橋下市長が子どものいじめ自殺などが起きたときに、学校や教育行政がきちんと被害者遺族への対応をするべきだと考えているのであれば、たとえば兵庫県川西市の「子どもの人権オンブズパーソン条例」のように、市長直属の子どもの人権救済・擁護機関を常設でおく条例をつくる。その上で、そこに調査権限を持たせて、学校及び教育行政側と被害者遺族側のあいだに立って、公的第三者機関として機能するようにもっていく方法も考えられます。しかしこの間、彼の口からそのような意見が出たことはありません。

まあ、川西市子どもの人権オンブズパーソンのような公的第三者機関は、子どもの人権を擁護するためであれば、学校や教育行政に対してだけでなく、首長に対しても勧告・意見表明を出しますからね。首長として、本気で子どもの人権を守るまちづくりをすすめていくために、自分たちにとって一番「耳の痛いこと」をいう公的第三者機関を常設できるかどうか。そこをよく見極めれば、彼らのいじめ問題などへの対応の本気度がわかります。パブリック・コメントが多数集まってもそれを無視するがごとき発言を連発するような首長では、こういう公的第三者機関の常設など、ほど遠いでしょうね。

※なお、<追記2>を書くにあたって、表題を修正しました。


困ったときのいつもの手口では??

2012-06-25 20:36:20 | いま・むかし
結局、あれですね。いつもの「手口」ではないかと思います。
橋下市長サイドとしては、自分たちへの支持が動員できなくなるとか、世論の風当たりが自分たちに批判的になってくると、何かの話題を見つけて、世の中に根強く残る偏見や差別意識などをマスメディアを通じてあおって、そこで対立構造つくってすり抜けようとするのではないかと。もちろん、こういう手口が可能になるのは、彼らがこのような情報発信をすれば、マスメディアがすぐに中身への批判もなく飛びつくとか、あるいは、そのマスメディアの報道を見てすぐに対立構造にのりかかって橋下市長サイドを支持してしまうような、そのような市民側の意識のあり方にも問題があるわけですが。また、市民交流センターがいま、どのような状況にあるのか、情報発信が今一つであるということも、このような意識のありようを成り立たせてしまっている背景要因にあると思います。
 
ちなみに、私の知る限りのことを言えば、この数年の市民交流センターへの移行のプロセスで、地元外の人たちの施設利用の状況は伸びつつあるはず。土日や休日、夜間などで場所とりを市民交流センターでやろうとしたら、けっこう苦労することもあります。特に交通機関の利用がしやすいところに立地する市民交流センターだったら、早めに場所をおさえないと土日や休日、なかなか予約がとれない。・・・・というようなことが言えるのも、地元外からよく研究会などで市民交流センターを私が利用しているから。 来月1日も自分たちの学習会である館を使う予定ですしね。
ついでにいうと、市民交流センター以外にもたとえば生涯学習センター・市民学習センターとか、クレオ大阪とか区民センター、いろんな社会教育・生涯学習施 設や市民利用施設の「廃止」や「民間委託」方針が、例の「市政改革プラン(素案)」で出ていたはずです。たとえ市民交流センターを全廃して他の施設が残ったとしても、その残った他の施設が今度は土日や休日、満杯になって、使い勝手が悪くなるのは目に見えてるのですが。だから、本当に市民の利用する施設を大事に考えるなら、「市民交流センター全廃」ということが何をもたらすのかまで視野に入れて、反対の意見表明をしていかなければいけませんね。
そして、だいたい「市民交流センター」を設置した時点でさ、かつての解放運動の拠点という位置づけはもう「終わってる」わけではなかったのですか、大阪市の施策としては?あるいは、その前身の「人権文化センター」のころでもそういえるのだろうけど。そういう歴史的な経過を知らないのか、不勉強だなぁ、といわれ てもしょうがないと思うのです、この市長のコメント。きっとおそらく、今日の夕方のテレビ番組などで、識字・日本語教室を含む市民交流センターの「廃止」方針に「最低だ」とかいうコメントが出たことにたいして、こんな形で反撃しようと試みているのでしょうけどね、市長サイドは。それにしても、手口があいかわらず「下品」です。
http://sankei.jp.msn.com/west/west_affairs/news/120625/waf12062512430006-n1.htm

(別のところで書いたものを転載しているので、文字サイズなどが通常と異なっています。申し訳ありません)


子ども支援学研究会で報告しました。

2012-06-25 19:21:12 | いま・むかし

この間、本業がほんとうに忙しくて、なかなかブログの更新にまで手が回りませんでした。

その間にも、大阪では市政改革プラン(素案)に集められた2万数千件のパブリック・コメント、しかも「こういう改革案はおかしい」とか「撤回しろ」という意見ばかりのパブリック・コメントに対して、橋下市長が「統計学的に意味なし」みたいな、「その発言のほうが意味ないだろ?」というしかないコメントを出したとか。あるいは、大阪市の職員の政治的な活動を規制するための新たな条例案をつくろうとしているとか。まったくもって、「どっち向いて改革しているの?」というしかないような、そんな状況が展開しつつあります。

その一方で、今夜も中之島公会堂で公務員労組攻撃に対して抗議の意思表明をする大規模な集会が行われていると聞きます。あるいは来月には、学校選択制のあり方を問う熟議イベントを、保護者を中心として市民レベルで企画しているとも聞いています。さらに、先ほどツイッターを見ていたら、夕方のニュース番組などで、大阪市の市民交流センター及びそこでの識字教室・日本語教室事業の廃止に関する報道があって、コメンテーターが「これはおかしい、最低だ」と言ったという情報もこちらに伝わってきています。こういうことから、私はいよいよ、橋下改革、特に子ども施策や教育改革、あるいは人権や文化、生涯学習、福祉などに関する改革の内実が表に現れてきて、ごまかしようのないところまで来たのではないか、と感じています。ここらでさらにいっそう、橋下市長や大阪維新の会などのくりだす諸改革の内実について、「ごまかしようのない姿」を、いろんな立場からあらわにする作業が必要ではないかと思います。

そんななか、先週の土曜日(6月23日)の午後、大阪市内で開かれた子ども支援学研究会に呼ばれて、この数年の大阪市・大阪府の子ども施策の動向について話をする機会を得ました。私としては、このブログを立ち上げた2006年秋から今までの約6年弱の間、大阪府・大阪市がどのように教育改革や子ども施策の改革を進めてきたのかについて、年表風にまとめたものを出して報告をしました。今後、この報告内容をどうにかこうにかして、活字に載せることができるように(年表をそのまま載せるかどうかは別として)作業を進めようと思っています。
そのようなわけで、あまりここで詳しいことは書きませんが、報告の要点や報告後思いついたことをまとめてみれば、だいたい、次のとおりです。「こんな教育改革や子ども施策が今後も大阪では続く見込みですけど、それでも、橋下市長や大阪維新の会、支持できますか???」と私などは思いますし、「府知事時代の彼らの動きを見れば、去年の秋の市長・府知事のダブル選挙の前から、彼らが子ども施策や教育改革においてはこんなことしかしないだろうということは、おおよそ、予想できたと思うんですけど・・・?」と私は言いたいです。

  1. 子ども施策についていえば、とりわけ子どもの利用する施設(国際児童文学館や府立青少年会館、あるいは大阪市の青少年会館や児童館、トモノス)の廃止や、金額的にはわずかだけど府・市の持ち出しでやっているさまざまな事業を打ち切るところから、大阪府・大阪市のここ数年の改革が始まっているということ。
  2. しかもその府・市の持ち出しでやっている事業のなかには、子どもを含む生活困難な課題のある人々を支えるためにやっているような事業が多いこと(たとえば夜間中学への補助金とか、渡日生徒支援の事業とか、あるいは、大阪市の子どもの家事業とか、識字教室・日本語教室の事業とか。さらにはこども相談センターのサテライト=かつてのほっとスペース事業なども・・・・)
  3. そういう事業を打ち切り、施設を統廃合したあとに来るのは、より一層の「能力主義・競争主義」的な教育改革。たとえば「学力向上」に向けての「統一テストの結果の公開」であるとか、「学校選択制の導入」であるとか「府立高校の学区撤廃」であるとか。要するに、子どもや家庭の生活の下支えや、学校への手厚い支援などなしに、「競争をてこにして、もっと学校現場と家庭ががんばれとムチを打つ」だけの改革提案しかない、ということ。
  4. おそらく教育行政基本条例も学校活性化条例(大阪市)・学校基本条例(大阪府)も、職員基本条例も、そしていったんは撤回された「家庭教育支援条例案」も、美しい文言はいっぱいちりばめたとしても、こうした構造を強化し、そのなかで「もっと学校現場と家庭ががんばれ」とムチを打つことをますます加速させる効果を発揮するのではないか、と思われてならないということ。

悲しい出来事に向き合う知的な誠実さが、いま大事なのでは?

2012-06-02 10:54:20 | いま・むかし

下記の新聞のネット配信記事にもあるように、例の大阪市の市政改革プラン素案へのパブリックコメント、1万9千件以上の意見・要望などが来たようですね。しかもその大半がこの素案の中身に反対、あるいは現状維持を求めるものだとか。

いかにこの数か月の大阪市政が、市長選挙の投票結果に反映された「民意」「だけ」は尊重していても、それ以外の「民意」を無視してきたかがわかりますね。

http://www.yomiuri.co.jp/politics/news/20120601-OYT1T00157.htm

さて、話は変わりますが。今年の1月に行われた教育基本条例制定反対の集会でお目にかかった前田佐知子さん(宇宙科学研究者、元京都女子大学教授)から、下記2つのブログ記事をご紹介いただきました。こちらであらためて、紹介させていただきます。

http://peacephilosophy.blogspot.ca/2012/05/part-ii.html

http://peacephilosophy.blogspot.ca/2011/09/blog-post_16.html

どちらも、沖縄・八重山地区の教科書採択をめぐる諸問題について書かれたものです。(前田さん、2つの記事、ご紹介いただきありがとうございました。)

ここにある教科書採択の動きは、今後、大阪市内でも起きてくるかもしれない問題です。また、すでに東大阪市では、下記の新聞のネット配信記事にあるように、育鵬社の中学校公民教科書が採択されています。

http://sankei.jp.msn.com/life/news/110727/edc11072716000004-n1.htm

人権博物館やピースおおさかの展示などへの橋下市長らの批判、補助金カット、あるいは新しい博物館建設の動きなどにもみられるように、これまでの日本近現代史の事実認識や人権理解などに対する攻撃が、この大阪でも強まってきています。

そういう動きはもしかしたら、政府の動きに対して「もの言わぬ国民」をもっと増やしたい、政府が国民に対してどんな理不尽な改革を行っても「耐えがたきを耐え、忍びがたきを忍ぶ」ことを求めたい、そういう発想から生まれてきているのではないか。

あるいは、過去の自分達の失敗、過ちを隠蔽し、いかにも自分たちが常に正しいことだけをしてきたかのように装いたい。そういう発想から芽生えてきているのではないのか。

そんなことを、前田さんの書かれたものを読んで、大阪のここ最近の様子と関連づけて、私は思いました。

そういえば、「過去の自分達の失敗を隠蔽し」ということでいえば、多くの子どもの事故・事件発生に際しての学校・教育行政の対応にもあてはまること。今日・あすと神戸で全国学校事故・事件を語る会の大集会(全国集会)があって、今年もまた私は出席します(詳しくは下記参照)。

http://tsuyokun.blog.ocn.ne.jp/gakkoujikojiken/2012/05/post_e0a2.html

起きてしまった悲しい事件・事故、不幸な出来事に対して、いかにその事実に誠実に向き合い、きちんとした検証を行って、被害を受けた方への補償や今後の再発防止などに全力を挙げていくのか。

また、起きてしまった悲しい事件・事故や不幸な出来事を「隠す」「なかったことにする」のではなくて、その事実を認めたうえで「次」をどうつくるのか。

こういった形での「知的な誠実さ」が今、さまざまな分野で求められているのではないか。

私はこの頃、そのように感じています。そして当然ですが、このことは去年の東京電力福島第一原発の事故に関しても、東日本大震災に関しても言えることだと思うのですが。


大阪市音楽団をなくして、いったいどうするの?

2012-05-06 12:51:30 | いま・むかし

昨日は午後から妻娘といっしょに、大阪城の音楽堂へ行ってきました。

3時過ぎに音楽堂前についた段階でもう700人近く並んでいて、私ら一家のもらった整理券は730番台。

結局、3000人近く集まったようですね。座席だけでなく芝生席もいっぱいでしたから。

すでにネット上、あるいは新聞やテレビなどでご存知の方もいると思いますが、GO!GO!市音!大阪市音をほめる会が昨日、ありました。詳しくは、こちらのページを見てください。

http://55shion.jimdo.com/

この間、ツイッターでよくやりとりする皆さんなど、顔見知りの方に、この会場で何人も出会いました。お目にかかることができて、ほんとうによかったと思います。

さて、大阪市音楽団の歴史は、下記の大阪市ホームページでの音楽団の説明にもあるとおり、近代都市・大阪の歴史と重なっているかと思います。

また、この音楽団の取り組みは、一見目立たないかもしれないけど、大阪を中心とした関西圏の文化的な水準向上に、いろんな意味でつくしてきたかと思います

http://www.city.osaka.lg.jp/kyoiku/page/0000152422.html#shokai

だから、音楽団関連の予算を含むさまざまな文化関連事業の予算を「切る」という方針を打ち出した段階で、今の大阪市政を預かる人々は、大阪の文化的なものを「破壊」してもかまわない、大阪に文化はいらない、そう言ったのだと思っていいとあらためて思いました。

ある意味、この音楽団関連の予算をなくすということは、大都市・大阪の「解体」をめざす「都構想」の象徴のようだと思いました。

しかし、文化的なものが何もないような街に、人が集まるんでしょうか。

長い歴史をもちながらも、文化的なものの香りのしないような都市など、今の大阪市政を預かる人々が言う「グローバル化」の流れや「都市間競争」なるもののなかで、ますます生き残れないのではないでしょうか。

なにか、今の大阪市政を預かる人々は、大きな錯覚をしているのではないか・・・・と、ますます、思ってしまいました。


ほんとうに「なんちゅうこと、するねん!」というしかない。

2012-04-29 20:23:15 | いま・むかし

またしばらく更新が途切れました。やはり本業の大学での仕事や、家事育児介護といった家のことが忙しくなると、なかなかブログの更新にまで手が回りません。寝る時間が減るくらい、今はバタバタしていますので。

ですが、できるだけ今の大阪市内・大阪府内の子どもや教育・福祉などの状況に関して、こちらからも積極的に情報を発信していきたいので、短くとも何か書いていくことにしたいと思います。なかなか状況は切迫していますし、今、ここで抗議の声、異議申し立てをしておかないと、ろくな方向に行かないように思いますので。

さて、昨日の夜、大阪市内で識字教室・日本語教室の運営などにかかわっておられるみなさんの集まりに行ってきました。基本的にはこのみなさんのお話を脇で聴いているだけで、自分からは何も意見を述べたりとかはしなかったのですが。

ただ、例の大阪市の「グレート・リセット」を目指すPT案のおかげで、市民交流センターなどで活動を続けている識字教室・日本語教室の存続が危ぶまれる状況になってきました。というのも、市民交流センターなどで活動をしている分の教室事業、これを終了させるという方針が、PT案のなかに盛り込まれているようなのです。

このような場に顔を出して、識字教室・日本語教室の運営にかかわっておられる方の話を実際に聴きますと、正直なところ「なんちゅうこと、するねん!」と、あらためてこの大阪市のPT案に対して、つよい憤りを感じました。

いま「自分は疲れてるから休みたい」とか、そういうことを言うていられない、そんな気分になりましたね。ここで休んでしまっている間に事態がどんどん悪くなってしまうのならば、疲れている自分なりに何かできることをやっておきたい、そう思うわけです。

それから、昨日は午前中にあった子どもの権利条約に関する学習会に、大阪市の学童保育に関する補助金を削減しないでほしいという署名を持ってこられた方がいました。もちろん、こちらもOKです。さっそく私も書きましたし、集まったみなさんに趣旨を理解してもらって、書いていただきました。

先ほどの識字教室・日本語教室のみなさんの集まりには、何人か、大阪市内の青少年会館事業廃止に反対したり、そのあとの各地区の経過を調べているときに出会った方も出席されていました。

あの2006年の頃から今に至るまで、大阪市内ではこんな感じで、次々に子どもや若者に関する施策が打ち切られ、地元の人たちが大事に活用してきた施設が廃止や整理・統廃合され、そして、識字教室や日本語教室のように「事業規模は小さいけれども、そこが多くの人々を支えている」ような事業がなくなっていく・・・・。そんな状況が続いています。

平松市政の時期にはかなり、その速度はゆるやかになったものの、橋下市政が始まってからのこのか月、6年前の関市政の末期以上の速度で、このような子どもや若者、人権や教育・福祉に関する施策の「見直し」という名の打ち切り・廃止が起きています。

いまこそ、「できることを、できる人が、できるかたちで」ということに立ち返って、「なんちゅうこと、するねん!」と、大阪市のPT案や橋下改革に対して、批判の声、異議申し立ての動きをするべきときだろうと思います。私も、時間と気力・体力の許す限り、それを続けようと思います。


これ以上、大阪から子どもたちの居場所をなくさないで。

2012-04-24 18:34:12 | いま・むかし

以下は大阪市の西成区にある「こどもの里」ブログからの呼びかけです。大阪市のPT案で発表された放課後児童健全育成事業の見直しにより、「こどもの里」の取り組みを含む「子どもの家」事業がなくなってしまいます。

http://blogs.dion.ne.jp/kodomonosato/archives/10725887.html

また、次のサイトはマンガでわかりやすく、大阪市の放課後児童健全育成事業の見直しにより、市内の民間学童保育への補助金が削減され、その結果、子どもたちの居場所がなくなることを伝えています。また、子どもを学童保育に預けて働いている保護者にとっても、さまざまな面で生活に支障が出ることも、このマンガからわかります。

http://homepage3.nifty.com/GOLAKU/ta1204a.html

そして、学童保育については、大阪市の学童保育連絡協議会が次のとおり、署名活動を行っています。

http://www.warabe1986.net/shomei.pdf

こういう状況をみると、今から5年前、2006年の秋に、大阪市の青少年会館12館からの市職員引き上げ、条例廃止の方針が、当時の関市長から出されたときのことを思い出しました。あのときは飛鳥会事件以来の一連の不祥事が口実だったのですが、「不祥事の後始末をするのは当然としても、どうしてそのために子どもたちの居場所をつぶさなければいけないのか、その理由が全く分からない」と、私はこのブログなどを通じて、抗議の声をあげました。ですが、最終的には翌年2007年の3月に青少年会館条例が廃止され、市職員は引き上げ、旧青少年会館施設は当面、市民利用施設として暫定使用ということになったのでした。

そしてその後、旧青少年会館は人権文化センター等々と整理・統廃合され、市民交流センターとして再出発したはずですが・・・・。ですが、次のブログや私の先日のこのブログでの記事でもあきらかなとおり、市民交流センターが今度は廃止の対象としてPT案にあがってきています。それどころか、青少年会館事業をなくすときには「24区全市への展開」という話だったはずの教育相談事業のサテライト(旧・ほっとスペース事業)も、「都構想」で8~9の特別区ができることを前提に再編成とか。「いったい、何を考えているのか!」と、5年前のことを思い出して、あらためて腹立たしく思うところです。

http://miniosaka.seesaa.net/article/264539891.html

さらに、5年前の大阪市立青少年会館12館の廃止前には、市内の児童館や勤労青少年ホーム(トモノス)の廃止などもありました。あれも確かその後、大阪市内各区の「子ども・子育てプラザ」などの形で、子育て支援活動の拠点になったはずですが、これも削減対象になるようです。そしてこの他にも、大阪市の野外活動施設の廃止など、子どもが活動できる施設などをどんどん減らしていこうとしている案が、この橋下改革でつくられたPT案なのです。

正直なところ、今までだって大阪市内の子どもたちの活動のための施設は、十分に整備されているとは言い難い状況にあります。また、この数年間で次々につぶされてきた経過もあります。そこへもってきて、このPT案の発表です。

「PT案などいらない。大阪市の行政改革も、もういい加減にしてくれ。もうこれ以上、大阪から子どもたちの居場所をなくさないでくれ」というのが、私の率直な思いです。

それぞれの署名活動、抗議活動などへのみなさんのご協力、よろしくお願いします。


映画「人間の壁」を見る会のこと

2012-04-21 22:51:51 | いま・むかし

ここ2週間ほど本業が忙しかったこともあって、こちらのブログの更新が途切れました。今日からまたぼちぼち、再開していきます。まあ、例の大阪市のPT案があまりにもひどいので、そのPT案を周知するために「しばらく更新を控えよう」という意図もあったのですが。

さて、今日は午後から下記の映画を見る会に参加するため、堺市まで出かけました。

http://blog.livedoor.jp/woodgate1313-sakaiappeal/archives/4543282.html

映画「人間の壁」は、石川達三の小説『人間の壁』をモデルにしたもの。また、この『人間の壁』という小説は、1957年2月の佐賀県で起きた3日間の教職員組合の一斉休暇闘争と、その後の行政処分や警察・検察の捜査などを背景にして書かれた、架空の女性小学校教師を主人公にした物語です。そして、この1957年2月の佐賀県での一斉休暇闘争については、前にもこのブログで書いたとおり、私、去年の11月に調査に出かけてきたところです。ちなみに、映画そのものは1959年の作品のようですが。

このようなこともあって、はじめて今日、映画で「人間の壁」を見ました。映画は今、岩波現代文庫から出ている小説『人間の壁』でいうと、ちょうど一斉休暇闘争に入る前のところで止まっています。でも、かなり原作に忠実に描かれた作品だなぁと思いながら、この映画をじっくりと見ました。なかなか、いい作品だと思います。もちろん、実際に映画を見てほしいので、これ以上、中身の話は避けようと思いますが。

それで、映画を見る会に出てみて思ったのは、「いま、市民団体や教職員組合の主催で、各地でもう一度、この映画『人間の壁』を見る会を開いてみてはどうか?」ということ。特に大阪では、早急に大阪府内及び大阪市・堺市の市内で、どんどんこの映画を見る機会をつくったほうがいいのではないか、と思いました。というのも、この映画に描かれた当時の保守政党の政治家の学校教育への「介入」のしかたが、ほんと、ここ最近の大阪での動きとそっくりなんですよね。だから、そういうものとかつて、日本社会ではどのように対峙してきたのか、それを考える意味でも、映画「人間の壁」を見る会を大阪府内や大阪市・堺市のあちこちで開くというのは、とても大事なことのように思いました。

それにしても、今から50年ほど昔の映画で描かれた様子と、今の様子がそっくりというのは、そのそっくりな今の人々の発想が「先祖がえり」しているのか、それとも「進歩がない」のか・・・・。