できることを、できる人が、できるかたちで

京都精華大学教員・住友剛のブログ。
関西圏中心に、教育や子ども・若者に関する情報発信を主に行います。

「公民協働」ってなに?

2007-05-30 11:18:24 | 国際・政治

「大阪市創造都市戦略ver.1.0~市民主導の創造都市づくり~」(2007年3月)を読んでいると、「なるほど~、これはおもしろそうだ(ニコッ)」と思うようなことばに出会うことがしばしばあります。

たとえば、「公民協働」ということばもそのひとつ。これまでに大阪市が策定してきた計画や指針などと創造都市戦略とのちがいを表現する文章のなかに、「公民協働により推進する戦略」という項目がでてきます。

具体的にこの項目では、創造都市戦略を推進するために、「大阪市の総力を挙げて推進するため、市民・企業・NPO等をはじめ関係する主体が一体となった責任ある推進体制づくりを協働により進めることとします」(「大阪市創造都市戦略ver.1.0」p.5)という風に書いてあるわけですが。

とすれば、これからの大阪市の青少年施策においても、その企画立案から、実際の運営、最後の事業評価の各プロセスにおいて、実際に大阪市内で活動中のNPOや市民が何らかの形で参加できるような枠組みをつくるところから、「関係する主体が一体となった責任ある推進体制づくり」を「協働」ですすめる必要があるのではないでしょうか。

あるいは、大阪市の行政当局が今後、自分たちがすすめたいと思う青少年施策のなかで、ほんとうに都合のいい部分にだけ、市民・企業・NPO等の協力を求めるということを、「公民協働」と呼ぶのでしょうか?

「公民協働」ってすごく聴こえのいいことばなのですが、これ、どういう枠組みで、どんなルールに従って運営するのかによっては、市民やNPOなどが単に行政施策の「下請け」に使われる場合から、市民やNPOと行政がほんとうに手をとりあって施策立案・運営・評価までやっていく場合まで、幅広いバリエーションがあることに気づきます。

その枠組み、ルールをどう考えているのか、大阪市の行政当局側の考えを知りたいところですし、ぜひとも市議会でだれか、質問してほしいですね。あるいは、市民側からも問い合わせてみてもいいんじゃないでしょうか?


更新がしばらく途切れました。

2007-05-25 20:05:55 | 悩み

前回の更新から10日ちょっと空きましたが、この間は、「大阪市の今後の青少年施策について共に考える市民の会」(以後「市民の会」)として、あれこれ作業に取り組んでいました。まぁ、簡単に言えば、今後の大阪市の青少年施策について、市民の会としてどんなプランが考えられるのかを、連休明けくらいからメンバーの意見をまとめていた、といえばいいでしょうか。

ちなみに、市民の会としては、去年11月にシンポジウムを開いたり、12月には市長と当時の市会議長宛に約1万2千人分の署名提出、また、今年2月にも市長と当時の市会議長宛に青少年会館事業の現状と課題などを中心にした意見書を出しました。その後も、市民の会として定期的に会合を持ったり(ちょっとここ最近は日程調整ができず途絶えていますが)、日常的に電子メールなどで意見交換を続けています。

ただし今のところ、そこでどんな内容や意見をまとめているのかについては、ここでは書けません。きちっとした提案などがまとまって、オープンにできる日がきたら、またあらためてここで紹介することにしましょうかね。

それと、もうひとつの日記帳ブログにも書いたとおり、本業の仕事がものすごく忙しくなっているなかで、この市民の会としての取組みを両立させていくのは、なかなかエネルギーのいるものです。ちょっとバテ気味の傾向もありますが、上手に気力・体力を温存しながら継続していきたいと思います。その分、今はブログの更新にまでエネルギーがまわらないと思えば、更新は後回しになりますので、よろしくお願いします。


あらゆる機会を通じての憲法学習の充実を

2007-05-14 19:55:20 | 受験・学校

◎下記の内容はもうひとつのブログにも書いたことですが、とても重要な話なので、あえて転載しておきます。また、下記の内容は、これからの大阪市の社会教育・生涯学習のあり方や、学校内外での人権教育・啓発のあり方、さらには青少年施策のあり方にも深くかかわる論点を含んでいると思っています。そのつもりで読んでください。

今日はちょっと、政治的な問題と教育の問題を関連させて論じます。といっても、例の「教育再生会議」に直接関係するわけではありませんが、あの会議が忘れている大事な論点について書くつもりです。

このブログを見ているみなさんもテレビのニュース等でご存知のとおり、国会のすったもんだの審議を経て、「国民投票法」案が可決しました。ということは、いくつかの付帯決議のついた部分についての修正があるにせよ、今後、何年か先には国会で現行憲法改正の発議を行い、国民投票を行うための手続きが、一応、なんだかんだといいつつ整ったことになります。

で、ここからが問題。一応、日本という国家は国民主権と代議制民主主義、立憲主義の建前をとる国ですから、今後、新憲法制定や憲法改正に関する国民投票に際しては、有権者が現行憲法の内容とその問題点、新憲法や憲法改正案などの内容とその問題点について、よく熟知して投票に臨むことができる体制の整備が急務、ということになります。

つまり、まず子どもたちについては、たとえば「憲法とは何か」という次元からはじまり、今の日本国憲法の内容やこれに関する重要な論点、各政党から出される改正案の内容と問題点などについて、きちんと知識的に理解を深め、自らの選択を決めることができるようになるための、「ほんものの公民教育」や「主権者教育」が重要になってきます。

あるいは、すでに有権者であるおとな世代についても、同様の点について、「ほんものの主権者になるための学習」機会の整備ということが必要になってきます。

しかしながら、これは「公民科教育法」といううちの大学の教職課程の授業で語っていますが、最低限「現代社会」2単位を履修すればOKというような、そんな今の高校学習指導要領の内容で、はたしてこういった「主権者教育」あるいは「ほんものの公民教育」ができるのでしょうか。あるいは、高校に行かない人々のことを考えると、小学校・中学校段階の義務教育だけで、こういった「主権者教育」ができるのでしょうか。さらに、社会教育・生涯学習施設の多くを財政難などを理由に統廃合をすすめたり、次々に民間委託などを行っている状況で、はたしておとなたちが「ほんものの主権者になるための学習」機会の整備など、できていくのでしょうか。

本気でこの国のあり方を考え、憲法改正という重要な問題について、ひとりひとりの主権者の意思決定を大事にしたいと思うのであれば、今、真っ先に行うべき教育改革は、教育再生会議のいうような「親学」でも「徳育」でもなく、「公民教育」あるいは「主権者になるための学習」の充実ではないでしょうか。まったくもって、今、すすめられようとしている教育改革の方向性は、こうした国政レベルでの大きな課題に対して、ちぐはぐであると言うしかありません。

と同時に、このままではおそらく、子どもたちだけでなく、おとなたちもまた、現行憲法の内容や問題点、改正案の内容や問題点などについてよく知らないまま、憲法改正に向けての国民投票の場に立つことにもなりかねません。そこで私としては、「ありとあらゆる機会を通じての憲法学習の充実」ということを、この場を借りてあらためて提案したいと思います。


行政・民間の役割分担の枠組みは?

2007-05-14 10:46:24 | 国際・政治

これは前にもこのブログで書いたことかもしれませんが、今の大阪市の行財政改革が進んでいった「その先」に何が出てくるかを考えると、私はちょっと、不安感を抱きます。

たとえば、今、大阪市役所や市教委が持っているさまざまな公的施設の運営状況を問題にして、その施設のなかで不効率・不採算なものを民間に売却していく。あるいは、公的施設のなかでも運営状況の良好なものについては、さらなる効率的な運営を追求して民間委託などをすすめる。公的サービスについても、公務員がやらなくてもこのほうが効率がよいという観点から、NPOや企業などに委託する。地下鉄などの公営企業部門も、そのほうが財政赤字の再建につながるからということで、民間企業に売りに出す・・・・、などなど。

こういったことを続けていけば、大阪市役所や市教委には、どんな機能が残るのでしょうか。私が見たところ、そこに残るのは「企画立案部門と、民間委託などを行った仕事についての監督機能を持つ部門だけ」ということになります。

しかし、実際に対住民サービスの現場で何が行われているのか、民間企業やNPOなどの場で何が今求められているのかなど、「現場の実情」をまるでわからない行政当局に、はたしてどこまで市政運営に関する企画立案や民間企業・NPO等の監督ができるのでしょうか。おそらく、その監督もきわめて形式的なことに限定されるでしょうし、企画立案もある種の「イメージ操作」的なものが中心になっていくでしょう。

こうなると、今までもよかったかどうかはわかりませんが、大阪市役所や市教委が創り出す施策の量だけでなく、質もまた、ますます「劣化」していきかねません。また、その質の「劣化」が起これば、それとの対比で、ますます民間企業・NPOなどの実力が高まっていくように思われます。そして、その質の「劣化」を補う意味で、大阪市役所や市教委の側から、ますます民間企業やNPOなどへの事業などの委託をすすめようという議論が起こってきます。

「いいじゃないか、それで」と思う人もいるかもしれませんが、こういうことが年々くりかえされていけば、大阪市役所や市教委といった地方自治体の行政機構は、事実上「あってなきがごとし」に近づいていきます。

と同時に、多様な領域にノウハウをもつ民間企業やNPOなどの民間セクターが公的サービスなどに従事するといっても、こういった団体とて、万能ではありません。そこには事業運営の失敗などが当然、つきまといます。しかし、こういった民間セクターが今までの行政に変わって公的なサービスなどを担ったとき、その失敗のツケを整理していくシステムがなければ、その公的サービスを頼りにして生活している住民層の暮らしが脅かされる、ということにもなりかねません。

そう考えると、実際に公的サービスを利用して生活している人々の側からすると、「行政は最低限ここまでは責任を持つし、民間セクターの失敗に対してはこう処理をする」という枠と、「ここから先は民間セクターの側にゆだねる」という枠、この両方の枠組みをつくり、その枠組みへの信頼性を高める努力をしていかないと、民営化や委託が進んだからといって住民生活がよくなるとは限らない、と思うわけです。

そして、今の大阪市の改革を見ている限り、市政のそれぞれの分野でこの「行政・民間、双方の役割分担の枠組みづくり」がどうなっているのかが見えないので、とても不安感を抱くわけです。


『ポスト・デモクラシー』からの引用

2007-05-13 17:38:15 | 学問

「人々が特定の人種グループや公務員への反感を基盤にアイデンティティを形成し、それらのグループこそ不平不満の主な原因だと定義するよう勧められた場合、政治はこれらをターゲットとして焦点を絞り、ほかの問題をないがしろにするだろう。」

コリン・クラウチ(山口二郎監修・近藤隆文訳)『ポスト・デモクラシー 格差拡大の政策を生む政治構造』(青灯社、2007年)、p.179からの引用。

さて、この引用にあるような指摘を、この数年間の大阪市政をめぐる問題にあてはめた場合、どんな構図が見えるだろうか? マスメディアを使って、市民の世論をあおることを通じて、さかんに公務員の不祥事をオモテに出すことで、大阪市の市政改革は何を隠蔽したのだろうか? それでほんとうに、大阪市民の暮らしはよくなったのだろうか? 

もうそろそろ、そういう冷静な議論が、大阪市の市政改革に対しても、必要な時期がやってきているように思われる。


なぜコミュニティの単位が小学校区なのか?

2007-05-04 19:34:05 | 受験・学校

今日、もうひとつの「日記帳」ブログに地元の「だんじり」の話を書きましたが、私が生まれ育ったのは、神戸市東灘区深江地区です。また、この深江地区の「まちづくり協議会」のエリアは、同協議会のホームページ(http://www.kcc.zaq.ne.jp/fukae/)にある地図を手がかりにして言えば、神戸市立の東灘小学校と本庄小学校の両方の校区にまたがります。そして、この深江地区には、さらに小さい区分で地区の自治会があり、あるいはマンション・団地ごとに自治会が形成されています。ついでにいえば、「だんじり」は、今日、深江地区内に掲示されていた巡回ルートの表を見る限り、ほぼこの「まちづくり協議会」のエリアをカバーする形でまわっているようです。

この深江地区の「まちづくり協議会」の範囲がどういういきさつでそう決まったのか、私は知りませんし、もしかしたらこの「だんじり」のエリアで決めたのかもしれません。ただ、少なくとも、今の深江地区は地元住民による「まちづくり協議会」レベルで考えれば、「地域コミュニティ形成」というものを、「小学校区」単位で考えるという道を選んでいない、ということは確かです。むしろ、もう少し広いエリアをとって、その範囲内にある自治会や住民のボランティア組織などがかかわる形で、自分たちの暮らす街のあり方を考えている、といえばいいでしょうか。もちろん、それはこの「まちづくり協議会」のとりくみがうまくいっているかどうかとは、また別の問題です。

なぜ今日、深江地区の「まちづくり協議会」の話を書いたのかというと、もちろん、今日「だんじり」を見てきたということもあります。と同時に、このところ大阪市で進められている教育関連の施策において、何かにつけて「コミュニティ」の範囲を「小学校区」という単位でとらえる傾向が見られるからです。あるいは、今日、読んでいたある自治体文化政策関係の文献においても、文化振興施策を考える上での基礎的なエリアを小学校区においていました。

たとえば、その試み自体の是非は今は問いませんが、大阪市では現在、「小学校区教育協議会(はぐくみネット)」という取組みを実施しています。この「はぐくみネット」は、学校と地域社会の人々との連携を図っていくことなどを考えての取組みなのですが、でも、なぜ「小学校区」なのでしょうか? あるいは、大阪市の生涯学習ルーム事業についても、小学校の教室開放が中心になっていますよね。

これに対して、同じ大阪市でも他の部局の施策では、何らかの施策を実施するにあたっての対象地域を小学校区だけとは考えていないようです。例えば大阪市健康福祉局の介護予防に向けた取組みのなかには、中学校区という単位で拠点整備を考えようとするものもあります。

このように、各地区の実情から具体的な取組みを考えた場合、小学校区よりももう少し広い単位で施策を考えてもいいということもきっとあるでしょうし、施策の中身から出発した場合も、小学校区よりももう少し広く/狭くエリアを考えたほうがいいようなケースもあるかもしれません。そうやって考えていくと、「なぜいま、この施策の対象エリアが小学校区になっているのか?」という理由が、ちょっと私には気になってきました。もちろん、それ相応の理由があって小学校区での施策を考えようということであれば、それでかまわないのですが。

と同時に、「小学校区=地域コミュニティの単位」というのは、実はもしかしたら便宜的に作られたものであって、もっとちがった形で地域コミュニティを考えることもできるということも、どこかで私、忘れずにいたいなぁと思います。