晋ちゃんの気ままな散歩道

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岸和田祭り 9月17日

2006-09-19 01:25:48 | まつり
300年の伝統を誇り、高さ4メートル、重さ4トンのだんじりが全速力で街中を駆け抜ける勇壮さで知られる岸和田祭りが始まった。
去年まで130年間、毎年9月14日宵宮、15日本宮と決まっていた。
しかし9月15日の敬老の日が毎年コロコロ変わるようになり昭和60年には72万人あった観光客が平日開催となった平成16年は45万人、17年は36万人と大幅に減少、さらに引き手が不景気のため祭りを理由に簡単に会社を休むことが出来ず200人近くいた引き手が半分近くに落ち込んだ町があるという。
そこで今年から神社の祭礼日を無理やり変更して観光客、参加者を優先し祭礼日を土曜日、日曜日に合わすことにした為16日(土)が宵宮、17日(日)が本宮となった。
このだんじり祭りは江戸時代の元禄年間に時の城主岡部公が五穀豊穣を祈願して城下の民が城内にある神社への参内を許したのが始まりといわれている。
その伝統を壊すのか、と言う批判の中あえて現実を重視したお祭りに切り替えた。
私は戦時中疎開で大阪市内から岸和田に移り住みここ狭山に移るまで25年間過ごしました。
私の家は岸和田駅から海の方へ下った北町(きたんまち)にありました。
戦争中は覚えていませんが小学校の3,4年生の頃からだんじりを引いていたと思います。北町は他の街に比べると勤め人の多い穏健な気風の町でした。
浜に近い大北町、中北町、中之濱(なかんば)、紙屋町などは漁師町で気風が荒っぽく喧嘩の多い町でした。
岸和田駅に近い宮本町、五軒屋町などは商売人が多かったと思います。
祭りでは朝一番の曳き出し(朝5時ごろ)に力が入ります。
1年間待ちに待った祭りの始まりです。
私が曳いていた頃はすぐ近くが港になっていて沢山の漁船が出入りしていて船の安全を祈る「波きり神社」の小さな鳥居と祠がありました。
今は埋め立てられて海ははるか遠くになり道路が出来てショッピングモールやスーパー、立派な「波きりホール」などが出来ています。
曳きだしは7時ごろで終わり午前中は学校へ行っていたと思います。
この曳き出しの時に長十郎梨を一ツ呉れるのです。
青年団の人達ははやばやとお酒を飲んでいました。
昭和20年代のだんじり祭りは今とは随分違いました。
まず本当に自分達の祭りでした。見物人は殆ど市民とその知り合い、招待された人ぐらいでそれぞれにご馳走(特にワタリガニ)してもてなすのが喜ばれたのです。
私も高校時代は泉南の方の友達を招待したり、勤めるようになってからは会社の人達に来てもらったものです。
いまだんじりは一方通行ですがその当時は対向(すれ違い)していました。
特に道の狭い紀州街道はすれ違い、やりまわしなどは大変でした。
すれ違う時は完全にすれ違うまでお互い鉦、太鼓、笛を止め、すれ違いが終わった瞬間一気に鉦、太鼓を叩いて走り出すのです。
このすれ違う時に民家の軒さしにぶつかって屋根を壊したり、すれ違った時の鉦、太鼓の鳴らし方が早かったといって喧嘩になったりトラブルが色々ありました。
この時分は試験引きからいろんな事故が多かったです。
電柱にぶつかったり、だんじりが横転したりで殆ど毎年怪我人、死者がありました。だんじりが横転しても中に乗っている人や屋根で踊っている大工方は大した怪我はしません。前梃子の辺りが一番危険なのです。引き手も遣り回しの時には遠心力で振られたり転んだりします。しかしこの時曳き綱を絶対に離さないことです。
最近のだんじり祭りは参加する祭りから観光客用の祭りに切り替わってきたため事故も喧嘩も無くなってきました。
また警察の規制も厳しく「危険な曲がり角」(映画の題名ではありません)は立ち入り禁止が徹底していて一番迫力のある小門紙店の紀州街道の交差点には近寄れず遠くから遣り回しを見るしかありません。

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