昼食場所からマイクロバスで約30分、聖徳太子の御廟所叡福寺に到着
南大門に向かって石段を上ります
南大門は天正2年(1574年)の兵火で焼かれ、慶長年間に再建、昭和33年老朽のため再々建築されました
左右に金剛力士を安置しています
聖徳太子自らが廟所として選定された磯長廟は、大和から二上山を越えて河内に入った丘陵を利用した円墳(高さ7.2m、直径54.3m)で
内部は横穴式の石室になっています
叡福寺は四天王寺、法隆寺と並んで大師信仰の中核となった寺院であります
真正面が二天門、その奥に御廟があります
二天門に向かって左側に金堂(府指定文化財)があります
金堂
金堂に入ってお坊さんの話を聴きました
金堂は享保17年(1732年)に再建、本尊は高さ90cmの如意輪観音の座像
聖徳太子の本地が観音菩薩像であるという平安朝以来の信仰に基づいています 脇侍は不動明王と愛染明王
宝塔(重要文化財)
二天門の先にある聖徳太子御廟所
推古30年(622年)太子が49歳で死去された後、前日に亡くなった妃と2か月前に亡くなられた母とともに埋葬され、
三骨一廟といわれるようになりました
その後ろの山は結界石でしっかり囲われています
御廟の前には大師を敬う空海、親鸞、叡尊、良忍、一遍、日蓮など多くの賢聖、名僧が参篭
日本の大乗仏教の聖地として栄えてきました
太子廟を中心にして周辺には敏達、用明、推古、孝徳天皇陵や小野妹子、大津皇子、源氏三代墓などがあります
経蔵 六角形の建物で沢山の写経典が収められています 弘法大師堂、本尊は60歳の弘法大師像
聖徳太子は敏達元年(574年)飛鳥の地に誕生され、20歳で伯母である日本最初の女帝推古天皇の摂政となり
32歳の頃には日本最古の憲法「十七条の憲法」を制定されました
第一条「和をもって貴しとせよ、さからうことなきをを宗とせよ」
第二条「熱く三宝(仏、法、僧)を敬え」
第十条では「我かならずしも聖にあらず。かれかならずしも愚にあらず」
対立融和を説いた「和の精神」は人間の憲法であります
ありがたいお寺にお参りし、余生を心広く生き続けることを悟らされました