晋ちゃんの気ままな散歩道

あっちこっち横道にそれたり休んだりしながら気ままに散歩しています。

自転車は怖い

2018-10-31 19:03:00 | 街の出来事
     
     先日の同窓会、私は補聴器を付けて出席した。
    それを見て補聴器のことを聞いてくる人がいた。
    話してみると私と全く同じ、テレビのアナウンサ-の声は聞き取れるがドラマは聞き取りにくい。
    私の現状、体験を話したら、やはり補聴器が高いのでもう少し我慢してみようとなった。

    別の友達は道を歩いていて後ろからスマホ運転の自転車にまともにぶつかられ、
    足に怪我をし右手の親指はいまだに曲げられないと言っていた。
    後ろからすり抜けて行く自転車は本当に怖い。
    特に下り坂では横を音もなく、すり抜けて行くのでハットする。

    コメンテ-タ-安藤和津さんの話。
    渋谷のスクランブル交差点で自転車ではなく、スマホ片手の小太り女性がぶつかってきて
    跳ね飛ばされ、尻もちをついた。
    ぶつかったおなごは携帯を見つめたまま、知らんぷりして小走りに走り去った。
    思はず「ごめんなさいは」と怒鳴ったが、一瞥もせず、
    まわりの何十人の歩行者も黙って歩いていたそうな。

    今夜はハロイン、渋谷の交差点はどうなるのだろう。
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龍野遊歩(2)

2018-10-30 16:58:00 | ウオーキング
               
               昼食の後は龍野が生んだ現代の文化人
             詩人「三木露風」、歌人「矢野勘治」、哲学者「三木清」、詩人「内海青潮」
             に関する文献、遺品などが展示されている「霞城館」へ向かった。

               
               「霞城館」の入り口
             


   
             霞城館と地続きで矢野勘治が晩年を送った自宅がある。
           静かな落ち着いた雰囲気、良く晴れた秋の午後、
           こういう土地で生れた人たちが大きく育った雰囲気が感じられた。



       
               龍野城は鶏籠山山頂にあった山城と現在の平山城の二つに分けられている。
             山城は、約500年前赤松村秀によって築かれ、天正5年秀吉に明け渡した。
             そのあと平山城になり、龍野藩は明治まで続いた。
               

 

       
               龍野城を下ると醤油の郷「大正ロマン館」
             国の登録有形文化財に登録されている。
             観光交流拠点としてカフェ、アンテナショップ、観光案内所などがある。
               
               ここでお茶を飲み、お土産を買った。

               
               大正ロマン館のすぐ前にある醤油工場。
             手前の瓦屋根の小屋の中には醤油の自動販売機があった。


      
               薄口醤油東丸の醤油蔵に沿って歩く

               
               龍野御坊圓光寺
             宮本武蔵は慶長年間の一時期、ここに滞在し、境内の道場で
             圓明流の師範として剣術指導をしたと伝えられている



  
  
               揖保川沿いにあるバス駐車場まで来た。
             この川沿いに「畳堤」というものがある。
             龍野地区を流れる揖保川は、住宅までの距離が短く、土手が作れないため
             畳を差し込む枠だけの欄干のような堤防が設置されている。
             (左上の写真の左下の黒い箇所)
             万一の場合、住民の手で畳堤に畳をはめ込むと、水を含んだ畳は締まり
             堤防として機能するそうだ。

             京都のような派手さはなく、狭い所にギュッと詰まった町。
             楽しい一日であった。

             予定より1時間ほど遅れて狭山に帰ってきた。
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龍野遊歩(1)

2018-10-26 17:44:00 | ウオーキング
 
                  せいだんクラブ」史跡散策
               今回は「さやま交通」のバスで「播磨の小京都」龍野へ行って来た。
               龍野公園でバスを降りた近くに「矢野勘治玉杯碑」
               頌徳碑を中央に、右が「春爛漫の花の色・・・
               左に「嗚呼玉杯に花うけて・・・
               の歌碑が建っている。


 
               
               その少し先、「文学の小道」の入り口にあるのが
             三木露風の「赤とんぼ歌碑」 肖像画と歌碑がある。
  

      

 
     少し離れて像                    龍野城の近くに生家があった。

 
       龍野神社            そのすぐ近くに相撲の神様、野見宿祢神社がある。
                        野見宿祢は故郷の出雲へ帰る途中龍野で病死した。                                                   
                        地の人達がリレ-式に石を運んで建てたお墓だそうだ。
            

               
               歴代の横綱が龍野へ巡業に来ると必ずお参りに行き、玉垣を寄進している。

      
               聚遠亭                      千宗室家元が命名した茶室楽庵


  
                            旧脇坂屋敷付近
    昼食は観光売店「さくら路」で「揖保乃糸そうめん」を食べた。
    少し時間がかかると言われたがこんなにシッカリ湯掻かれたソ-メンは初めて、美味しかった。


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定年

2018-10-22 16:38:38 | 健康
               一昨日友人の奥さんから電話があり、主人が私に会いたいと言っている、
             会いに来てくれますか?
             会うも会わないもない、明日行くと返事し昨日出掛けた。

             彼は小学校6年の時転校してきたが、なぜか気が合ってそれ以来70年付き合ってきた。
             大学を出て、車の販売会社へ勤め、その後個人で保険の代理店を始めていた。
             車に乗り始めてからも、車の購入、保険などはすべて彼に相談していた。
             定年がなくていいな、と羨ましくも思っていた。

             昨年春、80歳になったため個人の代理店を辞めさせられたと言ってきた。
             相当頭に来ていたようだった。

             それ以来保険の話をすることもなく音信不通だったが、今年の春久しぶりに電話をした。
             奥さんが電話に出て「主人は会いたくないと言っている」
             どういうことなのか訊きただしたら、
             認知症でデイサ-ビスの世話になっているという。
             無理に押しかけて症状がおかしくなってはいけないと思いそのままにしていた。

             会った途端彼は泣き出した。
             頬はげっそりとこけ落ちて、腕は血管だけが浮き出してガリガリに痩せている。
             彼も私も男4人兄弟、家族の話や友人の話など2時間あまり話した。
             時々涙ぐんだりして、気の強かった彼からは想像できない弱り方だ。
             
             また会おうと別れてきたが、少しは元気が出て来るのか、
             少しづつ弱っていくのか気がかりだ。
             
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銀杏と柿

2018-10-18 10:39:00 | 季節
                        

                     
                 鐘つけば銀杏散るなり建長寺  夏目漱石 

                     
               柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺  正岡子規

             いずれも明治28年秋の作品だが漱石の方が2ヶ月早く詠んだそうだ。
             漱石の詩を聞いて子規が後から詠んだとある俳人が新聞に書いていた。


             後から詠んだ子規の句は有名になり、漱石の句は誰も知らない。

             この時期二人は松山の下宿で一緒に暮らしていたそうだ。
             当然、子規は漱石の銀杏の句を知っていただろう。

             そのあと旅に出た子規が奈良で「柿食えば・・・
             の句を詠んだそうだ。

             子規の句がこんな交友から生まれたとは、人生は楽しい。
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10月15日(月) アモ-レ発表会

2018-10-16 11:24:00 | 音楽
               
               カミサンがボイストレ-ニングに通っている教室の発表会があり
             SAYAKAホ-ルへ聴きに行きました。
             300人入るホ-ルですがほぼ満席。


               
               歌曲、シャンソン、カンツオ-ネ、ポップス、二重唱
             と盛りだくさんです。

               そして専属のコ-ラス「おたまじゃくし」

               
                  最後はミュ-ジカルのアリア
               これが1年間の練習の集大成になるのでしょう。

               メモリ- (キャッツ)
               耳に残る君の歌声 (真珠取り)
               愛はすべてを変える
               ハバネラ (カルメン)
               トウナイト (ウエストサイドストリ-ト) など

               先生の歌で「ジュピタ-」 (組曲「惑星」より)
               ヴァイオリン独奏
               と盛りだくさん。

               最後に全員で「赤トンボ」を歌って帰ってきました。
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10月14日(日) 歌声サロン

2018-10-14 21:19:30 | 音楽
               
               今日は自治会の「歌声サロン」
             参加者は18人、少しづつ参加者が増えている

             今日のオ-プニングは「私は真っ赤なリンゴです」
             そろそろ実りの秋、北海道では台風を免れたリンゴが800個盗まれたとか
             会館の外では狭山の秋祭り、だんじりが走り廻っています

             2時から始めてティ-タイムを入れて2時間
             私も河島英五の歌「一日二杯のの酒を飲み~」を歌いました
             やはり声を出さないとダメ
             久しぶりに声出して元気になりました
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小柴寮の思い出

2018-10-12 15:56:56 | 集まり、同窓会
               
               わが青春の小柴寮について追記しておきたい
             小柴寮は写真のように2階建て、1階に9部屋、2階に4部屋の13室
             1階の玄関左手が役員室(寮長、副寮長、会計、炊管など)3室(5名)
             寮室6室(13名)、炊事場の隣が食堂、トイレ
             2階に4室(12名)、13号室は天井に太い梁があり、昔自殺者がおったとか?
             47年に学寮が出来て廃寮になった 
              


               
              寮では勉強もしたが、チ-ポンも多かった
            
            最大の思い出は毎年5月の大学祭
            毎年仮装行列で伊勢佐木町を練り歩いたが
            佐渡島出身の寮生のいたときは「正調佐渡おけさ踊り」を

            ルバング島から小塚一等兵が帰還した時には
            伊勢佐木町通りを小塚一等兵を乗せた屋台を担いで練り歩き、
            有隣堂の前の審査場で最高のパフォ-マンスを披露し、
            見事優勝した


               
               
               優勝はしたが、油と混ぜたススを落とすため、
             野毛山のプ-ルへ飛び込んだものの、
             毛穴に入り込んだススは半月ほど取れなかった

             想いでの多い小柴寮も2年半で退寮、上大岡の下宿に移った

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横浜港から八重洲口の飲み屋へ

2018-10-09 21:42:42 | 集まり、同窓会
   
               朝、横浜スタジアムの前のホテルで目が覚めた
              9時にチェックアウトし山下公園へ向かった


               
                
               
               朝の山下公園は気持ちがいい
               
               
               大桟橋に大型の客船が停泊している、行ってみよう               

               
                
               
               ダイアモンド・プリンセス 日本で建造された最大の客船、116,000トン
             今朝着岸して乗船客は上陸し、市内に出かけてしまったようだ


               
               学生当時のウオッチマンのアルバイトを思い出した
             入港した貨物船に乗り込み、一晩デッキで積み荷の見張りをする
             無事見張りを終えた朝、食堂で船員たちの前日食べ残した洋食のご馳走を
             たらふく頂いて帰られるのだ
             バイト代は一晩1,000円(デパ-トのアルバイトが一日500円の時代)
             当時人気のアルバイト、取り合いだった
            
               

         
                    関内の駅に向かって「日本大道り」を歩いた

               

    
             神奈川県庁は改修中          横浜開港記念会館
               
               

               

               この後横浜駅から東京駅へ移動
             東京駅八重洲にある飲み屋「日本海庄や」でラグビ-部の同期4人と待ち合わせ
             30数年ぶりに会ったのに、会った瞬間から60年前の雰囲気
             ロックのサンチャン、ウイングのK 、センタ-K、バックロ-F、フルバックのS
             我々の同期はメンバ-は最多、1学年で11~12人いた
             すでに亡くなったのが3名、行方不明2名、体調不良で出席出来ないのが1人
             
             当時神奈川県リ-グは国大、神大、市大それにラグビ-部が出来たばかりの
             関東学院大、防衛大は別格であった
             私の記憶では、1960年5月3日の春季リ-グ戦で
             部が出来たばかりの関東学院大学に
                前半 6-0
                後半19-0  計25-0 で勝利している

             5人で2時間飲み食い、ビ-ル、焼酎、日本酒、ワインの飲み放題
             みな、まだまだ元気だ
             そのあと喫茶店で1時間ダベッて
             5時過ぎの新幹線で帰ってきた
             昨日、今日と2日続きの飲み会さすがに疲れた
             でもまた行きたい

               
               


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小柴自治寮総会(3)

2018-10-08 14:49:49 | 集まり、同窓会
 
          3時過ぎ総会も無事終了。
        柴町のバス停まで全員で歩くことに。


          
          小柴寮のあった斉田家の庭に全員が集まり記念写真。

                    

 
     坂を上がったところに今もある柴町会館(当時は柴青年会館)。
    この会館では毎年秋に寮祭で町の人たちとのふれあいを楽しんだ。
    町の娘さん達や子供さんたちとの演芸会。
    ロカビリ-の全盛時代、ギタ-を抱えて舞台でひっくり返って下手な歌を歌っていた奴もいたっけ。


     
     寮に2年間在籍した私の手元に当時のプログラムが残っている。
    それを見ると寮の各部屋は開放し、部屋デコ、BAR、おでん屋etc.
    演芸では 合唱、かくし芸大会、フォ-クダンス、映画会、お琴、レコ-ドコンサ-ト、
    演芸会では「夕鶴」、「牛女房」、映画会、スポ-ツ大会など
    2日間にわたって開催していた。  
         

          
          会館のそばにお墓がある。
        お墓は昔からあったがこんなに沢山墓碑はなかったと思う。
        この60年間に亡くなった方がたくさんおられるのだろう。
        そういえば我々が寮生であったころ毎日3食のご飯を作っていただいた
        寮母さん(二人)も亡くなったと以前聞いたが・・・


                    
                    コンビニなどなかった時代、
                 夜勉強?をして居るとお腹が空いてくる。
                 夜10時になると、その日残った弁当(その日弁当を食べなかった人の)
                 が一つ10円で競売になる。
                 弁当は沢山残っている日もあれば一つもない日もある。
                 外れたら布団をかぶって寝るしかない。


                    
                    左手に見える建物は市立大学病院だそうです。
                 柴の漁港、東京湾を埋め立てて造ったのでしょう。


                    
                    ようやく柴町のバス停まで戻ってきました。

         
         次のバスまで時間があるので次のバス停まで歩くことにしました。
        このトンネルの手前左手に交番があり、バスが無くなったあと、歩いて寮に帰る時は
        必ずこの前を通らなければなりません。
        あるとき寮の庭にベンチが欲しいという話になり、バス停にある森永だか明治だかの
        広告の入ったベンチを4~5人で持って帰ろうということになり、交番を確かめると
        空っぽだとわかり寮まで運び込んだこともありました。
        
        このトンネルを抜けると左手に平潟湾の海が広がる素晴らしい眺めでしたが、今は埋め立てられ
        大きな住宅地に替わっていました。        
        

         
        金沢文庫の駅に戻ってきました。
       駅前でお茶を飲みしばし歓談、大阪勢は今夜帰るので横浜駅で別れた。


 
               一人横浜に泊まることになった私は夜,中華街へ食事に出かけた。

               
               昔懐かしい「同發」で食事をし

               
               聘珍楼の焼き栗を買って帰った。



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