今朝用事があって友達が来た。
そして「今日は開戦記念日だけれどこんな言い方は古いのかな」と言った。
今年の夏スイス旅行に行く飛行機の中で写真の本を読んだ。
この本は東工大特任教授である猪瀬直樹が20年ほど前に書いた「日本人はなぜ戦争をしたかー昭和16年夏の敗戦」という本を素材に学生に卒業後も「空気に流される人間になって欲しくない」と講義した内容を表したものである。
この「昭和16年夏の敗戦」とはどういうことなのか。
日本が太平洋戦争に突入したのは丁度66年前の今日、昭和16年12月8日でその半年近く前の敗戦とは?
ご存知のようにこの頃満州、中国で戦争を拡大していた日本はアメリカとの関係が悪化していた。
何のために戦争をするのか、戦争と経済は常に裏腹の関係にある。
この当時は現在のように企業が海外へ進出して経済戦争をすることは少なかった。
強い軍隊を持って後進国を侵略し、鉱物資源や安い労働力を確保することによって自国の繁栄をはかっていた。
また世界の列強国にはそれが当たり前のように許されていた。
その結果東南アジアやアフリカには沢山の植民地があった。
日清、日露で勝利し、第1次世界大戦でも戦勝国となった小さい島国日本では大した資源も無く綿花や蚕でお金を稼ぐしかなかった。
そのため広大な中国大陸、満州に進出して国力の増強を図っていった。
石油が出ない日本で人造石油の研究がされていた。
いまのバイオマスはサトウキビやトウモロコシだが当時は石炭であった。
石炭を高温、高圧の中で液化して造るのだが高圧に耐えられる窯がうまく出来ず目標年産120万トンに対し10万トンも出来ていなかった。
ドイツでは年産35万トン出来ていた。
そのような状態の中、日本はアメリカと戦争を始めるべく世論は動き始めていた。
そんな中、昭和16年4月近衛内閣の下で「総合戦研究所」が発足した。
研究所には30代の各官庁、軍人、マスコミ、学者など36名を集め(今で言えばシンクタンク)、疑似内閣を作りアメリカと戦争をすればどんな結果になるか自由に研究させた。
36名はそれぞれの分野での最新の極秘資料を駆使して現状の判断を正確に出来る立場の人達であった。
そして6月23日アメリカは対日石油の輸出を全面的に禁止した。
このままではいずれ日本は石油がなくなり軍艦も飛行機も飛ばせなくなる。
そこで南進論、仏印(仏領インドシナ)、さらにオランダ領の南ベトナムを攻めて石油を確保する案、しかし確保した石油を油槽船で日本に運ぶ途中、南シナ海、南太平洋などでイギリスやアメリカの艦隊によって全滅させられることなどがシュミレートされ、飛行機や艦船を造る資源も先細りになるなど的確で自由な研究がされた。
そして8月27日、28日2日間にわたり首相官邸大広間で第3次近衛内閣と36名の疑似内閣とで検討が行われ結論が出たのである。
結論は「12月中旬奇襲作戦を敢行し、成功し緒戦の勝利は見込まれるが、物量において劣勢な日本には勝利は無い」。
「戦争は長期戦になり、終局ソ連の参戦により日本は敗れる」。
「だから日米開戦は避けなければならない」。
となり内閣は戦争を回避する方向へ進むはずであった。
要するにこの時点(昭和16年8月)で日米戦争をすれば負けると内閣は答えを出していたのだ。
この時代内閣と並んで天皇の統帥権を持つ大本営があり、東條陸相はこの結論に対し「諸君の労を多とするが、これはあくまで机上の演習でありまして、実際の戦争は君たちの考えているようなものではないのであります。日露戦争で我が大日本帝国は勝てるとは思わなかった。戦いというものは計画通りに行かない。」と述べ、この結論の口外を禁じた。
この結論は秘されたまま9月6日に御前会議が開かれ「日米開戦やむなし」と承認された。
そして皇室に責任が及ぶのを避けるため東條陸相をいきなり総理大臣に任命し開戦へと進むことになり、陸海軍、商工省、企画院などの事務方から提出される数字は戦争を始めるのに都合がいい数字に辻褄合わせされていった。
空気(雰囲気)がドンドン戦争をせざるを得ないようになって行き、誰も反対できなくなってしまう。
そして最初の予想通りの敗戦。
東工大の卒業生にはそうなって欲しくないと期待しての講義だ。
この本にはそのあと国交省の道路公団民営化の際の数字つくり、数字隠しについていろいろ書いているが官僚が自分たちに都合がいい数字を積み上げて行き誰もそれに異を唱えず、責任を追及することがなくなれば国は間違った方向へ進んでしまうと云うことだ。
今の防衛省はそれ以上に腐りきっている。
石破防衛防衛大臣は「昭和16年の敗戦」を引用していろいろ発言しているそうだがその気持ちをいつまでも持って防衛省改革に取り組んで欲しいと思う。