晋ちゃんの気ままな散歩道

あっちこっち横道にそれたり休んだりしながら気ままに散歩しています。

12月31日 大晦日

2007-12-31 21:53:53 | 散歩道

庭の獅子頭(寒椿)が昨日からの強風に吹かれてドンドン散って行く。

今年の一文字漢字が「偽」、上から下までひどい1年だった。
年末最後の薬害C型肝炎救済問題では福田首相まで厚労省の役人にだまされていた。
全員救済すると10兆円の金が要ると吹っかけられていたのだ。
与謝野大臣が頑張ってそれが役人保身の大嘘であったことが分り福田首相が「話が違うじゃないか」と一気に解決へ進んだそうだ。

大気汚染で地球上の人類の消滅が叫ばれているがその前に日本人が滅んでしまうだろう。
道徳の崩壊、学力の低下、フリーターなど若い人の気力の無さ。
年金問題、防衛省の汚職、機密漏洩では役人の杜撰さ、出鱈目、無責任さが暴露されても政治がそこへ突っ込んで一気に膿を出そうとしない。

バブル崩壊で落ちた日本の評価は小泉改革で劇的に好転したが福田政権では完全に逆戻りしつつある。
それを見て日本は将来性が無い国だと世界中が思い始めている。
ドルが下落しているのに円は思ったほど高くならない。
世界中の株が値上がりしているのに日本の株だけが下落している。

安倍チンゾウ元首相の掲げた「戦後レジームからの脱却」とは何だったのか。
戦後60余年日本はアメリカから尻を叩かれ頭を撫でられアメリカのご機嫌を伺いながら殆ど自主性(自発性)を発揮することなくここまで来てしまった。
夏目漱石は黒船以来西洋の外圧によって中身を咀嚼出来ないまま上滑りに西洋の制度、思想を受け入れて来たといっている。

いまや自民党と官僚の癒着を見て国民は気付き始めていると思う。
国民が国を変えるためには政治を変えなければいけないと気付き始めている気がする。
先の参院選、大阪市長選、来年の大阪府知事選何かが変わりつつあるように感じる。
民主党政権を期待するのではない、その中から本当に日本のことを考え実行できる政党、政治家の誕生することを来年に期待したい。

7時のニュースで宝くじの発表があり30枚が夢と散った。

そのまま「吾亦紅」を聴くためNHKテレビを点けていた。
そして本物の「吾亦紅」を聴いた。
ヤッパリ良かった。
それにしても「紅組」の下手な唄には閉口した。
紅白が人気が無いのは彼女達の所為だということがはっきり分った。
今年も白組の勝ちだろう。
もう聴きたい唄もないので風呂に入って寝ます、どうぞ良いお年を・・・
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 吾亦紅

2007-12-31 14:50:00 | 音楽






先日忘年会でカラオケを歌いに行ったとき友達の一人が唄を歌った。
決して上手くない、しかし語りかけるようなメロディー、歌詞が印象に残ったのでなんという唄か訊いた。
「われもこう」だといった。
変わった題名だなと思った。

あくる日カミサンに「われもこうという唄を知っているか」訊いた。
「唄は知らないが花は知っている」という。
花の名前と初めて知った。
そして夜、NHKテレビを見ていて紅白歌合戦で「吾亦紅」の唄がノミネートされていることが分った。

いったいどんな花なのかインターネットで調べてみた。
草地に生えるバラ科の多年生草木、細長い楕円形の小葉の先に赤黒い穂状の花をつける。
多分散歩で山を歩いている時に見ていると思うのだが記憶に残っていない。
「われもこうありたい」とはかない思いをこめて名づけられたそうだ。
また命名する時この花の色は茶色、こげ茶、紫など議論した中で「私は紅です」という花の声が聞こえ「吾亦紅」に決まったとも書いてあった。

毎年紅白歌合戦は殆ど見ないが今年はこの唄を聴いてみたいと思っている。
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なんばHIPS

2007-12-30 09:55:55 | 散歩道
 
これなんだか解りますか。
大阪なんば千日前「namBa HIPS」にオープンした複合レジャー施設フリーフォール「ヤバフォ」。
地上74mの高さから秒速最高22メートルで60メートル落下する6人乗りの乗り物。
「御堂筋に面していて難波の町を見下ろして一気に落下するスリル」が売り物。
オープンしてすぐロープに異様な音がするといってストップしたと新聞で読んだ。
昨日難波で忘年会のあと行きつけのスナックでカラオケを歌い、溜まっていた付けを払って帰ろうとしたら目の前に見えたので思わずシャッターを押した。
高所恐怖症の私はとても乗ってみようと思わないがいつか上から人や部品が落ちて来て御堂筋を歩いている人に被害が出るではと心配だ。
これからは御堂筋は歌舞伎座よりの西側を歩くようにしよう。
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12月29日 年末休み

2007-12-29 12:16:16 | 街の出来事

今日から年末の休みになった。
今週は休み明けの火曜日からズーッと自治会の仕事が続いた。
25日は会館解放デー、今月は元喫茶店店主が安く仕入れた「ブルーマウンテン」が飲めるとあって大好評。

そのあと幹部役員会で古紙の値段が大幅に上がっているので古紙回収のリベート@をアップする交渉をすることになり今までの契約書を見たいといったがキチンと保管されていないため見付からず。
コピー機をカラーにしたいと言うので今の契約書を見たいといったがこれも出てこない、文書管理が出来ていないので整理をお願いした。
会計の私が言うべきことでもないのだが会計の仕事にも影響するので言ってしまった。
9月にも資産管理が出来ていないと言って管理台帳を作り、年1回棚卸をするようにしてもらったりしたのでうるさい奴だと思われているだろう。

今のコピー機については3年間のデータに基づいたコスト計算をして現状でも思っているより高いコストになっていることを説明しカラーコピー機の導入はストップできた。
そのあと古紙回収業者2社にリベート@アップの依頼書を発送。
年明けにどういう返事が来るか「お年玉」を待つ気分だ。

27日は午後10時から11時過ぎまで深夜の防犯パトロール。
夏場と違って不審者は殆どいなかった。

昨日は午後8時から9時まで夜警。
子供たちも沢山参加して100人近くの人が集まってくれた。
出発前には市長や消防署長、警察署長などが激励金などを持って挨拶に来た。
町内1000世帯を東西南北中に分け10人単位で10グループに分けて拍子木を叩きながら廻った。
私のグループは子供が5人参加してくれたので交代で拍子木を叩いてくれた。
天気予報では雷も鳴って大雨になると言っていたが大した雨にならず大勢の人達が参加してくれた、感謝、感謝だ。
会館ではご婦人たちが昼から豚汁やおにぎりを作って待機。
夜警から戻った人達に食べて温まって帰宅してもらった。

これで自治会の年内の仕事はおしまい。
1月7日の役員会までお休みだ。
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12月20日 散歩道

2007-12-21 10:03:20 | 散歩道

今日は天気が良くて暖かいので昼から久しぶりに散歩に出かけた。
最近住宅地の庭でこの写真の「皇帝ダリア」をよく見かける。
4~5メートルの高さまで伸び見上げると青空の中で綺麗に見える。


落ち葉を踏んで霊園から山へ入る。


鉄塔の下の住宅地開発地も少しづつ整備されてきた。


稲刈りの済んだ田んぼ。



「ノイバラ」なのか葉が違うので「サンザシの実」なのか?
葉の形から見ると「ピラサンカ」の様だ。


コークス工場の上にカラスが集結している。

 
小山田の里山に入ってあぜ道を歩く。

 
日が落ち始めると少し寒くなってくる。
しかし歩いていると汗が出てくる。
2時間近く歩いて4時過ぎ帰宅した。
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有馬温泉 誕生日

2007-12-20 11:10:01 | 国内旅行
 
12月17日はカミサンの60ウン歳の誕生日。
先日有馬温泉へ行った時、手近にこんないい温泉があると気付き女将に頼んで予約してきた。
もみじも全部散ってしまい金泉、銀泉に浸かって美味しいものを食べるだけ。
家を昼前に出て2時前旅館「兵衛」に着いた。
近くに有馬切手文化博物館があったので入ってみた。
余程暇だったのか館長が30分以上一緒に廻って切手の珍しい話を実物を前にしていろいろ説明してくれた。
温泉にユックリ浸かって6時から夕食。
女将が特別に蟹の差し入れをしてくれたのでボリュームたっぷりのご馳走、ついついお酒を飲みすぎて10時前に寝てしまった。

翌18日は朝5時から温泉に何回も入り、10時半に近くに住んでいる友達が奥さんと車で迎えに来てくれたので彼の家にお邪魔した。
六甲山の裏に開けた広い住宅地で、神戸㈱はこの辺の山を削ってその土で海を埋め立てバブルの時に儲けたのだろう。
だだっ広くて車が無いと生活は不便だと感じた。


昼食は六甲トンネルを通って神戸の町へ出て灘の酒蔵を利用した店に入った。
ここは清酒「福寿」の酒蔵を利用した「神戸酒心館」と言う店で昼飯時とあって少し待たされたが美味しかった。
友達は奥さんを神戸に残して15年間東京で単身生活をし、昨年リタイアして戻ってきたばかりで、このあたりの酒蔵巡りが気に入って時々奥さんに運転をさせて飲みに来ているそうだ。
今日は天気が良く一日中暖かかった。
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忘年会

2007-12-16 13:22:00 | 集まり、同窓会
    
先週庭木の葉刈りをした。
今までは普段使わない筋肉を使う運動と思って全部自分でやってきたが70歳ともなると体もかなり硬くなり、高いところへ上って作業することが億劫になって来た。
庭木の消毒や、芝生の除草剤の散布などはダスキントゥルグリンに頼んでいたが葉刈りもするというのではじめて頼んでみた。

今日はカミサンは朝早くから京都の方へ出かけた。
コーラスの練習のあと忘年会だとかで夜まで帰らない。
先週は13~14日、30周年コンサートの打ち上げ旅行で岩国や津和野へ行っていた。

私は14日は朝からホームコースでゴルフ、風呂に入って14時帰宅、夕方6時からは大阪鶴橋で私が幹事をしている高校同窓生11人の忘年会「フグを食する会」。
ここのフグは安くて美味しいので好評、毎年年末が近づくと何時やるのだと声がかかって来るので幹事もやり甲斐がある。
「来年この会の始まる前に黙祷という様なことが無いよう健康に気をつけよう」と言って解散した。


15日は風は強かったが天気が良かったので奈良へ写真を撮りに出かけ、3時過ぎ高槻に住む親友の病気見舞いに行った。
夕方5時から高槻駅前の「麟」という店で大阪~京都間在住の大学OB「MITSの会」の忘年会に参加した。
私は大阪~京都間在住に該当しないのだが特別に参加させてもらっている。
この会を立ち上げた高槻在住の無二の親友が5年ほど前からパーキンソン病になり、最初は手足の末梢神経が侵され徐々に他へも拡がり、誤飲をしないようにと咽喉ぼとけも切除してしまい喋れなくなり今では寝たきりになってしまっている。
その親友の代理ということで必ず彼のお見舞いをしてから参加することにしている。
またこの会には一昨年、昨年リタイアして関西に戻ってきたラグビー部の後輩を引っ張り込んで自分勝手に関西在住のラグビー部OB会にしており昨日も4人集まった。
明日も自治会の忘年会があるが他に予定があるので断った。
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12月8日 開戦記念日

2007-12-08 13:18:18 | 読書

今朝用事があって友達が来た。
そして「今日は開戦記念日だけれどこんな言い方は古いのかな」と言った。

今年の夏スイス旅行に行く飛行機の中で写真の本を読んだ。
この本は東工大特任教授である猪瀬直樹が20年ほど前に書いた「日本人はなぜ戦争をしたかー昭和16年夏の敗戦」という本を素材に学生に卒業後も「空気に流される人間になって欲しくない」と講義した内容を表したものである。

この「昭和16年夏の敗戦」とはどういうことなのか。
日本が太平洋戦争に突入したのは丁度66年前の今日、昭和16年12月8日でその半年近く前の敗戦とは?
ご存知のようにこの頃満州、中国で戦争を拡大していた日本はアメリカとの関係が悪化していた。
何のために戦争をするのか、戦争と経済は常に裏腹の関係にある。
この当時は現在のように企業が海外へ進出して経済戦争をすることは少なかった。
強い軍隊を持って後進国を侵略し、鉱物資源や安い労働力を確保することによって自国の繁栄をはかっていた。
また世界の列強国にはそれが当たり前のように許されていた。
その結果東南アジアやアフリカには沢山の植民地があった。

日清、日露で勝利し、第1次世界大戦でも戦勝国となった小さい島国日本では大した資源も無く綿花や蚕でお金を稼ぐしかなかった。
そのため広大な中国大陸、満州に進出して国力の増強を図っていった。

石油が出ない日本で人造石油の研究がされていた。
いまのバイオマスはサトウキビやトウモロコシだが当時は石炭であった。
石炭を高温、高圧の中で液化して造るのだが高圧に耐えられる窯がうまく出来ず目標年産120万トンに対し10万トンも出来ていなかった。
ドイツでは年産35万トン出来ていた。

そのような状態の中、日本はアメリカと戦争を始めるべく世論は動き始めていた。
そんな中、昭和16年4月近衛内閣の下で「総合戦研究所」が発足した。
研究所には30代の各官庁、軍人、マスコミ、学者など36名を集め(今で言えばシンクタンク)、疑似内閣を作りアメリカと戦争をすればどんな結果になるか自由に研究させた。
36名はそれぞれの分野での最新の極秘資料を駆使して現状の判断を正確に出来る立場の人達であった。

そして6月23日アメリカは対日石油の輸出を全面的に禁止した。
このままではいずれ日本は石油がなくなり軍艦も飛行機も飛ばせなくなる。
そこで南進論、仏印(仏領インドシナ)、さらにオランダ領の南ベトナムを攻めて石油を確保する案、しかし確保した石油を油槽船で日本に運ぶ途中、南シナ海、南太平洋などでイギリスやアメリカの艦隊によって全滅させられることなどがシュミレートされ、飛行機や艦船を造る資源も先細りになるなど的確で自由な研究がされた。
そして8月27日、28日2日間にわたり首相官邸大広間で第3次近衛内閣と36名の疑似内閣とで検討が行われ結論が出たのである。
結論は「12月中旬奇襲作戦を敢行し、成功し緒戦の勝利は見込まれるが、物量において劣勢な日本には勝利は無い」。
「戦争は長期戦になり、終局ソ連の参戦により日本は敗れる」。
「だから日米開戦は避けなければならない」。
となり内閣は戦争を回避する方向へ進むはずであった。
要するにこの時点(昭和16年8月)で日米戦争をすれば負けると内閣は答えを出していたのだ。

この時代内閣と並んで天皇の統帥権を持つ大本営があり、東條陸相はこの結論に対し「諸君の労を多とするが、これはあくまで机上の演習でありまして、実際の戦争は君たちの考えているようなものではないのであります。日露戦争で我が大日本帝国は勝てるとは思わなかった。戦いというものは計画通りに行かない。」と述べ、この結論の口外を禁じた。

この結論は秘されたまま9月6日に御前会議が開かれ「日米開戦やむなし」と承認された。
そして皇室に責任が及ぶのを避けるため東條陸相をいきなり総理大臣に任命し開戦へと進むことになり、陸海軍、商工省、企画院などの事務方から提出される数字は戦争を始めるのに都合がいい数字に辻褄合わせされていった。
空気(雰囲気)がドンドン戦争をせざるを得ないようになって行き、誰も反対できなくなってしまう。

そして最初の予想通りの敗戦。

東工大の卒業生にはそうなって欲しくないと期待しての講義だ。

この本にはそのあと国交省の道路公団民営化の際の数字つくり、数字隠しについていろいろ書いているが官僚が自分たちに都合がいい数字を積み上げて行き誰もそれに異を唱えず、責任を追及することがなくなれば国は間違った方向へ進んでしまうと云うことだ。

今の防衛省はそれ以上に腐りきっている。
石破防衛防衛大臣は「昭和16年の敗戦」を引用していろいろ発言しているそうだがその気持ちをいつまでも持って防衛省改革に取り組んで欲しいと思う。
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ブタペストの春

2007-12-06 23:48:00 | 映画

ドナウ川で分断されたブダペスト(ハンガリー)のブダ地区とペスト地区を結ぶ鎖橋。

昨日大阪で忘年会があり出掛けたがその前に見たい映画があったので梅田のツインタワー迄行った。
見たかった映画は「君の涙ドナウに流れハンガリー1956」。
1956年、共産主義政権下のハンガリー・ブダペスト。
夏季史上初めて南半球メルボルンで開催されるオリンピックで金メタルを目指す世界最強のハンガリー水球チームが遠征先のモスクワで、ソ連に勝たすため出鱈目な笛を吹く審判のせいで勝っていた試合を逆転させられ、ソ連の選手に暴力を振るわれるところから映画は始まる。
ポーランドでソ連の圧制に対し反撃が始まり、ハンガリーにも飛び火しブダペスト工科大学の学生達が市民を巻き込んで政府に抵抗し、それを鎮圧するためハンガリー政府はソ連に派兵を依頼。
ブダペストの街中をソ連の戦車が蹂躙し多数の死者が出るが鎮圧できずソ連は傀儡政権を誕生させ軍隊を引き上げる。



一旦引き上げるそぶりを見せ市民を安心させたあとソ連の戦車部隊は途中からブダペストに引き返し徹底的に破壊を始める。
映画ではこの写真の英雄広場まで戦車が入り込んでいた。
その戦乱の中でエリートである水球選手がハンガリー改革を訴える恋人と一緒に水球を捨てて加わるか悩み、やがてソ連の圧制を跳ね返し改革を実現、水球でもオリンピックでプールの中で暴力を振るうソ連を破って金メダルを獲得。
後にハンガリー事件といわれるようになった史実をラブストーリーに絡めて描いた映画である。
この映画のクライマックスを上映中に突然上映がストップし何事かと思ったら観客の若い女性が突然倒れ救急隊が駆けつけると云うハプニングがあり終了時間が20分ほど遅れた。

いまこの卑劣な国ソ連ではプーチン大統領がロシア下院選で圧勝し絶大な権力を握ろうとしている。

ハンガリーは9世紀ごろウラル山脈を越えてドナウ川の畔に住みついたマジャール人から発し、10世紀に即位した君主イシュトバーン1世で君主国となった。
13世紀にはジンギスカン率いるモンゴルに制圧され、15世紀にはオスマントルコに制圧され、そのあとオーストリアのハプスブルグ家の庇護の下安定した時代があったが第2次世界大戦では無理やりドイツ側に組み入れられ、敗戦後はソ連に蹂躙されるという苦難の道を歩まされた国で現在の国土は最盛期の1/14しかない。
この映画の終わり近くにはマジャール人の長い間にわたる苦しみは平和な中に暮らしている人たちには理解できないだろうとあった。

一昨年ハンガリーを旅行した。
その時ドナウ川沿いのエステルゴムという小さな町で迷子になってしまった。
ヨーロッパでは車は右側通行で、曲がり角は交差点でなくロータリになっている。
車は全てロータリーを右回りしながら右折して自分の行きたい方向へ曲がって行かなければならない。
一番手前で左折したい車はロータリーを廻りながら一番最後に右折することになる。

街を散策していた私はカミサンと元のところへ戻るべく来た道を引き返していた。
途中でカミサンが「この道は来た時の道と違う」と言い出した。
「来た時とは反対向いて歩いているのだから景色は違う」とは言ったものの人通りも少なくなりだんだん不安になって来た。
少し前を歩いている婦人がいたので走っていってかたことの英語で尋ねたが全く通じない。
旅行に行く前にハンガリーでは街中のホテルなどでは英語が通じるが地の人には英語、ドイツ語、フランス語全て通じない、ハンガリー語しか通じないと聞いていたのを思い出した。
最後には手に持っていた地図を見せて帰りたい場所を指で指しながら尋ねた。
その婦人の口からどうやらその地名らしい言葉が聞けたのでうなずくと歩き出した。
しかしますます変な裏道へ入って行くので心配しながらついて行った。
すると突然来た時に通った見覚えのある景色に出会った。
これで大丈夫、「サンキュー」「ダンケシェーン」「メルシー」いくらお礼を言っても通じない。
途中のスーパーで買ったチョコレートをお礼にと渡そうとしたが中々受け取ってくれない。
最後は強引に受け取ってもらったがそれほど堅実で真面目な人達なのだとあらためて気付いた。
それ以来私はハンガリーに興味を覚え大好きな国になった。
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有馬温泉の紅葉

2007-12-03 18:45:45 | 集まり、同窓会

先月27日有馬温泉へ紅葉を見に元の会社の仲間5人と日帰りで出かけた。
旅館兵衛8階の部屋から眺めた紅葉です。
ここの亡くなった社長が終戦後一時私の元の会社に勤めていたことがあり、今はその奥さんが大女将、息子さんが社長として営業している。




朝10時半梅田の高速バスセンターから特急バスに乗り11時半有馬温泉着、平日の昼間と云うのにバスは補助席を使うほどの満員。
大女将風早笙子さんの案内で最近9階の庭園に出来た「三之湯」へ浸かった。
有馬の湯は鉄粉を含んだ茶色の湯である。
源泉は透明なのだが空気に触れると茶色に変色する。
宿泊客が帰った後の一番湯で気持ちがいい。


温泉で暖まったあと部屋へ戻りビールで乾杯のあと美味しい食事と冷酒「雪中寒梅」を飲みながらの近況報告と歓談。


3時過ぎ、兵衛のマイクロバスで紅葉の名所「瑞宝寺公園」まで送ってもらう。
瑞宝寺は慶長年間に開かれた古刹であるが現在寺は無く伏見城から移したという山門だけが残っている。
旅館で聞いた情報では紅葉もそろそろ終わりらしい。


公園の中に「日暮しの庭」がある、有馬をこよなく愛した豊臣秀吉が日がな一日紅葉を楽しんだり、碁を指していたと云われ、石の碁盤があった。
石に彫られた碁盤の目がかすかに残っている。


秀吉は有馬の湯は体にいいと褒め、その当時の「北の坊」に「兵衛」と云う名を与えよく通ったそうだ。
これが今日の「有馬温泉兵衛」のルーツらしい。


最後の紅葉に別れを惜しみながら有馬山をあとにした。


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