昼食を終えて向かったのは、史跡・重要文化財「鴻池新田会所」
JR片町線鴻池新田駅近くの繁華街の中にありました
鴻池新田会所は江戸時代に豪商鴻池家が開発した新田の管理・運営を行った施設です
江戸時代初期の幕府による検地のあとに開墾された農地は、水田・畑地すべては新田と呼ばれました
河内平野南部では、江戸時代中期の大和川付け替えにより流れが途絶えた川床、堤防を中心に新田が造成されました
鴻池家の先祖は戦国大名尼子氏の家臣山中鹿之助幸盛と説明していましたがこれは話のあやだと思いました
鴻池新田会所は鴻池家による新田経営の拠点であり、本邸から派遣された支配人のもと小作人から年貢・肥料代の徴収、耕作地の道路・水路・家屋の修理・管理・維持・人別帳・宗門改帳の作成などの作業を行っていました
また新田を開発し小作を続けて60歳になった老人には年金として米が配給されたそうです
邸内の配置図です
本屋内の土間
座敷
天井
鴻池のほかにも沢山の新田が開墾されましたが豊作、不作の繰り返しで小作人は農地を捨てて逃げ出すことが多かったようです
鴻池では米作のほかに綿作りに力を入れバランスの安定をはかっていたため逃げ出す小作人はいなかったそうです
大和川の付け替え当時には久宝寺木綿(八尾)半田木綿(狭山)長野木綿(河内長野)山根木綿(生駒西麓)などの河内木綿が新田地で作付けされていました
敷地内には本屋・米蔵・道具蔵・乾蔵のほか長屋門・居宅・朝日社などがありました
米蔵は天井が高く沢山の米俵が積み上げらていたようです
生駒山を借景にした庭園には弁天池を配し、檜・松・槇などの大木が植えられていました
朝日社(神社)
会所のまわりはマンションなどが建つ住宅地、周りの風景に合わない一角でした
見学に参加したメンバーの一人は、仕事で鴻池新田にはしょっちゅう来ていたが駅の近くにこんな所があったとは全く気がつかなかったと言っていました
会所から歩いて3分鴻池新田駅前の繁華街でバスに乗り、4時過ぎ狭山に帰ってきました
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