須磨寺の本堂の正面中央の鴨居に張ってあった。
高野山の納経所に張ってあり、聞くと「注連縄」と教えられた
須磨寺も弘法大師さんのお寺だから…
愛染堂に…
どちらも「ネズミ」がいる 何故か?
今年が「子」年だからだ
2003年11月22日結願の報告に高野山に上った
その時初めて目にした「注連縄」
その時は「未」年だったので左の絵は「羊」である
中突堤にある、団体専用店で昼食。須磨に向かった。須磨寺の駐車場で解散1時間貰って、三々五々見学。
私は10代にこの近所に住んでいた。だから懐かしい、探したい場所があった。しかし団体である限り全てを見に行くことは不可能だった。ただ少し時間があったので、あやこさんに「この辺に霊水があったはずなんだけれど…」と付き合ってもらって探した。
霊泉は健在だった。しかしその場の雰囲気はコンクリートで固められて、昔の面影はなくなっていた。私は一口飲みたいと思った。行こうとしたら、あやこさんに「飲んではいけないと書いてあるよ。沸かしてから飲めって」注意された。私は何時も飲んでいたし、当然飲めるものと思っていた。21日のお大師さんの日の参拝者も此処で冷たい水を楽しんでいた。折角見つけたのに寂しい現実を突きつけられた。
数十年前に最後に来た時はまだ昔のままだった。何時からこうなったのだろう。もう一つ私の記憶にあるのは「山門の両脇の大きな草鞋」だった。これも無くなっていた。そこには仁王さんがいた。この仁王門は昔からあって、「草鞋」の門だけ消えてしまったのだろうか? 私には「草鞋の門」の記憶しかない。
「草履の門」は四国遍路をしている時、アチコチで「大きな草鞋の門」に出合って、須磨寺が弘法さんに関係あることを知ったのです。遍路を終えて5年、この目で確かめたいと思った草鞋は無かった。
私の脳裏には雰囲気のある霊水場と大きな古びた草鞋はしっかりと居座っている。
今フッと思ったのは、もしかしてあの大震災の時に崩れたのではないだろうか?
須磨寺は昔とすっかり変わっていた。建物も新しいし、参道も土はなく舗装されている。仕方が無いのかもしれませんね。私が来たのがウン十年振りなんですから。
須磨寺は「一弦琴」「青葉の笛」で有名なお寺でもあります。源平の庭は一の谷での平敦盛と熊谷直実の一騎打ちの場面を再現した像のある庭である。
私は校区外通学の生徒だったので、休みにはお友達が、夫々のボーイフレンド、ガールフレンドと一緒に遊びに来た。今のように遊び場が豊富にある時代ではなかったので、市電に乗って、私の家に来て、須磨寺、須磨海岸、須磨浦公園で話して、は格好のデートコースだったのかもしれない。不思議なことに、友達同士がかちあうという事は無ありませんでした。毎日曜日、お一組様限定と言う感じです。
先日も須磨の家のことを覚えてくれている人が居て、「よう行ったな~、あの頃がなつかしいな~」といってくれた。覚えていてくれてるんだ、たまには思い出してくれてるんだと嬉しかった。
二人が話しているのに口を挟むこともないし、話しかけられないと黙っていた私、邪魔にならない存在の私は一体アベックさんの何だったのだろうと今になって考えることがある。「ず~っと自分達より年上と言う感じだった。何でも黙って聞いてくれて口外しないから、安心して話せた」と同期会で言われたことがあるので、姉の様な存在だったのだろうか? 女の子としての魅力は無かったんだわ、きっと。
次は「須磨離宮公園」に行った。此処も随分変わっていた、昔はこじんまりしていたのに、今は嫌にだだっ広い。子どもの遊び場などが増えている。花は少ない時期なのですが、一応咲いている花も、どこにでも咲いている花で、取り立てて目新しいものは無かった。
ただレストルームでティータイムを持ったのですが、ここからは眼下に数基の噴水の列が見え、その先には海が広がっている、この景色はすばらしいと思いました。
又町会の集まりゆえに、懐かしい方々にも会え、元気を確かめ合い、話をし、良い一時をもてたことは良かったと思いました。結婚して、神戸から尼崎に来て、尼崎の生活が神戸の2倍を越えました。住みたかった神戸も、今は楽しみに行く場所になり、立花に降りるとほっとするようになりました。「住めば都」とは良く言ったものです。