ちいさな幸せ

幸せの基準ってある?
それは自分の心の中にあると思う。
私は何時も陽だまりのような幸せの中に居た。

モディリアーニ展

2008年09月04日 | 一寸そこまで

               宝 塚(デュラン)
        今年は房は短いのですが良く咲いています
             こんな実?がなりました
   種が取れるのでしょうか?挿し木で増やしていたのですが…


                ルドベキア
           一寸細身の花びらなんですが
          葉っぱは同じですのでルドベキア?
               違うでしょうか?



モディリアーニ展が15日までですので急いでいってきました。終わり頃は込むので展覧会は始まって直ぐの頃行くのですが、主人の目の手術のあとは10日ばかり外出できませんので、今日になってしまったのです。10日には又病院ですので今日を逃すと、見に行けなくなるというギリギリの日でした。

なるべくすいている内にと、早めに家を出たのですが、最終日が近いので沢山の人でした。何時もの通り音声ガイドを借りました。この利用者も増えているように思いますが、もう少し安いと良いのですが、一台500円ですから、二の足を踏む人も出るでしょうね。

私はモディリアーニの晩年の(肺病で若死にしています)有名な絵しか知りませんでしたから、描き始めの絵は始めてみたわけです。私にはどこが上手なのか解らなかったです。

モディリアーニを見出した画商は、この初期の絵を見て「ピカソの何倍もの値打ちがある」って言ったそうです。こうして世界に名だたる画家の仲間入りをしたのですから、見る目が在ったという事でしょうね。そしてこの画商に売り込んで貰わなければ、日の目を見なかったかも知れないのですね。

全体的に私には暗い感じを受けました。音声ガイドから聞こえる言葉のように、つややかな髪の色とかうつくしい肌…、とは感じられなかったのです。私には「暗いな~」「やはり肺に病を持ち健康でない身に、健康的な明るい絵は無理だよね~」と勝手に解釈してしまいました。アーモンド形のつぶらな瞳といわれても、私には哀しげに見えてしまいます。どうも私は彼の発する信号を的確にキャッチできないと感じました。

私はどちらかと言うと明るい色彩の絵が好きです。タッチが薄くとも、濃いくともどちらでも良いです。「今日の絵はなんだか解らん絵やったな~」と主人。私も書かれている絵は単純な肖像画なのに、何を言わんとするのか私の胸に届くものが無かった絵だという事です。展覧会のチケットに印刷されている絵は何となく心惹かれましたので、絵葉書を買ってきました。チケットの絵と認識して買ったのではなく数ある絵葉書の中から選んだのが、その絵だったという事です。

塩田千春(大阪生まれ)と言うベルリンを拠点に国際的に活躍する美術作家の作品が併設されていました。そのスケールの大きさに目を見張りました。

例えば二階?迄吹き抜けの天井まで届く3着のワンピース、見上げて開いた口が閉まりませんでした。こんな大きな服を見たのは初めてです。

もう一つは赤い紐で結ばれた2000足の靴。これは1年半掛けて、インターネットやチラシ、ラジオなどを通じて、その靴に関するエピソードを添えてとお願いして送られてきた、大小さまざまな履き古した靴です。片方づつ結ばれた赤い紐の端は天井近くで一つに束ねられています。赤い紐は4000本有るはずですのに、下りエスカレーターから見たときは靴だけが目に入りました。これはどういう事なんでしょう。角度によってはあるものが無しに見えるこの不思議さ…。

このほかにも変わった写真家3人の写真展もありました。「丁寧に見ていると肝心のモディリアーニの絵が疲れて見れなくなるから、さ~っと見よう」「そうやな」
年と共に集中力には限界があります。その限界ギリギリの展覧会でした。


コメント
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