遊煩悩林

住職のつぶやき

いのちのとなえ方

2008年12月22日 | ブログ

こんな疑問にとりつかれています。

どうしてイエスが生まれた日が「1月1日」でないのだろうか?
どうして1月1日がクリスマスではないのだろうか?

クリスマスはイエスの誕生を祝う祭りだといいます。
それはそれなのですが、私たちが日頃つかっている暦、西暦はキリストの誕生年を「1」として2009回を数えているといいます。
今、現実につかわれている暦の上では12月25日がクリスマス。そして年が明けるのは1月1日。7-8日ほどのブランクが「?」となってきたわけです。誕生を基軸にしているのだとすれば、誕生日から月日もスタートしているのが最もではないかと考えたわけです。
で、調べてみると私がしっかり勘違いをしていたのは、12月25日が「キリストの誕生日」だと思っていたところです。「クリスマス」は「キリストの生誕を祝う」祭りで、誕生日でもなんでもないのでした。しかも誕生日ははっきりせず、12月ではないことが有力だといいます。「うーん」とんだ思い違い・・・。さらにいえばイエスの誕生は紀元前4年頃までさかのぼるのだそうです。
こうなってくると、西暦というものの根拠も「ダイタイ」なのだなっと思うわけです。
曖昧で大体ではありますが、歴史的な経緯のなか、これがいまの日本において便利で使いやすい「暦」だから使用しているわけです。
まあ、そのほうが曖昧で大体な「人間らしい」ような気もします。
年賀状でも毎年、元号を使う人、西暦を使う人、また「仏暦」を用いる人、それぞれですが「A Happy New Year Heisei21」では滑稽な気もします。
「仏暦」にしても、それを用いる人によって数百年の誤差があります。やはりその地その地の暦を、別の地の暦に置き換えたりしているうちにゴチャマゼになったのか、分けがわからなくなったということかもしれません。てんでデタラメというわけではありません。諸説あっていいのでしょう。根拠さえはっきりしていれば・・・。
しかしせいぜいそれが2000~3000年くらい前のことに過ぎないことに、若干の驚きがあります。
それにしても、かつての日本は新年が来ればみんな同時に歳をとる、いわゆる「数え歳」でしたから、個別の誕生日を祝うこともなかったといいます。私たちの親の世代(昭和のはじめごろ生まれ)でもそうです。
昭和24年の「年齢のとなえ方に関する法律」によって満年齢が推奨され、行政機関に義務付けられたそうですが、では満年齢になったからという理由だけで、みんなが誕生日を祝うことになったわけではないのでしょう。
そこにはキリスト教的な文化の影響が大いにあるのだと思っていました。それはクリスマスがキリストの誕生日だと思い込んでいたからのものですが、考えてみれば日本でもいつ頃から行われているかわかりませんが「花まつり」というお釈迦さまの誕生を祝うお祭りがあります。
ですが、日本の「まつり」はやはり基本的には「誕生日」ではなく「命日」なのでしょう。「まつり」という表現はどうかと思いますが、「誕生日」によって生まれた「生命」がただ尊いのではなく、そこに単なる個人の「生命」だけでない深く広い「いのち」のつながりをいただいてきた歴史なのだと思います。それを確かめることが命日でありましょうし、古くからそうしてきたわけでしょう。だから「命日」といっているわけでしょう。
現代、命日は忘れられ、葬式もままならない時代になってきました。それは、少子化の問題もあって、ただそこに生まれたことに、その生命のみに執着しているように思えなくもありません。一生命を超えた「いのち」の尊さを実感していくところに、人の生まれてくる意味があるように思えるのです。
ただ生まれただけでは意味はありません、というより意味が見つかりません。ただ生まれて-生み出されて-、ただ生きて-生み出されたから生きて・・・では、何のために生まれたのかも、生きることの喜びも実感も薄っぺらいものでしょう。
生まれて、どんな「いのち」に出遇うことができるのかというところに意味が見出されてくるのだと思います。
「クリスマス」のとんだ勘違いから話が飛躍してしまいました。
「歳のサバをよむ」とかよくいいますが、だいたい根本的なところで曖昧なのです。暦自体、何かに基準を置いて、そこから地球が太陽の周りを何周したか・・・だけのことです。極端にいえば、人が何年生きたとか、若死にだったとか、それはそうなのかもしれませんが、たいしたことではないような気がしてきました。要はどんな「いのち」に出遇っているのか。出遇うことができるのかということです。真の「いのち」に出遇えたならば、若死にといわれようが「ありがとう」といって逝けるのでしょう。
ただし、そんな自己の実現にはほど遠いような「私」であることがはっきりしたにすぎません。

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