遊煩悩林

住職のつぶやき

タイムカプセル

2012年11月06日 | ブログ

息子が通う小学校の文化祭で、創立130周年イベントとして30年前の100周年の記念に埋めたタイムカプセルを開封する行事がありました。
カプセルは体育館新築の際に移設した後、どこに埋めたかわからなくなったものの、校門付近で発見されたんだとか・・・。
残念ながら、組内の報恩講で行事には参加できませんでしたが、30年前に私が書いて埋めた絵を息子が受けとってきてくれました。少子化で近隣の他校との合併が噂される小学校ですが、20年後の150周年に開封するカプセルを新たに埋設するということで、「20年後の息子へ」というメッセージを書かせてもらいました。
開封されたカプセルには、そのような30年前の親からのメッセージは封入されてはいませんでしたが、20年後の子どもたちに宛てたメッセージを書くに及んで考えさせれました。
自分が生きていることを前提にして書くのか。それとも死んだことを想定して書くのか。生きていても死んでいても変わることのない「願い」がはっきりしていればいいんですが、いかにもあやふやな自分を認識させられます。
私の場合、自分が埋めたカプセルの開封時に両親がすでにいないので、それをふまえて、20年後に生きていたとしても死んでいたとしても、いのちはつながっているのだ!なんて書いたのですが、親子ともに生きていれば小っ恥ずかしい思いをすることになるのでしょう。生きていなかった場合、何か響いてくれればいいなという淡い想いを抱いていますが、どんなことになるのやら。
ただ、そんな私の想定はあくまでも自分が生きているか死んでいるかだけの想定でしかありません。じぶん、じぶんの自己関心と同時に、自分の子どもが先に死んでしまうような都合の悪い想定はしない自分も教えられます。

さて、開封行事には参加できませんでしたが、その夜は懐かしの同級生らと飲み明かしました。その席で、ある友人から同級生の訃報を知らされました。
友人にその日のイベントを知らせて「一緒に行こう」といっていたその本人が10日前に死んだと。卒業後は疎遠になってましたが、当時は通学途中の私を毎朝誘いに来てくれた友人。親友だった彼の塞ぎように言葉がありませんでした。親よりも先に、妻と中学生・小学生の子を残して死んだ親友。お葬式もできてないという。
坊主になった私に「何とか彼と話がしたい」、坊さんの力で何とかあの世の彼と話させてくれ!と。つまり私に「イタコ」をやってほしいと涙を浮かべて真剣に言う。
「残念ながら僕にはそんな力はないよ」というよりない。ただ考えさせられたのは、どうして「イタコ」が求められ、存在し、信じられてきたのかということ。その「役」が求められて、誰かがその役回りを担い、それを支える人がいるということ。つまりその存在を認め、その言葉を信じたいという私たちの都合のいい願望が、その「役」を生み出しているのでしょう。

今月のお寺の掲示板には、前の月に感じたことをふまえて

鬼神は束ね縛るはたらき
仏は解き放つはたらき

と記しました。
当初は

神はこの身をにぎるもの
仏はその身を解放するもの

という藤代聰麿さんの法語をそのまま記すつもりでしたが、ご当地お伊勢さんの門前通にこの語を表して、いらぬ誤解を招くことに躊躇したのと、この法語のこころをしっかりと受け止めきれていない遠慮から、この法語を前提にじぶんの思いの重なる部分を表現したつもりです。

鬼神も仏も「はたらき」として存在するのであって、物理的にあるのではない。
生き神さまも生き仏も、それを欲する者、もっといえば利用する者の「都合」による役回りにすぎません。その役が必要とされるのは、どこまでも群衆を「束ね」「縛る」ためなのでしょう。束ねて縛ろうとする者も、束ねられて縛られる者も同じ鬼神性を持っている。束ねて縛られるのは楽なんです。束ねられて縛られた方が心地よいということもあるのでしょう。ただしそれは、それに気がついていない段階においてです。その鬼神性を知らせるはたらきが「仏」としてはたらいている。そしてその束縛から解き放たれたいと欲するはたらきとなる。

古い友人の訃報に接して、イタコ役を依頼されて感じたことです。
イタコを否定したいのでも、神や霊を批判するのでもありません。ただ、その役を通じていわゆる「あの世」と「この世」が通信できるとするならば、彼の死の意味が失われます。死に意味があるかないかというのはともかく、「死」の意味が否定されれば、同時に「生」の意味が見失われる。生死を合わせて道理的ないのちと呼ぶならば、いのちそのものが否定されてしまうように思えるのです。
どうも意味を求めて私は生きているようですが、もともとそれは無意味でもいいのかもしれません。ただ無意味は意味の否定ではないのでしょう。否定したいのは「いのち」を否定することがらに対してです。
イタコを求め、その言葉を聞いて慰めを得ようとするようなこころを起こさせるはたらきも根っこは鬼神性ではないかと思うのです。隷属性を強いる鬼神に知らず知らずにそれに従属する私。亡き人の霊を慰めるというカタチをとって悲しみを癒そうとするところに、すでに霊の存在を認めてしまっていたり、亡き人が慰められる存在で生きている者が慰める役回りという構造を疑うことなく受けいれてしまっているところに鬼神がその存在感を増すのでしょう。
くどいようですが、イタコを求める心を否定したいのではありません。それを求める心がどんなところから起こってくるのかということを見つめていくことが、親友の死から問われているように思います。
それには、私も友人も時間がかかる作業です。20年後のタイムカプセルの開封まであるかどうかわからないですが、いのちある限りその問いを問いつづけることが友達のつとめではないでしょうか。
死んだ友人を慰めようとしたり、自分の悲しみを癒す必要がないことに気づかせていくはたらきとして、現に彼は「鬼神から解き放たれた世界でまた会おう」と呼びかけている仏さまとして受けとめていきたいと思う。
埋めたカプセルに入れたメッセージに、そう書けばよかったと後悔しつつ・・・まとまらないまま。

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