遊煩悩林

住職のつぶやき

新元号案

2017年02月10日 | ブログ

「犠牲となられた方々のおかげで今の繁栄がある」という表現は、戦争を賛美するレトリックでよく使われる。

いかなる場合においても戦争を肯定化するような表現は避けたいところですが、あの戦争があって「憲法九条」を手に入れた。ただし「戦争のおかげ」とは言えない。

さて、数日前の中日新聞の『平和の俳句』に目が止まった。

平成は平和になったと書くのです

http://www.chunichi.co.jp/article/feature/heiwanohaiku/CK2017020602000059.html

天皇陛下の生前退位によって元号が変わるという話題の中で問われる。

戦後、平和憲法を手に入れた昭和を経て平成へ。

はたして平和は成就したのか。それとも成就せずに、時代が変わるのか。

成就するまで変えなくてもいいとまで思う。皇位継承による改元の「縛り」は、たかだか1979年の「元号法」によるものだと聞けばなおさら。

調べてみれば「昭和」だって、『四書五経』の「百姓昭明 協和萬邦」から、「国民の平和および世界各国の共存繁栄を願う」意味で漢学者である吉田増蔵が考案したとか。

「平成」は、『史記』の「内平外成」、また『書経』の「地平天成」からで「内外、天地とも平和が達成される」という。

いつの時代も平和を願いとして暦をつけてきた。

だけど、なのだ。

平和の為に死んでくれとは逆じゃないか

http://www.chunichi.co.jp/article/feature/heiwanohaiku/CK2015041202000065.html

パソコンのメモに残ってた2015年4月12日の『平和の俳句』です。

平和のための戦争なんてないはずです。そんなレトリック通用しないはずです。

平和の「平」、平成の「平」は、「兵」じゃない。

水平の「平」だ、平等の「平」だ、公平の「平」だ。

平和は、自己のいのちと他者のいのちの均衡が完全ということだと思う。

戦中「神」に祀りあげられ、戦後ようやく人間らしい扱いをされたものの、基本的人権が公平に認められていない方がおられる。

人権のない人をいわゆる「為政」に利用し、黙って追随し、それを認める私たち。

平和と平等を求める、まさに「平成」の天皇として、言論の制約の中で闘っておられるようにも思える。

それは天皇一個人の闘いではなく、等しく民としての闘いではないか。

佳子さまの大学進学も、皇族の「信教の自由」を獲得していく闘いだと思い至る。

話がどこに行くのか不安ですが、とにかく。

「昭和」の語には、「世界各国の共存繁栄」の願いが込められていたというが、目指すところは「大東亜共栄圏」建設とその繁栄でしかなかった。

「平成」の末期にあって、国際協調路線とは一線を画して二国間交渉を掲げる米大統領との「ウィンウィンの関係」を目指す首相。

「ウィンウィン」の犠牲になるのは誰なのか。

2020の東京オリンピック、そして2025大阪万博などを理由にした「共謀罪」のレトリック。

「平和維持活動」として「戦場」に派遣される自衛隊員の「戦闘」報告を「衝突」と言い換えるレトリック。

もはや修辞とはいえない言説に騙されたとは言えない。

戦争の翌年に、伊丹万作という人は

さて、多くの人が、今度の戦争でだまされていたという。(略)だまされるという事もまたひとつの罪であり、昔から決していばっていいこととは、されていないのである。(略)「だまされていた」と平気でいられる国民なら、おそらく今後も何度でもだまされるだろう。いや、現在でもすでに別のうそによってだまされ始めているにちがいないのである。

と書いた。

遊煩悩林 2013.2.18 http://blog.goo.ne.jp/ryoten-jyosyoji/e/bf01366ddcb2fc8cf18735ef87d6b749

「騙された」といつも被害者ヅラをするのが私。騙す側にいつも黙って従いながらです。

他を批判することで、自己の愚かさが際立ってきます。

いま念仏する自由がある。念仏して首を斬られた人と時代があった。「念仏規制法」ができたときに私は念仏者でいられるのか。

伊丹万作の遺言を「仏法ひろまれ」と受けとったことを書いた4年前の遊煩悩林。 

親鸞は

世のなか安穏なれ、仏法ひろまれ

と手紙にしたためた。

http://www.otani.ac.jp/yomu_page/kotoba/nab3mq0000010uew.html

そうだ、新元号は「安穏」がいい。仏法ひろまれの思いを込めて。

安穏な世界を生き、安穏な時代に死んでいきたい。

 

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立ち往生と往生こいた

2017年02月01日 | ブログ

雪で身動きがとれずに「立ち往生」

というフレーズを、何度かニュースで聞きながら、いつだったか

生前中っていつのこと? どこに生まれる前のこと?

と掲示板に書いたことを思い出しました。

遊煩悩林2012.4.1 http://blog.goo.ne.jp/ryoten-jyosyoji/e/3c91516abd12b84a840fe28add9dbcc2

Googleで「往生」と検索すると、真っ先に「この世を去り、極楽浄土に往って生まれること」と出てきます。

阿弥陀如来の極楽浄土に往って生まれた、ということがあってはじめて、その生まれる前を「生前中」なんだと。

 

だけど「積ん読」中の本を、斜め読み・・・いや、パラパラめくっていたところ、

「往生は心にあるが故に平生から始まる、成仏は身につくから命終わる時」

と遺された先生の遺言を引いて、そこには

往生は今から 成仏は臨終のとき

と著されていました。(竹中智秀選集 第3巻 四十八願講義Ⅱ)

「往生は心につくから、今、信心決定の時である」と。

信心決定は生前中、今なのだと。私なんかは信心未決定だから「今から」なんでしょう。生きている間に往生を得る。で、臨終の時に成仏する、と。

だったら「立ち往生」もまんざらでもないような気がしてきた。

まさに信心未決定の自分を言い当てる言葉として「立ち往生」。

「立ち往生」を検索すると、

① 立ったまま死ぬこと。立ち死に。「弁慶の-」 
② 事故などで、電車や自動車が身動きのとれない状態になること。「雪のため電車が-する」 
③ 物事が行き詰まりの状態になって処置に困ること。「演壇上で-する」
 (コトバンク>大辞林)

信心未決定の私は、ここでいう③にあてはまるのかと。

例文は「演壇上で-する」ですが、私の場合「娑婆で-する」、往生しとらんから立ち往生なんだ。

生きたまま死んでいるのと変わらないようなニュアンスにも聞こえます。信心が決定しないとやはりほんとうの意味で生きるということがはじまっていない。

浄土に生まれるといういのちの方向が定まってこない。

皮肉をいえば、「往生こいた」と、ちょいちょい聞きますが、みんなちょいちょい信心決定されてるんです。

「故人『立ち往生』中は・・・往生『こく』こともなく・・・」

そうやって生きることも死んでいくこともごまかしながら、大事な言葉を汚しながら立ち往生する自戒の念を込めて、

往生は今から 成仏は臨終のとき

と、2月の掲示板に記しました。

 

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