遊煩悩林

住職のつぶやき

死に甲斐

2014年07月28日 | ブログ

8月を迎えるにあたって、おぼん、終戦記念日、福島プロジェクトhttp://booses.netなど、いろいろ想うところがありますが、今年は5日の息子の得度式もさることながら、13日に前住職である父親の17回目の命日を数えます。
いろいろ想いを巡らしながら

極楽の父に「死んだ甲斐があった」と
言ってもらえる生き方をしているだろうか 

と、来月の掲示板に貼る言葉を清書しました。
「死に甲斐」などというと、この夏に初盆を迎えられるような、まだまだ悲しみも癒えないご家族にとっては、とても感覚的に馴染めることばではないかもしれません。
また、戦没者にとって「あなた方の犠牲のお陰で今の繁栄がある」なんていうことばがありますが、そのような意味で「死に甲斐」と表現したいのでもありません。
そういった「犠牲の論理」でいけば、「死んだ甲斐」は「国の繁栄」になってしまいます。

掲示板に記するにあたって、自分なりに"しっくり"いくように、いくつか表現を変えて下書きしたのですが、そのなかに

死者の「死に甲斐」は 生者の「生き甲斐」による

と思いつきました。が、これでは見られた方の「!」もしくは「?」といったリアクションが眼に浮かびます。
その展開のなかで、

亡き人に「死んだ甲斐があった」といわれるには
遺された者は何をするべきか

から

亡き人の「死に甲斐」は
遺された人が何を「生き甲斐」にするかによる

という流れを経て

「死に甲斐」は 遺る者の生命が輝くところにある

というところに行きつきました。

「死に甲斐」は、決して国家に資するところにあるのではなくて、遺された誰かのところに還っていくものだろうという想いです。
私たちは、誰かの「死」という出来事によってはじめて生命の有限性を知らされます。
それによってようやく、だからこその「生命の尊さ」があるのでしょう。
死なない生命に「かけがえのなさ」はあり得ません。有限性のなかで無限なる事柄に触れていくことこそが、この世に出生した生命の尊さです。
父親の17回忌を迎えるにあたって、いま自分が受けとめている浄土真宗という仏教の宗教観のなかで精一杯に表現したのが、先の掲示板の言葉です。

父親を、阿弥陀如来の極楽浄土に往生を遂げ、成仏された諸仏として受けとめるということを前提に、阿弥陀経にある「倶会一処」の教えから、共に一処に会うことができる教えと、「親なればこそ死してなお子を育てる」という法語をいただいて、父はいま諸仏として阿弥陀如来の極楽浄土から、私に向かって何を発信しているのかを考えるとき、どこまでも子どもの成長=人間育成ということを思います。
子どもが人間に育つこと。人間になってください、と。それは、たとえ死んでいくことが約束されていようとも、生まれたことを喜び、生きる喜びを実感していくことにあるのではないか。それがつまり生命が輝く。老病死を抱える「生」であるけれども輝くいのち、喜びが感じられるようないのち。そのようないのちの感動がある人生を極楽浄土から演出されている。
遺された者の生命を「死」をもって輝かせるのが亡き方々、諸仏になられた方々の願いではないかと感じ、それをあえて「死に甲斐」と表現してみたのでした。諸仏にとってはそれが「生き甲斐」ということになるのでしょうが、娑婆に生きる私にとっては父親の「死に甲斐」。親父が私に「オレの死んだ甲斐があった」といわせるような生き方でありたいと思った時、はたして今の私はどうなのか。
有限性のなかにさらに小さな世界を描いて生きてはいないか。無量・無限の世界と事柄を実感できているか。いつでもどこでも誰にでもはたらいている真の道理に対して、今、この、自分さえよければというちっぽけな世界観を生きていることを意識させられます。
掲示板に書いた言葉は、私の願望なのかもしれません、「それでこそ死んだ甲斐があった」と親父に言ってほしいという、認められたいという。
再会する世界を極楽浄土というとすれば、いずれ堂々と胸を張って「生ききってきた」と出会いなおさなくてはなりません。「いずれ」ではないのでしょう、今、「生ききっていきます」という宣言、「このように生ききっています」という命日を迎えたいと思います。

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悪いことをしたら謝りなさいと言ってる大人がいちばん謝らない

2014年07月06日 | ブログ

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今年で3回目となる"福島のこどもたちを三重へプロジェクト"。
ご理解とご支援をよろしくお願いします。

先月21日、このプロジェクトに多くの子どもたちを送り出してくれている福島県二本松市、眞行寺住職の佐々木道範さんを迎えての公開講座のなかで、佐々木さんは5人のこどもの父親として、また幼稚園の理事長として、原発の事故を受けて少なからず子どもたちを被曝させてしまったことにふれて、「誰も子どもたちに謝んないんだよね」といっておられたことばが印象に残っています。
そして「子どもたちは何も悪くないんだよね。悪いことしたら謝りなさいっていってる大人がいちばん謝らない」と。
自分たちの過ちを認めようとしない、豊かさを求めることの何が悪いと居直る私を指摘されたように思います。
このことばを受けて、2008年6月28日の朝日新聞に掲載された子や孫への謝罪文を思い出しました。
http://blog.goo.ne.jp/ryoten-jyosyoji/d/20081007

自分は老い先短い身、だから次の世代に助言をしたい。まず私たちは子や孫の世代に謝罪したい。自分達の世代が、この星の上に残した負の遺産は彼らの生存さえも危うくしている。自分たち一代で消費したエネルギーは、それまで人類が使ったエネルギーの総量より大きい。しかも二酸化炭素は地球環境を破壊した。子や孫たちはその借金を返しながら生き延びねばならない。使ったエネルギーには核エネルギーも含まれ、核を用いた戦争は人類のモラルまで破壊した。その波及効果は若者に無差別殺人、老人の生命を軽視した最近の医療政策もどこか根っこがつながっていると思えます。これも豊かさを求めて走った結果です。この辺で経済至上主義、成長神話を考え直して、新しい価値観を構築しなければなりません。

これは東京大学名誉教授の多田富雄氏の提言です。子や孫の世代に謝罪し、2010年に逝去されました。
子や孫が悪いことをしても謝らないのは、悪いことをしても謝らない大人をみているからなのでしょう。ゴメンナサイと言える大人でありたいと思います。

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