遊煩悩林

住職のつぶやき

帰命無諍念仏

2015年09月30日 | ブログ

仲秋のお月さまを愛でながら彼岸の余韻に浸りつつ。

「月日」というと「時」のイメージですが、「お月さま」と「お日さま」。
まさに月と日によって「時」が表現されるのですが、今この時代、そしてこの社会にあって月と日をどうみるのか。
昇る日、つまり朝日に何をみるのか、沈む夕日に何を眺むるのか。または満ちる月か欠ける月か。昼に月の存在をみるか、闇の中でようやく月の存在を知るのか。

仏教は陽光沈みゆく彼方を彼岸といってきた。太陽が沈んで行く方角、つまり西に彼岸をみるのだと。仏さまの世界には無数の国土がありましょうが、その中でも私たち人間には「西方極楽浄土」が提示された。
太陽が沈んで行く方角に、すべてのいのちが帰って行く方向に極楽国土を示されている。
「メメントモリ」という言葉を想起します。「死を想いなさい」との訳語を聞いたことがある。
亡き人を縁に死を問うのだ。
極楽浄土に往生するのは亡き人ではなかった、この私だったと手を合わせて合掌する。極楽国土を建立された阿弥陀仏に南無するかたちをとる。そこに「生」が浮かび上がってくる。生まれたことの意味と生きることの内実が開かれてくる。

一方で、東に昇る日を拝むのも私たちである。ただやはりそれも西に沈んでいく日だ。だけどそのことを忘れてはいないか。
日が出た!生まれた!というのは、必ず帰る場所を伴ってである。やはり帰るところを知らなければならない。
日本に仏教が広まったのはそれじゃないかと思った。
いのちが帰る場所を知らなかったのだ。
いまでも「冥土」という。わからなかったのだ。亡き人を光の国に見出す智慧がなかったのだ。だから暗黒の地である「冥土」での幸福を祈るかたちをとった。
彼岸の智慧をいただかないと私たちはわからないのでしょう。何のために生まれてきたのか。どこに向かっているのか。

今日も日が昇った。昇った昇ったとよろこんでいる。もっと昇れもっと昇れとよろこんでいるのが私ではないのか。日が昇るのと同時に月の存在が消える。それまで月を照らしていた日の光が私を照らしている。お月さまからすれば私たちがよく見えることだろう。
どんな私たちが見えるのだろう。

昼間の月を凝視する眼を養いたいと思った。

お彼岸のお中日。今年も荒山淳さんに教えを乞うた。


娑婆世界ノ王也。無諍念王出家シテ後、法蔵比丘ト名ヅク。
『曇摩訶菩薩文』真宗高田派専修寺


親鸞聖人が晩年に書かれたという『曇摩訶菩薩文』を教示された。
「曇摩訶」は「ダルマーカラ」という古いインドの言葉を漢字に音写したもの。意味は「法蔵」のことですから曇摩訶菩薩は法蔵菩薩のことです。
極楽浄土の阿弥陀如来は、如来になる前は法蔵菩薩であったという。
その法蔵菩薩が法蔵菩薩なられる前は「娑婆世界の王」だったという。
「娑婆世界」は、彼岸に対して「此岸」、つまり煩悩の世界の王だった。その娑婆世界の王が「無諍念王」を名のり出家した後に「法蔵比丘」となられたのだという。
「無諍念王」は「諍いなきことを念う王」という。
極楽浄土を建立した阿弥陀如来の出世の根っこに「無諍の念」があった。

東だ西だ。右だ左だ。鷹だ鳩だ、と。争いの絶えないこの世界と、常にその争いの中に身を置く私。
「真宗」の「門徒」を標榜するということは、争いの中で「無諍」を念ずることだった。
「念」は「ねがう」と読む。無諍念仏。争いなきことを念う仏が、私たちのいのちの向かう先にあらゆる苦しみを離れた極楽国土を建立され、同時に私たちのいのちとなってくださっている。
南無阿弥陀仏と念仏申すというのは、争う者の自覚とともに争いのない世界を求める姿だった。それが私のいのちだったのでした。

また曇摩訶菩薩文は、法蔵比丘の御師は世自在王仏だという。無諍念王が「世自在」を宿して「国豊民安」「兵戈無用」の世界を表現された。「世自在」が「自由自在」というならばそれは「解放」を意味する。あらゆる縛りから解き放たれるいのちを南無阿弥陀仏というのだろう。
同時にそれは私を「縛りつける」ものを見極める眼といってもいいのではないでしょうか。


自分を正当化すれば謝ることができなくなる


と10月の掲示板に書いた。
ややこしいことを書きつらねてみたけど、南無阿弥陀仏は「ごめんなさい」と「ありがとう」だ。
俺が俺が。私が私が。では人に頭が下がらない。

日の出を望むなら 沈む日も望まねばならない。

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彼岸の慈悲

2015年09月19日 | ブログ

いくら反対の声があろうが、デモがあろうが、この法案を成立させるという結論があって、その結論のために時間を消費してきたということになるのでしょう。

たとえが適切でないかもしれませんが、まるで存在しない行方不明者をローラー作戦で搜索し続けた、さきの茨城での自衛隊員の虚しさとダブるものを感じます。

安全保障関連法案の成立を受けて、宗派から声明が出されました。

実はその虚しさも想定のうちで、未明に成立した法案に対する声明が、朝はやくに宗派のホームページにアップされていることが物語っているとおり、法案に反対しながら、法案が通ることを前提にした声明がすでに用意されてあったのでしょう。

安全保障関連法案成立にあたっての宗派声明
- 積極的な「対話」による「真の平和」の実現を願う -

 このたび安全保障関連法が成立したことに深い悲しみを覚えます。
 私たち真宗大谷派は、先の大戦において国家体制に追従し、仏法を人間の都合で利用して戦争に積極的に加担しました。その過ちを繰り返してはならないとの決意から、安全保障関連法案に対して反対の意を表明してまいりました。その背景には、当派の過去の歴史だけではなく、人間がなす正義に絶対はないということを明らかにしてきた仏教の歴史があるからです。
 「積極的平和主義」の名の下に、武力をもって平和を実現しようとする行為は、永続的な平和をもたらすものではなく、自他ともに怨みと敵意を生じさせ、報復の連鎖に陥らせるものであります。
 人間とは、自我を離れられない身であり、どこまでも自らの立場を絶対化して、その危うさを問い直すことのできない愚かな存在です。だからこそ、それぞれが自身の愚かさに目覚め、人種、民族、文化、宗教、国家などの差異を超えて、他者と水平に 出あう方途を模索しなければなりません。
 私たちは仏の教えに基づく教団として、このたびの安全保障関連法の撤廃を求めると共に、今後も引き続き、戦争に繋がるあらゆる行為を未然に防ぐ努力を惜しみません。そして、武力に頼るのではなく、積極的な「対話」によって「真の平和」を希求 することをここに表明いたします。

2015年9月19日

真宗大谷派(東本願寺)宗務総長 里雄康意

http://www.higashihonganji.or.jp/

冒頭の「深い悲しみ」は人間の悲しみを超えたもののように感じます。

私たちの教団は過去の戦争に積極的に加担したという深い懺悔から、今法案に対して明確に反対の立場を表明してきました。

今この「深い悲しみ」は、反対の声を上げてきたにもかかわらず法案が成立してしまったという悔しさではなく、賛成だろうが、反対だろうがそんなことには関係なく、このような対立構造を生み出さなくてはならない必然性、私たちの生命活動そのものに対する憐れみがこの「深い悲しみ」なのでしょう。

それは人間に対する憐れみですから、人間を超えたところから届くものです。

仏教に縁があるものとっては、その人間を超えたところを「彼岸」と呼んできました。

彼の岸からこの岸の私たちを慈しみ悲しんでおられる仏さまがおられる。

その彼岸の慈悲と、彼の岸に往生された数え切れないいのちの叫びに、いかに目を向けてこなかったかということが、いま問われます。

彼岸の声に耳を傾けることなく、此の岸の都合だけを優先し、諸仏の願いを無視するだけにとどまらず、排除さえしているのが私ではないか。

亡き方々にいただいたご縁に思いをいたして、彼岸に仏さまの慈悲に触れたいと思います。

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2015年09月01日 | ブログ

1日の朝。
夏休みボケの住職を尻目に、長男と長女は小学校へ。次女は幼稚園へと、それぞれ登校・登園していきました。

内閣府によると2013年までの42年間に自殺した18歳以下の1万8048人を日付ごとに分析した結果、9月1日が突出して多いのだという。
8月31日が92人。9月1日が131人。9月2日が94人。
その他、4月8日の95人。4月11日の99人が際立っていると。

福島プロジェクトhttp://booses.netを通して初めて知ったことですが、日本全国どこもかしこも8月31日に夏休みが終わり、9月1日から学校がスタートするわけではありませんから、地域ごとに差異があるとしても、新学期前後は子どもにとってとてもナーバスでデリケートな時期なのでしょう。

中学時代の先生が同窓会の時にこう言っておられたことを思い出しました。ここ(同窓会)に来た子にもいろいろ悩みがあるだろうけど、ここに来てない子たちが心配だと。
ウチの子どもたちが元気に登校していったから、それでいいというわけにはいきません。登校していない子がいるのであれば、それはその子だけの問題でもなければ、その家庭だけの問題でもありません。それを生み出す社会の構成員として誰もが無関係ではないはずです。

「夏休み」と「新学期」のギャップ。それは「楽しいこと」と「つまらないこと」の間かもしれないし、「解放」と「束縛」の間かもしれません。もっと深い壁や溝を感じる子どもたちもいる。

「楽しい夏休み」はつくられたイメージでしょう。夏休みは楽しくなくてはならないような強迫観念にもとれます。
なんだかんだ言いながら「行ってきまーす」といって登校・登園していった子どもたちは案外、夏休みの家庭や親の束縛から解放されているのかもしれません。

さて、東井義雄さんのうた。

川は岸のために流れているのではない
川のために岸ができているのである
分かり切ったことである
それだのに
教師の考え、学校の方針に合わない子どもを
「悪い子」「問題の子」「困った子」として
切り捨ててしまう風潮が横行しているのはどういうことか
子どものために「教師」があるのである
子どものために「学校」があるのである
「できない子」のための岸になろう
「困った子」の岸になろう
そして
ともどもに
「真理」「真実」の海をめざそう
そういう教師になろう
そういう学校を創ろう
川は岸のために流れているのではないのだから

作者は教育者として「教師」「学校」と表現されますが、何も「岸」は教育現場に限ったことではありません。それは「社会」であったり、「国」であったり。
「会社」であったり、「教団」であったり。そして「家庭」であり「親」と置き換えてよんでみたい。

大人や学校が教える「こういう人間になりなさい」という漠然としたイメージは、子どもたちにとってとても窮屈なものかもしれません。

「真理」「真実」の海は、川だけが目指すのではない、「ともどもに」目指すのだ。
何かにならなくてはならない束縛を脱し、目指していこうとする「海」に思いをはせる時、こんな言葉が浮かび9月の掲示板に記しました。

何かになれなくてもわたしたちは
わたしたちには
生きる意味が、あるのよ

映画「あん」http://an-movie.com

この台詞は樹木希林演じる徳江のことばですが、この台詞には次の前置きがあります。

「ねえ店長さん
わたしたちはこの世を見るために、聞くために生まれてきた。
だとすれば、何かになれなくてもわたしたちは
わたしたちには 生きる意味が、あるのよ」

どんな海を見出すのか。
彼の岸から此岸、つまりこの世を見つめる目線を聞かせていただく「お彼岸」を迎えたいと思います。

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